夜も昼も
降っても晴れても
21 純白の感触降っても晴れても
幸太の手にある真白な粉。
絢斗の伯父と幸太によって丁寧に粉骨した二人を、戀が作った木箱の中でゆっくりと混ぜ合わる。
ざっと吹き抜けた悲風に木箱から白が舞い上がる。風にのってふわっと広がった二人は、木洩れ日を受けて目映いほど白かった。
「戀、やっと一つになれたね」
幸太が呟くと、充は穢れなき白を握りしめて嗚咽をもらした。
参列者は絢斗の父と伯父、絢斗の兄、そして、幸太と充。
戀の遺言によって、戀は絢斗と一緒に工房裏の山林に散骨される。
幸太と充がその映像を見たのは、絢斗が逝った十日ほど後のことだった。
絢斗の友人である黒田が訪ねてきて、データを渡された。
「自分でも本当に不謹慎だと思うんです。でも、どうしても残しておくべきだって思って咄嗟に。絢斗の最後です。絢斗のお父さんが、幸太さんと充さんにもと仰ったのでお持ちしました」
目を真っ赤にした黒田から受け取ったデータには、彼の言う通り、絢斗の最後が映っていた。
何度も小さく、絢斗、絢斗、と呟く黒田の嗚咽が時折混じっている。
必死の思いで撮影したのだろう。手ぶれのひどい動画だった。
高校の卒業式の直前、のんびりと帰路に就く絢斗と戀、黒田に今井、太田と海音の六人は、寄り道して帰ろうと、以前行ったことのあるカフェに向かっているところだった。
運転操作を誤った白いセダンは交差点で止まっていた彼らに突っ込んで、建物に激突して止まった。戀を庇った絢斗を間に挟んで。
「やだ! やだ!」
その動画は戀の叫びから始まった。
「わたしなんか庇わなくていいのに!」
「庇うだろ。俺戀が痛いの嫌だもん」
「わたしなら平気なのに! なんで!」
「平気じゃないだろ。俺が嫌だよ」
乗用車と壁の間に挟まれた絢斗は、のちに奇跡的に意識を保っている状態だったことがわかっている。
それは、残酷で貴い、わずかな時間。
絢斗から流れ出た血だまりの大きさが命の終焉をむごたらしくもはっきりと伝えていた。
「わたしの方が先に逝くはずだったのに」
「だよなあ。俺覚悟してたのに」
「わたしが、」
「戀」
絢斗の声が優しく戀の言葉を遮る。絢斗のあまりに穏やかな顔が終わりを予感させる。
「俺は、戀が無事でよかった」
「やだ! 置いてかないで! やだよ!」
絢斗の手を必死で握る戀に、絢斗は愛おしげにほほ笑んだ。
「置いてかないよ。ちゃんと待ってる。だから戀、最後までしっかり生きてからおいで」
「やだ! やだやだ! 大好きだから、ずっとずっと大好きだから」
「知ってる。俺も大好きだから。戀以外要らないから」
「わたしも、絢斗以外要らない。絢斗だけでいい」
「ん。俺も。戀、待ってるからゆっくりおいで」
戀は絢斗の手のひらを頬にあてた。動くはずのない親指の先が戀の目尻をそっとなぞった。絢斗からすーっと力が抜けていく。戀の張り裂けんばかりの慟哭がしばらく続き、パトカーと救急車のサイレンのあと、唐突に動画は終わった。
その日、ようやく絢斗が家に帰ってくると連絡をもらい、幸太と充は現実を拒絶したままの戀を伴って絢斗のもとを訪れた。
絢斗の家族は絢斗の遺体を安置所から直接斎場に運び火葬した。
幸太の謝罪を遮る絢斗の父も伯父も驚くほど穏やかな表情で、戀を絢斗の部屋に招き入れた。
斎場から絢斗の遺骨を虚ろなまま抱いて戻って来た戀は、ベッド脇のサイドテーブルの上に真っ白な陶器を据えた。そこには位牌も遺影も祭壇もなく、あまりにも素っ気ない。あまりに素っ気なさ過ぎて、絢斗の不在の実感が湧かない。
「絢斗は、とても幸せだったと思います。奇跡を手に入れたのですから」
絢斗の父の言葉に、事故からずっとぼんやりしたまま、斎場でも涙すら見せなかった戀が、ゆっくりと顔を歪め、突然堰を切ったように泣き出した。戀は絢斗の遺骨を再び胸に抱え、絢斗のベッドに縋り付き、周囲を憚ることなく号泣した。
「奇跡、ですか?」
「そうです、奇跡です。絢斗にとって戀さんは、手に入れることがとても困難な奇跡の存在でした」
幸太の疑問に、絢斗の伯父が穏やかに答える。
「戀さん、絢斗の骨、どうする?」
幸太も充も絢斗の父の唐突な問いかけに目を見開いた。
「一緒にいてもいいんですか?」
嗚咽を漏らしながらも戀は毅然と顔を上げた。絢斗を二度と離したくないとばかりに骨壺をぎゅっと抱きしめている。
「もちろん」
絢斗の父が快く応じたことに、少なからず幸太は動揺した。意味がわからなかった。
「わたしは、それほど長くは生きられません。わたしが逝ったあと、彼の骨と一緒にしてもらってもいいですか?」
「絢斗も喜ぶよ。どうしたいか決まったら教えて。絢斗は戀さんとともにあることこそが幸せなんだから、戀さんの好きにしたらいい」
「わたしの方が、幸せでした。わたしの方が、ずっとずっと幸せでした」
泣き崩れる戀を充が支える。
その日、戀は絢斗の部屋に泊まった。絢斗の家族はそれを当たり前のように受け入れた。彼らは戀を家族として、絢斗の妻のように扱う。
絢斗の葬儀は戀の葬儀と一緒に行うことを、ほかでもない戀が決めた。絢斗の家族はそうなるだろうことを予想していたかのようにあっさりと承諾した。
「なあ充。ココと絢斗ってどういう付き合いだったんだろう」
「きっと僕たちにはわからない繋がりだったんじゃないかな」
絢斗の家からの帰り道、涙ぐむ充が鼻をぐすぐす鳴らしながらぼそっと答えた。
「奇跡か」
絢斗の父も伯父も戀の存在を特別なものだと感じているようだった。まだ十代の、初めての恋にしては戀が抱えているものは大きい。だとしても、彼らの口振りはそれ以上の何かを含んでいた。
「絢斗は戀のすべてをほしがったんだよ。戀は自分のものだって言い切ってた」
「ココたちの年頃ならそんなふうに思うものなんじゃない?」
「そういうのとはまた違うんだよ。絶対的とでもいうか、敵わないって思わせる覚悟みたいなものがあった気がする」
「婚姻届、ココの最後を決めるものだとばかり思ってたけど……」
「たぶん、そんなものはどうでもよかったんじゃないかな」
充は今にも降り出しそうな空を仰いだ。
「ただ制度上必要だから用意していただけな気がする。あの二人はきっと、僕らが想像もつかないほど強く結びついていたんだよ。そうじゃなきゃ、死ぬってわかっている女の子のこと、本気で受け入れられるわけない。絢斗だってまだ十七や八だったんだよ?」
「ココが言ってたよ。その辺の高校生と一緒にしないでって。絢斗はもう独り立ちしてるんだからって」
「それは僕も認める。絢斗は間違いなくプロだった。どんな職人にも作れなかった僕だけの物を作ったんだから、あいつはちゃんとプロだった」
涙雨が降り始めた。
動画を見終わった後、幸太も充もしばらく放心した。
「ココは、……この先どうするんだろうな」
「僕、しばらく休業するよ。戀と一緒にいる」
「なあ充」続く先を幸太はのみ込んだ。にもかかわらず、長年の付き合いが充に続く言葉を悟らせてしまう。
「無理だよ。僕じゃ絢斗の代わりにはなれない。絢斗の代わりになれるやつなんてどこにもいない」
「ココはきっと、僕らが考えていたより早く逝くんだろうね」
「それが戀の幸せなら、僕は何も言えないよ」
「絢斗は、……」
幸太は言葉に詰まった。あまりに大きな存在に、どんな言葉も出てこない。
「僕はきっと言えない。あんな状況で、待ってるからゆっくりおいでなんて、あんなふうに笑ってなんか言えないよ」
充の声が震えた。
戀はあの日以来、絢斗の部屋で寝起きしている。何度幸太や充が迎えに行っても帰ろうとせず、絢斗の父や伯父、兄までもが戀の行動を止めようとはしなかった。それどころか、絢斗は本当に幸せだなあ、と感慨深げに呟くのだ。目に涙を溜めながら。
悲しんでいるのに、悲しみきれない。そんな空気が絢斗の家には充満していた。
桜が咲き乱れ、花弁を撒き散らし、葉が茂り始めるころ、戀が突然帰ってきた。
「わたし、やらなきゃならないことがあるから、しばらく工房に行く」
「工房って、絢斗んちの?」
「そう。出来上がるまで帰ってこないから」
「出来上がるって何が?」
「絢斗の感触」
幸太と充は顔を見合わせた。
「わたし、ずっと覚えてもらってばっかりで、自分では覚えてないって思ってたんだけど、覚えてるってわかったから」
全く要領を得ない内容が戀から興奮気味に伝えられる。
「絢斗が遺したもので、わたしの棺をつくることにしたの」
衝撃的なことを、戀は薄らと頬を染めながら恥ずかしそうに告白した。
「は?」
幸太と充の声が揃う。
「で、絢斗の感触の木箱を作るから、そこに二人の骨を入れてよく混ぜてから撒いてね」
何かのレシピかと紛うばかりの説明に、幸太も充も声が出ない。
てきぱきとリュックに着替えを詰めた戀は、絢斗が作ったドレッサーデスクを何かを確かめるようにゆっくりとひと撫でしたあと、電車の時間ぎりぎりだから、と引き止める間もなく慌てて出ていった。
「幸太、意味わかった?」
「さっぱり。棺って、死んだ人間入れるでかい箱のことだよね」
「骨って混ぜてから撒くものなの? え? 骨ってなんの骨?」
「撒くって何を?」
たまたま居合わせた幸太と充はしばらく無言で見つめ合った。
「ココ、微かだけど笑ってたね」
「笑ってたねぇ」
どちらともなく安堵の笑みが浮かんだ。
「好きにさせておくか」
戀は二十一歳で逝った。二十一になってすぐの秋の初め、朝の光が戀を連れて逝った。
戀は最後まで延命を拒んだ。
幸太はその前に大学に戻り、新薬の研究からは手を引いた。戀ではない誰かを助けるための薬を作る意味など幸太にはない。戻った途端の激務に、戀を引き取る際に民間に移ったのは時間を作るためだったことを思い出した。
充は休業し、戀のサポートに徹した。子育てのやり直しみたいだと笑っていた。
絢斗が残した戀の感触だという木材は、元々戀の棺を想定していたのか、ただ組み立てるだけで出来上がったらしい。絢斗の伯父の指導のもと、戀は釘を一切使わず昔ながらの工法で時間をかけて丁寧に組み上げていった。
棺が出来上がる頃、戀の数値に変化の兆しが見えた。
戀は徐々に数値が低下していく中、一年以上かけて何の変哲もない三十数センチ四方の木箱を作った。滑らかでいてどこか男らしさを感じる手触りは、戀が言っていた絢斗の感触らしい。充が言うには、何度も何度も作り直したそうだ。木材の種類を変え、厚みを変え、手触りを確かめ、ほんの些細な違いも戀は許さなかった。最後は立ち上がることもままならないほど弱り切った躰で必死にヤスリがけをしていたらしい。どれほど充が手伝うと言っても頑として突っぱね、たった一人でやり遂げた。
出来上がった翌日、戀は晴れ晴れとした顔で充に言ったそうだ。
「今日ね、朝の光の中に絢斗がいたの。出来たな、って笑ってた」
嫌な予感を覚えた充から連絡を受けた幸太が駆けつけたとき、戀はすでに死の淵を越えようとしていた。
戀はずっと絢斗の寝袋の中で絢斗の服を着て穏やかにほほ笑んでいた。戀の傍らには常に絢斗の遺骨が在った。
「戀」
呼びかけると戀は薄らと目を開け、戀と呼んだ幸太を嬉しそうに見た。
「幸ちゃん、わたし、やっぱり、最後まで、幸せだった」
ぽつぽつと語り、ありがと、と最後に囁くとまた微睡みの中に沈んでいく。
戀はふと目覚めると、幸太や充に感謝を告げる。時折、これまで幸太が見たことのない、満ち足りた笑みを浮かべていることもあった。
「絢斗がそばにいるみたいだ」
戀は相当苦しいはずだ。数値が低下しても一切の薬を受け付けない戀は、かなりの痛みを抱え込んでいるはずなのに、誰かがその苦痛を引き受けているかのように穏やかだった。
「いるんだろうね、戀は時々宙を見て笑いかけてるよ。ああ今絢斗はそこに座ってるんだなとか、今は窓のそばに立ってるんだなとか、戀の目線で絢斗の位置がはっきりわかるんだ。戀は、絢斗が待っていてくれるから、死ぬことが怖くなくなったって笑ってたよ」
幸太が駆けつけた三日後に、戀は眠ったまま、ふうっ、と小さなひと息を遺して逝った。
絢斗の父と伯父も前日には駆けつけてくれた。工房を借り切っている礼すら受け取らず、当たり前のこととして、工房で戀を看取らせてくれた。
そして幸太は、時間をかけて丁寧に戀の骨を砕いている。その隣では、同じように手を動かす絢斗の伯父の姿があった。
「ひとつ、伺ってもよろしいでしょうか」
「奇跡、の意味ですか?」
まるで初めから幸太が訊くことがわかっていたかのように、絢斗の伯父は静かに語り始めた。
「私たちの血筋はとても特殊で、まず男しか生まれません。そして、たった一人に病的に執着します」
「絢斗さんが戀に執着していたと?」
確か充も絢斗から似たようなことを聞いていた。戀は自分のものだと。
「ええ。絢斗は、戀さんの全てを覚えようとしていました。いや、すでに覚えていたのかもしれません。その感触も、形も、何もかも。それこそ骨の形すら覚えていた。だから、あんなに幸せそうに逝けたんですよ」
「だから、あなた方は戀を責めない」
「戀さんが事故を起こしたわけでもないのに?」
「戀を庇わなければ絢斗さんが事故に巻き込まれることはなかったはずです」
「絢斗が本能的に戀さんを守るのは当然のことなんです。どこかに閉じ込めて決して人目にふれないよう、大切に大切に仕舞い込むような、それこそ、自分の内側に取り込むような、そんな病的な執着です」
ごりごりと骨を砕く音が響く。丁寧に細かく、欠片すら残さないよう、二人の骨が碾かれていく。
「私の母は、いわば金で父に買われたようなものでして、嫁いで以来、父と一緒でない限り家から出ることは一切叶いませんでした。私も弟も、母が笑ったところを見たことがありません。祖父母によく懐き、無意識にも彼らの橋渡しをしていた孫の絢斗にだけは、母はかすかな、笑顔とも言えないようなはにかむ姿を見せていたようです。父は私たちによく言ってましたよ。母の腹をおまえたちに貸してやったんだ、と」
思わず幸太の手が止まる。
「異常でしょ? 私たちは母乳すら与えられなかった。母の腕に抱かれることもなかった。だから私は、私の見付けた人が私を拒んだとき、一目散に日本を出たんです。私は父と同じになりたくなかった」
絢斗の伯父が幸太の手元を見て目を細めた。戀の面影を見ていることは明らかだった。
「絢斗が戀さんを見付けたと聞き、しかも、互いに想い合っていると聞いて、私は心底羨ましかった。羨むと同時に懼れもした。奇跡はそう簡単に訪れるものではありませんから」
幸太の手が無意識に動き始める。戀に急かされたような気がした。
「だから、正直に言えば、戀さんの余命の話を聞いて納得したんです。失礼ながら、そうだよな、とさえ思いました」
「それなのに、絢斗さんの方が先に……」
「ええ。私も絢斗の父である弟も、戀さんを守った絢斗を誇りに思っています。絢斗は本当に幸せだったんですよ。私たちにはそれがよくわかる。戀さんには申し訳ないが、絢斗が先に逝ってよかった。そうでなければ、絢斗は正気を保てなかったでしょうから」
「まさか、お父様は……」
「ええ。母が先に逝き、父は正気を失いました。父は、まさに狂い死にしたんです。絢斗はそれを目の当たりにしています。自分の中にある狂気を理解するには十分な出来事だったでしょう。私は日本を出たことは間違っていなかったと確信したものです」
絢斗の伯父が射るような視線を幸太に向けた。
「ですが今、本当に自分が狂っていないのか、わかりかねています。あなたも、ご自分が正気か否か、わかっておいでですか?」
幸太は薄く笑った。
幸太は自分の一部が大きくひしゃげたことを自覚している。家族が死んだあの日に。
だから、戀の骨を自らの手で砕き、碾くことができるのだ。充は絶対にできないと拒絶した。絢斗の父も。
「私たちは、それでも生きていかなければなりません」
「そうでしょうか」
「そうですよ。絢斗も戀さんも、私たちを死なせてはくれませんから」
ああ、と幸太は気付いた。そうだ、きっと戀は死なせてくれない。
戀は一緒に死にたかったのだ。家族の事故の瞬間も。絢斗の事故の瞬間も。
──置いてかないで!
戀の悲痛な叫びが幸太の頭の中に響いた。
戀は死ぬことすらできず、躰に生かされてきた。いや、戀を無理に生かしたのは幸太だったのかもしれない。戀の治療薬をつくることだけに必死な幸太を生かすために。
それなのに戀は、幸太に笑ったのだ。ずっと幸せだったと。最後まで幸せだったと。幸太を生かすために笑ったのだ。
ココとしか呼べなかった幸太が最後に戀と呼んだときに嬉しそうに笑ったのは、きっとそういうことだったのだろう。幸太の複雑な心情を幸太以上に理解していたのは戀だったのかもしれない。
「戀さんが言ってましたよ。夜も昼も、降っても晴れても、わたしは最後まで絢斗のそばにいます、と」
「昼も夜も、ではなく?」
「ええ。自分たちはそうなんだと笑っていました。その真意を教えてはくれませんでしたが、大切なものを隠し持っているような、そんな笑顔でしたよ。そして言葉通り、最後まで絢斗のそばにいた」
まるで誓いの言葉だ、と幸太は思った。
どんなときでも、そばにいる。辛いときこそ、そばにいる。
指の間をさらさらと戀と絢斗が流れていく。純白が流れていく。
それは、たとえようもなく心地好い感触だった。