夜も昼も
降っても晴れても
19 戀、述懐する降っても晴れても
鏡に映る自分の笑顔に、戀の笑みはさらに深まる。ふふ、と独り笑いまで出た。
最近の戀は鏡の前にいるのが楽しくて仕方がない。自分の顔を見ることが、ではなく、鏡の前に置かれたドレッサーデスクに触れることが。
「戀だけの家具を作るとしたら何が欲しい?」
絢斗に指摘されるまで戀は気にも留めていなかった。この家には戀が選んだ家具が一つもない。
丁寧にヤスリがけされた滑らかな木の質感は、彼が言うように人の肌の感触に似ているような気もする。特に彼の作るものは木組みのオイル仕上げだから、余計にそんな気になるのかもしれない。
春休みの前半に絢斗が工房で作ってくれたコンパクトなドレッサーデスクは、元々あった姿見の前に据えて使えるよう工夫されており、戀の細かな要望を忠実に再現している。
春休み中に一度定期検査のために家に戻った際、絢斗が出来上がったドレッサーデスクの組み立てを行っているところに、たまたま休みだった充がやってきて作業風景を興味深そうに眺めていた。戀が一つ一つ「ここ、こういうふうに作ってもらったの」と自慢するのをやたらと感心しながら聞いてもいた。
その日のうちに充が絢斗にメイクボックスをオーダーした。かなり細かな要望を絢斗は一つ一つメモし、フリーハンドで手早く図面をおこし、充に確認しながら修正を加えていき、使う木材や金具を一つ一つ決めていった。春休みの後半をかけて彼が作り上げたメイクボックスは、充の希望を忠実に再現していた。
「これ! これが欲しかったんだよ!」
充はこれまで何度かフルオーダーのメイクボックスを作ったことがある。しかし、細部に至るまで要望通りに出来上がってきたことがなかったらしい。そもそもオーダーの段階で「いや、この方が使いやすいですよ」と製作者の意図がちょこちょこ入り込むのだとか。絢斗はそれを一切しなかった。使いやすいかどうかを決めるのは僕ではなく充さんでしょ、素人相手ならともかく充さんはプロだし、ましてや仕事道具なんだから、と気負いもなく言っていた。
「すごいよこれ、使えば使うほど自分のものになっていく」
使い始めてひと月ほど経ったときの充のひと言が絢斗をこのうえなく喜ばせた。
「僕が目指しているのはそういうものなので」
照れる絢斗を充は大袈裟なほど褒め称えていた。それほど感動的で思い通りの使い心地らしい。
絢斗は、今の家に来たと同時に毎日欠かさず祖父から手ほどきを受けてきた。すでにその道六年目に入ったところだ。子供だからという理由での容赦は一切なかったらしい。
中学に入ってすぐってすごいな、と感心する充に絢斗は、早く始めればそれだけ早く腕が上がりますし、と言ったあと、何かを思い出すように、最初は遊びにも似た感覚で、知れば知るほどのめり込んでいって、もうとにかく楽しくて、それが今もずっと続いています、と懐かしさと照れが綯い交ぜになったような顔で笑っていた。
充が行く先々でメイクボックスの自慢をするものだから、絢斗のところに幾つかオーダーが入るようになった。一つ一つ細かな聞き取りをし、図面を作製し、よくよく話し合った上で作り上げていくメイクボックスは、どれ一つとして同じ形はなく、デザインすら違う。目立たない場所に焼き付いた製作者の印だけが唯一の共通点だ。戀のドレッサーの裏にもしっかり焼印されている。
三井 絢斗は戀の全てが欲しいと言う。
彼のそばにいようがいまいが、戀が生きていようが死んでいようが、戀は戀のまま、その全てを彼に差し出せと言う。
絢斗は戀の形を覚え、感触を覚え、戀に自分の形を覚えさせ、感触を覚えさせる。彼は戀の全てを貪欲に覚えていく。戀の鼓動や脈、呼吸まで覚えていく。躰の隅々に手のひらを当て、指先でなぞり、戀も知らなかった感覚を覚醒させていく。
戀は絢斗に出会って、ようやく自分というものを知った。自分の形や感触なんて、これまで意識することなく生きてきた。
きっと戀の躰の見えない場所にも三井 絢斗の印がついている。
「あーあ、夢たちってば一気に熟年夫婦みたいになっちゃって。初々しさがこれっぽっちもない」
太田がしみじみ嘆いた。要するに、したらしい。付き合って三年目にして、ようやく。
ゴールデンウィークが明けると、今井の様子が変わっていた。妙に落ち着いている。貫禄すら漂っている。黒田もまた妙に機嫌がよく、どこのお金持ちかと思うくらい鷹揚になっている。
「不純はいいの?」
お弁当を食べながら戀は声を潜めて訊く。今井は黒田と、絢斗は海音との話に夢中で、戀と太田の話は聞こえていない。
「どうも黒田くんが振り切れたらしいよ?」
「吹っ切れたじゃなくて振り切れた?」
「リミッターが壊れたんじゃない?」
太田の訳知り顔に、戀は思わず訊いた。
「太田さんのときも彼のリミッターが壊れたの?」
「壊れたのは私のリミッター」
んふっ、と意味深にほほ笑まれた。戀は口に入れたばかりの玉子焼きを噴き出しそうになる。ときどき太田の年齢がわからなくなる。本当に同い年なのか疑わしい。猫を被った太田はあれほど初々しくかわいらしいのに、素の太田にはそれこそ初々しさがこれっぽっちもない。年上の彼氏がいるとこうも精神年齢が上がるものなのか。
貫禄をつけた今井はゴールデンウィーク最後の日に木村と決着をつけた。どう付けたのかは太田も知らないらしい。ただ、朝の登校時もお昼休みにも、木村の姿を見ることはなくなった。
「愛にとって私って、夢の付属物だったのかなーって思っちゃうよねえ」
太田自身は木村に対して今井ほどの潔癖さはないようで、愛は初めからそういう子、というスタンスを崩していない。
「ここ最近の愛の媚び媚びの態度にはうんざりしてたから、そういうのがちらっと出てたかもしれないけどさー」
太田が唇を尖らせふくれっ面になった。
「結城さんは一ミリも変わらなかったね」
「最初からいきなりココロって呼ばれたのが不自然すぎて」
木村の呼び方は、戀という名前を呼んでいるというよりは、ココロという記号で呼んでいるように聞こえて仕方がなかった。
「ああ、結城さんのこと戀って呼んでる私すごいでしょ、って?」
太田の戀の呼び方はちゃんと名前で聞こえるのだから、やはり戀の感覚は間違っていなかったのだろう。
「色々透けちゃうとちょっとね。気を付けなきゃって警戒しちゃうし。三井くんのことあれこれ訊いてきたのも、やたらと絡んでたのも、わかりやすいなーって」
「わかりやすいから付き合いやすかったのにね」
それには同意しかない。一癖も二癖もある太田よりもある意味ずっとわかりやすい。
「愛はさ、人のものが欲しくなるんだよ。彼女を大切にしている彼を見て、自分も大切にしてもらえるって勘違いしちゃう。三井くんが結城さんを大切にするのは結城さんだからであって、黒田くんが夢を大切にするのも夢だからなのに」
「もしかして?」
「そ。だから夢は、愛の気持ちが三井くんに移ったことにほっとして、逆に放置しちゃったんだよ。夢の性格なら嫌味くらい言ったはずなのに、あの頃はまだやってなかったから不安に勝てなかったんじゃない? 今の夢なら嫌味どころか突き放しただろうけど。実際突き放してるし」
以前今井が、男が絡むと女の友情って一気に脆くなるよね、と言っていたのは、木村に対してではなく自分に対してだったのかもしれない。
開け放たれた窓から薫風がそよいだ。
「女ってときどき面倒くさい」
溜め息混じりの戀に太田が頷く。
「男が絡まなきゃ単純なのに」
「太田さんに彼がいてよかった」
「いやーん、それってまさかの告白?」
太田が満面の笑みで意地悪く訊いてくる。戀も意地悪くただ笑い返すだけにした。
「そういえば、三井くんの誕生日に何あげたの?」
絢斗の誕生日はゴールデンウィーク明けの五月七日だ。
「内緒」
「プレゼントは私、とか?」
「うわー……太田さんやったことあるの?」
顔を引き攣らせた戀に、太田はまたしても、んふっ、と意味深に目を細めた。妖艶、という言葉とは無縁の見た目なのに、これほど似合う人もいない。
「でもまあ、似たようなものかな」
「うわー、あの独占欲の塊、死ぬほど喜んだでしょ」
具体的なことは何も言っていないのに、戀の、うわー、を真似た太田は察したらしい。
戀は全てを記入した婚姻届を絢斗に預けてある。戀の意思表示としてこれ以上有効なものはない。
いざというときのため。そのいざというときは絢斗が考えるよりもずっと早く来る。
「ねえ、前から不思議だったんだけど、どうして三井くんの独占欲のこと知ってるの?」
「だって、常に結城さんのこと目の端に入れてるでしょ。俺の彼女に触るなーとかって行動に移すほどバカじゃないけど、絶対に目を離さないから逆に怖いもん」
「そうなの?」
「そうだよ、って嬉しそうだね。やっぱ結城さんはそっちかー」
表情に出したつもりはないのに、鋭い太田には気付かれてしまう。
「見た目とのギャップが堪らないんだろうなあ、三井くんは」
「ギャップ……?」
「結城さんって一見、美人特有の冷たさみたいな、他人を突き放しているような雰囲気があるのね。それが三井くんと一緒にいるとふわーって甘さが出るっていうか、三井くんには気を許して頼り切ってるし、一緒にいられて嬉しいっていうのが滲み出てるっていうか。三井くんも三井くんで、結城さんと一緒にいると心底幸せそうで、結城さん以外目に入らないみたいなところがあって、まあ、二人でいるとそういう甘ったるーいふわっふわの何かがこれでもかって出てるわけよ」
太田の指摘は戀の顔に熱を集める。
「それってめちゃくちゃ恥ずかしいよね」
「んー……、ほほ笑ましいって言っておく」
唇に人差し指をあてた太田は、やたらと、んー、を伸ばしたあとに、妖艶さの欠片もない猫被りのかわいらしい笑顔を見せた。太田の彼はこのギャップが堪らないのかもしれない。
戀と幸太は霊園に来ていた。整然と建ち並ぶ墓石はミニチュアの街並みを見ているようだ。
両親と父方の祖父母が眠る墓前に手を合わせる。このあと、同じ霊園内にある母方の祖父母の墓前にも顔を見せに行く。
「ここに来るとココの成長を思い知るよ」
六月初旬。梅雨に入ろうかという、低い雲が垂れ込めた少し肌寒さを感じる日に、戀と幸太は家族を失った。
「そう?」
「初めてココを連れてきたとき、ココはこんなに小さかった」
幸太が腰をかがめて自分の膝のあたりを手のひらで示す。わずかに丸められた手のひらは、子供の頭を撫でる形をしている。
「そんなに小さくないんじゃない?」
「僕としてはそのくらいのイメージだよ」
「いきなり子供引き取るって、きっと大変だったよね」
「充がいてくれてよかったよ。喜代美さんにもずいぶん助けてもらった」
戀に女性として知っておくべきマナーをその時々で教えてくれたのは、充の母である喜代美だった。今でも当たり前に手助けしてくれる。
「幸ちゃん、結婚あきらめさせてごめんね」
「どうしたの? いきなり」
「喜代美さんが教えてくれた」
幸太にお付き合いしていた女性がいたことも、その女性が戀の面倒まではみられないと幸太のもとを去ったことも。
「ココのことがなくても別れてたと思うよ。縁があるかないかってそういうことだと思うから」
幸太は、戀の父親である兄とは仲が悪かった。
出来のいい弟をもつ兄は複雑なんだよ、とその心境を教えてくれたのはやはり出来のいい弟をもつ充の兄だ。
仲の悪い兄が起こした単独事故。一緒に死ぬはずだった姪。戀を引き取る幸太の内心は複雑だったに違いない。そんな幸太の後押しをしたのは充だった。
充が無精子症だとわかったのはちょうどその頃で、子供を育ててみたいという自暴自棄な好奇心だった、という充の懺悔を聞いたのは、戀が子供を産めないと知らされた時だった。僕も知ったときはショックだったけど、戀がいてくれたから今は信じられないくらい幸せなんだ、と泣くこともできないでいる戀の代わりに充が涙を流してくれた。
幸太も充も、戀を必死に育ててくれた。それは間違いない。どういう経緯であれ、戀が二人の愛情を疑うことはなかったし、あえて父親代わりになろうとはせず、幸太は叔父として、充はその叔父の友人としての距離をきっちり保ったまま、子供が受け取るべき愛情を惜しみなく与えてくれた。
「ココは、延命治療はしないつもりなんだね」
戀は幸太をじっと見た。幸太の目は怒っているわけでも失望しているわけでもなく、ただ静かだった。
「絢斗は、耐えられるの?」
「耐えられる人だから、託そうと思ったの」
「たとえ意識がなくなったとしても、もしかしたらその間に治療法が見付かるかもしれないんだよ?」
「見付からないかもしれないでしょ? みるみる老いていくんだよ? 見付かったときにわたしはどれほど老いた状態で人生をやり直さなきゃならないの?」
データが残っている症例は世界に二つしかない。いずれも女性で、二十歳もしくは二十二歳で急速に数値が低下し、一年以内に昏睡状態に陥る。そして、植物状態のまま七年もしくは五年の間に急激に老いていき、最後は老衰で人生を終える。二つのデータはどちらも二十七歳で寿命は尽きている。
「僕は、ココが彼女たちと同じであるとは今でも思ってない」
幸太が大学の研究室から今の製薬会社に移ったのは戀のためだ。戀のための薬をつくろうとしている。
「そうだとしても、わたしは延命しない。したところできっと誰も幸せにはならないよ」
余命を知ったのは十五歳の終わり。高校一年のちょうど今日だった。幸太が今日と同じように両親の墓前で話してくれた。そして幸太は今と同じように、「僕はココが彼女たちと同じであるとは思わない」と真っ直ぐ戀の目を見て言った。信じて疑わない、とても強い目だった。
だから戀は決めたのだ。意識のないまま急速に老いていく姿は見せたくない。きっと幸太と充にとっては地獄のような日々になる。戀は二人に、老い逝く姿ではなく年相応の姿を覚えていてほしい。
絢斗の存在は戀に勇気を与えた。きっと彼なら、戀をちゃんと死なせてくれる。
「ココも絢斗もまだ高校生なんだよ」
「幸ちゃんもわかってるでしょ。彼はもう何年も前から独り立ちしてるんだよ。その辺の高校生と一緒にしないで」
戀はむっとして言い返す。湿り気を帯びた風が纏わり付く中、幸太は静かに戀を見下ろしていた。
「僕たちからしてみれば、それでもまだまだ若いんだよ」
「ねえ、幸ちゃん。わたしはこれまでずっと幸せだったし、今も幸せだし、きっと最後まで幸せだから」
戀の決意は変わらない。
婚姻届を絢斗に預けるとき、戀の余命を知った彼は「わかった」とだけ言った。それを知ったからといって彼は何も変わらない。それが戀を強くした。
「充は、また泣くんだろうね」
戀は、自分がどれほど残酷なことを周りに強いているかわかっている。できれば誰にも知られずひっそりと死んでいきたい。それと同じくらい、覚えていてほしい。死ぬことよりも記憶の中に埋もれていくことが怖い。戀は両親のことを覚えていない。それがどれほど残酷なことか、戀は身を以て知っている。だから死よりも強く願う。
忘れられたくない──。