夜も昼も
降っても晴れても
18 絢斗、思い知る


「女ってよくわからんな」
「だな」
 小さく洩らした絢斗に黒田も小さく相槌を返す。
 今井が太田の実家で吐露した翌週、恐る恐るといった体で「おはよ」と声をかけてきた木村に、戀はそれまでと変わらず挨拶を返した。戀が許したとでも思ったのか、それとも気付かれていないとでも思ったのか、木村は戀に謝ることなく、それまでと変わらない態度で高校二年を終えた。
 絢斗も戀も当初は細川の仕業だと思い込んでいた。木村の口から出る細川の悪口がその日を境にぐっと増えたことも、その思い込みのせいで聞き流していた。絢斗も戀も、木村の気持ちに気付いてはいたが、疑ってはいなかったのだ。大内に真相を知らされるまでは。
「夢は爆発寸前だけどね」
 黒田がこっそり返してきた。
「だろうな」
 三年になったところで、登校時に太田と落ち合うことも、そこに木村が合流してくることも変わらない。
 変わったことといえば、絢斗は戀と、黒田は太田と同じクラスだが、女子はクラスが完全にばらけたことと昼飯を秘密基地で食べるようになったことくらいか。
 今井たち三人はどうなっているのか、戀に訊いても「さあ。特に何も言われてない」と素っ気ない。
 進学組に振り分けられた細川からのちょっかいもない。黒田曰く、戀が細川に何かしらの恩を売ったらしい。どうやらあのビンタの時のひと言のようだが、黒田がいくら調べても杳として知れないままうやむやになっている。戀は恩を売った覚えはないとしらを切り、ビンタの理由も頑なに口にしない。戀は余程の弱みを握ったのだろう。それを一切口外しないことが細川を黙らせた、とは黒田の推察だ。
「海音ファン、このところ輪をかけてうるさいな」
「だな」
 黒田の嘆きに今度は絢斗が頷く。
 車のCMでブレイクした海音は学業優先という事務所の方針で露出を減らし人気を煽っている。それでいて大手のCM契約を増やし、知名度をどんどん上げている。
 そのおかげで、学校前で待ち伏せするファンたちの数が増えすぎ、先日ついに警察官が出動する騒ぎとなった。いくら事務所や海音が出待ちの自粛を呼びかけても無駄らしい。
「なあ、ゴールデンウィークどうする?」
 海音が秘密基地のドアを開けるなり言った。手にはマネージャーが用意したらしきデリの紙袋を持っている。
「海音仕事は?」
「空けてくれた。この一年しか遊べないからできるだけ友達と遊んどけって」
 海音のバーガーがやたらと旨そうだ。端に寄せられた海音の嫌いなピクルスを黒田と一緒につまむ。ついでにフライドポテトも横取りする。
「俺無理」
「結城連れて工房か。エロいことばっかしてんなよ」
 黒田の八つ当たりが鬱陶しい。
「そういえばさ、ミツさんが金曜の夜になると絢斗のこと呪詛ってんだけど、何してんの?」
「ああ、結城がうちに泊まるときに俺が連絡入れてるからだろ」
「は? 律儀に連絡入れてんの? しかもおまえが?」
「彼女はいいって言うんだけど一応ね。最近顔合わせるたびに舌打ちされてるよ。しかもあの人、英語で罵ってくるんだよ、罵ってるってわかんないような笑顔で」
「よく罵ってるってわかるな。さすが留学組」
「過去の間違った勉強法の賜だよ」
 さすがに幸太や充の顔を見れば、彼女の家ですることに罪悪感のようなものを覚える。彼女も同じなのか、週末は一人暮らし同然の絢斗の家に来るようになり、何度かに一度は泊まっていくこともある。
 幸太も充も、未成年女子の保護者にしては、戀の意見を尊重しすぎる。絢斗が戸惑うくらい、戀の意思を遮らない。
「の割りには、可愛がられてるよなあ。その髪切ったのミツさんだろ? あの人、仕事以外で髪切らないって有名なのに」
「結城の髪切るついでだよ」
「結城といえばさ、元からきれいだったけど、最近ますますきれいになったよなあ。うちの事務所と契約しないかなあ」
「そんなクールビューティーが彼氏にだけは笑顔を見せるって一年の間で噂になってるよ」
「普通に笑ってるだろ」
 今だって太田が浴衣のカタログと今井が花火大会の日程をそれぞれのスマホに表示しながら、女同士頭をくっつけるように覗き込んで、ああでもないこうでもないと笑い合っている。
 一見、仲が良さそうに見える。
「女ってこえーな」
 声を潜めた海音に絢斗も黒田も無言で頷く。
 木村に応える今井の声は、「ふーん」や「そう?」、「どうかなあ」といった曖昧なものばかりで、太田もそれよりはマシというだけでやはりはっきりとは応えない。戀はそれまでと変わらず相槌のみ。木村は気付いていないのか気付かない振りをしているのか、特に何を言うわけでもなく、それまでと変わらないテンションを保っている。
 昼休みになると毎日律儀に今井と太田を引き連れた木村が誘いに来る。黒田や海音は混ざったり混ざらなかったりで、絢斗はただでさえ怖い物知らずの一年が騒がしく、戀の側を離れる気にならない。
「ゴールデンウィークの後半、絢斗の工房に行ってもいい?」
 海音が女子たちに聞こえないよう耳打ちしてきた。
「寝袋干しとく」
「さんきゅ。絢斗の誕生日がゴールデンウィーク前だったらなあ。レンタカー借りるかわりに乗せてってって言うのに」
 絢斗は今、教習所に通っている。工房周辺は車がないとコンビニにも行けない。すでに敷地内では木材を運ぶために軽トラックを乗り回していたこともあり、教習所通いもスムーズに進んでいる。
 それもあって、なかなか戀とゆっくり過ごす時間がなく、週末に泊まり掛けで、となってしまうのだ。
「車買うの?」
 男たちも顔を寄せ合う。
「まさか。工房の軽トラで十分。こっちで車必要なことなんて滅多にないし」
「夏休みはドライブできそうだな。海行こうぜ」
「俺夏休みも工房」
「エロ三昧だな」
 黒田の八つ当たりが本気で鬱陶しい。
「黒田さあ、余計なお世話だけど、我慢の限界が来る前にした方がいいよ」
「とっくに我慢の限界は超えてるよ」
 黒田が拗ねた子供のようにむすっと言う。
「マジか。偉いな。ちょっと見直した」
「なに、絢斗は我慢の限界超えて結城襲ったの?」
「合意の上だし」
「俺らだって合意はしてるんだよ」
「だったら腐って絢斗に八つ当たりしてないでさっさとやれよ。そんなんじゃお互い不安だろ」
 煽る海音を黒田が忌々しげに睨む。
「親を誤魔化せる気がしない」
 黒田の父親は警視庁の刑事だ。
「誤魔化さなきゃいいだろ、本気で付き合ってんだから。黒田の親的には遊びはダメだってことなんじゃねーの?」
 はっとしたように海音を見た黒田の目がみるみる据わっていく。海音が、うっわー、ごめん今井、と心にもない声音でこっそり謝っていた。



 工房は標高千メートルほどの場所にあり、気温は四季を通じて札幌とほぼ同じらしい。春や秋は絢斗たちが暮らす街とはひと月ほどの季節差があり、ゴールデンウィーク直前に桜が満開になる。桜といってもソメイヨシノではなく山桜だ。ソメイヨシノよりもピンクが濃い。
「二度もお花見できるなんて贅沢」
 窓辺に佇む彼女は朝日を浴びながら伸びをする。真横から差し込む曙光が絢斗のシャツ一枚だけを羽織った彼女の形を艶めかしく透かす。彼女が両手を挙げて伸びをしたことでシャツの裾から形のいい尻の丸みがちらっと覗いた。
「一面の雪景色もきれいだったなあ」
 春休みの最後に雪が十センチほど降った。本当の意味で一面の銀世界を見るのは初めてだと、戀は子供のようにはしゃいだ。
 夜の底が白いって本当なんだね、と月に照らされた雪の夜に感動していたのもそのときだ。
「朝日が真横から差し込むって何度見てもすごい。山って感じ」
「山だからね。もう少し寝る?」
 後ろから抱きしめると戀はくすぐったそうに笑う。一緒に目覚めるようになって知った。彼女は朝一番の光が好きだ。もうひとつ、雨が上がって晴れ間が見えた瞬間も。
 夜と昼の境目と雨と晴れの境目。戀はその瞬間を絢斗と一緒に迎えることをことのほか喜ぶ。戀曰く、特別な瞬間なのだとか。
「俺のシャツだけ着るのエロい」
「ん、ちょっと借りてる。絢斗こういうの好きかなって」
 絢斗のシャツを着て、絢斗のかんざしで髪をざっくりまとめている彼女が悪戯な目で見上げてくる。シンメトリーな表情は、快楽を享受するときに限って、わずかに右眉が強く寄る。絢斗だけが知る美しい歪み。
「好き。俺のもの感あるし。普段も俺の服着る?」
「それはちょっと……いかにもじゃない?」
 目の前にあるうなじの感触を唇で確かめる。ん、と細く震えた彼女がくすぐったそうに身をよじった。
 工房の付属物のような居住スペースは狭い。LDKとも呼べないワンルームに絢斗がぎりぎり立てるロフト、伯父が入れ替えたユニットバスは風呂もトイレも洗面もひとつになったコンパクトな造りだ。風呂には追い炊き機能もない。暖房器具は薪ストーブで、工房はおがくずストーブ。エアコンのようにボタン一つですぐに暖まったりはしない。冷房はなく、壊れかけた古い扇風機がかくんかくんと首を振る。
「薪足してくれたんだ」
「もう五月なのに朝はまだまだ寒いね。ねえ、わたしが薪をくべるといまいちよく燃えないのってなんで? ちゃんと空気が通るように足してるつもりなのに」
「慣れだよ。そのうちなんとなく火の方が馴れてくる」
「火が馴れてくるの?」
「たぶんね。俺はそう感じてる」
 彼女を後ろから抱きしめたまま、薪ストーブの前にある座面のやたらと広いアームチェアに移動する。腰をおろした膝の上で彼女を横抱きにすると、彼女は甘えるように身を任せてきた。
「戀はさ、何を不安がってるの?」
 びくっと彼女の躰が震えた。
「戀の形を覚えれば覚えるほど、戀の不安が伝わってくる」
 絢斗の首筋に顔を埋めた彼女が、たくさんある、と囁いた。
「戀の病気のこととか、子供ができないこととか、そういうの、俺が気にしてないのはわかってるよね」
「わかってる」
「俺が戀のこと絶対に離さないのもわかってるよね」
「わかってる」
「もしかして、俺のそういうとこが逆に不安?」
 彼女が小さく首を振る。くすぐったくて首をすくめるのを我慢する代わりに彼女を抱きしめる腕に力が入る。
「そんなことない。すごく嬉しい」
「じゃあ、何が不安?」
「ずっと一緒にいたいから、だから、不安」
「んー、俺一応、戀一人を養うぐらいは稼いでるから。まだ贅沢はできないけど、そのへんは不安にならなくてもいいよ」
 絢斗の作るものは作ったそばから売れていく。春休みに充に頼まれて作ったメイクボックスを見た人からの依頼もそれなりにある。すでにそこそこの貯金もある。初めから工具や木工用の機械、木材が充実している環境にも恵まれている。
「お金のことは心配してない。幸ちゃんがしっかり管理してるし」
 彼女の母方の祖父母の家は借家になっていて、その家賃収入の一部が戀の生活費に充てられている。生命保険の額がどの程度だったのかは知らないが、両親祖父母それぞれが生命保険に加入していたと聞いている。戀が今住んでいる家の住宅ローンは両親が死亡した時点で保険によって相殺されていることも。
「わたしの全ての権利、今は幸ちゃんにあるの」
「俺が持ってた方がいい?」
 彼女が顔を上げた。絢斗を真っ直ぐ見つめてくる。
「お金のことじゃないよ?」
「わかってる。戀に万が一のことがあったときのことだろ?」
 幸太も充も、戀の病気の解明を第一に考えている。おそらく、戀はそれが不安なのだろう。絢斗は病気の解明よりも戀を第一に考える。戀が嫌がる検査を断ることも辞さない。
「もう痛い検査はやだ」
 抱きついてきた彼女が小さく洩らした。もうずっと、言いたくても言えなかったのだろう。
「俺は、きっと何があっても戀の気持ちを優先する。だから、不安にならなくていい。俺のそばにいようがいまいが、戀は戀のしたいようにすればいい」
 笑ってさえいてくれたらそれでいい。
「わたし、絢斗より先に死ぬ」
 やけに断定的な言い方だった。有無を言わさない強い声が喉元に噛みついたような気がして、絢斗は息をのんだ。
「もし、明日戀が死ぬとしても、俺はもう戀以外は要らない。俺はただ戀の全部が欲しい」
 よかった、と呟いた彼女はゆっくりと全身の力を抜いていき、薪ストーブで暖められたせいか、絢斗の腕の中でとけるように微睡んだ。
 幸太や充がどれほど大切に彼女を育ててきたかわかっているつもりだ。今も、どれほど大切に思っているかをよくよく知っている。それでも、どれほど彼らに恨まれようと、絢斗は戀のすべてが欲しい。



 ゴールデンウィーク後半に海音がふらっと一人でやって来た。
 工房で作業する絢斗をぼーっと眺め、ウッドデッキでぼーっと鳥の声に耳をすませ、大地に寝転んでぼーっと空を見上げ、また工房で作業する絢斗をぼーっと眺め、夕暮れを眺め、星を見上げ、たっぷり十時間は寝て、伸びをしながら朝日を眺め、そんなことを三日ほど繰り返して、ふらっと一人で帰っていった。
「雑賀くん、よく来るの?」
 戀は絢斗の作業を工房の隅で日がな一日眺めている。よく飽きないな、と絢斗が言えば、いつまでも見ていられる、と戀は子供のように目を輝かせる。
「俺がいるってわかってるときはわりと。たぶんここで充電してるんじゃないかな。春休みは忙しかったようだから来たの久しぶりだし。ああ、そういえば充さんと一緒に来たこともあるらしい」
「充くんそんな頻繁に来てるの?」
「週末予定があいて、戀がうちに泊まるときはふらっと来てるっぽい。海音と一緒で充電してるんじゃないの? あの業界、色々面倒そうだろ」
 幸太と充には居住スペースと軽トラックのスペアキーを渡してある。工房への出入りはまた別の鍵が必要だ。盗まれて困るようなものは何もないので、火の始末にだけは気を付けて、換気さえしてもらえれば好きに使っていいと言ってある。
「他人に鍵を渡すのって怖くない?」
「他人にセキュリティーの操作教えるのって怖くない?」
「絢斗は他人じゃないでしょ」
「だったら、幸太さんと充さんだって他人じゃないだろ」
 むうっと膨れる戀は納得しかねるようだ。
「工房には入れないんだし、こっちには盗られて困る物なんてないだろ。登山者たちがシェアしている避難小屋みたいなもんだよ。実際海音にとっては避難小屋なんだろうし」
 鉋刃の頭を金槌で軽く叩いて(かんな)の微調整をしていると、戀が物珍しそうな顔で近寄ってきた。
「絢斗と二人でいるときに来られたらどうするの?」
「情報の共有はしてるから平気。そういうことするとしたら幸太さんくらいだろ」
「そっか、幸ちゃんならしそうだけど、きっとここには来ないだろうからなあ」
 幸太は車に乗らない。最寄り駅からここまでの移動はどうしても自家用車かタクシーになる。幸太はタクシーやバスにさえ極力乗らないようにしている節がある。当事者の戀は記憶がないせいで車に対する抵抗はないようだが、幸太はダメらしい。

 戀が鉋屑を楽しそうに拾っている。
 ふわっと広がるスカート姿は、絢斗と二人きりの時にだけ披露される。すっと伸びた膝下の直線に美しい曲線を描くふくらはぎ。手のひらに収まる丸い踵や土踏まずの窪みに口付けるとひくっと跳ねる爪先。手を伸ばせば当たり前に差し出される極上の手触り。
 絢斗は戀の存在が奇跡であることを知っている。父にも伯父にも奇跡は訪れなかった。祖父は時代も手伝って半ば強引に奇跡を手に入れた。いつも疲れた顔をしていた祖母が祖父の前では決して笑顔を見せなかったことに気付いたのは、ずっと後になってからだ。
 想い想われる奇跡。
 笑い合える奇跡。
 こんな穏やかな時間がずっと続けばいい。そんな甘いことを考えながら、絢斗は戀の肌の感触に近付けるために鉋をぐっと引き寄せた。