夜も昼も
降っても晴れても
17 戀、静観する


「結城」
 我に返るように覚醒する。
 目の前には屈み込んで苦笑いしている絢斗。視線を上げると眉を寄せた心配顔の担任の姿。慌てて躰を起こすと眩暈がした。
「保健室に連れて行くか、今日はもう帰っていいんじゃないかな」
「あー、じゃあ、連れて帰ります」
 目頭を押さえながら状況がわからなくて困惑する戀をよそに、彼はてきぱきと帰り支度を始めた。
「結城さん、自分が居眠りしてたの気付いてる?」
 太田が小声で訊いてきた。
「なんとなく」
「熱はないみたいだって三井くんが言ってたから単なる寝不足なんだろうけど、担任が心配してたよ、結城さんらしくないって。今までこんなことなかったからよっぽどのことなのかって。昨日寝てないの?」
 今井の追求に答えられない戀は、思わず何もかも悟っているような太田の顔を見た。
「三井くんに責任もって送ってもらえばいいよ」
 ほらね。バレている。今朝太田と顔を合わせたとき、何も言わない代わりに目だけがにんまり笑っていた。
「わたし……」
 言い訳を口にしかけたところで、彼が自分の荷物と一緒に戀の荷物も持って席に来た。ロッカーの鍵がいつの間にか手首から消えている。キーバンドが外されていたことにも気付かなかったとは。
「ほら帰ろう。今井も太田も悪いな」
 状況についていけない戀に、彼が優しく目を細めながら説明してくれた。
「結城、一限目からずっと寝てたんだよ。今井と太田が起こさないよう気遣ってくれてたの。で、今は四限目が終わったところ」
「もう昼休みってこと? えっ、わたしずっと寝てたの?」
「寝てたの。それはもう気持ちよさそうに」
 今井がくすくす笑いながら戀を立たせようと手を貸してくれる。よろけながら立ち上がると、すかさず絢斗が腰を支えてくれた。
「もうあとは消化授業だから出席日数に余裕がある人は休んじゃってるし、結城さんも今日は帰ってゆっくりしたら? あっそうだ」と今井が顔を寄せて声を潜めた。「私も希の浴衣の着付け、こっそり見学に行くからよろしくね」
「よかったらわたしの浴衣貸す?」
「本当? 買おうかどうしようか悩んでたんだよね。お小遣いじゃ安いのしか買えないし、うちの親、浴衣とか着物に興味なくて。あー私も帰ろうかな。ちょっと話したい」
「あ、じゃあ私も。待って、今用意する」
 今井と太田が帰り支度を始める。慌てたように黒田が席を立った。海音は今、充と一緒に海外ロケ中だ。また一つ大きなCMが決まったらしい。
「目、覚めた?」
「覚めた」
 彼に渡されたコートを着ながら戀は、目が覚めたのだから早退しなくても、と思わなくもない。が、今更言い出せない雰囲気だ。
「こないだの店行く?」
 帰り支度を終えた黒田がすかさず絢斗に訊いている。
「あー、でも弁当あるんだよ」
「そっか、じゃあどうすっかな」
「夢たちは遠回りになるけど、うち来る? 明日土曜日だし少し遅くなっても大丈夫だよね」
 太田の提案にみんなが乗った。木村は今日も風邪で休みだ。

 戀たちの最寄り駅の南口から、今井たちが利用している駅の北口までほぼ真っ直ぐに伸びる大学通りの桜並木はつぼみが大きく膨らんでいる。
「もうすぐ咲くね」
「今年は早いよなあ」
「卒業式のあと、どこかでお花見する?」
「いいねえ」
 前を歩く今井たちの会話が聞くともなしに聞こえてくる。
「結城、寝不足ダメなんだな」
「そうみたい。自分でもここまでとは思わなかった」
 一晩中、していた気がする。
 普段から二十二時に寝るようにしている戀は、年越しの晩ですらまともに起きていられたことがない。
「幸太さん今日は帰ってくんの?」
「幸ちゃんも研究会? 学会? なんかそんなので今ドイツ」
「は? 二人ともいないの?」
「いないよ。たまに重なるんだよね」
 聞いてないよ、と彼が不満そうな顔をする。あの二人は肝心なことを俺に言わない、とぶつぶつ文句も言っている。戀もてっきり彼は知らされているものだと思い込んでいた。
「俺今日も行った方がいい?」
「なんで?」
「一人じゃ不安だろ?」
「平気だよ」
「俺が不安だからどっちかが帰ってくるまで一緒にいる」
 彼は、不安だから、と言いつつも満面の笑みだ。
「いいけど……じゃあ、着替え持ってきて。ちゃんとパジャマ着てね」
 小声で注文を付ける戀に、彼の笑みが一層深まる。
「どうせ脱ぐのに」
「どうせ脱いでもちゃんと着て」
「おまえら、公道でこそこそエロいこと言ってんなよ」
 振り返った黒田の苦り切った顔に、真っ赤な顔の今井、にやにや笑いの太田。
「人の話に聞き耳立てんなよ」
「エロ話には立てるだろ、普通」
 今井と太田が絢斗を押しのけて戀の脇をガチリ占めた。むっとする絢斗を黒田がまあまあと宥めている。
「ねえ結城さん、やったよね?」
「今井さんってそういうことストレートに訊いてくるんだね。ちょっと意外」
「夢のとこは黒田くんの親がうるさいから高校卒業までは不純異性交遊禁止なんだって」
「ふじゅんいせーこーゆー? ふじゅんって、純粋じゃない不純?」
「そ。私はこんなに純粋なのに不純とか言われちゃうわけ」
「言わなきゃバレないんじゃないの?」
「私もそう思ってたんだけど、結城さん見てたらこりゃバレるわって思い直したとこ」
 戀が思わず太田の顔を見ると、その通り、とでも言いたげににやにや顔で頷かれた。
「そんなにわかりやすい?」
「私たちは最近特に結城さんと一緒にいるからね。一目瞭然。今日の結城さん、女でもときめくくらい気怠げで色っぽい」
「やりまくりましたーって感じ? 三井くんはいきなり余裕出てるし」
 太田もなかなか容赦がない。
「朝何も言わなかったくせに」
「だってえ。わかりやすすぎて馬鹿馬鹿しくなったんだもん」
 一見ふわふわした外見の太田は、その実かなり辛辣だ。しかも、頼りなげなか細い声ではっきりきっぱりものを言う。女の子然とした雰囲気とのギャップが面白い。
「太田さん、最近猫かぶるのやめたの?」
「結城さんならいいかなって。結城さん、今の私の方が好きでしょ?」
「好きだけど、猫被ってる太田さんも好き」
「残念、被り直しはできません」



 太田の実家は、彼女の言う通り喫茶店だった。イギリスの古い家を連想させる建物は所々蔦で覆われている。
 カフェという言葉が持つ軽やかさのない、どっしりとした重厚なドアには、りりん、と澄んだ音を立てるドアベルがつけられていた。耳に心地好い金属音はもう一度聞きたくなるほどで、この音を目当てに通ってくる客もいるのではないかと思うほどだった。
「本当に喫茶店だ」
「古いだけだよ」
 太田は謙遜するが、レトロモダンな店内は高級感があり、それでいてメニューを開けば良心的な金額が並んでいる。絢斗の目が輝いているから、きっとインテリアの質もかなりいいのだろう。
 通された個室にはどっしりとした大きな丸テーブルとウィンザーチェアー。歴史を感じさせる焦げ茶の家具は密談という言葉がよく似合う。以前の太田ではないが戀は妙にわくわくした。
「本当にお弁当食べてもいいの?」
「いいよー。私もお弁当食べるし。黒田くんお弁当ないならまかないでもいい?」
 喫茶店というくらいなので、軽食はサンドイッチしかない。ただ、そのサンドイッチがすごかった。
「あー、ちゃんと金払うからこのビフテキサンド頼んでもいい?」
 軽食メニューにはおいしそうな写真が添えられており、ひと口にサンドイッチと言っても何種類もある。「三井くんも何か食べる?」
「弁当あるからいい」
 太田に訊かれた絢斗は、メニューをじっと見ながら首を振った。
「食べればいいのに。お腹入るでしょ?」
 戀のひと言に彼の瞳が揺れた。迷っているのが手に取るようにわかる。お腹に入りそうにない戀ですら食べてみたいと思うほど、どれもおいしそうなのだ。
「黒田、ひと口くれ」
「やだよ。じゃあ絢斗は俺が結城の弁当ひと口くれって言ったらくれるか?」
「やだね」
「じゃあ俺だってやだよ」
「あー、じゃあさ、私たちもビフテキサンド頼んで四人で分ける? 私も一切れ食べたい。マッシュポテトもおいしそうだし」
 今井の提案に黒田以外の四人が賛成する。
「うちはパンも自家製ですので結構食べ応えありますよ」
 お冷を運んできた男性店員が柔らかな笑顔で注文を取っていく。戀はカフェオレ、絢斗はブラックコーヒーだ。
「今のが希の彼」
 店員の姿が見えなくなった途端、今井が小声で教えてくれる。
「うわあ、なんか大人って感じ」
 真っ白なシャツに真っ黒なカフェエプロン、穏やかな笑顔には大人の余裕と学生にはない堅実さを感じた。
「そう見えるだけだよ」
 照れたように笑う太田の代わりに今井が彼情報を教えてくれる。
「現在二十五歳、そこの経済学部卒。大学生の頃にこの店のコーヒーに魅せられて通い詰めるうちに希といい感じになって、入社した一流企業を辞めて婿養子になりますって押しかけてきたんだって」
 婚約者みたいなものというのも納得だ。八歳年下といえども、精神年齢の高い太田だからうまくいくのだろう。ただ、太田の見かけだけ知っている人には色々言われそうだ。
「で、この情報を掴んだ細川さんが希に色々言ってきたわけ。で、希の親と彼氏が先手を打って学校に説明に行ってる」
「それ賢いね。でも、その情報どこから漏れたの? そんなの本人が言わなきゃわからないよね?」
 単に思い付いた疑問だった。同じ校内ならまだしも、実家の従業員と付き合っているかどうかなど本人が言わなければわからないはずだ。しかも、太田の彼に未成年と付き合うことの覚悟がなかったとは思えない。
 今井と太田の苦々しい顔を見て、戀は気付いてしまった。
「本人に自覚はあったのかな」
「なかったとは思わない。わざと大きな声で言ったりもするし」
 実際に戀も、年上の彼氏いいな、大人の彼氏いいな、と周囲を憚ることのない木村の声を何度か耳にしている。

 そこでビフテキサンドが来た。小さな個室に香ばしい香りが広がり、凝っていた重い空気が押し出されていく。
 一旦話をやめてお腹を満たすことに集中する。もっちりパンの表面はさっくりと焼かれ、軟らかな肉が口の中でとろけていく。一緒に挟まれているレタスのシャキシャキ感と粒マスタードが肉のおいしさを引き立てている。
「うまっ!」
 男二人が声を揃えた。
 添えられたマッシュポテトもクリーミーで、山盛り食べたいほどおいしい。あっという間にお皿は空になった。そのあとに食べるお弁当の味気ないことと言ったらせつない。
「先に食べるんじゃなかった。お弁当がせつない」
 本当にせつなそうに言う今井に戀も同意する。
 食後のカフェオレもまたおいしかった。彼の頼んだブレンドも好みだったようでやけに満足げだ。
「喫茶店のコーヒーってうまいんだなあ。本当に香りもコクも違う」

 サービスだというコーヒーやカフェオレのおかわりを遠慮なくいただき、一息ついたところで今井が居住まいを正した。
「ねえ結城さん、本当のこと教えて。ロッカーの鍵、壊したの誰?」
 絢斗の視線が突き刺さる。戀は彼だけに本当のことを伝えていた。その上で、放っておくことにしたのだ。所詮今だけの付き合いだから、と。
 担任がなんとも言えない顔で事実を伝えてきたのはあれから一週間以上経った頃で、帰りがけに呼び止められて事実を告げられた。ロッカーの鍵は用務員さんが器用に直してくれたとかで修理代は発生しておらず、戀は絢斗と相談して大内の胸に納めてもらうことにしたのだ。
「担任に訊いたの。そしたら結城さんにはちゃんと伝えたって。結城が言わないなら私からは言えないって。それって、細川さんじゃないってことだよね。彼女だったら私たちに言えるでしょ」
「もうわかってるなら確かめなくてもいいんじゃないの?」
 今井がきっと戀を睨んだ。
「私ね、二度と泣き寝入りしないって決めてるの」
 今井はもうとっくに見限っていた。だから、傍観していたのだ。おそらく気付いていた太田だけが泣きそうに顔を歪めている。黒田は目を伏せてメニューを見ている振りをしている。彼もまた、すでに見限っていたのだろう。
「本当は風邪じゃないんだね」
「さあ。学校にはそう連絡が来ているみたい」
「問い詰めたの?」
「まさか。ただ言っただけ。結城さんはとっくに犯人知ってるみたいって」
 そこでわたしを引き合いに出さなくても、と思いつつ、それ以外に揺さぶりをかける材料もなかったのか、と戀は溜め息をつく。
「結城のせいにするなよ」
 戀を代弁したように絢斗が抗議の声を上げる。
「わたしのロッカーの鍵については出来心だったんじゃないの?」
「だったら、なんで細川さんがやったみたいな言い方するの? 私ね、細川さんと話したの。一度腹を割って話さない? って。あの人、自分大好きで他人を陥れることに躊躇もしないけど、防犯カメラに映るようなバカなことはしないって。心底バカにした目で言われたから本当だと思う」
 それに、と今井は太田を見た。
「細川さんが言ったの。理由なくいじめたりしないって。あんたも太田も友達が何してるか気付かない間抜けだけど、木村は見て見ぬ振りをしたクズだって」
「今井さん、クズはどんな理由があったとしても、いじめてた細川さんだよ。そこは間違えないで」
「でも! 知ってて知らん顔してたんだよ?」
「だとしても、直接いじめてたのは木村さんじゃない」
「かばうの?」
「まさか。単なる事実。わたしだって友達なのにって思う。どういう理由があったのかはわからないけど、知らん顔するのは違うと思う」
「だったら……」
「夢、愛は言わないんだよ。そういう子なんだよ。悪気のあるなし以前に、愛はそういう子。そういう子だって、私たちだってどこかでわかってたでしょ? だから、私は愛の前だと猫被ったままだし、夢だって大事なことは愛に言わないでしょ」
「あんなふうに大きな声でいちいち言われてたら、言い触らされたくないことは言わなくなるよ。あの細川さんでさえ、華が何をしてたのか言わなかったんだよ。それは私が言うことじゃないでしょって」
「たしかに細川さんが言うことじゃないけど、そのセリフを細川さんが言うのもどうかと思う。なんかややこしいけど」
 思わず戀が言うと、太田も頷いている。
「細川さんって自分ルールが徹底してるから。夢は一度落ち着いて。なんとなく細川さんに丸め込まれてるよ」
「俺もそう言ったんだけどさあ」
 黒田のぼやきに今井が今にも泣き出しそうに顔を歪めた。
「わかってるんだけど、許せないよ。結城さんはなんとも思わないの?」
「元々わたしから彼女に関わることってないから」
 話しかけられれば応えるし、近寄ってきたなら相手もする。でも、自分からは話しかけないし、自分から近寄ることもない。
 戀が自分から関わるのは三井 絢斗ただ一人。