夜も昼も
降っても晴れても
16 絢斗、手に入れる


 絢斗はしみじみ思う。男と女は違う。
 触れ合うという行為は、彼女にとっては精神的なものを多分に含んでいるようで、当初の絢斗は探究心が向かう先であった。このところの絢斗は肉欲に支配されつつある。侵食してくる劣情を押し戻すことに必死だ。
 我慢も限界に近い。
 これまで絢斗は、漠然と自分は淡泊な方だと思っていた。実際に淡泊でいられたのは彼女の手を握っている間だけで、彼女の唇の感触を知ってしまってからは、ただただ我慢のし通しだった。
〈暴走禁止〉
 ことあるごとに幸太や充から送りつけられてくる文字。我慢の杭を上からハンマーで叩かれれば叩かれるほど、地にめり込んだ杭の先がかえって鋭さを増していく。
〈こころのヨシが出るまでマテ〉
 マテをさせられ続けた犬はいつか飼い主でさえも襲うのではないか。襲いそうだ。そうなる前に、と絢斗は彼女に警戒を込めて告げたのだ。

「三井くんに聞いてほしいことがあるんだけど、楽しい話じゃない」
 真剣に警告を発した絢斗に、彼女も真剣な顔で答えた。
 彼女が何か隠していることを絢斗は肌で感じていた。彼女はとても素直な性格をしている。彼女の手を握っていると、ほんの微かな心の機微が肌を通じて絢斗に伝わってくる。
 幸太も充も今日は来ない。そんな直前の警告を完全に無視した彼女の誘いに、絢斗は内心で舌打ちする。それでも彼女の家に足を踏み入れるのは、彼女の肌が何かしらの決意を伝えてきたからだ。
 リビングの横にある洗面所で互いに手洗いうがいを済ませ、再びリビングに戻ろうとした絢斗を彼女は引き止めた。
「わたしの部屋で話してもいい?」
「結城、意味わかってる?」
「わかってるけど、その前に言わなきゃならないことがあるから。でも、リビングでしたい話じゃなくて……」
 不安そうに瞳を揺らす彼女を見て、絢斗は自分がどれほど彼女を追い詰めたのかを理解した。
「ごめん、怖かった?」
 できるだけ優しく、できるだけ密着しないように、緩く彼女を腕に囲う。
「三井くんは怖くないよ。でも、これから話すことで三井くんがどう思うかが怖い」
 絢斗の気持ちなどお構いなしに、彼女はぎゅっとしがみついてくる。彼女の匂いが立つ。絢斗の中にどこまでも優しくしたい気持ちは間違いなくあるのに、それを打ち砕くほど無茶苦茶にしたい衝動が込み上げてくる。いっそ食い殺してしまいたいほどの狂った欲望。
 絢斗は慌てて彼女の躰を引き離した。
「ごめん、俺限界に近い」
 彼女の肩を両手で掴み、腕の分だけ距離を取った絢斗は、それでも彼女の肩から手を離すことができず、視界から彼女の姿を追い出すように頭を下げるしかない。
「あっ、じゃあ、リビングで話す?」
「いや、結城の部屋でいいよ。結城が話しやすいところでいい。今の俺に話さなきゃならないことなんだろ?」
 言いながら腕が勝手に彼女を引き寄せそうになる。指先に力が入る。彼女の細い肩を握り潰してしまいそうだった。
 ふと絢斗の左手に彼女の指先が触れた。見なくてもわかる感触。
「じゃあ、手だけ繋いでもいい? 話が終わるまでぎりぎり手が繋げる距離まで離れていよう?」
 そう言って案内された彼女の部屋には、バカでかいベッドが置かれていた。
「なんでこんな……」
 ダブルサイズのベッドから目が離せない絢斗に、彼女は静かに言った。
「これ、両親のベッドだったの。子供の頃、このベッドで一緒に寝てたんだって。両親のことは何も覚えていないのに、このベッドじゃないと眠れなかったらしくて、いつの間にかわたしのベッドになってた」
 それでも絢斗の目には彼女が使っているベッドとしてしか映らない。
 彼女の部屋はシンプルだった。存在感のあるベッド、姿見と子供用の可愛らしいデザインの小さなチェスト。ベッドサイドには小さなカフェテーブルと同じデザインのスツールが二つ。どれも両親が買いそろえたものらしい。
「結城が自分で選んだものは?」
 くるっと部屋の中を見渡した彼女は、そういえばないかも、と不思議そうな顔をした。

 絢斗は前回泊まったときにひと通りの間取りを教わっている。一階には幸太と充が使っている部屋と風呂と脱衣所、トイレがある。二階にはLDKと洗面所とトイレ。三階には彼女の部屋と広めのウェークインクローゼット、ランドリースペース。彼女の部屋から見えるバルコニーには物干しスペースがある。
 彼女の両親が残したままを維持していることが絢斗にもわかった。

 彼女の部屋には、座る場所がベッドか小さなスツールもしくは床しかなく、彼女をベッドに座らせて、絢斗はスツールに座った。二人の間にカフェテーブルを置くことで、いきなり襲えないようせめてものバリケードを作る。
「おしり痛くない? そのスツール小さいでしょ? 場所変わる?」
「大丈夫」
 彼女のベッドに触れた瞬間、絢斗の理性の(たが)は間違いなくぶち切れる。淡いパステルグリーンでまとめられたベッドは爽やかさを装った特大のトラップだ。
「わたしね、性知識がほとんどないの」
 唐突に彼女は言った。面食らった絢斗は瞬きを繰り返す。
「保健体育で教わった内容と、少女マンガで得たふわっとした知識しかないから、だから、上手くできないかもしれない」
 最後に顔を赤くして俯いた彼女は、目元に力を入れてぐっと絢斗を睨み付けるように顔を上げた。本題はここからだ、と暗に伝えてくる。カフェテーブルの上で繋がる彼女の手にも力が入った。
「わたしは子供ができない。わたしの卵子は受精しない」
 彼女の顔から表情が抜け落ちた。嫌な予感に絢斗の声が尖る。
「そんなことまで調べられたのか」
「わたしの躰はわたし以外の全てを排除する」
 彼女は無表情で言い切った。
「わたしの中に最初に入ったのは医療器具で、だから、もしかしたらわたしは初めてって言えないのかもしれない」
「そんなわけないだろう!」
 彼女を抱きしめると同時に、絢斗が座っていたスツールの倒れる音が響いた。
「だから三井くん、避妊しなくても大丈夫だから。わたしの病気は三井くんにうつらないから。たとえ三井くんが病気を持っていたとしても、わたしにはうつらないから。大丈夫だから」
 強がる声が胸元で響くのに、背中に回された指先は必死に絢斗の服を握りしめている。
「大丈夫じゃない!」 
 絢斗の中にまたあの時と同じ怒りが爆発した。
 検査検査検査! 彼女のためではなく誰かのための検査。それが彼女のためにも繋がるジレンマの検査。
「結城、幸太さんや充さんに言えないことも、俺には言っていいから。そんなことで結城を離したりしないから」
 彼女はこれまで、どれほど傷付けられてきたのか。残酷な期待や悪意のない言葉にどれほど追い詰められてきたのか。
 他人と違うことは恐怖だろう。それでも、平凡に暮らしていくのであれば、本人や周囲が気を付ければいいだけのことだ。絢斗にだってそのくらいの覚悟はある。
「わたしはきっと、三井くんのことを物凄く傷付ける」
「いいよ。俺はもう結城しか要らないから。俺のこと傷付けるのも結城だけだから。だから、結城の全部、俺にちょうだい。俺に全部覚えさせて」
 もうすでに痛い。もうすでに傷付いている。俺のものなのに。俺以外が傷付けていいはずないのに。彼女は絢斗以外の誰かに傷付けられる。それが痛い。それが絢斗を傷付ける。
「わたし、本当にどうすればいいのかよくわかってなくて」
「興味なかった?」
「興味を持ち始めたときに検査があって……」
 男の絢斗でさえ、他人にその部分を曝すことは、たとえ医者であっても強い抵抗感がある。ましてや女の子は躰の内側を暴かれる。
「自分のスマホがないからそういうこと調べたりもできなくて」
「幸太さんのスマホで調べ……って、もしかして幸太さんたち結城のスマホチェックする?」
「あの二人はそういうことしないよ。でも、ちょっと人のスマホだと抵抗あるでしょ」
「そっか。俺は自分のスマホだから抵抗ないけど……よかったら俺の使う? エロいことも調べていいよ」
 抱きしめた彼女の躰から強張りがとれていく。
「使わない。使わない代わりに、三井くんが教えて」
 わざとなのか。それとも無知からくる無自覚な誘いなのか。そんな疑問は彼女の次の言葉でぶっ飛んだ。
「わたしの全部、覚えて」



 翌朝、あまりの空腹に目が覚めた。夕食もとらないまま覚えたての猿化したせいだ。
 夜が明けたばかりなのか、カーテンの隙間から差し込む朝の光が黄みがかっている。隣で寝ている彼女の目元に夜の名残が淡く浮かぶ。
 起き抜けにもう一回……は、さすがに怒られそうで手足を思いっきり伸ばした。力が漲る。あれだけしたのに朝から元気だ。
 寝返りを打った彼女の腕が絢斗に絡む。ふうっ、と安らかなひと息のあと、彼女の目蓋がゆっくりと開いていく。目が合った途端、彼女は慌てたように布団の中に顔を隠した。絢斗の肩の辺りからくぐもった「おはよ」が聞こえた。

 昨晩のうちに洗濯した服がしっかり乾いている。裸のまま取りに行った絢斗に、背後から「何か着てよ」と声がかかった。その何かは全てドラム式洗濯機の中だ。絢斗の家は縦型全自動の乾燥機能なしなので、乾燥機付きの洗濯機が珍しく、その便利さに次に買い換えるときは絶対にこれにすると決めた。
 洗濯機から取り出してすぐ、下着とカーゴパンツを身に付け、Tシャツとパーカーと靴下を手に彼女の部屋に戻る。同じようにデニムだけ穿いた彼女が慌てたようにシャツを羽織った。
「アイロンかけなくていいの?」
「いいよ。いつもかけてないし」
 靴下が少し縮んでいた。履いてみたらいつも通りのサイズに伸びた。面白い。
「なんか、三井くんいきなり余裕が出た感じ」
「満足させてもらえたんで」
「そういうこと、外で言わないでよ」
 首まで赤くなった彼女はそれまで以上にかわいい。
「やっぱ満足してなかったかも」
 もう、と怒る彼女を引き寄せて、腕の中に閉じ込める。どこもかしこも柔らかく丸みを帯びた覚えたての形。
「朝目が覚めて、隣に誰かがいるって初めて」
「小さい頃、幸太さんや充さんと一緒に寝てなかったの?」
「寝かしつけてはくれたけど一緒に寝たりはなかった。お風呂も手伝ってはくれたけど一緒に入ったことないし」
 彼女は驚くほど男の躰を知らなかった。絢斗の失敗も不手際も何一つ気付かない。恥ずかしがりながらも言われたままを素直に受け入れる。不思議そうに小さく首をかたむける無防備さは心配になるほどだった。
「次は一緒に入る?」
 昨日も一緒に入ろうと誘ったのに、恥ずかしいの一点張りで拒絶されたのだ。どこもかしこも知っているのに、それでも恥ずかしいらしい。あまりに彼女が恥ずかしがるから、絢斗は逆に開き直られる。
「だから、恥ずかしいから入らないってば」
 腕の中からもがき出た彼女が、顔洗ってご飯作る、と階下に向かった。今まで見たことのない、ほんの少し寝癖のついた彼女の前髪が、絢斗に特別感を与えてくれる。

 彼女が作った朝食を食べ、彼女が作った弁当を持ち、彼女と一緒に家を出る。その際、セキュリティーの操作方法を教わった。
「こういうの、他人に教えていいの?」
「三井くんならいいんじゃない? 鍵渡したわけでもないし、家に入ったときと出るときの操作法教えられたって家に入れるわけじゃないから」
「たしかにね。単に結城が面倒だから俺にやれってことだろ?」
「三井くんこういうの得意でしょ」
「この程度で得意も不得意もないだろ」
「わたしは苦手なの」
 なんでも簡単にこなしそうな彼女にも苦手なものがあったのかと、絢斗は少し意外に思った。
 握った手をMA−1のポケットに入れる。春めいてきたとはいえ、まだまだ朝晩は冷え込む。
「もしかして、タブレットの設定とかも苦手?」
 うちの学校の全ての教科書は紙ではなく電子化されている。
「すっごく苦手。いつも幸ちゃんにやってもらってる」
「それって、日常的にスマホ使ってないから慣れてないだけじゃないの?」
「そうかも」
「俺の使っていいからね」
「使わないってば」
 彼女の指の股を撫でていると、彼女の様子がおかしくなった。何かを堪えるように顔を赤くしている。
「三井くん、それちょっと、ダメ」
 昨夜の行為を思い起こさせるような声音に、絢斗は慌てて指の動きを止めた。
「結城って、敏感だよな」
「違うよ、そうなっちゃったんだよ」
 小声で責められた。そうした自覚はあるので、素直に「ごめん」と謝った。
「謝られることでもないと思うけど、でも、外ではやめてね」
 伏し目がちにちらっちらっと絢斗の様子を窺うように見上げてくる彼女の仕草にぐっとくる。昨日までの彼女と違って見えるのは、絢斗が彼女の全てを知ったせいなのか。
「いま俺、全世界に向かって、俺のものだー! って叫びたい気分」
「なにそれ」
 彼女の呆れ顔が一瞬にして笑顔に変わる。その鮮やかさに目を奪われる。
 本当に、叫べるものなら叫びたい。彼女は俺のものだ。