夜も昼も
降っても晴れても
15 戀、心を動かす降っても晴れても
「結城?」
あっ、と思ったときには戀の目から涙が落ちていた。
「ごめっ、ちょっと自分でもよくわからないんだけど、嬉しくてびっくりした」
「嬉しくてびっくり?」
絢斗の困惑した表情に、戀自身も困惑していた。
「本当に自分でもよくわからないんだけど、いきなり感情が爆発したっていうか……」
戀は思わず笑い出しそうになる。もう何をどう言えばいいのかわからない。気付いたときには感情の塊が一気に込み上げて、瞬く間に溢れて、全身に仄かな熱を灯していた。
困り顔でキッチンに立ち尽くしている彼に近づくと、戀はそっと抱きついた。
「ありがとう」
ぎこちない腕が背中に回る。
「よくわかんないんだけど、俺かなり特殊なこと言ったよね」
「言ったね」
「普通、キモっとかコワっとかって引くところじゃないの?」
「人によると思う。わたしは自分でもよくわからないけど嬉しかった」
「よくわからないのか」
そう言いながら、彼の腕に力が込められていく。ぎゅっと抱きしめられると、戀の躰から力が抜けて、ほっと息がつけた。
彼の顎が恋の頭の上にのる。戀のつむじあたりを彼の顎先がぐりぐりする。
「ちょっと変態的な嗜好だとは思ってる。そこはびっくりした」
「そこはわかってるんだ」
「そこがわからなかったら困るでしょ?」
うーん、と低く唸る音が彼の胸を伝って直接戀の耳に伝わってきた。
「結城、俺でいいの? 俺たぶん普通じゃないよ?」
ぐりぐりが止まる。思わず戀は、ふっ、と小さく笑ってしまった。
「なんで今更? 嫌なら一緒にいないよ?」
「念のためもう一度確認しとこうと思って」
顔を上げたらゆっくりと形のいい唇が落ちてきた。びっくりもしなければ、執拗に感触を確かめられることもない、爽やかなキスだった。ひそかにときめく戀とは違って、彼の顔にはわかりやすく「名残惜しいです」「物足りません」と書いてある。戀はやっぱり笑ってしまった。
二月も終わりが近付くと、記念告白が盛んになる。
呼び出されたなら行かなければいい話でも、道を塞ぐように呼び止められ、その場で告白されたなら逃げようがない。言葉通りの記念告白なら、言うだけ言ってそこでお終いになるはずなのに、中にはしつこく食い下がる人もいる。しかも、そういう人に限ってなぜか絢斗ではなく太田と一緒にいるときに現れるのだ。
「結城さんのこと見た目だけ知ってて中身知らない人ばっかりでびっくりする」
戀がはっきりきっぱり断ると、大人しく逆らえないような性格だと勘違いされていたのか、大抵ぎょっとしたように目を剥かれる。そこでイメージとは違ったと幻滅してくれればいいのに、中にはプライドを傷付けられたと感じる人もいて、そうなるととにかくネチネチとしつこい。結局、太田が黒田経由で絢斗を呼んで、絢斗が話を付けることになるうえ、野次馬まで出てくるのだから散々だ。
「太田さんって断り方上手だよね」
一緒にいてわかった。太田はモテる。しかも表立って騒がれるのとは違い、ひっそりと想われている。その本気さが太田を思い遣る相手の行動にも滲み出ている。
「そう? だって実際にお付き合いしている人がいるのは事実だから」
太田はほんのりと頬を染め、お付き合いしている人がいるので、とはにかみながら断る。そうするとなぜか相手は不思議なほどあっさり引き下がっていくのだ。
戀もそれを真似て「付き合っている人がいるので」と目を伏せて言ってみたものの、なぜか信じてもらえずしつこく言い募られる。一体何が悪いのか、戀にはさっぱりわからない。
「あの抱きしめ事件を黒田くんが素早く収束させたのが裏目に出てるね」
「そうなの?」
「そうみたい。そういうのってきっぱり認めちゃうと、人って急につまらなく感じるんだって。だから二人が付き合ってること、二年は知ってても三年はあんまり知らないのかも」
戀にも覚えがあり、黒田の情報操作力に改めて感心する。
「黒田くんってすごいね」
「それ、三井くんの前で言っちゃダメだからね。三井くんって独占欲強いでしょ?」
そして、太田の洞察力もすごい。
「わたしと一緒にいてむかつかない?」
ふと戀の口から言葉が衝いて出た。
「えー? むかつかないよ、なんで?」
急にどうしたの、とでも言うように太田が小首を傾げた。
「むかつくってよく言われてたから」
「ああ、結城さん正直だからね。夢もはっきり言うタイプだけど、夢がそれなりに上手くやれて、結城さんがそこのところ上手くやれないのは単に結城さんの顔がよすぎるからじゃない? 夢だって美人だけど、結城さんほどじゃないもん」
それまで黙々とお弁当を食べていた今井が「はっきり言いすぎ」と苦笑する。本日木村は風邪で欠席だ。久しぶりに特別棟でお昼を食べている。
「わたしだって好きでこの顔に生まれたわけじゃないのに」
得したことより損したことの方がはるかに多い。
「それ。多分そういうのがむかつかれるんだと思う。みんなわかってるんだよ。誰だって好きでこの顔に生まれたわけじゃないから。でもそれを絶対的な美人が言うとむかつくんだよね」
にこにこと微笑む太田の顔を戀はまじまじと眺めた。目の前にいる同い年の彼女がやけに大人びて見える。
「美人って持って生まれた才能の一つだから、才能あるのに好きでこの才能に生まれついたわけじゃないって言われると、その才能を得ようとがんばってる人はむっとするでしょ」
太田の言い方には嫌味がないせいか、すっと耳に入ってくる。
「だからかえって結城さんほど美人なら、私美人なんで、って開き直った方がいいと思う」
戀には開き直れるほどの度胸がない。
「ほらさっきの、はっきり認めちゃうと、急につまんなくなる心理と似てる気がするけど」
ね、と小首を傾げた太田がほわんと笑う。
「顔が良すぎるってメリットよりデメリットの方が多いんだってこと、結城さんと一緒にいて嫌っていうほど実感したから、そう言いたくなる気持ちもわかるけどね。きっと結城さんには結城さんなりのコンプレックスだってあるんだろうし」
何もかも悟ったような今井と何もかも包み込むような太田の笑顔を見ていると、どういうわけか何もかもがそっくりそのままでいいような気になってくる。
「今井さんっていつから黒田くんと付き合ってるの?」
「中三の夏くらいからかな」
「でも夢たちはその前から仲良かったよね」
「どっちが先に告白するかお互い様子見てたところはあるかも」
「すごい。駆け引きだ。そういうのちょっと憧れる」
感心する戀に、今井は「ただの意地の張り合いだよ」と照れたように笑う。結局黒田の方が先に告白したことで、主導権はどちらかといえば今井の方にあるらしい。
「私って、黒田くんには意地張っちゃうんだよね」
「黒田くんはそんな夢がかわいくて仕方ないんだよ」
そうだといいけど、と今井は笑う。自信に裏打ちされた笑顔はとても穏やかだ。
「結城さんは逆っぽいよね。三井くんと一緒にいるとき雰囲気柔らかくなるし」
「そうかな」
「そう見えるけど。なんか、結城さんかわいくなった」
顔に熱が集まってくる。思わず戀は両手で頬を押さえた。
「ほらね、かわいい。前はこういうときでも素っ気なかったのに」
にやつく今井と太田が声を揃えて「ねー」と言い合っている。
「あっ、そうだ、着付け教室どうする?」
すっかり訊くのを忘れていた。
今井と太田は急に笑顔を引っ込めて顔を見合わせた。
「今は……止めた方がよさそうだと思うんだけど、どう思う?」
「二人で行ったら拗ねるしね」
「だからって、連れていっても……三井くんも一緒に行くよね?」
「行くっていってたけど……」
二人も気付いていたのか。戀は溜め息をのみこんだ。
「だよね。黒田くんも行きたがってたから、三井くんも行くだろうなって思ってたんだけど……ごめんね」
何に対してかをはっきり言わないまま謝られたところで、戀は応えようがない。すると、今井は気を取り直したように話を変えた。
「結城さんたちって進学組だよね?」
「ん、違うよ。わたしも三井くんも留学組。内定もらってる」
「そうなの?」
驚いた顔の今井と太田に戀は頷きを返す。絢斗は、海音や黒田には話してある、と言っていた。彼女である今井にも話さない黒田は口が堅い。それとも、今井から伝わることを懸念したか。
「あー……ちょっとまずいかな。結城さんたちも進学組だと思ってたからそのうち諦めるだろうと思ってたんだけど、それ知ったら思い詰めて暴走しそう」
留学クラスと進学クラスは授業形態が特殊なため、教室が進学クラスとは離れた位置に設けられている。
「実は、細川さんに言われたんだよね。私はダメであれはいいのって。だったら私もあんたたちの仲間に入れてよって」
「すごい嫌味だね」
太田が心底嫌そうな顔をする。
「でも端から見たら同じように見えるんだよ。私たちは友達だからこのくらいはって大目に見てたけど」
今井が戀の顔を見た。暗に同意を求められたようで、戀は拒絶の意味を込めて黙り込んだ。
「やっぱり、彼女としてはアウトか」
「そりゃそうでしょ。同じこと黒田くんがされても夢は大目に見られる? 私、顔にも態度にも出さない結城さん偉いなって思ってたもん。嫌味言っても愛には通じないし。もし私が同じことされたら友達やめる。三井くんが全く相手にしてないのが救いだけど」
「そっか、そうだよね。でもだからって、何も聞いてないのに注意するのもどうなの?」
「そこが愛のずるいところだよ。何か言われても、そんなことないよ、って笑って言い逃れできるから」
戀は太田の辛辣さに驚くと同時に、木村を心配していることが伝わってきた。
「太田さんって、木村さんの友達なんだね」
「何言ってんの? 当たり前でしょ。友達だから余計に許せないんだよ」そこまで言った太田が、ああ、と何かを悟った。「もしかして結城さん、愛のこと友達だとは思えない?」
訊かれた戀が口を開く前に太田は続けた。
「当たり前か。あんなことされて友達だと思える方がどうかしてるもんね」
怒りが込められた太田の声は、それでもどこかふんわりと柔らかに聞こえる。あんなこと、が何を指しているのか、太田の表情からは読めない。
「三井くんには相手にされない、結城さんには友達だと思われてない。とことん救いようがないね」
今井はどちらかと言えば戀寄りの考え方をする。おそらく今井は太田ほど木村に興味がない。だから自分に関わらない限り大目に見られるのだろう。
「愛の自業自得」
この三人は四人から三人になったことで何かが噛み合わなくなってしまったのかもしれない。それとも元々こういう関係なのか。今の彼女たちの鎹は太田なのだろう。
「男が絡むと女の友情って一気に脆くなるよね」
今井が窓の外を見ながら誰に言うでもなく呟いた。
「着付け教室、今井さんと太田さんが時期をずらして別々に行くことになった」
お昼に決まったことを戀は帰り道で絢斗に話した。
「ああ、なるほどね」
絢斗は直接的なことは何も言わない。だから、戀も何も言わない。戀の横を歩く太田も何も言わない。言ったらそこで終わりになることを誰もがわかっている。
「私と行くときも三井くん一緒に行く?」
「二人の邪魔じゃなければ。太田の彼氏は誘わないの? 男の着付けも教えてくれるらしいよ」
「そうなの?」
太田に訊かれて、そういえばそうだった、と頷く。女性は大女将が、男性は大旦那が教えている。戀には全く関係がなかったから思い付きもしなかった。
「充さんが、もし着付け教室の敷居が高いなら僕が教えるけどって。ただし、充さんの時間が空いたときになるから予定合わせてもらわなきゃいけないけど、だって」
いつの間にかスマホを取り出していた絢斗が画面を見ながら太田に伝える。いつもながら素早い。
「太田さん自分の浴衣持ってるんだよね? 彼も持ってる?」
「持ってるけど……いいの?」
「だったらその方が気楽かも。一緒にうちにおいでよ」
「あ、だったらうちに来て。うち喫茶店やってるの」
太田の目が嬉しそうに細められた。
「喫茶店? カフェじゃなくて?」
「そう、喫茶店。お祖父ちゃんが始めたお店をお父さんが継いだの。うちのお父さんの淹れるコーヒーの虜になった彼が押しかけ店員してるから、よかったら遊びに来て」
「うわあ、充くんが悶えそう。充くんコーヒー大好きなのに飲むと肌荒れする体質みたいで、ヘアメイクの肌が汚いのは説得力に欠けるって、もう何年もカフェイン断ちしてるんだよ」
「よし、虜にしてやろう」
んふふっ、と太田が挑むように笑った。
充さんの予定に合わせるから、と機嫌よく手を振る太田と別れると、すかさず絢斗の手が伸びてくる。今日は暖かく、ポケットに入れないまま指と指を絡め合うように手を繋ぐ。通り過ぎる誰もが剥き出しに繋がれた手を見ている気がして、戀はそわそわと落ち着かない。
「三井くん、春休みは工房?」
「そのつもりだけど……結城も一緒に行く?」
軽い口調で訊かれたから、戀も軽く返した。
「行こうかな」
「えっ? いいの? 幸太さんたち反対しないの?」
慌てた絢斗がなぜか周りをきょろきょろ見渡している。
「別にしないと思うけど……迷惑じゃなければ一緒に行ってもいい?」
「俺と二人きりだけど」
「さすがに伯父さんやお父さんと一緒ならわたしも遠慮するけど……」
「結城さぁ、意味わかって言ってるよね」
「なんの意味?」
とぼけたらぎゅっと手を握り込まれた。
「結城さぁ、なんか俺に隠してる?」
隣を歩く彼を見上げたら、その後ろの空が青かった。ずいぶんと日が長くなってきた。
「隠してる」
「話す気ある?」
焦点を背後の空から彼に結び直すと、心配そうな顔が現れた。
「そのうち話す」
「そのうちっていつ?」
「いつかなあ」
話さなければならないことはたくさんある。話さないままどこまでもいけたらいいと思っている。
「俺、別れる気はないよ」
「なにそれ、わたしだってないよ。じゃなきゃ、一緒に工房に行かないし」
「俺、結城のすべての形を覚えるつもりだから」
「だから、公道でそういうこと言わないでってば」
いつものように言ったのに、彼はいつものように返さなかった。
「言っとくけど、エロい意味だから」
思わず足を止めた戀に、絢斗は真顔のまま続けた。
「結城にも俺の形覚えてもらうから」