夜も昼も
降っても晴れても
12 絢斗、魅せられる


 あの女は土日をはさんで五日ぶりに登校してきた。そして、憔悴してますふうの体で取り巻き女子たちに「かわいそう」「大丈夫?」「ひどいよねえ」を盛んに言わせている。周囲の白けた空気は気にならないらしい。
「むしろこの空気に気付かないのがかわいそうで大丈夫かって感じなんだけど」
 声を潜める海音は相変わらずグロいマンガを読んでいる。さり気なく絢斗にグロシーンを見せようとするので、スネを蹴って阻止した。
「ってか、声でか」
 負けじとでかい声で悪態をつく木村に今井が余計な刺激を与えるなと注意している。
 今のところ「私かわいそう」の空気を撒き散らす以外の害は特になく、戀はそれまでと変わらず完全無視を決め込んでいる。それが余計にあの女の苛立ちを募らせているようだ。

 変わったことといえば、戀が教室にいるようになった。常に人目がある場所にいるよう黒田に言われたからだが、絢斗はそのおかげで充の弁当にありつけている。
〈ボディーガード代に弁当作ってやる。米を炊いたのはこころだ。こころして食え〉
 最後のひと言が余計だ。
「充くんに別々に詰めてって言ってるんだけど、面倒だってまとめて詰めちゃって……わたしが詰めるって言っても戀は詰め方下手だからダメって言われちゃうし……」
 申し訳なさそうな戀には悪いが完全に充の策略だ。一緒に食べさせることこそが目的なのだから。別々であれば戀は弁当を絢斗に渡して一人でふらりとどこかに消えてしまいかねない。
 曲げわっぱの二段弁当箱に二人分のおかずが彩りよく詰められ、戀と絢斗のでは大きさが倍ほども違うおにぎりはラップに包まれている。
「充さんって和食好き?」
「どっちかといえば。幸ちゃんは子供舌だからハンバーグとかオムライスとか唐揚げが好きで、よく充くんにバカにされてる。カレーも甘口だし」
「もしかして、卵焼きの味が日によって違うのは幸太さんに合わせてるせい?」
「よくわかるね。充くんはだし巻き卵が好きで、幸ちゃんは甘い卵焼きが好き。わたしは両方好き」
 機嫌よく卵を頬張る戀の三度の「好き」という単語は絢斗をそわそわさせた。ちなみに今日はだし巻き卵の日だ。

 戀のCMに関する動きも特にない。彼女の言う通り、直接サイトを開くか、着物関係の検索をしない限り目に付かないこともあって、黒田が言うには校内に目立った動きはないらしい。ただし、ネット上ではじわじわと話題になっているようで、気を抜かないよう言われている。



 絢斗は週末に玉かんざしの替え玉を幾つか作った。細かな作業は思ったよりも楽しく、週明け、おはようの後で手を差し出してきた戀に握らせると思いのほか喜ばれた。目を輝かせ、しばらくきゃあきゃあと女の子らしい声を上げてはしゃぐ彼女は無邪気でかわいい。学校では絶対にみせない顔だ。
「わたし、このかくかくしたの好き」
「じゃあ、かくかく系で増やす?」
「でももう五つもあるんだよ? 日替わりで使えるし……あ、これ、ゴム通してもかわいいかも」
 だったらもう少し大きな玉でもいいな。頭の中であれこれ考えているといつの間にか時間が過ぎている。戀は絢斗の思考の邪魔をするでもなく、いつもただ静かに隣にいる。
「俺急に黙るよね?」
「自覚あるんだ?」
「自覚はあんまない。海音とかに指摘されるから気を付けてはいるけど」
 そうなんだ、と小さく呟く彼女は穏やかな笑みを浮かべている。
「嫌じゃない?」
「全然。何考えてるんだろうなって想像してるのも楽しいし、何も考えないでぼんやりしてるの好きだし」
「結城、学校で一人になりたい?」
 しばらく黙って隣を歩いていた彼女が小さく、んー、と唸った。
「一人になりたいのはそうなんだけど、そこに三井くんがいても気にならないと思うから、一人というよりは二人になりた、」
 そこまで独り言のように呟いた彼女は、はっとしたように絢斗を見上げ、一気に顔を赤くした。すでに絢斗の顔は熱っている。
「待って、言わないで」
「結城、エロい」
「だから言わないでってば! そういう意味じゃないから。違うからね。違うから!」
 ムキになって言い返す彼女を遮ったのは太田で、「おはよー。どうしたの? 大きな声出すの珍しいねえ」とまったり声をかけてきた。
 太田の雰囲気は独特で、戀も太田にはどちらかといえば気を抜いている。のんびりした話し方に、髪型や服装など全体の雰囲気がふわふわしている。今井はどちらかと言えば自分に厳しいタイプで、雰囲気は戀に近くいつも似たようなスタイルを貫いている。木村はその真逆で流行りに敏感なタイプだ。
「たまには結城を一人にさせてやりたいって話」
「結城さん、三井くんにあそこ教えないの?」
 太田が不思議そうに首を傾げた。
「あそこって?」
「結城さんの秘密の部屋」
 内緒話をするように、太田は声を潜めた。どことなく楽しそうだ。
「秘密の部屋?」
「別に秘密でもなんでもないのに」
「でもあそこ、秘密基地みたいですっごくドキドキしたよ?」
 語尾を上げながら太田が、ふふっ、と思い出すように笑う。
「太田さんもあの二人に内緒でこっそり使えば?」
「使っちゃおうかな。なんだか考えるだけでわくわくする」
 そこに木村が合流してきて、話は有耶無耶になった。

 その日の昼休み、リュックを持った彼女が無言で誘う。
 特別棟の入り口でIDを通し、通い慣れた廊下を進んでいく。技術室の脇の階段を上がり、ちょうどその真上になる小部屋に到着した。
「秘密の部屋?」
「秘密じゃないただの部屋」
 絢斗はようやく理解した。
「俺がこの下に通ってるの知ってたの?」
「講師の先生、声大きいでしょ」
「ああ、だな」
「三井くんよく怒鳴られてたでしょ」
「怒鳴ってるわけじゃないんだよ。あの人あれが普通なんだ。俺も最初むっとしたんだけど、そのうち悪気はないんだってわかって、気になんなくなった」
 作業中は換気のために冬でも窓を開けている。窓の外は教職員用の駐車場になっていることもあり、声を気にしたことはなかった。
「わたしと一緒に帰るせいで技術室に通えなくて、ごめん」
「ああ、三学期はあの人来ないんだよ。だからどっちにしてもまっすぐ帰ってた」
 リュックから弁当袋を出した戀は、手際よく弁当を広げていく。今日のおにぎりは炊き込みご飯だ。
「そうなんだ、そっか、よかった。本当はもっと早く訊かなきゃって思ってたんだけど、自分の感情優先しちゃった」
「感情?」
「三井くんのこともっと知りたかったし、一緒にいるの楽しかったし。ごめんねって思いながら、でも謝ったら一緒にいられなくなりそうで言えなかった」
 以前彼女が言っていた、自分のことしか考えていない、というのはこのことだったのか。絢斗は思わず笑ってしまった。
「結城、かわいいな」
「なんでそうなるの」
 むくれる彼女の顔が赤い。初めは赤くなることなんてなかったのに、耳が赤くなるようになって、今は頬を赤く染める。ただそれだけのことがこんなにも嬉しい。
「もし結城が放課後どこかに通っていたとして、俺と一緒に帰るためにそれをやめる必要があったとしたら、結城はどっちを優先する?」
 彼女が「うーん」と唸った。口元の笑みを誤魔化せていない。
「そこは俺って即答するところだろ」
 ふはは、とわざとらしさのない素の笑い声が簡素な部屋に響く。かわいくない笑い方なのにかわいい。

 弁当を食べ終わったあと、戀は何を話すでもなく木洩れ日の揺れる窓際で外をぼんやり眺めている。その表情はどこか満足そうで、気持ちよさそうにとろんと緩んでいる。
「人に紛れるの疲れる?」
「三井くんは疲れない?」
「俺あんま周りのこと考えてないから」
「そっか。わたし子供の頃から人の視線が気になってダメなんだよね」
 事故の被害者として、叔父に引き取られ、血の繋がりのない男に育てられる子供として、彼女は幼少期からよくも悪くも人目に曝されてきた。ある意味有名人の彼女は見た目の良さが余計に目に付く原因にもなり、中等部では常にイジメの標的だった。できるだけ目立たないよう、服装や髪型に気を付けて、周りが当たり前にしているメイクすらしない。「それでもあんだけ美人なんだからどうしたって目に付くんだろうな」と黒田は溜め息混じりに言っていた。「付き合うんならちゃんと守ってやりなよ」とも。
 他人の前での強張った表情と絢斗と二人でいるときの緩んだ表情。
「気持ちよさそうだな」
「んー、気持ちいいよ」
 ぐっと腕を天井に向けて伸びをする彼女は「あんまり気持ちいいと眠くなる」と笑っている。
「そういえば、三井くん来年どうするの? 進学組?」
「留学組にしようと思ってる。結城は? 芸能組?」
 彼女のように進学しない生徒は芸能クラスに入れられる。芸能クラスといっても海音のように芸能活動をしている生徒というよりは、美大や音大を目指す生徒が中心だ。進学、留学、芸能の各クラスで授業の内容は大きく異なる。
「わたしも留学組にしようかな。バカっぽい自分探しの旅に出るなら、もう少し語学力上げないと」
「要するに、俺と同じクラスになりたいってことだろ?」
「だから、その言い方充くんみたいで嫌なんだってば」
「結城も真似するくせに」
「わたしはいいの。でも人にやられるとなんか無性にむかつくの」
「なにそのわがまま」
「わがままだもん、わたし」
 ふと、彼女は本当にわがままを言ったことがあるのか、そんな疑問が絢斗の中に浮かんだ。
「結城、休みの日とか会わなくていいの?」
 虚を衝かれたような顔をした彼女は、ゆっくりと眉を寄せていき、しばらく悩んでいたかと思ったら、潜めるような声で訊いてきた。
「会えるの?」
「会えるよ。なんだよ、早く言えよ。結城バイトしてるとか言っていたし、なんだかんだ用があるみたいだったから……」
「三井くんだって、休みの日は自分の時間がほしいかなって……」
 お互いに遠慮していただけなのかと思うと、馬鹿馬鹿しくなる。
「じゃあ、何がしたい? どっか行く?」
「んー……三井くんが何かしてるの見ていたいかも」
「何かしてるって、なんか作ってるところ?」
「うん。別に何もしてなくてもいいんだけど、ただ一緒にいたいっていうか……」
 どんどん声が小さくなるにつれ、彼女の顔がみるみる赤くなっていく。
「結城さ、もっと思ってること言ってもいいから。俺たぶん、結城に言われたこと全部叶えたいって思うから」
 彼女が顔を赤らめたままふと真顔になった。
「そういうのはちょっと危険じゃない? 自分がなくなるよ?」
「なくなると思う? 俺だよ?」
「あっ、そっか。わたしそういう三井くんだから声かけたんだった」
「そういう?」
「何があっても自分を見失わない人」
「そんなことない。俺結構ダメ人間だよ」
 買いかぶりすぎだ。
「そんなことないと思うけど。もしそうだとしても、わたしがそう思ってるんだからいいの」
 彼女は変なところで強情だ。信念を曲げないのは彼女の方だ。
「できるだけそうあるよう心掛けるけど……」
「いいの。今の三井くんがいいの。そのままがいいの」
 どんな殺し文句だ。それでいて彼女はごく当たり前のことを言ったかのように平然としている。彼女の背後で木洩れ日が揺れる。

 部屋の隅に付けられた手洗い用の小さな洗面器で互いに歯を磨き、彼女は小さな容器に入ったリップバームを薬指の先で唇に塗った。その何気ない仕草が絢斗の目を奪う。
 触りたい。さすがに手を触るように触れていい場所ではない。わかっていても触れてみたい。
「結城、唇触っていい?」
「だめ。ここ防犯カメラあるから」
「ここじゃなきゃいいの?」
「触るだけなら」
 触るだけでいいのか。絢斗は今まで感じたことのない違和感に気付いた。
「触るだけは、無理かも」
「だったらなおさら、人目のあるところは嫌だよ」
 やけに冷静な彼女に、絢斗は我に返る。自分を見失わないなんて、どう考えても買いかぶりだ。
「三井くんはときどき大胆だから困る」
 恥ずかしそうに目を伏せた彼女は、不意に顔を上げ、真っ直ぐに絢斗を見てほんの少し首をかたむけた。
「今日、うちに寄っていく?」
 彼女はときどき大胆で困る。