夜も昼も
降っても晴れても
13 戀、目覚めを見る降っても晴れても
「おはよ」
いつものように片手を上げた彼の唇に戀の視線は惹きつけられた。寒さにけぶる白い呼気。彼の唇がすーっとクローズアップしてくる。
誘った自覚はある。
初めてのキスは、唇が合わさるだけですぐに離れていくものだと思っていた。少なくとも戀が今まで目にしてきた恋愛モノではそうだったはずだ。
三井 絢斗は、三井 絢斗だった。本当にブレない。
唇が合わさったあと、それはもう執拗に感触を確かめられた。唇で唇を軽くつままれたり、食まれたり、吸い付かれたり、なぞられたり。唇が触れ合うだけにしてはとんでもなく濃いキスだった。
息を止めていた戀は腕をつっぱらせて距離を取り、なんとか息を継いだところで再び口を塞がれ、唇を啄まれながら「鼻で息して」という彼の言葉に従い、彼に鼻息がかからないよう、なんとか浅い息で呼吸を繋いだ。
彼はずいぶんと長い時間、戀の唇の感触を確かめていた。浅い呼吸を繰り返していた戀はこれまで感じたことのない倦怠感にぐったりしたほどだ。
「結城の唇すごいな。気持ちよすぎる」
ようやく唇が離れたあとで彼に言われた一言は、どの意味で気持ちよかったのかを訊いたら負けな気がして、戀はその真意を訊けないままだ。
「ああ、よかった。唇、元に戻ってる」
いつものように手を取られて、ようやく彼の唇から意識が剥がれた。
「そういうこと言わないでってば」
本来であればすぐに元に戻るはずの戀の唇は、彼の執拗な確認のせいでぽってり腫れていたらしい。そんなみっともない唇を見られていたことに、戀は少なからず傷付いていた。
「色っぽかったのに」
色っぽかったのは彼の方だ。夢中で戀の唇の感触を確かめている彼は、それでもどこが冷静で、その冷静さが戀には彼独特の色気のように感じられた。
「そんなふうに思うの三井くんだけだから」
「そうかなあ。だとしても俺がそう思ってるんだからいいんじゃないの?」
「わたしは嫌なの。なんか、すごくブスだったもん」
彼が帰ったあとで鏡を見たら、腫れのひき始めた唇は泣きたくなるほど不細工だった。
「ブスじゃない。あれはかなり、エ……かわいかった」
「今エロかったって言おうとしたでしょ」
「してない。きれいだったって話だろ」
「違う話になってるから」
「嫌だった?」
彼の不安そうな表情を見て、むっとしていた戀は慌てて首を振った。
「嫌じゃないけど、いきなりだったからびっくりしただけ。今もびっくりしたままなだけ」
唇に残る感触がいつまでたっても消えない。今もまだじんじんと熱を持ったままのような気がして仕方がない。
「三井くんって、経験ありの人?」
「あったらもう少し上手くやってるよ。少なくとも結城をびっくりさせない程度には」
妙な説得力に、戀は笑うしかない。
「そっか、だよね。さすがに初めてはもう少し爽やかな感じがよかった」
「次は爽やかを心掛ける」
「三井くんの場合、たぶん無理だから」
「俺もそう思う」
三井 絢斗は三井 絢斗である。
彼は今日も変わらずポケットの中で戀の手の感触を確かめている。戀は痛みのない熱を持て余している。
今朝方、平年よりずっと遅い初雪が降った。
あたりを真っ白に覆い隠す雪は毎年戀をわくわくさせてくれるのに、今年は前日のキスの余韻が強すぎて年に一度あるかないかの景色も遠退いてしまう。
無言で隣を歩く彼はなんとなく機嫌がよく、戀同様、ただキスをしただけなのに何もかもが色鮮やかに見えているのかもしれない。このふわふわと浮き立つような感覚も、あっという間に地に馴染んで消える雪のように、いつしか慣れてしまうのだろうか。なんだかひどく勿体ない気がする。
「おはよー」
合流した太田が絢斗と戀を見比べて、ん? と首を傾げたあと、ふふっ、と意味深に笑った。
「二人とも、なにかしちゃいましたって顔してるから、一回深呼吸した方がいいよ」
ぎょっとした戀に太田は平然と微笑んでいる。なぜか絢斗は素直に深呼吸している。太田の言い方には嫌味がないせいか、戀も言われるがまま深呼吸した。
太田には年の離れた彼がいるらしい。木村が何かにつけて「いいなあ、大人の彼」と羨ましがるのだ。
「そんなにわかりやすかった?」
「どうかな。見る人が見ればわかる程度? でも結城さんはいきなり雰囲気がかわいい感じになってるし、三井くんはいつになくご機嫌だし、黒田くんや雑賀くんあたりは、なんかあったなってわかるんじゃないかな」
「そっか。ありがと。気を付ける」
太田の洞察力に舌を巻いた戀がそう言ったところで、目の端に木村が映った。そのまま気付かない振りをしていると、彼女はいきなり絢斗に勢いよく肩をぶつけてきた。
「いっ! てーえ。なんだよ木村、びっくりするだろ」
「おっはよー。びっくりした?」
悪戯が成功したとばかりに機嫌よく笑う木村に、呆れ混じりの太田が「ちょっと子供っぽいよ」とやり返すように木村に肩をぶつけていた。
三学期の期末試験は一年の総ざらいになり、試験範囲が広範囲に及ぶ。しかも赤点の年次累計三つで容赦なく留年させられるため、二月末の試験に向けて一月も半ばを過ぎると誰もが必死になる。
「なあ結城、俺さ、今週末幸太さんに泊まり込みで勉強教えてもらってもいいと思う?」
その期末試験をひと月後に控えた帰り道、木村と駅で別れ、太田とも別れた直後のことだった。
「直接本人に訊けば?」
「訊いたらココがいいって言ったらねって」
「わたしが嫌だって言うわけないのに」
「俺マンツーマンがいいんだけど……」
「ええっ、それは困る。わたしもどっちかといえば幸ちゃん頼みなのに」
「悪い、今週は譲って。本当は冬休みに教えて貰うはずだったんだけど、なんだかんだで無理だったから。本当悪い。頼む」
繋いでない方の手で拝むように頼まれては嫌とは言えない。が、戀も決して頭がいいわけではないのだ。
「そんなに厳しいの?」
「一学期の期末に赤一つ」
この学校では五十点以下が赤点だ。
「うそ」
「本当。充さんには来週末お願いしてる。結城は赤なんかとったことないだろ?」
「ないけど……」
「今回だって自力でいけるだろ?」
「いけると思うけど……」
「俺と同じクラスになりたいだろ?」
「うわー、今の最低」
戀が目を細めて顎を引くと、彼は開き直ったのか無表情に笑った。目が死んでいる。
「今は最低でもいい。万が一をなんとしても排除したい」
「留学組は英語の成績重視されるけど、そこは平気なの? 振り分け面談英語だよ」
芸能クラスと留学クラスには、進学クラスにはない面接試験がある。特殊な授業形態となるため、事前に適性を確認されるのだ。ここで弾かれると強制的に進学クラスに入れられる。
「充さんからは一日一本字幕なしで映画見ろって言われてる。あと常に英語のニュース聞いて言葉のリズムを覚えろって。とにかく耳を慣らせって」
「ああ、わたしは英語の字幕表示しながら発音真似たりしてる。どうせ観るなら最初はキッズ映画の方がいいよ。比較的言葉がきれいでわかりやすいから。今はスラングとか覚えても仕方ないし」
「がー!」
いきなり絢斗が空に向かって吠えた。
「俺アクション系ばっか観てたわ。しかも次々別の観てた」
「覚えにくくない?」
「罵り語だけは完璧」
「最悪な勉強法だね」
その週末、絢斗は余程焦っているのか、朝早くから寝袋持参でやってきた。
「幸ちゃんまだ寝てるんだよ」
充に言われて幸太を起こしに来たものの、起きる気配がない。躰を揺すればそっぽを向かれ、デコピンすれば威嚇のように唸られ、布団を剥ごうとすれば猿のようにしがみつく始末。いい大人がみっともない、と文句を言おうが聞こえないふりだ。幸太は昔から寝起きが悪く、三十分も格闘している間に、絢斗が先に到着してしまった。
「先に朝ご飯食べよ。食べた?」
「軽く食べたけど腹は減ってる」
「三井くんのお腹ってわりと無限だよね」
「成長期なもんで」
「まだ背伸びてるの?」
「結城止まったの?」
「今年は一センチも伸びてなかった。もはや誤差かも」
「ああ、身長測る前に背伸びするとちょっと伸びるってやつだろ。黒田が必ずやってる」
「黒田くんだって低いわけじゃないのに」
「黒田的には低いんだろ。俺や海音が高めだから余計に気になるんだろうし」
階段を上ってリビングに入ると、キッチンで朝ご飯を用意していた充が「よっ」と絢斗に挨拶する。
「今週と来週、よろしくお願いします」
絢斗がきっちり頭を下げると、充が満更でもなさそうに「おう」と返した。
朝食を彼と一緒に食べている風景がなんだか新鮮で、いつもより食卓が明るく見える。あんまり食べ過ぎると眠くなるぞ、と言う充に、こんな本気の朝食食べたことない、と絢斗は感心しきりだ。充が作る朝食は旅館のそれを参考にしているらしく、古式ゆかしい朝餉なのだとか。戀はおいしければなんでもいい。
のっそりと起きてきた幸太に「あれ、早すぎじゃない?」と言われた彼は、むすっとしながら「もう九時半ですよ」と言い返していた。ちなみに絢斗が来たのは登校時間より十分遅い八時だ。
さっそくわからないことを質問し始めた絢斗を幸太はあくびをしながら遮り、「飯食わして」と言い出した。
戀はさすがにむっとして口を挟んだ。
「幸ちゃん、ご飯食べながらでも教えられるでしょ? 三井くん、ずっと待ってたんだよ?」
「あのねえココ、僕だって毎日一生懸命働いて疲れてるの。久しぶりの休みくらいゆっくりしたいの」
「だったら約束しなきゃいいでしょ。三井くんちゃんと八時に行ってもいいですかって、事前に確認してるんでしょ?」
「そうだっけ」
「そうですよ。お好きにどうぞって返してきたじゃないですか」
絢斗の背後で充も「そうだそうだー」と面白がって加勢する。
「そうだっけ」
「幸ちゃん!」
あーはいはい、と言いながら幸太が絢斗のタブレットを覗き込んだ。
二人は本当にみっちり、それこそ中等部の基礎レベルからおさらいをしていった。一時間半集中して三十分休むを繰り返し、不安なところは基礎に戻ってもう一度確認している。
戀は充と一緒にざっと一年分を見返し、特に不安な部分だけを重点的にチェックした。
少し遅いお昼の時点で「俺、目覚めるかも」と言っていた彼は、夕食の時点で「俺、目覚めたかも」と言い出し、戀と充がお休みを言う頃には、「俺覚醒中」と目をらんらんとさせ、充がバカ笑いしていた。
翌朝、戀がリビングに顔を出すと、ソファーとローテーブルの間に転がっていた寝袋で彼が爆睡していた。そのおでこにはかっと見開かれた第三の目がやけにリアルに描かれている。
「今日は幸太も絢斗も昼まで起きそうにないな」
「あの目描いたの充くんでしょ」
「あいつが鏡見たときのリアクション、絶対に見逃すなよ」
「そういう子供っぽいことするのやめなよ」
「にやにやしながら言われてもねえ」
戀は充とこそこそ言い合いながら適当な食材を静かにキッチンから持ち出し、彼の睡眠を邪魔しないよう戀の部屋で簡単に朝食を済ませ、今か今かと彼の目覚めを待った。
「検査、絢斗も一緒に行ってるんだって?」
「ああ、そう。大きな病院に行ったことなかったみたいで興味あるって」
「変わってるね。僕は病院嫌いだなー」
「わたしだって。そもそも好きな人いる?」
「好きなんじゃないの? そう何回もついて行くってことは」
「興味があるのと好きは違うでしょ」
「普通好きだから興味あるんじゃないの?」
「三井くん、ちょっと普通っぽくないから。興味と好きがイコールじゃない気がする」
戀はもぞもぞと芋虫のように寝返りを打つ彼のおでこが気になって仕方がない。
「戀のことは? 興味なの? 好きなの?」
「どうなんだろ」
「そこは好きって答えるところじゃないの?」
「それ! 最近三井くんが充くんと同じ言い方するんだよ。ちょっとやだ」
「やだってなんだよ。絢斗の背後に僕の影」
「それ最悪だから」
「戀さん、僕はファザコンを推奨します」
「絶対に嫌です」
おはよー、と起きてきた幸太がぬぼーっとした声で「起きろー」と寝袋の絢斗を足で軽く揺らす。
「幸ちゃん、足はダメ」
「女の子に足はダメだけど、男はいいの」
おはよざいます、と寝ぼけ眼の絢斗を見た幸太が目が覚めましたと言わんばかりに目を見開いて、一瞬充に視線を投げるとにんまり笑いながら「ほら戀が見てるよ、百年の恋も冷めるからさっさと顔洗って」と彼を洗面所に急き立てた。
彼はゆっくり伸びをして、もぞもぞと寝袋から抜け出し、あくびをしながらのっそり立ち上がると、半分目を瞑ったままふらふらと洗面所に向かった。
三人で耳を澄ませる。間延びしたあくび声のあと、水音が聞こえてきた。
「ここにある洗顔使ってもいいすかー」
洗面所からまったりした声が響く。洗面所はLDKのすぐ隣にあり、どうやら彼はドアを開けたまま顔を洗っているらしい。
「いいよー」
充が笑いを堪えながら答えると、しばらくして顔を洗い流している音が聞こえてきた。
「嘘だろ、まさか気付いてない?」
「あんなにはっきり描いてあったのに? やけにリアルだったのに?」
充と幸太が、信じがたい、と驚いている横で、戀は笑いを堪えていた。
三井 絢斗はどんなときでも三井 絢斗だ。彼は自分の顔に興味がない。