虚空の鼓動
其の壱拾壱


(おに)とは、角が生えて、牙や爪の長い、異形のものだとばかり思い込んでおりました」
 朝晩の冷えがぐっと和らぎ、白々とした月影も心なしか温かく感じるようになった朝餉の終わり。奏のしみじみとした一言に白と青は顔を見合わせた。
「それは下界に棲まうもののことでしょうな」
 青の言葉に首を傾げた奏は、目の前に運ばれてきた苺を口に含む。
 この界の()たちに角はない。鬼歯はあれどそれは人の持つそれよりもわずかに鋭いだけ。
 元々は人の赤子が変じたものであり、人と変わらない姿をしている。肆の美鬼である青は人として成長したのちに鬼へと変じているため、より人に近い。
「濁り水を想像してご覧なさい」
 そう言って青が語り出したのは、それぞれの界についてだった。

 濁り水をしばらくおくとできる、上澄みが鬼の界、澱みが下界、その真ん中の濁りが人の界。
 人の界には上澄みも澱みも混ざり合っているため、それぞれの界からの干渉を受けやすい。

 それを聞いた奏は、なるほど、人の世の謂われもまんざら見当違いということもないのだ、と思う。
 それまで奏は、神とは清浄な存在であり、(おに)を始めとする異形のものたちは不浄の存在だと聞かされて育った。とはいえ、どちらも実在することなど考えもしないほど遠い存在であり、祖母や母の語る夜話の中に登場するだけの曖昧なものであった。
 それらが実在し、あまつさえ、人の世では神と呼ばれるものたちが、その実、()という、(おに)と同じ文字を持つ存在。
 奏にはそこがよくわからなかった。
「さあて。どこかで人が勘違いでもしたのでしょうな」
 奏の問いに、青はあまり興味がないのか空とぼけた。代わりに白が口を開く。
「人は単に、これまで見たことのないものをまるごと鬼という文字で表したのでしょう」
 最初に出遭ったのが()であり、それが変じて(おに)となったか、そのまた逆であったのか、どしらにしても、いつしか一緒くたになったのではないか、と白は言う。()は人の都合で神とも邪とも呼ばれている、とも言う。実際奏の知る夜話の中にも、神が邪になった話がいくつかあった。邪が神になる話もある。邪神という言葉はそれをよく表している。
 白も青も、その存在の違いまではわからない。人と鬼の違いがわからないように、()(おに)の違いも単に界が違う存在だとしか思っていない。
 そう聞かされた奏は、奏自身もわからないゆえに、そういうものだと思うことにした。
「では、()(おに)、どちらが強いのでしょう」
 奏の問いに青は考えるような仕草を見せた。
「さあて。互いに干渉できぬ存在ゆえ、どちらが強いかはわかりませぬなあ。どちらにも干渉できるのが人であるとすれば、人が一番強いということになりましょうなあ」
 食後の茶を啜りながらの青の言い様に、奏はその目を丸くする。
 一番弱いと思っていた人が、一番強いかもしれないとは。訊いてみなければわからないものだと、奏は妙に感心しながら、白に手渡された湯飲みから茶を啜った。



 弐の美鬼に続き、壱の美鬼、参の美鬼がそれぞれ間をおいて白を訪ね、真名を告げた。
 その度に奏も同席し、知ろうとも思わない真名を次々に得ていく。
 壱の美鬼は(らん)
 参の美鬼は(そう)
 美鬼たちの中にあって一番色濃く鮮やかなのは肆の美鬼である青だ。一番力が強い証でもある。美鬼の中で一番の年長は当然肆の美鬼であるが、ついで年長であるのは参の美鬼で、一番力のある弐の美鬼が美鬼の中では一番の年少で、参の美鬼の年の半分である。
 とはいえ、奏から見ればどの美鬼も一様に若い。奏よりは年上に見えるが、父よりはずっと若く、見た目だけで鬼たちの年を推し量ることはできない。参の美鬼と弐の美鬼が並んだところで奏には同じ年頃に見える。
 奏の知る鬼たちは総じて白銀の中に色を持つ。美鬼たちは青。剛鬼たちは赤。我鬼たちは緑。
 白たちが域と呼ぶこの鬼の国には、その三種の鬼が存在している。別の国には、また別の鬼が存在しており、その有り様は様々なのだと奏は教わった。

 美鬼たちが白を鬼神として認めたことは、剛鬼や我鬼の耳にも入っていた。
 我鬼たちはさして興味を持たず、なるようになればよいと傍観する一方で、剛鬼たちは反発した。反発はするものの特に何をするでもなく、ただ認められないと言い張るだけで、それまでと変わらず過ごしている。
 長の寄り合いには相も変わらず青が白の名代として顔を出す。それがまた剛鬼たちは気にくわない。気にくわないもののそう口にするだけでやはり何をするわけでもない。
「あれはただの悪あがきというもの。我鬼などは面白がって、剛鬼が認めたら認めてあげる、そう笑いおったわ。あのクソガキ共が」
 口汚く罵る青となんとも言えぬ顔の白の間で、奏はどうしてよいやらわからずただ黙したままふた鬼がそれぞれ深く息を吐く様を眺めるよりほかなかった。



 ところが、そう暢気に構えていられない事態が起きた。

「参の剛鬼がなにやら直接相談したいことがあるらしい」
 白の名代で出掛けた長の寄り合いから戻った青がそう言って、その翌朝には思案顔で出掛けていったと思ったら、夕刻には間違えて渋柿を口に入れたような顔で戻って来た。
 青のただならぬ様子に、白も奏も肆の美鬼が口を開くのをただじっと待った。

 むっと考え込むようにきつく目を閉じている青と、静かに目を閉じ青の言を待つ白。座卓に向かい合うふた鬼の呼気の音まで聞こえてきそうな静寂(しじま)の中、奏はすぐ隣に座る白の膝を盗み見ていた。
 今日の白の着物は淡黄の紬だ。奏も同じ紬の柳色。奏が選んだ。奏にしてみれば上等な着物だが、白が言うには平服らしい。たしかに、奏に用意されていたあの屋敷で袖を通していたのはさらに豪華な総柄だった。

 青も離れに住むようになると、屋敷では白と同じように着流し姿となった。それまでは(ほう)とよばれる衣を身に着けていた。これは長の寄り合いや、奏の選択の場で鬼たちが着ていた黒装束と同じのもで、鬼たちの正装らしい。真名を告げてビャクの屋敷を訪ねてきた美鬼たちもこの袍を身に纏っていた。最上が黒、それ以外では好きな色を身に纏うようで、白は雪色、青は熟れた柿のような色を好んでいる。
 青曰く、美鬼たちは様々な色が織り込まれた錦を好み、剛鬼たちは一つ覚えのように赤を好む。餓鬼たちはそのときの気分で様々な色を選ぶようだ。

 ふと空気が動いた。
「協定が持ちかけられておるようでな」
 青が目を閉じたまま口だけを動かした。
「一体なんの協定か」
 目を開けた白がもどかしげに訊く。
「同盟と言うておるようだが」
 奥歯に物が挟まったような青の物言いに白はまたもや焦れた。
「一体何処と」
「唐渡之洲」
「ああ、それで参の剛鬼……」
 ようやく納得した白は、次にむっと眉を寄せて青に鋭く問うた。
「詰まるところは」
「助けてくれということであろう」
 目を開けた青の苦々しい表情を見れば、好ましい話ではないことくらい奏にもわかる。

 青が出掛けたあと、奏は白から参の剛鬼の場が北にある大きな島、北州に絆されているのだと聞かされた。鬼たちの場や域は人の棲む大陸や島に繋がっているのだと白は言う。
 奏の暮らす国は四つの大きな島とその周りに散らばるたくさんの島から成り立っている。白の場は最も大きな島である本州の中程に絆され、青は場を持たないことも同時に聞かされた。奏が暮らしていた村は本州の南寄りの山の中だと教わった。

 何より奏が改めて驚いたのは、鬼たちも奏と同じ言葉を話し、同じ文字を書く。鬼たちには鬼たちの言葉があるわけではなく、彼らは絆された人の界に倣って読み書きを覚える。おそらく歴代の肆の美鬼が人の界の有り様を鬼の界の持ち込んだのではないか、と白は考えているようだった。

 奏の村では誰もが当たり前に読み書きできた。それはとても誇らしいことなのだと祖母は常々口にしていた。
 奏は両親から読み書きを習った。昔語りをよく知る母と算用が得意な父。年に二度、村の外へ買い出しに行く父がもたらす村外の景色は、村から出たことのない母や奏たち弟妹にとって別世界の話だった。
 奏のいた村では男は女ほど産まれない。数少ない男は内男と呼ばれ、その中から長が選ばれる。内男らが外に買い出しに行くたびに、寄る辺のない働き者の男を村に誘い入り婿とする。奏の父もそうやって村に来た外男の一人だった。元は下級武士の末子だったという父は村で道場を開き、剣術を教えていた。算用が得意な上に腕も立つ父は、内男たちに混じって村の外に出る特異な外男の一人でもあった。奏には弟が二人いる。村では快挙だと喜ばれており、それもあって、父は外男の中でも一目置かれていたのだ。
 その父から知恵を授かるのは弟たちばかりで、奏や二人の妹は耳を塞いでいなければならなかった。女に知恵は必要ない。それが里のやり方だった。知恵よりも家々に伝わる歌を覚え、縁を結び、子を産み育てることこそ女の仕事──。

「奏」
 呼ばれた奏は隣に座る白を見上げた。
「考え事ですか」
「はい。ここに呼ばれてよかったと思っておりました」
 そう、奏はここに呼ばれて本当によかった。あのまま村にいたところで先は見えず、村を出て春をひさぐよりほか生きる道はなかったのだから。
「今代様はここにいることを良しとなさいますか」
 青の低く静かな声に、奏はその場で手をつき、深々と頭を下げた。
「心より感謝いたしております」
 奏が顔を上げたとき、白も青も呆気にとられたように目を丸くしていた。
 この鬼の界で奏は声を取り戻した。奏の意が聞き届けられ、鬼たちの話に混じることもあれば、彼らと対等に扱われる。奏にとってこれまでとは真逆の扱いは、己の無知によって居たたまれなさを感じることはあれど、それ以上に染み入るような喜びを湧き起こす。
 奏は一度きちんと礼を尽くすべきだと考えていた。
 奏はものを知らない。それは仕方のないことだ。それでも、父は下級とはいえ武家の生まれ、祖父は生前村長を務めていたこともあり、奏の家は他家よりも厳しかった。
 ふと見れば、白も青も呆けたように奏を見ていた。よもや不躾だったかと案じたところで、青が大きく息を吐いた。
「これは驚いた。口先だけの言葉ではないのがまた……。ビャクよ、よう見付けてきた」
 感極まった声を上げる青に、奏はおろおろと白を見上げる。いつの間にかまん丸だった白の目は驚くほど和らいでいた。
「鬼の界に連れて来られた女性(にょしょう)は、皆一様に恨みを心の内に飼っております。ゆえに口先だけでものを言う」青が静かに告げた。
 腹に一物抱えるのは女だけではないだろう。奏の考えを見透かすように青が続けた。
「鬼は、思うままを口にします」
 なるほどたしかに奏が知る限りの鬼たちはそうであった。違うのは目の前で折り目正しく座る青くらいなもので、その青は長じてから鬼となった特異な鬼だ。人と同じで腹に一物あってもおかしくない。
「女性、ということは、鬼の界に呼ばれる人は女に限られているのでしょうか」
「限られているわけではありませぬ。かつては男もおりましたが……男はどうにもいざとなると根性が据わらぬようでして、大抵は気狂いを起こして自らを殺めてしまうのです」
 青の淡々とした物言いは、青自身が知ることではなく伝え聞いたことであると暗に告げていた。
 恨み。奏にはない感情だ。しかしながら、その心情は汲める。
 もし奏が声をなくすことなく平穏に暮らしていたならば、もし奏に好いた男がいたならば、もし奏に子供がいたならば、やはり恨んでしまうだろう。
 おまけに奏は、二度と会えないと思っていた家族と毎朝顔を合わせている。恨むどころか感謝したいほどだ。とはいえ、もしほかの鬼を選んでいたならば、同じように家族の様子を窺うことはできなかったかもしれず、家族に会えない淋しさから恨んでしまったのかもしれない。
 そう考えると、奏が白を選んだことは僥倖であったと言える。
「白さまのもとに参りましたこと、奏は為合(しあ)わせに存じます」
 奏はもう一度丁寧に頭を下げる。父に何度も直され身に付けた礼の仕方。ここに来て以来結うことのなくなった髪がさらさらと肩を滑り落ちていった。