虚空の鼓動
其の拾


 その日、前触れもなく訪ねてきたのは弐の美鬼。
 青同様、真名を告げての来訪は、三人揃ってまったりと朝餉を口にしている真っ只中のことであった。
 白の「朝っぱらから面倒な」の一言に、その膝の上の奏はなんのことかと小首を傾げ、その正面に座る青は吹き出すのを堪えながら「待たせておけばいよい」と切って捨てた。

「改めて。(われ)は弐の美鬼、名は(ひょう)
 青のときと同じく畳敷きの応接間に通された弐の美鬼の名乗りに、奏はその真名を得た。弐の美鬼である縹の目が見開かれる。
 一部始終を面白そうに眺めていた青が縹に手を翳し、前のめりに口を開きかけた弐の美鬼を黙らせる。
 一番の上座に座らされた奏は、弐の美鬼の真名を得たことに尻が落ちつかず、分厚い座布団の上で身を小さくしていた。
「まずは、ヒョウ、何用か」
 どうやらこの場を仕切るのは奏より少し離れた右に座る青のようだ。奏と並ぶようにすぐ左に座る白は弐の美鬼を招き入れてからずっと口を閉ざしたまま。
 奏はなぜ自分までこの場に居なければならないのかと、己の立場を忘れ首を傾げていた。
「真名を告げたこと。それが全て」
 弐の美鬼が白を真っ直ぐに見据え、そう言い放った。
「余にはわからぬのう。しっかと申せ」
 青が意地悪くそう言うと、弐の美鬼は美しい顔を鬱陶しそうに歪めて青を睨み、再び白に目を向ける。
「お役目、返上いたしまする」
 背を正した弐の美鬼は、声高に宣言すると、白に向かって深々と頭を下げた。

 弐の美鬼にとって、この十全域を成したのが白であることは、改めて問うまでもなくわかっていたことであった。
 弐の美鬼は九全域を成せぬまでも、それに近い鬼力を持つ。当然、この十全域が白によって成されたこともわかっていた。わかってはいても、これまでそれを認めることがどうしてもできなかった。
 それが、先日青より稀代の鼓動を持つ娘と真名を交わしたと耳にした途端、どういう訳かそれをあっさりと認め、その下に侍ることを当然のことだと思うようになった。
 それは、鬼力が強いからこそ、はっきりと思い知ったこと。
 今も白を目の前にして、そのあまりにも凪いだ有り様に身震いする。
 十全域を成せるほどの力をまるで感じない。力を隠すことができるなど、どう考えてもそれは途方もないことだとしか思えない。為損ないと言われ続けた白の真の姿を思い浮かべるだけで、その計り知れなさに弐の美鬼、縹は畏れを抱く。

「我が美鬼一同は、ビャク様の下に侍ることを満場一致にて決し、ついては、我らが場をこの場に連ねていただけぬものかと」
「ほう。お願い、に来たのだな」
 またもや青の意地の悪い物言いに、弐の美鬼がぐっと顎を引く。そして、再び白に向かって頭を下げた。
「願い申し上げまする」
 白は小さく息を吐き、弐の美鬼に「この場では楽にしてかまいません」と告げた。

「それは助かる。もう、寄り合いでのあのわざとらしい口調も、いい加減面倒なんだよ」
 急にその口調を変えた弐の美鬼に、奏の目が丸くなる。
「美鬼たちは、時の先を好みますゆえ、その口調も本来は随分と砕けております」
 白の説明に、奏はただ驚くばかりだ。その恐ろしいほどの美しさゆえに威厳すら漂わせていた弐の美鬼の変わり様は、奏にしてみればわずかながらも親しみを覚えるものであった。
 そういえば、白も一度口調が変わったことがあった。もしかしたら白も、本来の口調は奏の知るものとは違うのかもしれない。できれば白にも本来の口調というもので話してほしいものだと、奏はぼんやりと考えていた。

「我らより我鬼どもの方が先好きだろうに」
 ふんと鼻を鳴らした縹の視線が、ひたと奏を見据えた。
 奏は慌てて目の前の弐の美鬼にその意識を戻す。すると縹はその視線を奏から白へと移した。
「で? 今代様が我が真名を得たのはどういうことなんだ。鬼の真名を得るなど、まさか今代様は人に在らざるものだったってことか」
「人に在りて真名を持つ、奇跡の存在、とでも言えばよいのか。のう、ビャクよ」
 あっさりとそう口にした青を白がぎろりと睨め付ければ、青はわざとらしく肩をすくめた。
「人に在りて真名を持つ、とは、なんだ、聞いたことがあるような……何だったか、ああ、思い出せん」
 ぶつぶつと呟きながら、天を仰いだ縹の姿は、その美しさゆえに奏には剽げて見えた。

「ということはなんだ、ビャクの与えた真名ではないということか?」
「いや、そうでもないようでな。ビャクが与えたからこそ、今代様はこの界に存在しておる」
 これには白も奏も驚いた。青が縹に向かって「お主わかるか?」と訊いているあたり、青もよくはわかっていないのだろう。
「まるで同じ真名を与えたということなのだと思えど、そのようなことが果たして可能か」
 青が改めて縹に問うた。
「いやいや、無理だろう。真名とはその本質を宿すもの。ビャクが今代様の本質を余さず識っているにしても、寸分違わず重ね合わせるなど──」
 そこまで言った縹の目が見開かれていく。
「まさか、真の鬼神か」
「やはり間違いないか」
 縹の言葉に、我が意を得たりと青が頷く。



 青と縹が辞した屋敷は、物音ひとつ聞こえない。
 じっと考え込んでいる白の横で、奏は白をただ眺めていた。

「奏は、まことの意味がわかりますか?」
 すぐ傍らから小さく聞こえてきた声に、奏は首を傾げながらもひとつ頷く。
「まことの姿を取り戻してあげるようにと祖母が言葉を残しております」
 白の目が見開かれていくのを、奏は不思議なものを見るかのように眺めていた。
「その取り戻し方は?」
 首を傾げた奏を見て、白は察する。
「わからないのですね」
 頷いた奏を見て、再び白は考え込んだ。

 まことを得る。それには奏の祖母によれば言霊を持つ者が関わっている。
 奏の様子を見る限り、白同様、その意味まではわからないようだ。

 白は、奏を見つけ出したことを思い出す。
 探し当てた稀代の鼓動は二つあった。

 一つは、先代と瓜二つの鼓動。快い律動に白は早々に見つけ出せたことを歓喜した。
 その一方で、どうしてもこれではないとの強い違和の感が胸を占める。どういうわけか己が胸は、違う、違う、これではない、と脈打つように訴える。
 先代がまだ健在であることを理由に、今一度人の界を隈無く探した。先代が生まれたより後の時から、儚むまでの時の間を。
 その期限が迫る中、まるで世俗から隠れるようにひっそりと存在していた小さな村でようやく奏を見付けた。
 たとえようもなく心地好い鼓動。先代とも、先に見付けた鼓動とも、同じであってまるで違う。何が違うのかはわからずも、ただ、そのたとえようもないほどの心地好さがまるで己のためにしつらえたかのように、寸分の狂いもなく躰の隅々にまで染み渡っていく。
 かつてない力の高ぶり。
 白は珍しく興奮を覚えていることに驚いた。
 間違いなく、これこそが稀代の鼓動。いや、奇跡の鼓動。

 その奇跡が白の隣でこっくりこっくりと船を漕いでいた。
 白が考え込んでいる間に暇を持て余し、ついには眠くなったのだろう。

 あのとき、先に見付けた鼓動を鬼の界に連れて来たならば、おそらく白は覚醒しなかったのではないか。もしくは覚醒したとしても、それはそれまでの鬼神と変わらない力であったのであろう。
 あのとき、胸が訴えたのはなんだったのか。

 白は眠ってしまった奏を抱え上げ、自室へと向かう。間近で打ち鳴る鼓動は、たとえようもなく心地好い。先代の鼓動のそばに在っても、これほどの高揚を覚えたことはなかった。
 他の長たちが十日に一度と訴えることも理解できる。この心地好さはくせになる。
 実際に、青や縹は、奏を目の前にするとその気が穏やかに澄んでいく。
 奏の鼓動は鬼力を整えてくれるばかりか、その澱みまでもが祓われる。先代の鼓動にはなかったことだ。



『ビャク』
 直接脳裏に話し掛けてきたのは、青だ。
 奏をベッドに寝かせ、その寝顔を一時眺めたあと、白は再び客間に戻った。
 勝手に客間で茶を啜っている青の前に腰をおろすと、白の前にも茶が現れる。
「なあ、ビャクよ。今代様をどこで見付けた?」
「どことは。もちろん人の界ですが」
「それはわかっておる。今代様は確かに人だ。だがな、少し気になる。何か変わったところはなかったか」
 青が鬼力で用意した茶を啜りながら、白は思いを巡らせる。巡らせながら青に問う。
「何か気がかりでも?」
「いや、ああもあっさりヒョウの真名を得られたことが気になってな。お主や余ならわかるのだが」
 その言い様に白は訝しんだ。
「私はともかく、肆の美鬼であるお主も、とは一体……」
「肆の美鬼は鬼神に沿うもの。そこらの鬼が真名を告げるのとは少々異なる。肆の美鬼が鬼神に真名を告げるとき、命ばかりか(はく)も差し出すことになる」
 目を見開く白に青は静かにひとつ頷いて見せた。
 白が鬼神となるべくして作られたことは明白だからこそ、鬼の界から人の界に移る際、何かあったときのために真名という繋がりを残そうとしたのだ、と青は言う。
 奏が白を主と定めたがために、肆の美鬼である青は、当代の間は大事が無い限りただむやみに時を過ごし、その後にくる次代に備える必要がある。それならば面白味のない鬼の界にいるよりは、人の界にて面白おかしく過ごそうと思っていたのだ、と青はからりと笑った。

「それがまさか、鬼の界の方が面白くなりそうだとはなぁ。生きているのか死んでいるのかわからぬこの状態も、悪くはないものだ」
 白は生まれながらに鬼だ。鬼という存在として生まれている。だが、青は違う。人として生きた上で鬼に変じた存在。その思いは計り知れない。
 青にとって人は生きた存在、鬼は死んだ存在に思えるのだろう。鼓動を持たぬことが死と同義であるのか、その答えを白は持たない。

「お主と真名を交わし合うておれば、今代様が我が真名を得られるのはわかる。だが、魄を差し出したわけでもないヒョウの真名をああもあっさり得たとなると、今代様はただのお人ではない」
「奏の暮らしていた村は、周りと比べるとひどく貧しく見え、それでいて便の悪いところにあえてつくられたようでもあり、それを人はなんと言ったか……」
「隠れ里か」
 それだ、と白は膝を打った。
 腕を組み、うーむと目を閉じ考え込んだ青を見て、白もまた考える。とはいえ、考えたところで白に人の世の何がわかるわけもなく、早々に思考を止め、手の中の茶をゆっくりと味わいながら、青の考えが纏まるのを待つことにした。
 それにしても、青の茶は旨い。青の用意する食事も旨い。白は少なからず口惜しい。

「余もな、全てを知るわけではない。真の鬼神の存在と、それについてのいくつかを知る程度だ」
 唐突にそう切り出した青は、腕を組み、考え込むように目を閉じたままだ。
「そこに、言霊を持つ者の存在がある」
 はっきりと口にした青に、白が訝しむ。以前は口にしなかったことだ。
「なに、十全域の外に、もうひとつ九全域を重ねてある。ここでのことは外には漏れぬ」
「そのようなこと、できるものなのか」
 不意に青が目を開け、驚く白を真っ直ぐに見据えた。
「真の鬼神と肆の美鬼が真名を交わしたからこそできること。真の鬼神は何としても守るべきものがある」
「それが、言霊を持つ者、奏の存在か」
 白の言葉に応えるように青はひとつ頷き、再び目を閉じた。

「言霊を持つ者は、人に在って人に在らざるもの、そう聞いておる。今代様のおわした村は、言霊を持つ一族の村であろう」
 先代のコウは、その一族から弾かれたものの末裔。弾かれたからこそ、その真実を青が知ることとなった。コウの祖先は、奏同様声をなくした者だったらしい。
「伝え聞いたことだと前置いて、コウ様が昔語りのように話してくださった。それが、言霊を持つ一族、ことあげの民のことであった。それは帝となる者にも秘して伝えられることだったゆえ、ひどく印象に残っていた」
「なるほど、帝となる者か」
「帝となる者だ」
 人の界の帝の即位は、十六になるその日に行われる。その直前に命を落とし、鬼となった青は、何を思って時を重ねてきたのか。先程の鬼は死と同義であるかのような言葉には、どれほどの重みがあるのか。白には想像することもできない。

「最後の頼みの綱に言霊がある、そう秘密裏に伝えられる。だがそれも、ことあげの民を見つけ出すことができればの話。さらに、その中にあって言霊を持つ者は一代に一人出るか出ないか、しかもその力は弱いと聞く」
 確かに白も、奏からその程度のことだと聞いている。
「その程度であれば、己の力でなんとかすればよかろう」
「それでも縋らねばならぬ時が人の世にはある」
 顔をしかめる青に、白は「人の世のことはよくわからぬ」と答えた。青もまた「鬼力を持つ者にはわからぬことよ」と答え、「だからこそ、人の世は面白い」とも続けた。
「ただ、もうひとつ、まことしやかに伝わることがある」
 そこまで言って、青はようやく空の果てのような青い目を開けた。
「真の言霊を持つ者は、世を覆すほどの力を持つ」
 目を見張る白に、青はひとつ頷いて見せた。
「我らが絆す国は、言霊の(さきは)ふ国とも呼ばれておる」