虚空の鼓動
其の壱拾弐


 仕草が愛らしいゆえ──。
 先だって、奏が白に礼を言ったあとで青が何気なく言ったひと言である。奏はこの前後に青が何を口にしていたかを思い出せないほど、このひと言が小骨のように胸に刺さっていた。愛らしい、とは幼子に向ける言葉であって年頃の娘に向ける言葉ではない。
 奏はようやく子供扱いされるわけが見えた気がした。
 奏はこの鬼の界に来るまで声を無くしていた。それゆえ、意思の疎通は身振り手振りで行うよりほかなく、頷く、かぶりを振る、首を傾げる、ちょっとした手振り身振りなどなど、子供には許されても年頃の娘であれば許されない所作が身に付いてしまっていた。声が出るようになってからもその染み付いた仕草が習いとなり、特に指摘されることも自ら悟ることもないままこの日まで来てしまったのだ。
 おまけに、まだまだ奏の思う通りに舌が動いてくれないことも多々あり、それも幼さを強める一端なのであろう。
 はぁ、と音に出して息を吐く。吐いてから、これもはしたない仕草だと奏は眉を寄せた。

 青と白は奏を屋敷に残して参の剛鬼の場に出掛けていった。徒や馬ではなく鬼力で飛ぶのだという。出掛けにそれを聞いたとき、見送る奏は頭の芯がくらりと揺れたような気がした。
 真の契りを交わし合ったゆえか、誰もいない屋敷は以前は覚えた余所余所しさを見事に隠し、目映い月明かりが清々しく射し込んでいる。

 気を揉んでいても仕方がないと、奏は家中を清めることにした。白が好むため普段は下ろしている髪を髪挿しでまとめる。奏の村の女は誰もが髪挿しで髪を一つにまとめていた。村の女にとって髪挿しは唯一の装飾品であり、木肌の美しい枝を探して丁寧に樹皮を外し、滑らかに削って自分だけのものを作る。髪挿しだけではなく髪のまとめ方をそれぞれに工夫するのが女たちのささやかな楽しみでもあった。
 中庭を散歩している際に小枝を拾い、白にそれを話したところ、鬼力によって木目が美しい滑らかな髪挿しへと変じさせたのである。それ以来、奏はこの髪挿しを大切に使ってきた。

 奏はひとまず広縁の乾拭きまでを済ませると、中食にと用意されていた団子を頬張り、次にそれぞれの座敷や板の間も丁寧に拭き上げていく。白の屋敷はひと間がやたらと大きい。一番狭い畳敷きの応接間ですら畳が十二も並んでいる。しかもその畳は奏が知る畳よりも二回りほど大きい。大柄な鬼たちにすればこれでも狭いと感じるようで、弐の美鬼など暇の際に悪びれもせず「狭い」と文句を言っていた。

 気付けば月明かりが淡くなりかけていた。
 奏は白を想った。繋がりに変わったところはない。ときおり白の思いのようなものが一縷、薄ぼんやりと流れ込むことがある。快か不快くらいしかわからないにしても、屋敷にいるときよりも不快に傾いているようで気にかかる。とはいえ、明らかな不快ではないのだから、そこまで気にすることでもないのだろう。余程青が離れに居着いたときの方が厭わしげであった。

 奏はたすきを解き、まとめ髪から髪挿しを引き抜いて胸元に収め、ぼんやりと広縁の端に座り込んだ。
 庭は春爛漫だ。そこかしこでつぼみが綻んでいる。どこから吹いてくるのか、そよぐ風が花と青葉の香りを運んできた。清水の立てる涼やかな音が染み入るように響いている。

 はさっ、とかすかな音がした。

 中庭の端に生える青桐の枝に、大層大きな鳥が留まっていた。緑がかった木肌が珍しく、名前を教わったばかりの木だ。
 見たことのない鳥が微動だにせず奏をまじまじと眺めている。奏も驚きから目が逸らせない。この界において、奏が鬼以外の生き物を見たのは初めてである。庭鳥(にわつとり)のようなとさかに鷺のように長い首、錦の翼が風流と言えば風流だが、派手と言えば派手だ。これほど色鮮やかな鳥など奏はこれまで目にしたことがない。
 ふと奏は以前父が話していた傾奇者(かぶきもの)を思い出した。

「ただいま戻りました」
 白の声だ。奏は目の前の傾いた鳥のことなど忘れて、玄関へと急いだ。
 鬼の界では洗足の必要はない。白の足袋は出掛けていったときと同じだけ白い。白が鬼力で清めているのか、鬼の界では土埃は立たないのか、そもそもたいして歩くことすらないのかもしれない。
「ようこそおかえりなさいました」
 見るからに疲れた顔をしている白と、珍しく母屋の玄関に戻った青は奏の姿に目元を緩めると、揃って同じことを口にした。
「何か変わりはありませんでしたか」
 奏は今し方庭にいた鳥のことを思い出し、まだいるのではないかとふた鬼をせっついた。
「見たことのない傾奇鳥です」
 青が声を上げて笑い出した。
「傾奇鳥とは、いやいや、よくぞ言った」
 すでに鳥の姿はなかった。
「セイさまはどのような鳥かご存じなのですか」
 結局、青はおじさまと呼ばれることを赤子がむずかるように大人げなく嫌がり、奏が白の許しを得たこともあり、様付けを許している。
「鬼の界に鳥は一種しかおりません」
 青の代わりに白が答えた。
「あのやたらと大きくて」
 念のためにと鳥の姿を述べる奏に白はひとつ頷きを返す。
「とさかのある首の長い五色の鳥ですね」
「そうです。やたらと大きいのに、やけに細い枝に軽々と留まっておりました」
「留まっていたのはあの木でしょう」
 白の手先が示すのは、まさにあの傾奇鳥が留まっていた青桐の木だった。
「よくおわかりに」
 奏は目を丸くする。
「あの鳥はあの木にしか留まらないのです」
 感心する奏に白が続けた。
「あの鳥には名がありません。人の界では朋と呼ばれていますが、あれ自身がその名を嫌っております。かといって誰が名付けるでもなく、どのみちこの界に鳥はあれしかおりませんゆえ、鳥と言ったらあれを指します」
「鳥が、名を嫌うのですか」
 奏は小首を傾げそうになり慌てて止める。
「朋と呼ぶと突かれます」
 言葉がわかる鳥とは、なんと面妖な。ふと奏は思い出した。人ではないものが言葉を解する、それすなわち物の怪である。キエ婆の戒めだ。キエの家系は代々薬師(くすし)で、山の奥に分け入って生薬のもとになる野草などを探している。山には物の怪がおる、とことあるごとに口にしていた。

 その日の夕餉は焼き鳥だった。青が傾奇鳥で思い付いたとかなんとか。
 奏の村では獣肉を食すことが禁忌ではなかった。父の暮らしていた城下では禁忌とされていたために、初めこそ頑なに口にしなかった父も、周りが当たり前に口にする様子に驚き、滋養によいという薬師家の勧めもあって、意を決したように口にしたのだと母に聞いたことがある。奏の知る父は肉をよく好んだ。
「この肉はもしやあの傾奇鳥でしょうか」
「まさか。鶏です」
 珍しく白から串ごと渡された奏は、「焼き鳥は串から食べるのが流儀です」という白の勧めもあって、はしたないと思いつつも、白や青の食べ方を真似た。口内に香ばしさが広がる。
「今代様はあれの肉を食べたいと思われますか」
「いえ、さすがにあそこまで派手派手しいと……」
 言葉を濁す奏に青が声を上げてからから笑う。どうやら青は余程あの鳥を好かないようだ。

「さて。今代様、少々よろしいですか」
 食後の茶を淹れ終わったところで青が声を上げた。すでに膳は白の鬼力で下げられている。奏は小首を傾げそうになり慌てて止める。代わりに背を正し「なんでしょう」と声に出して答えた。
 居間に置かれているやけに大きな腰掛けは座面も背面もやたらとふかふかしており、よくよく気を付けて座っていないと姿勢が崩れる。奏はできるだけ浅く腰掛け、背を丸めないよう心掛けている。
 青の話は今日の寄り合いについてだった。奏が聞いてもよいことなのかもわからないまま、その内容を頭に叩き込む。
 北州においては、北は参の剛鬼、南は壱の剛鬼が場を絆している。この域では、北方に剛鬼たち、南方に美鬼たち、中央に我鬼と白の場が絆されている。
「我らのように島に場を絆す鬼は争いごとを好みませぬ。それゆえ、覇権争いが烈しい大陸から離れ、島に己が場を設けるのです」
「まあ、稀ではありますが島を出て覇権争いに加わる鬼も中にはいますが」と白が付け足した。
 大陸とは、海向こうの信じられないほど大きな大きな陸地のことだと奏は先だって白より教わった。地図なるものによれば、奏たちが暮らす島は大陸と比べると雀の涙ほど小さい。海すら見たことのない奏にとって、大陸など神と等しくあるかないか定かではない薄らぼんやりとした幻のようなものでしかない。
「以前より再三参の剛鬼が唐渡ノ洲の冽鬼より、まあ、要は仲間に入れてくれと相談を持ちかけられていたらしく、ようやっと参の剛鬼が重い腰を上げて、まずは壱の剛鬼に相談したところ、あっという間に肆の剛鬼に話が伝わり、まずは剛鬼内で話を付けるべきところ、そこに鼻の利く我鬼どもが水をさし、弐の美鬼の知れるところとなり、巡り巡って余のもとに話が来た次第です」
 青の説明に奏はふと気になった。
「参の剛鬼とその、唐渡の冽鬼は懇意なのですか」
「昔馴染みだそうです」と白が答える。
 奏は心の内で鬼の間にも昔馴染みがあるのかと感心していた。以前白が言っていた、鬼も人も営みは同じであるということがようやっとのみ込めた。
「鬼は基本的にあまり群れませぬ。ですが、我らのように大陸から距離を置くものは協力し合い、これまで奴等からの干渉を撥ね除けて参りました」
 青はそこでひたと奏を見た。
「この域には、いや、この国と言い換えましょう。我らが絆す人の国には、代々力強い稀代の鼓動が生まれます。それゆえ、大陸からの干渉にも堪えられるのです」
「唐渡ノ洲には稀代の鼓動が滅多なことでは生まれませぬ。とはいえ、北州や筑紫ノ州、伊予ノ洲でも滅多に生まれることはなきゆえ、唐渡ノ洲が特段珍しいわけではありません。むしろ、途切れることなく生まれる本州の方が珍しい」
 かくいう奏もその本州の生まれである。
「稀代の鼓動を持つものが存在する域はそれだけで外からの干渉を受けにくいうえ、さらに鬼神が生じ、より域の守りが強固になります。冽鬼は予見の力を代々引き継いでおりますゆえ、今代様の鼓動がかつてないほど安定していることを見通したのでありましょう」
 ふと、奏は白を見た。その顔には不快が張り付いている。青が思わずといったふうに笑いを洩らした。
「白はまあ、この通り今代様の鼓動目当ての冽鬼に好い顔をいたしませぬが、これが参の剛鬼もまた白と同じような渋い顔をしておりましてな」
「ですが、その冽鬼とは昔馴染みなのでありましょう」
「昔馴染みであろうとも、今代様の心音を感受させるのは業腹なのでありましょう。この域に連なるものはなんだかんだと言いつつも結束が固い」
 青の声は笑いを含みながらもどこか満足そうに響く。
「それで、いかようになったのでございましょう」
 そこで青が不敵に笑った。
「今代様に見定めていただくことと相成りました」
 奏は、なにゆえ人である私が、との疑念を抱きながら白を見上げると、そこにはそれまで以上の渋面があった。
「いやなに、直接対峙するわけではありませぬゆえ、そう気構える必要もありませぬ」
 青が言うには、寄り合いに使われているあの屋敷において、御簾越しに冽鬼の様子を窺うだけでよい。特に言葉を交わすわけでもなければ、顔を合わすわけでもない。隣には白が控えておる。
 とまあ、なにやら丸め込まれたようではあるものの、白が何も言わないのであれば、すでに承知されたことなのだろうと、奏はただ黙って青の声に耳を傾けていた。



 事は急を要するのか、その翌朝に奏は白に連れられあの屋敷に鬼力で飛んだ。久しぶりに頭の芯が揺さぶられ、またしても足を踏ん張る羽目になった。

 互いの立場はあまりにも明確だった。
 御簾で仕切られた一段高い座には、奏とともに袍を着込んだ白の姿だけがあり、御簾のすぐ外にはやはり正装した青と真名を授けた三鬼の美鬼が侍る。その先をさらに御簾で仕切った次の間には剛鬼と我鬼が並び、そのまたさらに御簾で仕切られた次の間に冽鬼の姿がある。
 奏のためにと用意された屋敷のひと間は白の屋敷のひと間の倍ほどもある。そのうえ幾重もの御簾越しということもあって、奏の目には冽鬼の影も形も見えなかった。
 しかも、やりとりがいちいち間遠い。ずいぶんと離れた位置にいる冽鬼の発した声は朗々と響き、奏のもとまで届いているにもかかわらず、まずは参の剛鬼がそれを肆の剛鬼に伝え、肆の剛鬼が弐の美鬼に伝え、弐の美鬼が青に伝え、青が白に伝え、白が奏に伝えるという回りくどい手法が用いられた。
 冽鬼の口上を要約すると、確かに青が言っていた通り「仲間に入れてくれ」ということになる。けれどそれだけではない差し迫った何かを奏は冽鬼の言葉の端々から感じ取っていた。
「どう思われますか」
 白の耳打ちに奏はどう答えてよいやらわからず、ついじっと白を見上げた。
「やはりお気付きになりましたか。何かわけがあるのでしょうが、かの冽鬼は口にはしたくないようで、昨日も何度問い質してもだんまりを決め込み、それでいてこの域に連なりたいと訴えるばかりで埒が明きません」
「白さまはどうなさるおつもりですか」と奏は小声で尋ねる。
「どうするもこうするも、わけを話してもらえぬことには判断の仕様もありませんから……」
 ふと奏は、白になら話すのではないかと思った。白のように凪いだ目を持つ鬼であれば、誰しもふと本音を漏らしてしまうのではないか。鬼の界に連れて来られたばかりの奏が白といるときだけは肩の力が抜けたように。
 その思い付きを口にしてよいものか、奏は悩んだ。差し出がましい気がしなくもない。しかしながら、鬼たちは奏の知る男たちとは違い、男と女で分け隔てることはない。
「白さまが直接お話しなさってみてはいかがでしょう」
 奏が思い切って口にすると、白が心得たように頷いた。
「私もそう思っておりました。私のような者であればついぽろっと口を滑らすこともありましょう」
 どうやら白も同じことを考えていたようだが、その言い方が奏は気になった。
「白さまは相手の心をするりと解してしまうような大きなところがおありです」
「大きなところ、ですか」
 目を見開く白に、奏は「はい」とはっきり頷く。そして、奏は御簾の外から様子を窺っている美鬼らの視線を遮るように口元に手を当て、少し身を乗り出し、耳を傾けている白に囁いた。
「上手くは言えませんが、白さまはどこか相手をそのまま受け入れてくれるような、大らかさと言いますか、懐の深さと言いますか、こう、丸ごと包み込んでくれるようなところがおありだと奏はお見受けいたします。奏は初めてお目にかかったときからもうずっとそんな気がしております」
 白がふっと顔をほころばせた。
「奏は私を喜ばせることが上手ですね」
「上手を遣ったつもりはありません。誠です」
 奏が少しむくれて言い返すと、白は堪えるようにくつくつと口の中で笑った。そして、すっと音もなく立ち上がると、懐から取り出した乳白色の石を奏の周囲にひとつ、ふたつ、みっつ、よっつと順に並べていった。
 白が四つ目の石を置いたとき、御簾の外の気配が大きく揺らいだ。
「私が戻るまでこの中から出てはなりません」
 そう言い置いて白は御簾の外に出て行った。
 乳白色の石は結界をつくるものだ。白の寝所の四隅に置かれているものと同じで、これが屋敷の外にも置かれている。奏は白から不用意に動かしてはならないものと教わっている。

「全くもってビャクはよく気が付く」
 御簾を上げて中に入ってきた青は、御簾のすぐ脇でどこからか取り出した円座の上に腰をおろした。
「いま、今代様の周りは十全域で囲われております」
 それは奏にもわかっていた。石を置く度に白から鬼力を使う際の波のようなものが伝わってきた。
「いつの間にあれほど巧みに操れるようになったのか。つい先だってまではもう少し揺らぎがあったはず」
「白さまは日々寝間の結界石で鍛錬しております」
 初めは乱れた波のようにばちゃばちゃと忙しなかった水面が、少しずつ少しずつ凪いでいき、この頃では水滴が落ちる波紋が見えるかのように白の鬼力は調いつつある。
「ほう」
「セイさまを驚かせようと、それはもう懸命に」
 奏は歯がゆい思いを抱えながら、一切の口出しも、胸の内で励ますことすらせずに、ただじっと見守ってきた。
「ほうほう」
「驚かれましたでしょうか」
 離れた位置にいるせいを窺うように奏が尋ねると、青は笑いを堪えるように相好を崩した。
「そうか、そうか、余を驚かそうと。そうか」
 よほど嬉しいのか、青の全身に笑みが広がっていく。
「此度のお話、上手く纏まりますでしょうか」
「すでに上手くいったも同然です。冽鬼はこの域に連なることとなりましょう」
「セイさまはかの鬼のご事情をご存じなのですか」
「余はこう見えて時勢に通じておりますゆえ、まあ、おおよそのことは見えております」
 これが年の功というものかと、奏はしみじみ感心した。