時の間の邂逅
第八話 迷い込んだ出会いいつものように目が覚めて、アラームが鳴るまでもう少し寝ようと寝返りを打つ。その違和感のなさに、文字通りがばっと飛び起きた。
自分の部屋だ。綾の部屋じゃない。
──どういうこと? どういうこと? どういうこと?
頭の中で同じ言葉だけが木霊し合う。
ベッドから抜け出し、うろうろと部屋を彷徨っていると、いつもの場所にいつものように制服が掛かっていて、夢だったのかと疑ってしまう。
昨日あんなにあたたかいと感じた彼の体温の記憶までもが、すうっと冷えていくような気がした。
綾が、いない。
何かを確かめるように、けれど、何を確かめたいのかわからないまま、自分の部屋を飛び出し、リビングの扉を開けると、「綾?」と驚いた顔をした母の、今までに聞いたことのないような大きな声が耳に飛び込んできた。
「綾! あなたいつの間に戻って来たの?」
答えようとしたその瞬間、感情が爆発したように涙がぶわっと溢れ出し、体が震え、声を上げて泣き出してしまう。一層驚いた顔をした母が、そっと泣き止むまで抱きしめてくれた。
泣きながらこの二日間のことを話すも、自分でも支離滅裂だと思うのに、ひとつひとつ相槌を打って、最後まで口を挟まずに聞いてくれた。
「信じてくれる?」
「そりゃあね。綾は嘘つかないし。何より、綾、自分の格好見てご覧なさいよ」
言われて自分の姿を見下ろせば、着ているのはパジャマ代わりに借りた綾のルームウェアだった。
またしても涙がぶわっと溢れた。
「本当言うとね、信じられなかったかもしれない」
そう言って話してくれたのは、一昨日、副担任と一緒に綾が母を訪ねてくれたらしい。起こらないかもしれないけれど、もし起こったとしたら心配するだろうからと。
実際いつもの確認メールの返信がなかったことに、母はすごく心配し、家に帰っていたらしい。だからこそ、二人が訪ねてきたときに会えたと笑っていた。
「最初は信じられなかったのよ。でも、綾のこともくるみのことも知ってたし。うちの事情も知られてたし。それって綾本人が話さない限り知り得ないことでしょ」
「お母さん、仕事は?」
「ああ、午前休もらってあるから大丈夫。佐山先生が学校の方は誤魔化しておいてくれたらしいわ。鞄も預かってくれてるって。あとで取りに行きなさい」
そう言って会社に行く支度を始めた。もう十一時になる。こんなに母と長い時間話したのは初めてかもしれない。母の体温を感じたことも。
「綾、これでも私、あなたのことは私なりに大切に思ってるの。もしまた同じ事が起こって、あなたが尋ねてきたとしたら、きっと私、あなたのことはわかると思うわ」
そう言い残して仕事に出掛けた。母らしいと思ってしまう。きっと普通のお母さんとは違うだろうけれど、私のお母さんはあの人だ。
顔を洗って制服に着替え、学校に鞄を取りに行こうとして、玄関に揃えて置かれていた上履きを見付けた。また涙が込み上げる。紙袋を取りに部屋に戻り、それに上履きを入れ、自分のフロックスを履いて学校に向かう。足にぴったりのフロックスは、二回り大きなフロックスよりずっとずっと歩きやすかった。
文化祭の翌日は振替のために休校になっている。
それでも部活の生徒がいるのか、どこかから掛け声が聞こえたり、吹奏楽部が練習している音が聞こえてくる。
職員室に顔を出すも副担任はいない。ならばと思って教室に向かう。もしかしてという気持ちがどんどん強くなって、三階分の階段を駆け上がり、2−1と表示されている教室の前を通り過ぎ、2−2の教室の後ろのドアの前に立つ。
目を閉じて、深呼吸して、そっと扉をスライドさせた。
恐る恐る目を開けて見たそこは、文化祭の名残を見せる見慣れた自分の教室だった。綾の教室じゃない。
がっかりしたような、ほっとしたような、複雑すぎる気持ちになった。
「井上ー。待ちくたびれたぞー」
間延びした声に目を向けると、なぜか私の席に座っている副担任がいた。
「ここなぁ。九年前、俺の席だったんだよ」
驚いた。本当に驚いた。人は驚くと何も言えなくなるんだって、あとで思い返すくらい驚いた。
「せんせ……、じゃあ、綾……」
「おう。九年前、丸一日一緒に過ごしただけの女の子を忘れられないヘタレは俺の親友だ」
鼻の奥がつんとした。綾は私を憶えてくれているよね。だからお母さんに説明しに来てくれたんだよね。忘れられていないよね。勘違いじゃないよね。
「お前がなぁ、前のドアから入ってきたら素知らぬ顔しようと思ってたんだけどなぁ。後ろのドア開けちゃうしなぁ。いいか井上。九年間お前を想い続けたあいつは、間違いなくこじらせてるぞ。覚悟して会いに行けよ」
「今日、綾は……」
「おう。家にいると思うぞ。有給取ったって言ってたからな。ほれ、お前の鞄。いいか。一昨日お前は急に熱を出して家に帰ったんだ。昨日は熱が下がらず文化祭を欠席したことになってる。話合わせとけよー。そして俺に感謝しろよー。加納にすき焼き奢れって言っといてくれー」
もう最後の言葉はほとんど聞こえなかった。鞄を受け取り、教室を飛び出し、生徒玄関でローファーに履き替え、フロックスを紙袋に突っ込むと、全速力で走り出した。
覚えている。はっきりと綾の家への道のりは覚えている。
──早く。早く。早く。綾に会いたい。
上がった息を整えるまでもなく、玄関扉の横にあるインターホンを押す。
カチャッと小さく音を鳴らして静かに開いた扉の奥から、あの目が見えた瞬間、その腕の中に飛び込んだ。
「綾」
「綾」
互いに呼び合うと、ぎゅっと抱きしめる互いの腕に力が入る。私の腕にも、彼の腕にも。昨日と同じようにしばらく抱きしめられ、上がっていた息が落ち着いた頃、そっと体を離された。
「あのさ、綾。綾にとっては昨日のことかもしれないんだけど、俺にとっては九年前のことで。そのね、俺は今二十六歳で、綾から見たらもうおっさんなんだけど……」
改めて見上げたその人は、確かに綾だけれど私の知る綾とは違う、大人の男の人だった。
「あ、あの、ごめんなさい」
明らかに自分とは釣り合わないだろう大人の男の人の姿に、思わず謝ってしまう。勝手に一人で盛り上がって馬鹿みたいだ。足を後ろに引き、大人になった綾から離れようとして、逆にその体を引き戻された。
「あー、違うから。綾が嫌じゃなかったらおいで」
もう一度軽く抱きしめられた後、そう言って家の中に招き入れてくれた。
変わってない。昨日とほとんど変わってない。玄関先でちょこんとお座りしているクウちゃんは、昨日見たクウちゃんより、少しおっとりとした顔付きになっていた。
「クウちゃん、覚えてる?」
手を差し出すと、ひんやりとした鼻を押しつけながらふんふんと匂いを嗅がれる。そっと耳の後ろを掻いてやると、こてんとひっくり返ってお腹も撫でろと要求してきた。変わらないその姿に思わず笑みが零れる。
「クウはあとでな」
そう言う彼に手を引かれ、リビングに通される。後ろからクウちゃんも追いかけてきた。
昨日よりも少しだけごつごつした手に微かに違和感を覚える。昨日よりも少しだけ背も伸びた?
「ソファーが変わってる」
「ああ、親父が買い替えた」
昨日あったソファーと同じように座り心地のいいソファーに座らされると、大人の綾が隣に座り、じっと見つめられる。思わずたじろぎかけて、見つめる先にあるすっかり大人になった綾の中に、昨日までの面影を探す。変わらないようで変わっている。けれど、目が同じだ。あの優しそうに細められた目は同じだった。
「あー、ほら、泣かないで」
どこか焦ったような声に、座ったままその胸に抱き寄せられて、頭を撫でられる。撫で方が同じだ。昨日と同じだ。
「綾さ、俺でもいい? 十七歳じゃない二十六歳の俺でもいい?」
勢い込んで何度も頷くと、綾はあからさまにふうっと息をついた。そっと胸から離され、背筋を伸ばし、真面目な顔をした彼は、すごく大人に見えた。
「では改めまして。綾さん、結婚を前提にお付き合いしてください。高校を卒業したら専業主婦になってください。大学卒業までは待てません」
「いいの?」
「むしろ俺のほうがいいの? なんだけど。綾、九つも年上の男でいいの?」
「綾ならいくつでもいい」
「たった二日しか一緒にいなかったのに? 若気の至りかもしれないよ?」
「綾は若気の至りだった?」
「いや。こじらせるほどに想いは変わらなかった」
「私もきっと変わらない」
やっと会えた、そう言ってもう一度抱きしめられる。綾は少し震えていた。
私にとっては昨日のこと。けれど、彼にとっては九年も前のことで。朝起きたら忽然と消えていた私を家中探して、私が着ていたパーカーを洗濯機の中で見付けると、それを握りしめて泣いたそうだ。
「きっと冷静になったら綾は立ち止まってしまうだろうから。冷静になる前にそこに付け込む、ズルイ大人になってしまった俺でごめん」
そう言って抱きしめる腕の力を強めた。
そうだろうか。冷静になったらこの気持ちは違うものになるのだろうか。
「くそーっ、今すぐ俺のものにしてぇ」
あからさまな言葉に驚いて、その腕の中から顔を上げると、ばつの悪そうな顔をして、一瞬視線を彷徨わせた。
「あー、綾さん、あなたまだ十七歳ですよね。一応大人の俺は、十八歳まで待つべきじゃないかと思ってましてね。君の副担任は卒業まで淫行禁止とか言いやがってですね、俺の想いは更にこじれそうなんですよ」
綾、と呼びかける綾は少し苦しそうだった。
「綾が十八になったらエロいキスもするし、高校卒業したら思いっきり抱く。だから、それまでに俺を見極めて。嫌なら逃げて」
目の奥を覗き込むかのようにじっと見られながら、真っ直ぐに伝えられた言葉に恥ずかしくなる。けれど、彼の目はどこまでも本気だった。あまりの恥ずかしさにそれ以上目を合わすことも、言葉にすることもできず、俯いたままただ黙ってひとつ頷くと、もう一度ぎゅっと抱きしめられた。
昨日までと変わらない綾の体温。それにどうしようもないほど安心して、ようやく肩の力が抜けた。