時の間の邂逅
第七話 迷い込んだ現実


 (りょう)がお風呂に入っている間、テレビの画面を見ながら考えるのは、これからのことだ。
 どうやって生きていくかを考えて、どうやってもまともに生きていけそうにないと思う。もう学校には通えない。病院にかかることもできない。まともな職に就くこともできない。いつまでも彼の家にいるわけにはいかない。けれど、ひとりで生きてもいけない。八方ふさがりな状況にため息しか出ない。

 九年後、今ここにいるはずの八歳の私が十七歳になって、同じように2006年に行くとして、そこでようやく私は私としての身分を得られる。けれど、そのとき私は二十六歳になっているはずで、十七歳として生きていくのはかなり厳しい気がする。見た目だけでもアウトだと思う。それでも戸籍を手に入れるにはそれしかない。

 問題は九年間どうやって生きていくかだ。両親に相談するとして、信じてくれるとは思えない。彼が信じてくれているのが不思議なくらいだ。私しか知らないようなことを話して、なんとか信じてもらうしかない。

(あや)? お風呂入っておいで」
 いつの間にか彼がお風呂から上がっていた。バスタオルを首にかけて、体中がほかほかして見える。

「もう出たの?」
「結構長風呂だったと思うけど。なんか湯船に浸かるっていいよな。親父がいないといつもシャワーだったからさ」
「お父さん、そんなに出張多いの?」
「多いかも。海外主張みたいな長期は年に三回か四回くらいだけど、月に半分くらいは家にいない」
「なんか寂しいね」
「クウがいるからね、結構救われてる」
 そう言ってクウちゃんを抱きかかえた(りょう)は、クウちゃんの後頭部に鼻を押しつけてぐりぐりしている。

 唐突にわかった。
 もしかして私の扱いってクウちゃんと同じ? 頭を撫でるのも、抱きしめるのも、かわいいって言うのも、クウちゃんと同じ感覚なんじゃ?
 じーっと見ていた私に気付いた(りょう)が「ん?」と言いながら首を傾げて、クウちゃんにしていたのと同じように私の頭をわしわしと撫でた。
 うん。色々わかった気がする。勘違いしちゃダメだ。



 この家のお風呂は広い。一軒家のお風呂がこんなに広いなんて、マンションにしか住んだことがないから知らなかった。彼のお父さんのこだわりなのか、シャンプーやボディーソープは有名なお店のものだ。全て柑橘系の香りで揃っている。
 人の家の物を勝手に使っている自分の図々しさにちょっと嫌気がさす。彼のお父さんが帰って来る前には出て行かないと。
 前に住んでいたところの電話番号を思い出そうとするけれど、うろ覚えだ。小学生の頃からキッズ携帯を持たされていたからか、電話番号を覚えることなんてなかった。どこかネットカフェで調べてみよう。最悪両親の会社に電話すればいいか。会社の電話番号は調べればわかるだろう。問題は信じてくれるかどうか。会ってくれるかどうかだ。

 たった一日しかいないのに、この家はずいぶんと居心地がいい。いいな、欲しいなと思っていた物が揃っているからか、好きなものに囲まれているだけで幸せだなと思う。
 クウちゃんがいるせいか、家の中の空気があたたかくて柔らかい。自分の家のあの刺々しく冷えた空気を思い出して、なんだかやるせなくなる。
 (りょう)がいるからかも……と考えて、慌ててその考えをどこかの隅っこに隠す。勘違いしちゃダメだ。

 お風呂から出て、使ったタオルもみんな一緒に洗濯する。綿ぼこりが付きそうだけれど、乾いたらコロコロで取ればいい。昨日も借りたルームウエアを着て、髪をドライヤーで乾かし、トラベルサイズのスキンケアで簡単にケアして歯を磨いていると、洗面所の扉をカリカリと爪で引っ掻く音がする。扉を開けると案の定クウちゃんがするりと入り込んできた。歯磨きを再開すると、足の甲の上でお座りしている。足の甲があたたかい。ぬくもりっていいなと思える。

 リビングに顔を出せば、彼がバスタオルを首にかけたままだった。声をかけてから洗濯すればよかった。

「お風呂ありがと」
「温まった?」
「温まった。(りょう)の家のお風呂、うちより大きいから気持ちいい」
「そうなんだ。あー、マンションの風呂って確かに小さそうなイメージだよな」
「きっと部屋によるんだろうけどね。うちのは小さめだよ。私の足がぎりぎり伸ばせるくらい」
 隣に座って、足を伸ばしてみると、彼も同じように足を伸ばして「俺にはちょっと狭いな」と笑っている。

(りょう)って身長どれくらい?」
「176かな。もう少し伸びると思うんだけど、どうかなぁ。(あや)は?」
「159。160になりたい」
「そうか? そのくらいでいいじゃん。なんか丁度いい感じだし」
「丁度いい?」
「あー、うん。抱きしめた感じが丁度よかった」
 照れながら言わないで欲しい。こっちまで照れる。
「なんか飲む?」って慌ててキッチンに行く彼の耳が赤い。(りょう)も照れるのかと思うと、なんだか不思議な気がした。
 ふと見れば、クウちゃんが自分用のクッションから頭をはみ出すように落として、へそ天でくかーっと寝ていた。そういえばお散歩に連れてってあげていない。イレギュラーな存在である私のせいで、クウちゃんの生活リズムまで狂わせている。



 ────◇────



 そろそろ寝るかという段になって、どっちがソファーで寝るかで揉めた。(あや)は自分が寝ると言い張り、俺は彼女をソファーで寝かせたくなくて自分が寝ると言い張った。

「俺が親父のベッドで寝ればいいんだろうけどさぁ。なんていうか微妙」
「でもさすがに今日は風邪引くと思う。昨日より寒いし」
 ひらめいた俺の考えは、絶対に却下されると思ったからこそ口にした。

「じゃあ、今日は一緒に寝る?」
 一瞬目を瞠るも、何故かクウを見て「そっか」と呟いた(あや)は、あろうことか「(りょう)が嫌じゃなければ」と返してきた。今度は俺が目を瞠る番だ。

「えっ? いいの?」
「いいよ。(りょう)が嫌じゃないなら」
「嫌じゃない!」
 妙に力が入ったのは、別に下心があったからじゃない。いや、全くなかったと言えば嘘になるけれど、できれば彼女を一人にしたくなかった。(あや)は一人にすると思い詰めたように考えているから。あとはまあ、正直なことを言えば、昨日は寒くてなかなか眠れなかったし。

(りょう)のベッド、セミダブルだよね。大きいから二人寝ても大丈夫そうだし」
 妙にうきうきと楽しそうなのはどういう訳なのか。

「なんだかお泊まり会みたいだね」
 彼女の思考が健全すぎる。俺の思考は不健全そのものだ。



 二人で部屋に行き、いざベッドを目の前にして、ようやく彼女の思考が不健全に傾いたのか、真っ赤な顔でもじもじし始めた。やめてくれ。今ここでその態度はやめてくれ。もう今更引き返せないんだ。大人しく寝てくれ。俺の理性を試さないでくれ。
 もう寝るだけだからと明かりを点けなかったことに救われる。俺、絶対にニヤけている。

「ほら(あや)、何もしないから」
 言ってから、しまったと思ってももう遅い。「何もしない」の一言で「何か」を想像させてしまった。ぎくしゃくとあからさまに動揺した動きで彼女がベッドに近付いてくるも、そばまで来て躊躇してしまったのか、ぴきっと固まったまま立ち尽くしている。
 月明かりに照らされた(あや)の顔が心なしか赤い。その顔を見ただけで俺の中の何かが刺激された。何かって何かだ。今は考えるな俺。
 先にベッドに入り、彼女の手を取って無理矢理布団の中に押し込めた。俺だって恥ずかしい。

「あ、あっと、あの、そうだ、明日はクウちゃんのお散歩に行こうね」
 あわあわと言葉を探すように焦った様子の彼女を見ていると、逆に落ち着いてきた。

「あー、そうだなぁ。昨日も散歩連れてってないや。元々雨が降るとクウは散歩嫌がるから、二三日くらい行かなくても大丈夫だよ。代わりに明日は思いっきり遊ばせよう」
 眉をへの字にして、心配そうな申し訳なさそうな顔をしているその頭を撫でてやる。そうするとクウの耳が下がるように、彼女の肩の力も抜ける。

「そんな端っこにいないで、嫌じゃないならもっとこっちおいでよ」
 そう言うと、真っ赤な顔でもぞもぞと体を寄せてきた。かわいいなぁ。

(りょう)って、あたたかいね」
 やべっ。バレないように腰をそっと引いた。不意打ちでそういうこと言うなよ。童貞の妄想舐めんな。昼間だって「おいなりさん」とか言っちゃうし。どうしようもない下ネタだけれど、彼女が言うとどうしてか直撃される。

 やはり気を張って疲れているのか、とりとめもないことを話しているうちに、(あや)はあっという間に眠ってしまった。親父が帰ってくる前に、事情を知らせておいた方がいいだろう。顔の広い親父のことだ、なんとかしてくれるはず。
 このままずっと(あや)がいてくれればいいのに。そう思うのは彼女に対する裏切りだ。

 そっと彼女の体に手を伸ばし、そっとそっと、腕の中に抱きかかえた。あたたかいのは(あや)の方だ。彼女がいるだけで、家の中が明るく感じる。家の中が快適すぎて、びっくりするくらい心地いい。
 いつもなら、パックのままの冷たいいなり寿司を食べるのが当たり前だったのに、きれいに皿に盛られ、軽く温められたいなり寿司は、その手間の分いつもよりもおいしかった。「硬くなったご飯が少しチンするだけで軟らかくなるんだよ」って、得意そうな顔で笑っていた。当たり前のように風呂を洗っておいてくれたり、当たり前のように明日の朝飯の準備していたり、そういうのがたまらなく嬉しい。なんというか、夫婦みたいでいいなぁと思う。

 こっそりデコちゅーする。さすがに唇はダメだろうと、おでこで我慢した。
 今日は眠れそうもないなぁと思っているうちに眠ってしまったらしい。腕に抱えた(あや)が、どうしようもなくあたたかかった。



 目が覚めたら、(あや)がいなかった。

 家中探してもどこにもいなかった。
 彼女の持ち物がどこにもなくて、まさか夢だったのかと、その存在自体を疑い始めたとき、洗濯機の中で乾いていた紺色のパーカーと黒のハーフパンツを見付けた。
 彼女が使っていた歯ブラシも、彼女が使っていたボディタオルも、彼女が使っていた小さなスキンケアのボトルも、彼女が炊いておいてくれた炊飯器のご飯も、俺の腕に残るぬくもりも、全部(あや)がいたことの証だった。