時の間の邂逅
第六話 迷い込んだ夢


 帰れなかった。
 そう簡単なことじゃないって思っていた。
 そんな簡単に帰れるわけないって思っていた。

 けれど、どこかで期待もしていた。
 もしかしたら帰れるんじゃないかって。
 案外簡単かもしれないって。

 実際に帰れないとわかったら、もうどうすればいいのかがわからない。
 色々なことが頭の中をぐるぐる回っていて、その中でも一番大きな声で叫んでいるのは「帰れない」の一言で、それを押し込めようと別のことを考えても、繰り返し繰り返し頭の中では「帰れない」の言葉があちこちにぶつかりながら木霊している。もうどうすればいいのかがわからない。

 ぎゅっと抱きしめられていることをはっきりと認識したのは、ずいぶん後だったように思う。
 上履きを履き替えたのも、学校を後にしたのも、(りょう)の家に帰ってきたもの、ちゃんとわかっている。ちゃんとわかっているけれど、なんだか他人事みたいで、フィルター越しの感覚のようにどこか虚ろだった。

(あや)
 ずっと、呼ばれていたように思う。

「ん」
 出した声が鼻にかかった。
 そっと体を離される。

「落ち着いた?」
 俯きながら頷いた。頷いた拍子に涙がぽとっと零れた。今は顔を見られたくない。もう一度ぎゅっと抱きしめられたあと、「顔洗っておいで」と、洗面所に連れて行かれた。

 教えられていた場所からタオルを一枚取り出し、鏡を見れば、有り得ないくらい不細工な顔の自分が映っている。目がヤバい。不細工なほどに腫れている。
 足元にクウちゃんの気配。なぜか人の足の甲の上に乗って伏せている。足の甲から伝わるクウちゃんの少し高めの体温にどういう訳か安心した。

 そうだ。さっきの(りょう)の体温。彼の腕の中はどこか当たり前のようにあたたかかった。当たり前だとはいえない状況なのに、彼の体温だけは、もしかしたら(りょう)の存在だけは、そばにあるのが当然のことのように思える。
 頼れるのは彼だけだから? あんな風に体温を分けてくれる人なんて今までいなかったから?

 考えても答えが出そうにない思考を中断し、クウちゃんを足の甲に乗せたまま顔を洗う。冷たい水で目を冷やしても、不細工な顔のままだ。
 思わず溜息をついて、ついでにお風呂も洗っておこうと、主婦みたいな思考に切り替わる。

「クウちゃん、足どかすよ」
 一応声をかけて、そろそろと足を引き抜こうとすると、しゃきっと立ち上がり、しっぽを思いっきりふりふりしている。そっと耳の付け根を掻いてあげると、ころんと寝転びお腹も掻けと催促してくる。「しょうがないなぁ」と小さく声に出しながら、脇の下を掻いてあげると、しっぽの動きが止まり、されるがままになっているクウちゃん。つぶらな目で見つめられて「かわいいなぁ」と独り言ちながら、ひとしきり掻いて手を離すと、お腹を見せたまま再びしっぽを振って掻いて掻いてとアピールしている。再び掻いて、同じことを三度繰り返したところで、クウちゃんのアピールを見ないふりしてお風呂の掃除に取りかかった。なんだかすごく癒やされた。くるみもこうだったなと思い出す。



 何となく気まずい気持ちでリビングに顔を出せば、「(あや)も着替えておいで」と、さっきまで抱きしめていたことなんてなかったかのように普通に言われた。やはり彼の言動はおかしい。こんなにぐるぐる考えている私はなんだろう。頭の中で「天然たらし説」を浮上させながら、彼の部屋でパーカーとハーフパンツに着替えた。

(あや)、夕食はいなり寿司でいい?」
 二十個も入ったいなり寿司を買ったのは、こういう事態を想定していたのかと思えば、「半分こにすると俺全然足りないなぁ」と言いながら冷凍庫を引き出して物色している彼を見て、その考えはあっさり否定された。

(りょう)、私十個も食べられないから。三つくらいで十分だよ」
「へ? たった三つ?」
「三つで十分だよ。四つは多い」
 すごく驚いている顔を見て、一人で二十個食べる気だったのかと、むしろこっちが驚く。

「お昼の残りのほうれん草とネギがあるから、それでお味噌汁作るよ」
「あー、確かまだジャガイモがあった気が……」
 食品庫になっているらしい扉を開け、その足元のカゴの中を覗き込んでいる(りょう)の後ろから、同じように覗き込めば、そこにはジャガイモもニンジンもタマネギもあった。サツマイモに里芋、かぼちゃなんて丸のままある。

「こないだ、じいちゃんが送ってきたんだ。趣味で畑作ってるんだよ」
「へーえ。スーパーで見るのよりおいしそうだね」
「うん。これはうまい。洗って茹でてマヨネーズ付けて食べてる」
「そのくらいはするんだ」
「そのくらいはね」
 どことなくばつの悪そうな彼に、思わず口元がほころぶ。彼が優しい目をして頭を撫でてくれた。足元でクウちゃんも根菜の入ったカゴに前足をかけ、一生懸命中を覗き込もうとしている。

「クウもジャガイモ好きなんだよな」
「そうだった。くるみもサツマイモとかカボチャがすごく好きだった。じゃあ、クウちゃんも食べられるようにしようか」
 言っていることがわかっているのか、ぶんぶんとしっぽを振るクウちゃんの目が、すごくきらきらしている。

「クウちゃんって、すごく賢いよね」
「そう? 確かに無駄に吠えたりしないし、悪戯したりはしないかもなぁ」
 床にあぐらをかいて座り込んでいる飼い主の膝の上に、クウちゃんが得意気な顔してお座りしている。クウちゃんの頭をひと撫でして、ジャガイモを二つ取り、ニンジンに手を伸ばしたところでその手を取られ、無言で首を振られた。思わずどきっとしたのは内緒だ。

「ニンジン嫌いなの?」
「嫌いなの」
「わかった。じゃあ入れないよ」
「よろしく」
 そっと手を離された時の彼の情けない顔に笑ってしまう。



 ────◇────



 いつもならパックのまま食べるいなり寿司がきちんとお皿に並んでいるのを見て、かなり感動した。
 親父が何に凝っているのか、調味料などは結構な数が冷蔵庫に入っているけれど、まさか顆粒ダシが三種類もあるとは知らなかった。味噌も五種類もあると言う(あや)の嬉しそうな声を聞いて、一体何に使っているのかと首を傾げたくなる。親父が作っているものにたいした味の違いはなかったような……。俺って馬鹿舌なのかな。思わずクウを見れば、きょとんとした顔で首を傾げていた。かわいいなクウ。

 あっという間に味噌汁を作り上げた(あや)は、ついでにジャガイモを細く切ったものと水菜を合わせたサラダも作っていた。なんというか、すごいな女の子って。あっという間に飯ができる。

「なあ、(あや)がすごいの? 女ってみんなすごいの?」
「あのね、この程度ですごいって言ってたら、ちゃんと料理する人は神になっちゃうよ。私のは手抜き料理だから」
「俺、手抜きでも神に思える」
 彼女がくふくふと笑っていて、なんだかほっとした。笑えるうちは大丈夫だろう。先の見えない不安は、きっとこの先どんどん彼女を押し潰そうとするだろうから。

「いただきます」
 揃って手を合わせ、味噌汁をひと口飲んで、ほうっと息をつく。味噌汁を飲むとどういうわけかほっとする。

「薄い?」
「ん。丁度いい」
「そっか、よかった」
 そう言って自分も味噌汁に口を付けて、「やっぱりいいお味噌だ」と呟いている。どうやらそれなりに有名な味噌らしい。俺にはさっぱりわからん。ただ、(あや)の作った味噌汁は確かにうまい。

 彼女は将来専業主婦になりたいらしい。自分がずっと一人だったから、家を守る人になりたい、そう少し寂しそうに笑っていた。
 俺は何になりたいのだろう。ごく普通にサラリーマンになるのだろうと思っているけれど、どんな会社に入ろうかとまでは考えていない。できるだけ大きな会社に入りたいと思うくらいだ。
 俺、こんなんでいいのかな。

(あや)はさ、いくつで結婚したいの?」
「んー。できるだけ早くかなぁ。大学に行くのも躊躇うくらい、できるだけ早く。まあ、今は相手がいないから大学くらいは出とかないとなって思ってるけど。狙ってるのは家政学部のあるところ」
「ちゃんと考えてるんだな」
「そう? (りょう)は?」
「俺は、あんま考えてない。適当に大きな会社には入れればいいかなってくらい。大学は経済とか学んどけばいいかなとか」
「やりたい事ってないの?」
「なんだろうなぁ。俺も普通にお父さんになりたい感じ?」
「あー、うん、わかる。私も奥さんとかお母さんになりたい感じ」
 綾が少し照れたように頷いている。
 そうなんだよな。結局どこか普通の家庭に対する憧れのようなものがあるんだよな、きっと。

「ねえ、明日の朝はご飯と味噌汁と卵焼きでいい? そのくらいしか材料がないんだけど。あとカボチャ、煮付けていい?」
「いいよ。むしろお願いします」
「あの炊飯器使ってみたくて。あれ、お高いやつだよね」
「あー、なんか親父が買い替えてたな。何か劇的にうまく炊ける炊飯器が出たとかなんとか言って」
「そうなんだよ。古い型だけど、使ってみたい。うちのはお一人様用の炊飯器だからイマイチなんだよね。いっそ土鍋で炊いてみようかって思ってるくらいなんだけど……。多めに炊いて冷凍しておく?」
「それいいな。そうして。確か米も親父がこだわっていたような」
「だよね。お味噌やお醤油にこだわってるくらいだもん、お米にもこだわってるよ、きっと」
 本当に家事が好きなんだな。昨日も家中を掃除してくれたけれど、嫌がる感じはなかったし、むしろ楽しそうだった。今もわくわくしている感じがすごく伝わってくる。
 (あや)と結婚すると毎日快適だろうなぁ……。慌てて頭の中に描いた妄想を追いやる。何考えてんだよ俺。



「若っ!」
 (あや)がテレビに出ている若手のお笑い芸人を見て驚いている。昨日はそれどころじゃなかったからテレビがつくことはなかったけれど、今日はなんとなくつけたテレビに彼女が反応した。

「そうだ。もうお風呂洗ってあるから、今日は(りょう)が先に入りなよ」
「んー、じゃあ先に入ってくる」
「洗濯物、私のと一緒に洗ってもいい?」
「いいけど、(あや)は嫌じゃないの?」
「ん、嫌じゃないよ」
 その答えを聞いて舞い上がったのは仕方ないと思う。風呂の湯張りスイッチを押しながら、なんというか、さっきからやりとりが夫婦じみていて照れる。本当に彼女と結婚したら毎日こうなのだろうと思えば、悪くないなとニヤけてしまう。
 このまま(あや)がここにいればいいのに……と、そこまで考えて、自分勝手なその考えに落ち込んだ。
「お風呂が沸きました」と給湯パネルから聞こえた無機質な声に、馬鹿にされたような気持ちになった。