時の間の邂逅
第五話 迷い込んだ体温制服に着替えて学校に向かう。綾も似ているようで少し違う制服に着替えた。
綾たちが履いていた上履きは白のスリッポンみたいなタイプだったのに、私の履いているのは爪先に青いゴムの付いたバレーシューズタイプの、まさに上履きですと言わんばかりのものだ。学年によって爪先の色が違う。スリッポンタイプだったらここまで恥ずかしくないのに。
「あのさ、とりあえず俺のフロックス履いて、学校に着いたら上履きに履き替えれば?」
「そうする。いらない袋もらっていい?」
出掛けるとき、そんなやりとりのあと、笑いを堪えた顔で綾が紙袋を持って来てくれた。彼から見てもこの上履きはないのだろう。せめて真っ白ならまだマシだったのに。
駅前まで行き、鉄の板に囲まれているマンションの建設予定地から、学校に向かう。昨日も、駅ビルに入っているお店で買い忘れていたスプレー容器を買った帰りだった。予算がないから使い回せるものは使い回すことにして、スプレー容器も、あのお店のものだったら使い終わったあと買い取ってもいいと言う人がいたから、駅ビルまで買いに行った。
「お化け屋敷だったの。クラスの出し物。最後に氷水の入ったスプレーで顔面シューの予定だったんだよね」
「なかなかえげつないね」
「副担任が提案したの。その副担任が使い終わったらその容器を買い取ってくれるって言うから、わざわざ駅ビルのお店まで買いに行ったんだよ、昨日」
「へーえ」
昨日のことを話しながら歩く。
景色が変わっているようで変わってなかったり、変わっていないようで変わっていたり、ただ見ている分には楽しいけれど、その違いの意味を考えると不安になる。見ていられなくなる。
俯いて、彼のフロックスをじっと見ながら歩いていたら、繋がれている彼の手にぎゅっと力が込められた。
「大丈夫だから」
気休めのようなその一言に、もう怒りは湧かない。だからと言って気休めにもならないけれど。ただ、かけられた言葉は素直に嬉しいと思う。
小さく頷くと、再び前を向いて歩けるようになった。見えてきた学校に涙が出そうになる。
「学校は変わらないね。少しだけ新しいような気もするけど、あんまり変わってない」
「あー、そうだなぁ。学校って変わって欲しくないよなぁ。俺の行ってた小学校がさ、去年新しくなったんだけど、それまでと全然違う感じになっちゃってて、もう母校って思えない。あのお化け出そうなボロ校舎が俺の小学校だったのに」
情けないような、なんともいえない渋い顔でそんなことを言うから、少しだけ肩の力が抜けた。
「七不思議とかあった?」
「あったあった。色んな噂があってさ、実際数えてみると七つどころか十個くらいあって、どれが本当の七不思議か! とか、みんなでアホのように毎日議論してた。今思うと本当に無駄な時間だった」
思わず声を上げて笑えば、彼がまた優しい目をする。この目で見られると恥ずかしい。自分が特別な存在のように思えて、勘違いしてしまいそうになる。まるで自分がかわいい女の子になったような、そんな恥ずかしすぎる気持ちになる。
休日の学校はいつもより静かだ。それでも部活動をしている人がいるからか、掛け声やざわめき、吹奏楽部が練習している何かの曲の一部も聞こえてくる。
彼が持ってくれていた紙袋から上履きを出して、代わりにフロックスを紙袋に入れると、自分で持とうとするより先に彼に紙袋が取り上げられた。
「ありがと」
「いいよ、このくらい」
なんてことなく返し、歩き出した彼の後ろを付いていく。
昨日は真っ直ぐ教室に向かった。それと同じように真っ直ぐ教室に向かう。生徒玄関から、中央廊下を通って、二学年棟の階段を黙々と上がっていく。三階建ての三階に私の教室はある、はずだった。
2−1ではなく2−Aの教室の前を通り過ぎ、2−2ではなく2−Bの教室の後ろの入り口、ここから教室に入ろうとしたところで、この事態になった。
覚悟を決めて、スライドドアの引き手に手を伸ばす。からからといつもより軽く滑るドアが開くも、そこは綾の教室だった。私の教室じゃない。
「まだ時間が早いからだよ。あの時は夕方くらいだっただろう?」
後ろからかかった声に、項垂れながらも頷く。それでも何度かドアを開け閉めして、やはりこの時間ではないのかと無理矢理納得する。
「ほら、少し休もう。綾は気を張りっぱなしだっただろう? 自販機でなんか買ってくるよ、何飲む?」
手を引かれて彼の席に座らされる。机の横のフックに紙袋をかけて、小さく答えた「ミルクティー」をちゃんと拾ってくれた。
俯いたままの私の頭を軽くぽんぽんと撫でた後、彼は教室を出て行った。
帰れなかったらどうしよう。
最初は、おかしい、なにこれ、どういうこと? そんなことばかりが頭に浮かんだ。今はどうやったら帰れるかと、帰れなかったらどうしようが半分ずつ頭を占めている。
どうしても帰れる気がしない。帰りたいけれど、帰れる気がまるでしない。どうやってここに来たのかもわからないのに、どうやったら帰れるのかなんてわかるはずもない。
これからどうすればいいかがわからない。自分を証明するものが何一つないこの場所で、どうやって生きていけばいいのかがわからない。ずっと彼に面倒を見てもらうわけにもいかないのに、一人で生きていく自信がない。
滅多に家に帰ってこない両親の間にいて、自分は一人で生きていると思っていた。
けれど違う。
住むところも、お金も、様々な手続きも、全部用意してもらっていたから、生きていられた。
二人から何ももらっていないと思っていたけれど、違う。
生きていくためのものは全て用意してもらっていた。普通の家族とはきっと違うけれど、決して放り出されているわけではない。毎日メールではあっても連絡はし合っていた。生存確認なんて皮肉ったこともあったけれど、必ず毎日確認されていた。一般的な愛情じゃないかもしれないけれど、無関心では決してない。
くしゃっと頭を撫でられて、いつの間にか彼が戻ってきていたことに驚く。
「綾さ、もし帰れなくても、今はそんなこと言っちゃいけないかもしれないけど、でも、もし帰れなくても、俺が一緒にいるから。あんまり考え込むな。今日帰れなくても明日帰れるかもしれないし、明日帰れなくても明後日帰れるかもしれない。いつ帰れるかなんてわかんないだろう? ずっと気を張ってると、帰る前に綾自身が先にダメになっちゃうよ」
紙パックのミルクティーにストローを挿しながら、言葉を選ぶようにゆっくりとそう言われた。渡されたミルクティーを一口飲めば、いつも飲んでいるものより甘かった。
「甘い」
「こういうのは砂糖が山ほど入ってるんだろう?」
「うん」
「甘くて当たり前だよ」
「うん」
綾の優しい声が嬉しい。けれど、どうしてか八つ当たりしたくなる。
────◇────
彼女の目に浮かぶ非難の色を見て、言うべきではなかったと後悔する。それでも、思い詰めた顔をしている綾を見れば、言わずにはいられなかった。
俺だって彼女のこれから先のことはわからない。当事者の彼女はわからない上に不安で仕方ないだろう。安心させてやれるような何かは今の俺にはない。一緒にいてやることしかできない。
綾が席を立ち、教室の後ろのドアまで行って、開けたり閉めたりを繰り返している。残っている彼女のミルクティーと、俺のカフェオレを持って廊下に出て、その後ろ姿を黙って見ていた。
開けては閉め、開けては閉め、開けては溜息を吐いて閉め、開けては「もうっ」と呟いて閉める。
ただひたすら、彼女はスライドドアの開け閉めをしていた。西日が射し、日が暮れて、薄暗くなってもやめる気配はなかった。
最終下校を促す放送が聞こえ、彼女の動きが止まる。小刻みに揺れている肩を、そっと後ろから抱きしめた。
「また明日来よう?」
前に回された俺の腕に、彼女の涙がいくつも零れた。特別背が高いわけでもない、特別がたいがいいわけでもない、標準的な体型の俺の腕の中に、すっぽりと囲われている綾は、思っていた以上に、細く、小さく、頼りなかった。
紙パックのジュースの残りを両方飲み干し、ゴミ箱に捨て、教室からフロックスの入った紙袋を手に、俯く綾の手を引いて、学校を後にした。
いつまでも生ぬるい甘さが口の中に居座っていて舌打ちしたくなる。
家までの短い距離を、黙ったまま手を引かれて歩くだけの彼女が、どうしようもなくせつなかった。俺は綾に何をしてやれるだろう。
鍵を開け、玄関ドアを開け、彼女を家の中に押し込む。俯いたまま玄関で立ち尽くしている綾を正面から抱きしめた。俺の体温が伝わるといい。