時の間の邂逅
第二話 迷い込んだ人不安なのはわかる。俺も同じ状況になったら不安になるだろう。そもそも、今の俺も思いっきり不安だ。
これ、どうすんだよ、俺。
けれど、どうしてか放っておけない。誰かに預ける気にもならない。俺が助けなければと強く思う。
あまりにも不安そうで、怯えているかのような彼女に、何度も「大丈夫」と気休めのように声をかけるけれど、やはり気休めだと伝わってしまうのか、さらに無言の怒りをかってしまう。
でもさ、他にかける言葉なんてないだろう?
いざとなったらできるだけのことはするつもりだ。ただ、俺にできることなんて限られてる。最終的には親父の手を借りようとは思っているけれど、今はまず落ち着いてもらわないと。
そう思いながら靴を履き替え、正面玄関から校庭に出るときに、彼女が薄く笑った。まるで自嘲という言葉がぴったりなその笑い方に、少し不安になる。
本当に大丈夫か? 彼女。
「そんな場合じゃないのに、なんだか上履きのままなのが恥ずかしいなって思う自分がおかしくて」
泣きそうな顔で笑いながらそんなことを言うから、思わず頭を撫でてしまう。まるで拾ったばかりの頃のクウのようだった。
「手、繋ぐ?」
自分でもよくわからない。けれど、そうした方がいいような気がした。
びっくりした顔でまじまじと見られたあと、やはり泣きそうな顔でそっと差し出された手を、できるだけ優しく握った。
クウと暮らすようになって知ったことは、不安な時は自分以外の体温がすぐそばにあると安心するということだ。
歩き出した俺の横で、周りの景色を見ながら目を見開いたり、目を細めたり、どこか安堵したようにうっすらと笑ったり、けれど、やはり彼女はすぐに泣きそうな顔に戻る。
学校から歩いて五分ほどの家に着いた。この近さがあの高校を選んだ最大の理由。そこそこ進学校で、そこそこ評判のいい高校。それが、さっきまでいた第一高校だ。このあたりで一番最初にできた高校だから第一高校。わかりやすい。
「ただいまー」
声を上げながら鍵を開け、玄関ドアを開けると、玄関先でクウがお行儀良くお座りして待っていた。しっぽがたしたしと音を立てながら思いっきり床の上を掃いている。
「クウ、ただいま」
頭を撫でてやると、こてんとひっくり返ってお腹を見せ、腹も撫でろと要求してくる。ひとしきり撫で回してやると、満足したのか今度は隣の知らない人が気になるようだ。
「あっ、犬大丈夫?」
「大丈夫。触ってもいい?」
彼女の目が輝いてる。
そうだろう? クウはかわいいだろう?
ちゃんと手の平を見せて、しっかり匂いを嗅がせたあとで、そっと下からクウの頬を撫でるようにして頭にその手を移動させ、耳の後ろや首の後ろを掻いている。クウが気持ちよさそうだ。
「犬飼ってるの?」
「子供の頃、飼ってたの」
少し寂しそうな彼女の様子から、もうその愛犬はいないのだと知れた。
来客用のスリッパを出して、リビングに案内する。背後から「お邪魔します」と小さな声が聞こえた。
そんなに散らかってないはずだと思っていたけれど……彼女の渋い顔を見るとダメだったようだ。慌ててその辺に放置されている雑誌や服をかき集める。
「男の二人暮らしなんてこんなもんだよ。ここ二週間は俺の一人暮らしだったけど」
言い訳がましい言葉が口をつく。そういえば掃除したのいつだったか。
「クウちゃんがかわいそうだよ。こんなに埃まみれの床」
ぐうの音も出ないとはこのことだ。見れば床のあちこちにクウの抜け毛が埃と一緒にふわふわと転がっている。そのクウは俺の足元でお行儀良くお座りしていて、それを見たらどうしようもないほどの罪悪感が湧いた。
「嫌じゃなきゃだけど、お世話になるお礼に私が掃除するよ」
「いや、悪いからいいよ」
「……ごめん。私が無理」
それから一時間以上かけてリビングの掃除をした。さして広くもないリビングの掃除に一時間以上かかったのは、しっかりと水拭きまでしたからだ。
「すげぇ。なんか、床が光って見える」
俺の感嘆の声に、すっきりとしたものから一転して訝しむようなものへとその表情を変えた彼女が、キッチンとお風呂とトイレの場所を聞いてきた。
その後、二時間かけて彼女がキッチンとお風呂とトイレの掃除をしてくれた。途中で俺はカビ取り剤を買いに行かされもした。廊下を掃除して水拭きもさせられた。自分の部屋の掃除もさせられた。
おかげで家中ぴかぴかだ。こんなにうちって綺麗だったのかと感動するくらい、ぴかぴかだ。
ぐったりとソファーに沈み込んでいる彼女にお礼を言えば、自分が耐えられなかっただけだからと、渋い顔を返された。
泣きそうな顔よりはいいと思うけれど、できればもっとかわいい顔を見せて欲しい。
「お腹すいたでしょ。お礼に何か奢るよ。何食べたい?」
「もうなんでもいい。今ならなんでも食べられる」
宅配メニューをいくつか持って来て彼女に見せると、やはり渋い顔をした後で「冷蔵庫見てもいい?」と聞いてきた。頷けば冷蔵庫を開けて中を見た彼女が一層渋い顔になっている。
「今日はともかく、明日はちゃんとご飯も作るから。しばらくお世話になります」
そう言って頭を下げた。
────◇────
宅配ピザを二人で食べながら、お互いのことを聞き合う。
綾──加納君と呼んだら、綾でいいと言われたので、遠慮なくそう呼ぶことにした──は、お父さんと二人暮らし。三年前に両親が離婚して、お母さんが家を出て行った。お父さんは現在香港に長期出張中。あと二週間もすれば一度帰ってくるらしい。
見た目、人の良さそうな雰囲気の、割と普通っぽい感じの人。まあ、私も普通っぽいから、人のことは言えないけれど。
「私のところは、んー…なんていうか、お父さんもお母さんもお互い干渉し合わないっていうか、体面的に結婚して、体面的に子供作ったって感じの人たち。お互いすっごい仕事人間だから、家にはほとんどいない。だから私も実質一人暮らしみたいなものかな」
「ああ、だから綾は掃除も手慣れてたんだ。もしかして料理もできる?」
「普通の家庭料理なら。凝った物は作れないし、ダシとかも顆粒ダシ使っちゃう程度だけど」
「いや、充分だろう。俺は大抵デリバリーか、コンビニ弁当だなぁ」
確かにピザだけじゃなく、パスタ屋さんやお蕎麦屋さん、中華屋さん、お弁当屋さんのメニューがあった。お好み焼き屋さんまであって、それはちょっとそそられた。
大抵の人は私の事情を知ると、可哀想な、同情したような目になる。けれど彼は、綾はそれをさらっと流した。彼自身も父子家庭だからなのかもしれない。特別なことではないという感じ。それがすごく楽だ。可哀想な、同情されるような私ではない、そのままの私でいいと思えば、すごく気が楽だ。実際私も彼の事情を知ってもなんとも思わない。
クウちゃんが時々クンクンと鼻をひくつかせながら、彼の足元でフセをして大人しくしている。
「クウちゃんっていくつ?」
「三歳くらい。うちに来て三年経った。そこの記念公園で保護したんだよ。その時たぶん生後ひと月も経ってないんじゃないかって言われてたから、いっそうちに来た日を誕生日にしたんだ。今時公園に犬捨てる奴いるのかって思って、すげえ腹立ったよ」
クウちゃんは小型犬だ。たぶん雑種。足の短さと胴の長さからダックスの血が入っているだろうといわれているらしい。子供の頃に飼っていたくるみはミニチュアダックスだったからか、くるみに少し似ていて切なくなる。くるみは、急性の病気になって呆気なく死んでしまった。まだ五歳だったのに。
ピザの匂いを気にしながらも、クウちゃんはお行儀良く彼の足元で待っている。きちんと躾けられてるのがよくわかる。
「クウちゃん、しつけ教室に通ったの?」
「俺が躾けた。オスワリとマテとフセしかできないけど」
これだけしっかりと躾けられていれば十分だと思う。
綾はしっかりしてる。私とは大違いだ。
どうしようもなく心細かった私の手を繋いでくれたり、掃除している間は気が散らないようにそっとしておいてくれたり、丁度いい頃合いで声をかけてくれたり、すごく気を遣ってもらっている気がする。けれど、それを感じさせないようにしているのが、同じ歳なのにすごく大人だと思う。
電子音が鳴って、洗濯物が乾いたと知らせてきた。
散らかっていた洋服も何もかもを洗濯機に放り込んで全部洗ってもらった。会ったばかりで、初めて来た家で、いきなり勝手に掃除するのはどうかと思ったけれど、正直に言えば、家全体が埃っぽくて男臭くて、少し困った。本当はかなり困った。絶対に深呼吸したくないくらい困った。
家電は全て最新式が揃っているらしい。洗濯機はドラム式だし、掃除機はサイクロンだ。すごく宝の持ち腐れな気がする。
彼が、乾いたばかりの衣類をばさっとソファーの上に放り投げて、すごく適当に畳んでいく。畳むというより丸めている感じだ。
だめだ、見ていられない。
下着だけは自分で片付けてもらって、あとはきちんと畳んでいく。なんというか、彼は大雑把なのかもしれない。逆に私は細かすぎるのかもしれない。
「お風呂、先に入りなよ。着替えは俺のでいい?」
そう言いながら渡されたのは、さっき畳んだばかりのルームウェアだ。どうしよう、下着の替えがない。同じことを思い付いたのか、綾がコンビニに誘ってくれた。
「お風呂の前に、コンビニに明日の朝ご飯を買いに行こっか」
すごく気遣われていると思う。
どうせなら駅前の二十四時間営業のスーパーまで足を伸ばそうと誘えば、そのスーパーは二十四時間営業じゃないと返ってきた。そう言われて思い出す、ここは2006年だということを。思い出すと途端に不安になる。
綾が当たり前のように手を繋いでくれていて、なんだか無性にそれに縋りつきたくなる。
コンビニに入ると「少し雑誌見ていい?」と気を遣ってくれた。替えの下着やスキンケア、歯磨きセット、ボディタオルを計算しながら次々とカゴに入れていく。三千円なんてあっという間になくなってしまう。この先何もかもを綾に頼らなければならなくなる。バイトして返すにしても、学校はどうすればいいのか。そもそも身分証明ができない。ここでの私はまだ八歳のはずだ。
ひょいとカゴを取り上げられて、頭をくしゃっと撫でられた。
「朝はパンでいいよな。サンドイッチにしようかなぁ。メロンパンにしようかなぁ。綾はなんにする?」
振り返った綾の目が、すごく優しくて泣きそうになる。もう一度、くしゃっと頭を撫でられた。