時の間の邂逅
第一話 迷い込んだ場所──早く。早く。早く。
もつれそうになる足を懸命に動かして、覚えたての道をひた走る。
見覚えはあるのにどこか違う。知っているのに知らないかのよう。さっきから目にする全てがそうだ。
昨日とは少しだけ違う、けれど、明らかにしっくりと目に馴染む景色に心がざわめく。
私にとっては昨日の続き。けれど、彼にとっては──。
────◆────
文化祭を翌日に控え、クラスの出し物の準備の総仕上げとばかりに、放課後の教室は慌ただしかった。足りないものの買い出しから戻って来て、一緒に行ったクラスメイトとともに教室の扉を開けた瞬間──。
そこは閑散とした誰もいない教室だった。さっきまでの喧噪はどこにもない。
「あれ?」
思わずもれた自分の声に焦る。すぐ隣にいたはずのクラスメイトの姿もない。教室を間違えたかと思って、開け放った扉から一歩後ろに下がり、その扉の上を確認すれば、2−Bと見える。
2−B。おかしい。2−2のはずなのに。
ふと隣の教室の入り口上部に掲げられているクラスを示す標札を見れば、2−A。更に反対側の教室を見れば2−C。おかしい。クラス表記がおかしい。
目の前にある教室の扉の色が少し違う。こんな緑がかった黄色ではなかったはずだ。クリーム色だったはず……。
「転校生?」
急にかけられた声に驚いて振り向くと、制服を着た男子生徒が少し離れた場所に立っていた。見覚えがあるようでいて知らないその顔に、どうしようもなく不安が込み上げる。さっきから心臓が痛いくらいにどくどくと強く脈打っている。
似ているようで少し違う制服。色も形も同じなのに、ブレザーの襟に白いラインが入っている。ネクタイがストライプじゃなくて無地だ。上履きの形も違う。パンツのチェックのパターンが違う。
近くまで来た男子生徒の訝しむような視線に、わけもわからずどうしようもないほどの恐怖が込み上げる。
慌ててポケットから出したスマホを操作すれば、ネットが繋がらない。電話もできない。おかしい。
ふと見れば、さっきの男子が目を見開いてスマホを凝視している。その視線にかまっていられない。誰かと連絡を取りたい。
「あの、携帯貸してもらえませんか?」
「え? ああ、いいけど……」
出されたそれを見て戸惑う。今時珍しい形のガラケー。ずいぶんと丸みのある二つ折り。パカッと開ければ、びっくりするほど古い型だとわかるプッシュボタン。
けれど、余程大切に使っているのか、新品のように傷ひとつない。
──お掛けになった番号は、現在使われておりません。
渡された携帯電話から聞こえた感情の欠片も感じられないアナウンスに、目の前が真っ暗になる。別の番号にかけても同じだった。母の番号、父の番号、家の電話、友達の番号、全てが使われていないと返される。
さっきまでいたはずの学校と似ているようでいて、どこかが違う。ぴったりと重なり合わない景色に頭がおかしくなりそうだ。
夢じゃない。
さっきから握りしめている手のひらに、爪が食い込んで痛い。この痛みがなければ、正気を保っていられそうもない。
「ちょっ、どうした? えっ、どうしたの?」
ぎょっとした顔で慌てるその人に、首を傾げる。
「気付いてないの? 君、泣いてるよ」
言われた瞬間、嗚咽がもれた。どうしていいかわからなくて泣いてしまうなんて、まるで迷子の子供の様だ。本当にどうしていいのかがわからない。
ここはなに? 私はどうなっている?
「大丈夫?」
大丈夫じゃない。
かけられた言葉にそれ以外に返す言葉が見付からない。返すことすらできない。
「ここ、一高?」
「そうだけど、本当、大丈夫?」
真っ青だよ、と心配そうに覗き込まれる。へたり込んでしまった私に合わせるかのように、目の前に立っていた彼もしゃがみ込んだ。
高校の名前は同じ。廊下の窓から見える中庭の景色は木の位置や花壇の位置が同じだった。よろよろと立ち上がり、もう一度しっかりと窓の外を見れば、見慣れていた景色と少し違うような気がする。
あの桜の木はこんなに小さかった?
わからない。さほど意識していなかった木の大きさなんて、はっきりと憶えていない。
ああ、けれど──。
その向こうに見える街並みが違う。在るはずの場所に在るはずの建物がない。ぽっかりと空いている空間に吐き気を覚えるほどの不安が込み上げる。
「図書館がない」
「市立図書館? それなら記念公園の側にあるけど」
わけがわからない。その言い方だとまるでここは過去みたいだ。記念公園の側にある古い図書館は去年の春に取り壊されている。
「あの、今何年?」
「西暦? 2006年だけど」
あからさまに訝しげな顔をされた。もうやだ。本当にどうしていいかがわからない。
私がおかしいの? 彼がおかしいの?
────◇────
もうやだ。そう小さく呟いて再びへたり込んでしまった彼女を、とりあえず教室に引っ張り込んで自分の席に座らせる。
混乱しているらしい彼女以上に、俺も混乱している。
さっき見た彼女の持っていた物、あんなもの見たことない。電子手帳かと思ったけれど、どうも違う。電話もできる電子手帳なんて知らない。雑誌に載っていた次世代携帯電話みたいだった。
おまけに俺の持っている最新機種の携帯電話を訝しむように見ていた。まるで「今時これ?」という声が聞こえそうなほどの表情。
極めつけは西暦を聞いた時の彼女の絶望したような顔。
「話、聞いた方がいいよね」
のろのろと顔を上げた彼女の縋り付くような目に、思わず狼狽えてしまう。自分で言っておきながら、早まった気持ちになる。
「あの……」
そう言ったきり、言葉を探すように目を泳がせている彼女に、とりあえず自己紹介する。
「あー、俺、加納綾。ここは俺のクラスで、ここは俺の席」
机の上に指で自分の名前を書きながら教える。
「同じ字……私、井上綾。本当はここは私のクラスのはずで、あの席が私の席だったはず、なんだけ、どっ……」
そこまで言って言葉に詰まった彼女は、みるみるうちに目に涙を溜め始めた。
慌ててポケットからハンカチを出すも、使用済みのハンカチを渡すのはどうかと一瞬悩んで、折り畳まれたハンカチの内側が表になるようたたみ直し、遠慮がちに彼女に渡した。
彼女が指差した席は俺の席の斜め二つ後ろ。その席は見た目ごついのに気弱な佐山の席だ。
ゆっくりと、たどたどしくも自分の置かれた状況を話す彼女は、話しながら落ち着きを取り戻しつつあった。それにつられるように俺も落ち着き出す。
つまりは、教室の扉を開けたら、九年前にタイムスリップってことらしい。
あまりに嘘くさい話なのにそれを信じられるのは、彼女が見せてくれたスマホという携帯電話。そこにしっかりと今日の日付と共に2015の羅列。なにより、財布から出された硬貨の製造年に「平成22年」や「平成24年」があった。今は平成十八年だ。
「マジか……どうする?」
「どうしよう。お財布と携帯しかない。しかも携帯繋がらないし」
さらに詳しく聞けば、彼女はここに中学入学と同時に引っ越してきたらしい。つまり彼女にとっては五年前、俺にとっては四年後だ。それまでは隣の県にいたと言う。
「じゃあ、この辺に知り合いは──」
「いない」
いたとしても頼れないだろう、こんなおかしな状況では。
隣の県まで連れて行ってもいいけれど、それはどうなんだ? もう一人の自分と対面するのは、まずいんじゃなかったっけ? ドッペルゲンガーだっけ?
その時、最終下校を促す放送がかかった。日が暮れて窓の外はまだ明るさを保っているものの、教室の中はすっかり薄暗くなっている。
「あー、とりあえず俺んちくる? 今父親は出張でいないし、母親は離婚して出てったから、俺一人なんだけど……」
普通に考えて嫌だよな、見ず知らずの男の家に来るのは。
黙り込んだ彼女を見て、駅前のビジネスホテルにでも連れて行こうかと思ったところで、彼女が小さく「お願いします」と頭を下げた。
────◇────
「とりあえず明日から三連休だし、その間に色々考えよう」
三連休? ああ、そうか曜日が違うのか。本当にここは2006年……。
「なに?」と心配そうな顔をする加納綾と名乗った彼は、ずいぶんと人がいい。なんというか、目尻が少し下がっているからか、見た目からして人が良さそうに見える。
自分でも未だ信じられないことを信じてくれて、あまつさえ行く当てのない見ず知らずの女を自分の家に招いてくれる。
警戒しないわけではないけれど、お財布の中には三千円くらいしかない。スマホが使えないなら、高校に入る時に新たに持たされたカードも使えないはずだ。両親は──きっと連絡を取ったところでどうしようもない。思わず焦って連絡しようとしたけれど。
「曜日が違うんだなって思って。今日は月曜日だったから」
「あー、今日は木曜日なんだよ。明日が金曜で文化の日」
確か文化の日に文化祭をするようになったのは数年前からだと聞いたことがある。
彼に連れられ、生徒玄関に向かいながら見た景色は、どれも見覚えがあるのにほんの少しだけ違うものだった。あのぼろぼろになっていたはずの掲示板がまだ新しい。ちらりと見たその枠の隅に「平成十七年寄贈」と小さく書かれていた。
それを目にした瞬間、頭に浮かぶのはひとつの言葉。
──おかしい。おかしい。おかしい。
さっきからずっとそれだけが頭に浮かんだままだ。
歩き慣れているはずの廊下を足早に進む。時々擦れ違う、彼と同じ制服を着た人たちの目が、まるで異物を見るかのようだ。実際に私は異物なのだろう。
見覚えはあるのにどこか違う。知っているのに知らないかのよう。さっきから目にする全てがそうだ。
──いつから?
ほんの一時前までは普通だった。そう、普通だったはずなのに……。
急に腕をとられてたたらを踏む。
「大丈夫? そんなに急がなくても大丈夫だよ」
優しく告げられた言葉に、八つ当たりしたくなる。そりゃあ、あなたは大丈夫だろうけれど、私は何もかもが大丈夫じゃない。
「大丈夫だよ。一緒にいるから」
もうやだ。心配してくれているのはわかっているのに、どうしてわかってくれないの、そう叫び出したくなる。
「大丈夫。ちゃんと帰れるから」
根拠のないその言葉に怒りすら湧く。
それなのに。それなのに──。
かけられた言葉に救われたかのような気持ちになる。
ローファーに履き替えた彼と並ぶと、上履きのままの自分が恥ずかしい。今はそんなことどうでもいいはずなのに、そんなことが気になる自分がおかしくなる。
なに? とでも言いたげな彼にそのことを伝えると、どうしてか子供にするかのように頭をくしゃりと撫でられた。