時の間の邂逅
第三話 迷い込んだ夜綾の手を引いてコンビニから家に戻ると、そのまま彼女を風呂に押し込んで、一息ついたところで緊急事態発生。うちに客用のベッドなんてない。親父のベッドか、俺のベッドしかない。布団もそれぞれ一人分ずつしかない。俺が親父のベッドで寝るとして、彼女は俺のベッドで寝られるだろうか。
慌てて自分のベッドを確認しに行けば、彼女が渋い顔をしそうな状態だった。とりあえずシーツは全部替えよう。確か新品のシーツもベッドパッドもあったはず。枕は……一番臭いそうだよな。明日晴れたら絶対に布団干そう。そもそも俺、あの親父のオヤジ臭漂うベッドで寝るのか……泣ける。リビングのソファーでクウと一緒に寝よう。
階下の物音に綾が風呂を出たことを知る。急いで取り替えたシーツをかき集めて階段を駆け下りれば、風呂上がりでほかほかしている綾が、俺の服をだぼっと着てほけーっとしていた。
ヤバい。一番肝心なことを忘れていた。俺の理性、大丈夫か?
「俺も風呂入ってくる」
「んー。お風呂先にありがとー」
うとうとしている彼女を残して、片付け忘れていた畳んでもらった洋服の中から着替えを抜いて、慌てて風呂に向かう。
洗濯機にシーツ類を放り込み、ついでに着ていた服も放り込み、洗濯開始。洗濯機の上にさっき彼女に貸したハンカチが何かを隠すように干してあった。なんの気なしにそれをめくったら、綾の下着が目に飛び込んできた。ヤバい。薄い水色が目に焼き付く。ヤバい。さっきコンビニで目にした真新しい女性用の下着なんてなんとも思わなかったのに、彼女がさっきまで身に着けていたかと思うとダメだ。
頭から水を浴びても、しばらく熱は収まらなかった。
水を浴びすぎてすっかり体が冷え、慌てて風呂に飛び込んで芯まで温まっていたら結構な長風呂になってしまった。湯船に浸かることが久しぶりすぎて、じんわり感動したことも大きい。
ソファーの肘掛けにもたれて寝ている彼女を起こそうと、その肩を軽く揺すれば、無防備な顔で見上げてくる。やめてくれ。襟ぐりからのぞく鎖骨から目が離せない。
ってか綾、ノーブラかよ! そうだよな、コンビニにブラは売ってないよな。うんそうだそうだ。だから見るな俺。
「綾、ほらベッド行こう」
動揺を誤魔化すように声をかけると、こくんと頷く彼女が俺の手を握ってきた。やばい。本当にヤバい。
その手を引きながら階段を上り、俺の部屋のベッドに座らせる。
「ごめん、客布団がなくて、俺のベッドだけど我慢して。シーツとかは新しいのにしてあるから」
「綾は?」
「俺はリビングで寝るから大丈夫」
「ソファー?」
「そう、ソファー」
「悪いよ」
「悪くないよ。綾はしっかり寝て、明日たくさん考えないといけないだろう?」
眠いのか、ゆっくりとした口調で、ほわほわと返してくる。
「ごめんね。ありがとう」
「いいよ」
手を離そうとしたら、また泣きそうな顔になる。そりゃそうだよな。心細いはずだ。
「寝るまでそばにいるから」
くしゃっと顔を歪めて、もそもそと布団の中に潜り込む。布団から顔だけ出して、不安そうに俺を見上げるその表情に、ぐっと胸がわしづかまれた。
「迷惑かけてごめんね。さっきもお金払ってもらっちゃって。あとで絶対に返すから」
「いいよ、そんなの。今日の掃除のバイト代だよ。風呂がきれいでスゲー気持ちよかった。湯船に浸かるのなんて久しぶりだよ」
「よかった」
ベッドヘッドを背もたれにして、綾とぽつぽつ話しているうちに、いつの間にか返事がなくなった。力の抜けた手をそっと離して、布団の中に入れてやる。
出会ったばっかりなのに、守ってやりたくなるのはどうしてだろう。
────◇────
ぱちっとスイッチが入ったかのように目が覚めて、いつもと違う寝心地に一瞬自分の状況がわからなくなる。
綾の部屋だ。
わかったと同時にがっかりする。目が覚めたら元に戻っていたなんて、そんなに都合よくはいかないらしい。これからどうやって生きていこう。それを考えると泣きそうになる。
そっと階段を降りて、昨日お風呂で洗って洗濯機の上に干しておいた服に着替える。なんとなくソックスが生乾きな感じだけれど仕方ない。洗濯機の中にシーツらしき物が入っていて、替えてくれたシーツかと思い、洗濯機から出して畳んでおく。紛れていた彼の下着も、一瞬躊躇したものの、シャツやソックスと一緒に一応畳んでおいた。
そっとリビングに顔を出すと、ソファーで丸まって寝ている綾が見えた。抱えているクウちゃんが私に気付いてしっぽを振ってくれる。彼が起きるからと「しーっ」と口元に指を持っていけば、クウちゃんのしっぽの振り具合が小さくなった。賢い子だ。
静かに2階に上がって、彼の部屋から布団を持ってきて、そっとかけておく。ついでにクウちゃんの頭もひと撫ですると、大人しく彼の腕の中に収まった。
こんなにかわいい子を捨てるなんて。昨日の綾の怒りを思い出す。けれど、病気に気付かずくるみを死なせてしまった私も同じくらい怒りを向けられる存在だ。どれだけ後悔してもくるみは帰ってこない。
音を立てないようダイニングの扉を開け、キッチンで朝ご飯の用意を始める。勝手に使うのはどうかと思ったけれど、昨日の惨状を思うと、むしろ私が手を出した方がいいような気がする。
言い訳じみた思考に苦笑いしながら、昨日買ってきた食パンにバターを塗ってベーコンをのせ、トースターに入れておく。彼が起きたら焼き始めよう。
出しっ放しになっているインスタントコーヒーを、食器棚のガラスの扉越しに見えたマグカップを取り出して、スプーンで多めに入れておく。濃い目に入れてカフェオレにしよう。
ウォーターサーバーがあるからお湯を沸かす必要もない。ウォーターサーバーなんて初めて使う。本当にお湯が出るのかを思わず確かめると、ちゃんとお湯だった。すごい。
牛乳が冷蔵庫に入っているのは昨日チェック済みだ。バターなどの調味料は驚くほどに揃っていた。このバターだってフランスの発酵バターだ。お塩もいくつも種類があって、スパイスなんて全種類揃っているのではないかと思うほどの数が、スパイスラックにずらっと並んでいる。
食器もすごく高価な物が揃っている。ドイツの名窯を日常使いする家なんて初めてだ。昨日シンクに無造作に置かれていたその高価な食器を、彼がなんの抵抗もなく全部食洗機に入れていてびっくりした。
そういえばと見れば、ダイニングセットも雑誌で見たようなスタイリッシュなデザイナー物だ。ソファーの座り心地が信じられないほど気持ちよかったことを思い出す。だから昨日うっかりうつらうつらしてしまった。もしかして綾のお家はお金持ちなのかもしれない。けれど、それにしては家の大きさは一般的だし、男二人暮らしなのに昨日の惨状を考えると家政婦さんを雇っているわけでもなさそうだ。
ダイニングに座ってぼんやりととりとめのないことを考えていたら、てちてちと足音を立ててクウちゃんがやって来た。リビングの気配がわかるようにダイニングの扉を少し開けておいたからか、そこから入ってきたらしい。足元にちょこっとお座りしているキツネ色のクウちゃんの頭を撫でていると、綾があくびをしながらダイニングに入ってきた。
「おはよう、よく眠れた?」
「おかげさまで。夢も見ずぐっすり」
「ん、よかった」
トースターのスイッチを入れ、インスタントコーヒーを入れておいたマグカップにウォーターサーバーからお湯を半分まで注ぎ、レンジで温めた牛乳もたっぷり注いだ。コンビニの野菜サラダを一度水洗いして、器に盛り直す。冷蔵庫からドレッシングを出して、一緒にテーブルに並べた。
焼き上がったトーストにコンビニで買ってきた温泉卵を落とし、少しだけ割って、そこにお醤油を少し垂らす。お醤油もいくつも種類があって面白い。牡蠣醤油を使ってみた。
「垂れないように気を付けて食べて」
きっと一枚じゃ足りないだろうから、齧りついている間にもう二枚同じように作っておく。「うわっ」と言いながら口の端から卵の黄身を垂らしている綾を見て、思わず笑ってしまう。
笑いながら席に着けば、彼が優しい目をしていた。
「ん、笑えてよかった」
かあっと一気に全身が熱くなる。なにそれ。なにそれ。なにそれ。そんな顔でそんなこと言うの? 綾ってたらしなの? すっごく恥ずかしい。
チーンと鳴ったトースターに助けを求めるように席を立ち、空いていた彼のお皿にトーストをのせ、温泉卵を割り落とす。今度はお塩と黒胡椒をかける。
齧りついた綾がまた口の端から黄身を垂らしていて、さっきのたらし発言とのギャップに笑ってしまう。
「どっちが好き?」
「んー、どっちも」
「もう一枚はどっちにする? それともポン酢にする?」
「いいねポン酢。それにしても、これうまいなぁ」
「簡単だから綾も作れるよ」
おいしい匂いにクウちゃんが足元でそわそわしている。
「クウ、お座り。落ち着きなさい」
そうクウちゃんに言いながら、ぺろりと食パンを三枚も食べた彼は、「朝飯なんて久しぶり」とすごく嬉しそうに笑ってくれた。こんな簡単なものなのに、喜んでもらえてよかった。
「とりあえず、まずは綾に必要な物を買いに行こう。着替えとか必要だろう?」
「そうだけど……」
そういう物を買ったら帰れなくなりそうな気がする。
「いい。嫌じゃなかったら綾の服貸してもらえる?」
「それはいいけど、俺のでいいの?」
「いいの。ごめん。なんだかそういうの買ったら帰れなくなりそうで怖い」
「そっか。じゃあ、俺の服見て着られそうなの適当に着て」
「ごめんね」
ふと気が付く。彼女がいたら嫌がるかもしれない、自分の彼氏の服を知らない女が着ていたら。そもそも彼氏の家に知らない女がいること自体嫌なはずだ。
「綾、彼女は?」
「いない。綾こそ彼氏は?」
「いない」
よかった。とりあえずよかった。修羅場回避だ。