時の間の邂逅
Hidden Story
そして、今 綾─Aya


 いつもより布団の中があたたかくて、ふわふわとした幸せな気持ちで目が覚めた。
 うっすらと霞がかった視界がクリアになっていく。と、目の前にいきなり(りょう)の顔。寝起きの頭が一瞬パニックになる。

 なんで?

 綾と一緒に寝たことは何度かある。大抵はものすごく私が落ち込んでいる時だ。昨日私は何か落ち込んでいたのか……。どれほど思い返しても、昨日の放課後以降の記憶がない。どうやって帰ってきたのかすら覚えていない。

 不安になって、綾の寝顔をじっと見つめる。静かに聞こえるゆったりとした寝息。見つめているうちに、同じタイミングで呼吸しているうちに、なんとなく不安が薄れていく。
 お腹に巻きついている綾の腕の重みとぬくもり、綾がいればなんとかなるという刷り込みにも近い感覚が、不安をじわじわと押し出していく。

 最初の頃は、大人の綾がなんだか照れくさくて恥ずかしかった。手を繋ぐだけでどきどきして、やんわりと抱きしめられるだけで心臓が止まるかと思った。それと同時にそれまで感じたことがないほど安心した。まるでそこが自分の居場所のような、そこにいるだけで安心するような、それまで感じたことがなかった心からの安らぎを感じた。
 何よりも優先されている自分の存在が、すごく大切なもののように思えた。そう思えるようになった。思えさせてもらえた。

 ずっと綾のそばにいる。

 不意に閃きのように浮かんだその想いは、けれど自分の中に当たり前にあるものだ。どうしてか、まるで誓うかのように決意をもってそれを深く強く心に刻む。
 なんだかおかしくなった。今更何を決意しているのか。もうずっと前から、それこそ出逢った時から、そう思い続けているのに。

 ふと枕元にあるデジタル時計に目を向ければ、六時四十二分。今日は土曜日。本来なら綾はお休みだ。
 けれど、綾は今日も仕事かもしれない。前日にそれを確認した覚えがない。一瞬迷ったものの、念のためにと綾の肩を軽く揺すって起こす。

(りょう)、今日土曜日だけど、仕事?」
「んー…、今日は午後からにしてもらった」
 眠そうに目を開けた綾に、じっとその目をのぞき込まれた。何かを見透かそうかとするようなその視線に、なんだろうかと首をかしげ、なんとなく照れくさくてへらっと笑う。

「じゃあ、もうちょっと寝る?」
 目を細めた綾の、お腹に巻きついていた腕に力がこもり、ぐっとその胸に引き寄せられた。

「寝る。(あや)も寝て。綾も昨日遅かったでしょ」
 まるでその記憶がない。再びまどろみ始めた綾の腕の中、その全てがすっぽりと包み込まれたかのように囲われると、そのあたたかさと吸い込んだ綾の匂いに気持ちが緩み、つられるように眠気が襲ってくる。記憶がない不安を感じてはいるものの、寝足りないと訴える頭と身体に抗うことなく、もう一度眠りについた。



 聞こえてきたのは着信音。この音は綾のだ。

(りょう)、電話……」
 いつもよりもゆっくりとした動きで綾が目の前に掲げた画面には、「ゴリ山」と表示されていた。「佐山先生」と脳内変換される。

「なに?」
 思いっきり低く不機嫌な第一声は、いくら仲がいいとはいえどうなのかと、眠気が抜けきらない頭に浮かぶ。かすかに聞こえるどこか焦ったような佐山先生の声。何かあったのかと、どうにか眠気を追いやろうとする。見れば、綾の顔が怖いくらい真剣だ。一気に眠気が吹き飛んだ。

「何かあった?」
 小声で話しかける。

(あや)、昨日学校に鞄忘れていった?」

 慌てて飛び起き、自分の部屋に確認に行く。いつもの定位置に鞄がない。そもそも昨日の放課後から今朝までの記憶がない。
 急に、怖くなった。
 慌てて綾のところに戻ろうと振り向けば、部屋の入り口に通話を終えた綾が携帯電話片手に立っていた。

「これから佐山が鞄持ってきてくれるって」
「先生が? 学校はいいの?」
「いいんだろう。それより、(あや)、昨日のこと覚えてる?」
 佐山先生のことに対するどうでもよさそうな声と、そのあとに続いた強張った声の違いに身体が震える。どんなふうに言えばいいのかがわからなくて、目をそらせないまま小さく首を横に振った。

「昨日、(あや)は少し変だったんだ。間違いなく綾なのに、俺の知る綾とは少し違うような、なんっていうかな、大人びているのに儚げとでもいうか、今にも消えてしまいそうな雰囲気だった」
 眉を寄せ、腕を組んでドア枠にもたれて立っている綾からも、どこか困惑したような、そんな感じが伝わってくる。

「それが……覚えてないの。昨日の放課後から、朝、目が覚めるまでの記憶がない」
 よくわからなすぎて自分でも怖い。何をどう説明すればいいのかがわからなくて、思わず自分を抱きしめるかのように腕をさすると、どこかにぶつけたのか左腕に鈍い痛みを感じた。

「覚えていることは何もない?」
 頷けば、綾は眉間にしわを寄せ、唸りながら「ひとまず顔でも洗うか」と、洗面所に向かった。そういえば佐山先生が来ると言っていた。慌てて着替え、同じように洗面所に向かう。

 身支度を整え、リビングに顔を出すと、クウちゃんが待ってましたとばかりに朝の挨拶をしに近寄ってきた。鼻先をとんと足にぶつけたあと、早足にトイレトレーに向かう。クウちゃんはトイレの前にこんなふうにお知らせしてくれる。終わったあとにもお知らせしてくれるので、ご褒美にひと口サイズのささみジャーキーをひとつ与える。もらう直前にきちんとお座りして、毎回ぺろっと舌舐めずりをしながら待っているのがすごくかわいい。

 クウちゃんのトイレの後始末をして、彼女のご飯を用意し、自分たちのご飯も用意しようと冷蔵庫を開けて驚いた。
 たくさんの作り置きのおかずらしきものが詰め込まれていた。冷蔵庫にあった食材はほぼ空になっている。自分で作った覚えはない。お義父さんは今オーストラリアだ。綾は相変わらず料理はしない。

 全てを冷蔵庫から取り出し、ダイニングテーブルに並べてみる。家中の保存容器を使っているかのようなその量に唖然とする。週末買い物に行かなくても済むようにと、一昨日買い置いていた食材が空になっていたのも頷ける。

 一体誰が……気味が悪くなり、口にする気もおきず、捨ててしまおうかと思い始めたところで、足下にいるクウちゃんが、その考えを咎めるかのように一度だけ吠えた。
 クウちゃんが吠えるなんて珍しい。思わずしゃがみ込んで、クウちゃんに話しかけてしまう。

「これ、誰が作ったかクウちゃん知ってるの?」
(あや)が作ったんだろう? 昨日そんなこと言っていたよ」
 いつの間にか背後にいた綾の声に、思わず眉を寄せる。まるで記憶にない。けれど確かによく見れば、私の作ったものだとわかる。野菜の切り方やアレンジの仕方が、自分で作るものと同じだった。

「これ作ったことも覚えてない? かなりの量だよ?」
「覚えてない。記憶喪失なのかな?」
「病院行く? なんか、俺今日は会社休むよ」
 不安そうな顔をしていたのか、困惑したような表情の綾が、それでも大丈夫だと言わんばかりに、その腕の中に囲ってくれた。足下にはクウちゃんが擦り寄っている。

 私は、何を忘れたのだろう。
 こんなにたくさんの料理を作るなんて、何を考えていたのだろう。

 そのとき、インターホンが佐山先生の来訪を告げた。



「記憶がない?」
 佐山先生の素っ頓狂な声がリビングに響いた。足下に伏せていたクウちゃんが、うるさそうに自分のクッションに移動して、耳をふさぐかのように丸くなる。

「俺はまたタイムトリップでもしたのかと思って、めちゃめちゃ慌てたんだけど……なんか今朝は嫌な予感がして目が覚めたし」
「お前の嫌な予感は大抵当たらないからなぁ……」
 綾が胡散臭そうに呟けば、それに佐山先生が心外だと言わんばかりに目で訴えている。この二人は見ているだけで面白い。
 気を取り直すかのように小さくため息をついた佐山先生の目が、綾の隣に座る私に向けられた。

「井上、一応鞄の中確認しろ」
 渡されていた鞄のファスナーを開ける。特に無くなっているものはない。増えているものもない。ふと、キーケースを見つけて首をかしげた。

「私昨日、どうやって家の中に入ったんだろう? 鍵、鞄の中なのに……」
「合い鍵どこかに隠してないのか?」
「そんな危険なことするかよ。合い鍵は(あや)の実家に預かってもらってる」

 やはり自宅に一度戻ったのか。だとしたらどうして制服がこの家にあるのだろう。この家の自室のいつもの場所に制服がしっかり掛けられていた。自宅に戻っているなら着替えたはずだ。制服姿でこの家に出入りするのは、できるだけ控えるようにしているのに……。
 忘れられた鞄も、鍵のことも、制服のままだったことも、山ほどの料理も、自分のことのはずなのになにひとつわからない。

「加納、井上みたいに記憶が抜け落ちていたことある?」
 真剣味を帯びた佐山先生の声に、思考が中断される。

「いや、ないと思う。酒飲んでも記憶がなくなったことはないし」
「となると、井上は未来に行ったのか? 昨日加納が会ったのは未来の井上か?」
「あー、そう言われると違和感の説明がつくような……でも、昨日の(あや)も高校の制服を着ていたんだ」
 二人揃って考え込んだ。

 それは、ほんの数日先の未来ということになるのだろうか。卒業まであとほんの少しだ。そんな数日程度の未来の私に、綾は違和感を覚えるだろうか。

「井上、昨日頭ぶつけたとか、そういったことはなかったんだろう?」
「ありません。昨日の放課後、日直で……職員室から教室に戻ったところからの記憶が、……教室の、後ろのドアを開けた、ところから?」
 記憶を辿るように言葉にすれば、それはまるであの日と同じだ。担任に日誌を届け、教室に戻って帰ろうとしていた。スライドドアを開けたその瞬間からの記憶がない。

「またタイムトリップしてるな、たぶん」
 井上は意外としっかりしているから、鞄を忘れて家に帰るなんてことは考えられない。事件に巻き込まれたと考えるよりは、またタイムトリップしたと考える方が、井上の場合は自然だ。
 そう佐山先生の声が続いた。

「だから、慌てて加納に連絡したんだ」
 タイムトリップの方が自然だと考える佐山先生もどうかと思うけれど、そこで納得できてしまう私もどうかしている。
 思わず綾を見れば、同じようなことを考えていたのか、なんともいえない表情をしていた。