時の間の邂逅
Hidden Story二年前 迷い込んだ後悔
最初は問題ないと言われていた。だから綾には知らせなかった。彼は彼で少しでも早く独立したいと、必死に働いてくれていたから。その邪魔をしたくなかった。
何より、治るものだと信じて疑わなかった。自分の感覚では健康そのものだったから。テレビで克服した人たちが何度も話題になっていたから。入院を勧められたわけでもなかったから。たいしたことはないと、あまりにのん気に考えていた。
けれど、薬の効果が現れず、あっという間に病状は進行し、わずかひと月後には余命宣告を受けた。パニックになり、何も考えられず、誰にも相談できず、自分一人で抱え込み、医師の勧める緩和医療施設に入院した。
請求される医療費の支払いは、高校の時のバイト代を使わずに貯めていた口座から支払っている。そのお金は元を正せば綾やお義父さんからもらったものなのに。
健康保険を使っている以上、いずれ知れるだろうこともわかっていた。
落ち着いて考えれば、それは彼に対してあんまりなことだと気付いた時には、もう一人で歩くことすらできなくなっていた。何も考えられず、呆然と過ごすうちに、身体は見る間に衰弱していった。
余命宣告よりも早い、たった二ヶ月足らずで、私は終わりを迎えようとしている。
過去に行ったあの時、後先考えず綾との子供をつくっていればよかった。きっと、そのために過去に迷い込んだ。せめて子供がいれば、きっと少しは違っていた。
無責任にも思えるその思いは、けれどずっと頭から離れなかった。
結婚してわずか数年、綾はまだ若い。子供がいない分、自分がいなくなった後の再婚の可能性を、あの時咄嗟に考えてしまった。
後になって考えれば、九年も待ち続けてくれた彼が、再婚なんてするはずないのに。せめて子供がいれば、彼の支えになってくれただろうに。再び私が消える恐怖は、どれほど彼を苦しめたことか。
落ち着いて考えれば、わかりきっている事実が、あの時は何ひとつわからなかった。何もかもを間違えた。それに気付いた時には、もう何もかもが遅すぎた。
予期せぬことに襲われ、その視野は想像以上に狭くなり、明らかに間違った答えをそれしかないと強く思い込み、考えられないほどの愚鈍さを呈した。
後になって、どうしてあんなふうにしか考えられなかったのだろうかといくら首をかしげたところで、それはもう無意味だ。
「綾、お風呂入っておいで」
気付けばソファーに座るその目の前に、いつの間にかお風呂を済ませた綾が、心配そうな顔で膝をついていた。
大きくあたたかな手で両手を包み込むように握られ、そのぬくもりがじんわりと染みこんでくる。それはあまりにあたたかで、どうしようもなく胸を締め付けた。
「本当に何もない? 今日の綾、少し変だよ?」
「ん、何もない。少し考え事してただけ。お風呂入ってくる。綾は先に寝てて」
そう言ったのに、急いでお風呂を済ませてリビングに顔を出せば、綾はそこで何かをじっと考え込んでいた。
「寝てなかったの?」
「ん、なんとなく。俺も考え事してた」
そう言ってソファーから立ち上がった綾は、やはり心配そうな顔をしている。
「綾、今日は一緒に寝よう。なんだか綾が消えてしまいそうだ」
繋がれた手を引かれ、明かりが消され、暗闇の中彼の部屋へと連れて行かれる。きっと私は、驚愕を隠せなかったのだろう。握られた手にはいつになく力が込められていた。
先にベッドに入った綾が、手を離さずにそこに引き入れようとする。この頃は、綾の部屋に掃除のために入ることはあっても、そのベッドで寝ることなんて滅多になかった。こんなふうに何かあった時だけ。もしかしたら、ベッドに触ることができないかもしれない。
そんな不安が繋がれた手から伝わってしまったのか、綾に誤解された。
「一緒に寝るの、嫌だった?」
「違うの。そうじゃないの。本当はすごくうれしいんだけど……」
言いよどむと、また別の誤解をされた。
「まだ何もしないよ。一緒に寝るだけだから」
なんともいえない顔でそう返された。ずっと綾が自分より私の気持ちを優先してくれていたのを知っている。誰よりも私のことだけを優先してくれていた。私は、そんな綾に甘えてばかりだった。
違うと声を上げる前に、咄嗟に首を横に振る。
嘘が嘘を呼び、誤解がさらなる誤解を生む。こうして人はすれ違っていくのかもしれない。
恐る恐るベッドに触れると、指先はちゃんとその質感を伝えてきた。綾が手を繋いでくれているからかもしれない。思わず繋がれた手に力がこもる。
「そんなに力まなくても大丈夫だから。不安にならないで」
再び違う、と言いかけて口を噤む。どんなふうに言えばいいのか、咄嗟に言葉が思い浮かばない。
綾の手を離さないよう、それに縋るようにその隣に滑り込む。横たえた身体を背後から綾の両腕に包み込まれ、伝わってくるぬくもりがどうしようもなくうれしくて、体中の力が抜ける。
それと同時にどうしようもないほどの寂しさに襲われた。もう二度と得られないぬくもり。この手を離したのは私だ。
なんとなくわかっていた。きっと今回は留まれる時間が短い。きっと翌朝にはここにいない。
もし、目覚めることができたなら、もし、まだ生きていたなら、どんなことをしてでも綾に会おう。そう心に決めた。
こんなに愛しているのに、自分勝手なほど愛しているのに、どうして私は……。
愛しているからこそ、余計なことを考えた。誰よりも求めるからこそ、誰よりも知らせたくなかった。その身勝手さを、思いやりや愛にすり替えてしまった。
「綾。何が不安? 結婚するの嫌になった?」
背中から伝わってくるぬくもりが、落ち着いた声とともにかすかな振動も伝えてきた。そんなことまで伝わる距離にいるのに、肝心なことが伝えられない。
誤解に誤解が積み重なっていく。
否定の意味で首を振り、少し考えて、ゆっくりと言葉を選ぶ。一番伝えたいことを、声が震えないよう、ことさらゆっくりと言葉を紡ぐ。
「ただ、ずっと一緒にいたいだけなの」
「結婚するのは嫌じゃないの?」
「嫌じゃない。綾じゃなきゃ嫌だって思うから。ただ、ずっと、ずっと一緒にいたい」
背後から、考え込むような気配がしている。
「ねえ、綾。今より給料が下がるけど、その分残業が少ない会社の方がいい?」
驚いて咄嗟に身体の向きを変える。向かい合った綾の表情は、暗闇の中でも落ち着いて見えた。
「知り合いに誘われているんだ。そこから独立の道に進むには、今の会社より少し遠回りになるんだけど、その分仕事も余裕を持ってできると思う。もしかしたら独立することなくその会社でずっと働くかもしれない。家からも近くて歩いて通える分、朝もゆっくりできる」
先を促すように頷けば、綾の静かな声がゆっくりと続いた。
「最初は断るつもりだったんだ。何よりも独立を優先していたから。今の会社はネームバリューもあるし。……でも、これでいいのかって思う自分もいる。こんなふうに毎日寝るためだけに家に帰ってきて、週末も仕事に追われて、綾とゆっくりする時間がとれない。せめて週末くらい休める会社に移った方がいいのかなって」
私の知る綾は、今の会社で働き続けている。もしかしたら、彼にとってもここが分岐点なのかもしれない。
「綾はどうしたい?」
「んー…正直悩んでる。魅力を感じる部分が真逆だから、どっちを優先するか、決めかねる」
ああ、思い出した。そういえば結婚前に聞かれたことがある。あの時の私は、外側だけを見て、お給料もよく大手の今の会社の方がいいのではないかと安易に答えた。大人ぶって何もわかっていないにもかかわらず、さもわかったようなふりをして。
大人になりたかった。
綾の知り合いに紹介されるたびに、その相手からからかいの言葉をかけられる。悪気のないその言葉がどんどん積み重なっていくうちに、それはまるで呪詛のように私を縛り付ける枷へと変わった。
子供だと思われたくない。大人になりたい。
間違った考えが、間違った道を選んだ。その結果が、今の私だ。
「私は……わがままを言えば、一緒にいる時間がもっとほしい。もっと些細なことをたくさん話したり、一緒にクウちゃんのお散歩に行ったり、ゆっくりご飯を食べたり、だらだらとテレビを見たり、くだらないことで笑ったり、何かに感動して泣いたり、そんな、何気ないことを一緒にたくさんしたかった」
ほんの数年、振り返ってみても、綾と一緒にいる時間はすごく少なかった。限られた時間しか与えられないのであれば、もっと一緒にいたかった。ただ、そばにいてほしかった。
「ずっと一緒にいたかった……」
「じゃあ、未来の綾に寂しい思いをさせないようにしないと、ね」
驚いて綾の顔を凝視すれば、何もかもわかったような顔で、それでいて何もわかっていない雰囲気で、ただ目の前にいる私に笑いかけていた。私がいなくなることなんてこれっぽっちも疑っていない、そんな信頼しきった顔で。
私は、この綾を裏切ってしまう。本当に、何もかもを間違えた。
「ごめんね。大好きなの。何よりも大切なの。綾だけを守りたかったの」
抱きしめる腕に力がこもった。急に強い眠気に襲われる。
守りたかったのは綾だけなのに、その守りたかった人を苦しめているのは、ほかでもない私だ。
「どんなときでも、何があっても、それだけは疑わないで」
「疑わないよ。綾も同じように疑わないで。俺は、ただ綾が目の前にいるだけで幸せなんだ。綾の存在があるだけでがんばろうって思える」
その存在が、彼の見えないところで勝手に消えようとしている。
もし私に時を越える力があるのだとしたら、ここにいるはずの私が別の時にいるのだとしたら、今の私が消えてもいいから、どうかやり直して。
抗えない眠気と戦いながら、自分の浅はかな行いを心の底から悔いた。