時の間の邂逅
Hidden Storyそして、今 綾─Ryo
結局、答えなど出なかった。
俺が昨晩会った綾が、佐山の言う通り未来の綾だとしたら、どうしてあれほどまで不安そうだったのか。寂しさと悲しみ、大きな後悔を飲み込んだような顔をして、頼りなく揺れる瞳をのぞき込んだ時、俺は、ボタンをかけ間違えたかのような突き刺さるほどの違和感と、どうしようもないほどの強い焦りを感じた。
ささやかでも贅沢をさせてやりたかった。大人の余裕を見せたかった。何もかもから守ってやりたかった。だから必死に働いた。一日も早く独立して、ここで開業するつもりだった。少し先の未来、綾のそばにいるために、そのために、今を犠牲にした。
だが、その結果があの綾の瞳の色なのだとしたら、俺はきっと間違えている。
──何気ないことを一緒にたくさんしたかった。ただ、ずっと一緒にいたかった。
思い返して気付く、会話に紛れていた過去形。
未来の綾は俺の隣にいないのか。それは物理的なことなのか、心理的なことなのか。
何もわからない中、残された言葉は真実を伝えず、彼女にとっての事実だけを置き去りにした。
このままではそのささやかすぎる願いすら叶えてやれない。金銭的余裕よりも、時間的余裕や心理的余裕がなさ過ぎる。
綾が望むものは、贅沢な暮らしではなく、寄り添うような暮らしだ。作られた大きな幸せではなく、日々の中に自然と芽生えるような小さな幸せ。
これまでの綾を見ていれば簡単にわかることなのに、俺は何に惑わされているのか。
──どんなときでも、何があっても、それだけは疑わないで。
その綾の囁きは、まるで泣き叫んでいるかのようだった。
慟哭──そんな言葉が思い浮かぶほど、その言葉に込められた想いは、時間がたつにつれて強かに俺を打ち据える。
俺を守りたいと言った綾は、確かに俺を守ってくれている。俺が俺でいられるのは綾の存在あってこそだ。
だが俺は、綾を守ることができているのだろうか。あの綾は、きっと俺に守られてはいない……。
握りしめた手のひらに爪が食い込む。それが鋭くも鈍い痛みを伝えてきた。
握った手に縋るように身を寄せてきた綾は、まるで助けてくれと全身で訴えているかのようだった。腕に抱え込んでやれば、安堵したかのように力を抜いた。
何に不安を感じているのかがわからずとも、腕の中で力を抜いた綾を知れば、綾にとって俺はそういう存在なのだとうぬぼれた。うぬぼれ、満たされた。そしてそのまま、きちんその真意を確かめもせず、眠りに落ちてしまった。明日ゆっくり聞こうと先延ばしにして。
あれが未来の綾ならば、あんなふうに思い詰める前に、どうして未来の俺を頼らないのか。それとも、頼ることのできない何かがあるのか。未来の俺には頼るほどの価値もないのか。頼れないほどすれ違ってしまったのか。
この先の俺は、綾をあんなふうに変えてしまうのか。あんなふうに追い込んでしまうのか。あんな叫びを上げさせてしまうのか。
あの綾が、今の俺に何を見いだしたのか。それとも、何も見いだせなかったのか。
あの未来の綾が幸せになれるよう、俺は何ができるのか。
今、目の前で笑っている綾が、俺の知る綾だ。
俺の知る綾は、今、柔らかに穏やかに笑っている。
俺は、目の前で笑顔を見せる、この綾しか知らない。
この先俺は、忙しさにかまけて、彼女が何に傷つき、何を不安に思い、何に後悔するのかを知ることなく、一番大切なものを失うのだろうか。
先延ばすことをいくつも積み重ねて、何を先延ばしにしたのかもわからなくなってしまうのだろうか。
「加納、あまり思い詰めるな」
そう声をかけてきた佐山は、ダイニングチェアに当然のように座り、昨日の綾が作り置いたおかずをうれしそうにつまんでいる。
リビングのソファーから立ち上がり、ダイニングチェアに座り直す。
リフォームする際、リビングとダイニングキッチンの壁を取り払い、ひと続きにした。料理を作る綾をリビングから眺めたいとの思いからそうしたはずなのに、料理している綾をゆっくり眺めたことなど、ここ最近あっただろうか。
六脚あるそのダイニングチェアのうちのひとつが、すっかり佐山専用になっているのは……いや、気のせいだ。気のせいに違いない。
「お前はどうして当たり前にうちで昼飯食ってるんだ?」
学校戻れよ。そう呟けば、綾が「でもこんなに食べきれないし……」と庇い立てる。だがな綾、佐山は思いっきり食いそうな見た目に反して小食だ。どうやってこのでかい図体を維持しているのか。エコボディ。
「佐山先生、少し持って帰ります?」
うれしそうに頷く佐山が鬱陶しい。毎回毎回綾の手料理を当たり前のように食いやがって。
「お前早く彼女作れよ」
理不尽だとでも言いたげな佐山の恨みがましい目。
だが俺は知っている。綾の友達の一人に気があることを。教師だからと必死に自制しているつもりらしいが、その挙動不審さは自分で暴露しているも同然だ。
思わず笑いかければ、佐山がたじろいだ。綾が「悪い顔してる」と目を丸くして呟いている。
綾と特に仲のいい友人は二人。佐山に気がありそうな小柄でかわいらしい雰囲気の子と、妙に大人びた雰囲気のすらっとした子だ。何度か会ったことがある。俺と佐山が仲のいいことも知っており、佐山の同僚も交えて一緒に遊んだこともある。
身内だけのこぢんまりとした結婚式にも招待している。招待する前に招待される気でいた佐山とは、そこでなんとかうまくいってほしいものだ。そのためだけに綾がブーケトスを画策するくらいだ。トスではなく手渡しする気らしいが。しかも佐山に。色々おかしいうえ面倒なので、できればその前にくっついてもらいたい。
ああそうだ、彼女たちにも声をかけておこう。この先綾が一人で悩まないように。
俺は、目の前にいる綾を、昨晩のような綾にはしない。
きっとそれを自覚させるために、あの綾は俺の前に現れたのだろう。たとえ別の意味があろうが、俺にはそう思える。
あれが本当に未来の綾なのか、それとも別の何かなのか、目の前にいる綾の隠れた一部なのか、それはわからない。ただ、あんなふうにはしたくない。その思いだけが強く残っている。
「なあ、もし綾がまたタイムトリップしていたとして、前回はあった記憶が今回ないのはどうしてだ?」
もし綾が未来に行ったのだとしたら、そこで何を目にしたのか。なぜ記憶が抜け落ちているのか。
「未来だからじゃないか? 過去は確定しているから記憶に残る。でも、未来は確定していないから記憶には残らない、とか」
佐山がよどみなく答えれば、綾が「なるほどねぇ」と他人事のように感心している。記憶が残っていなければ、そんなものなのかもしれない。
今回綾が未来に行った証拠はどこにもない。この料理も、憶えていないだけで目の前にいる綾自身が作った可能性だってある。
ふと口の中に広がるかすかな違和感。
「なあ、この味付けって、いつもこんな感じだった?」
数ある料理の中で、そのひとつだけが、いつもの綾の味とほんの少しだけ違うような気がした。
俺の言葉に、綾と佐山が同じものを口にする。
「あっ、これ、隠し味にショウガ使ってるだろう。俺ショウガ大嫌いだからちょっとでも入っているとわかるんだよ」
その佐山の言葉に目を丸くしたのは綾だ。
「私、これ作る時ショウガなんて使わない……でも、いつもよりおいしい」
そう言って目を細めた綾は、何を思ったのか。
「私は、何を忘れたんだろう」
自分を抱きしめるようにして左腕をさすりながら、そう、ぽつりともらした。
その日、不意に訪れた休みだったせいか、佐山が学校に戻った後、どこかに出掛けるでもなく、家でのんびりと過ごした。
せっかくだからどこかに連れて行ってやりたかったものの、昨晩の綾の言葉が脳裏をかすめた。
クウの散歩に一緒にのんびりと公園を歩き、録画していた番組を一緒に観て、音楽を聴きながら料理する綾をリビングのソファーからゆっくり眺め、時間をかけてゆっくりと綾の作った料理を味わう。交わされる会話は、本当に些細なことばかりだ。
同じ速度で歩き、同じものを見て、同じものを聞いて、同じものを食べる。その間、綾はずっとうれしそうに笑っていた。
「あのね、今日も一緒に寝てもいい?」
はにかみながら窺うような視線を向ける綾が、どうしようもなく愛おしい。彼女が自分からこんなふうに甘えてくることは今までにない。それに少しだけ驚いた。
「どうしよう、なんだかよくわからないけど、今日はすごく幸せだったかも」
腕の中でぬくぬくとまどろむ綾が、何を思いだしたのか、くすくすと子供のように笑っている。本当に心から安らぎ、幸せそうにその全身で笑っている。
それは、満たされる以上の何かを溢れさせた。苦しいほど、胸がつまるほど、柔らかで甘く、せつないほど幸福な何か。
忘れていた何かを、気付かなかった何かを、思い知らされたような気がした。
わかったような気になっていたそれが、はっきりとわかった。
説明できない何かが起きたのは間違いない。
タイムトリップなんてそう何度も起きることではないはずだ。過去に起きたそれすら、時間がたてばたつほど現実味が薄れ、ただ事実だけが残っている。その事実すら明確な説明も確認もできず、真実がどこにあるかなど、きっとこの先もあやふやなままだ。
もし、綾が別の時に迷い込んだまま戻れなくなったら、綾が再び目の前から忽然と消えたなら、きっと俺はどこまでも綾を探し求めるだろう。
先のことを考えて今を犠牲にしている場合ではない。今こそが、何よりも大切なはずだ。
それから、その日のことは何ひとつわからないまま、綾は高校を卒業し、無事結婚式を終え、俺は今の会社に辞表を出した。
わからないなりに、未来の綾が幸せになれるように。
ちなみに、本当にどうでもいいことだが、佐山にも幸せがやってきた。
本当にどうでもいいことだが、あいつは、佐山は、誰よりも幸せになるべきだと、俺は思う。