時の間の邂逅
Hidden Story
二年前 迷い込んだ奇跡


「どうして……」
 自分の喉の奥から吐き出されたはずの声が、どこか遠いところから聞こえてきた。

 例年より一足早く、春の気配が色濃く感じられるようになったその日、私は静かに終わりを迎えようとしていた──はずだった。

「ここ……私の教室、だよね」

 どこか見覚えのあるはずのその景色は、以前迷い込んだ(りょう)の教室よりも古びて見えた。むしろ数年前まで自分が使っていた教室に近い気がする。

「まさか……」
 不安からか、思っていることを口に出してしまう。
 その事実がより一層自分を追い詰める。どうして今になって……。

 慌てて自分の姿を確認すれば、高校の制服を着ている。もしかしてとポケットを探れば、当時使っていた携帯電話が指先に当たる。取り出したそこに表示されている日付は、二年前。

「どうして……」
 教室の中程で、呆然と佇む自分を、まるでどこか人ごとのように感じている。現実だとは思えない、夢のような気さえする。けれど、かつての時と同じように、これが現実だと自分の中のどこかが訴えてくる。

 ふと自分の状態を確認する。どこにも痛みがない。息苦しくもない。意識がはっきりとしている。

──今ならまだ間に合う。
 不意にそう思ってしまった。どうしようもないほどの期待がふくらみ、心臓が激しく脈打つ。
 けれど……、だからなんだというのだろう。間に合ったところで、彼と一緒にはいられないというのに。もう、彼の隣にいることなどできないのに。

 最後に元気だった頃の姿で、一日だけ綾と一緒に過ごすことができる。きっとそういうことなのだろう。あの夢のようでいて現実だった時が、再び訪れてくれたのは。
 あの奇跡の時を活かせなかった私に、最後の情けを与えてくれたのは、神様だろうか。それともその真逆の存在か。この際どちらでもいい。最後にひと目だけでも綾に会えるならば。



 急いで家へと向かう。早足で歩きながら、この頃はよく走っていたことを思い出す。思い出してしまえば、自然と足の運びが速まっていく。
 久しぶりの学校からの道のり。目に映る全てが懐かしく、鼻の奥がつんと痛む。あの頃はこの道のりをたどれることがうれしくて仕方がなかった。うれしすぎてゆっくり歩けないほどに。
 あの頃と同じく、まるで跳ねるように駆けていく。身体がいつになく軽い。

 目に映る景色がどんどん目的地へと近づいていく。

 見慣れた歩道、見慣れた小路、見慣れた大通り。立ち止まる信号、歩き出す横断歩道、立ち並ぶ街路樹。あの頃と変わらない、今。
 息をあげながら、涙が出そうなほど懐かしい我が家にたどり着く。あの頃は綾の家、少し前までは自分の家。胸が締めつけられる。

 忘れてほしいと心から願うのに、忘れないでほしいと魂が叫ぶ。私はあの頃から少しも成長していない。



 その扉の前に立ち、はたと気付いて両手を眺めた。荷物……。学校にいたことを考えると、鞄を持っていたはずだ。家の鍵は鞄の中。
 自分が思うより興奮しているのだろう。どうしようかと考えながら、そもそもこの家を出たはずなのに、勝手に入っていいものかとも思う。

 そんな思いに気を取られながら、何気なく触れた玄関ドアは、私を押しとどめるどころか、なんの抵抗もなくその先へと突き抜けた。
 驚いて慌てて手を引っ込める。突き抜けてしまった手も扉も、何事もなかったかのように変わりがない。
 それまで以上に鼓動が激しくなる。どういうこと?
 もう一度、恐る恐る指先で触れてみれば、触れるはずの扉の中に指先が埋まって見えた。

「もしかして、私って……幽霊?」
 うそ、と呟きながらも、それはそうだろうとどこかで納得する。思わず笑いがこみ上げた。今の私にあんなふうに走り回るどころか、一人で立ち上がる体力すらないはずだ。
 あの時、あの奇跡の時、私は私のまま九年前に迷い込んだ。今この瞬間の私は、あの時とは違い過去の姿だ。

「そっか、ついに死んじゃったのかぁ。それとも生き霊ってやつなのかなぁ」
 扉の中に指先を突っ込んでみたり、戻してみたりしながら呟けば、思ったよりも悲壮感がない。幽霊だからだろうか。それよりも今の状態の方が楽しいと感じているからだろうか。
 つい昨日までは、痛みと苦しさと絶望しかなかったことを考えれば、たとえ幽霊だろうと今の方がずっと楽しい。

 幽霊ならば遠慮はいらない。そんなおかしな理由をこじつけて、扉の向こうに思い切って飛び込めば、玄関先にはこれでもかとしっぽを振りながらお座りしているクウちゃんが待っていた。驚くことにしっかりと目が合う。思わずじっと見つめながら顔を近づければ、ふいっと顔を背けながらも、ちらっちらっと目を合わせてくる。(*)

「クウちゃん、私だってわかるの?」
 思わず手を伸ばせば、触れたのは彼女の柔らかな毛並みだ。
 何も触れないのかと思っていた。久しぶりに触れたその毛の柔らかさに、様々な想いがこみ上げる。
 思わず彼女を抱き上げる。腕の中におとなしく収まるその頭に頬ずりする。彼女の存在はいつだって私の癒やしだった。

「クウちゃん、私……」
 言葉をつまらせた私に、彼女はその名前の通り、くうんと小さく鳴いた。

 こんなふうに泣くくらいなら、最初から離れなければよかった。どれほど後悔しても遅い。



 どれくらいそうしていただろう。
 クウちゃんが辛抱強く抱かれ続けてくれていたおかげか、辺りがすっかり暗くなっていることにすら気付かなかった。

 これからどうしようかと途方に暮れ始めた時、制服のスカートのポケットが震えた。
 そうだ、携帯電話には触れたはずだ。慌ててクウちゃんを床に降ろし、ポケットから携帯電話を取り出せば、そこに表示された(りょう)の文字。
 一瞬の戸惑いの後、慌てて通話のアイコンに触れた。

(あや)? 今日も終電になりそうだから、先に寝てて』

 リフォームされたこの家には、私の部屋もちゃんと用意されてる。高校卒業までの週の半分はそこで寝起きしていた。高校卒業間近のこの頃は、自宅に帰ることの方が少なかった。

(あや)?』
「ん、わかった。無理しないでね」
『何かあった?』
「ん、何もないよ」

 声が聞けた。言葉を交わせた。それだけでこんなに心が震える。じゃあ、そう言って切れた携帯電話の画面を、しつこくじっと眺めていた。

 

 普段触れていたものには触れることができる。
 クウちゃんのご飯をどうしようかと悩みながら、何気にいつも座っていたダイニングチェアの背に手をかけたら、突き抜けることなくその質感を伝えてきた。
 思わずぺたぺたと色々なところを触ってみれば、ドア本体は突き抜けるものの、レバーハンドルには触れられる。それを押し下げれば扉も開く。床には触れられるけれど、壁には触れられない。滅多に使わないものにも触れることはできない。

 冷蔵庫を覗き、ありったけの材料でたくさんの料理を作った。それらを全て保存容器に入れておく。私が作る最後の料理。今の私に気付かなくてもいい。ただ、綾に食べてほしい。



 ソファーに膝を抱えて座り、ただじっと綾が帰ってくるのを待っていた。
 ソファーに飛び乗ったクウちゃんが、横から抱えていた足とお腹の間に無理矢理頭をねじ込んできた。その強引な行動に少しだけ驚く。彼女はいつも私に対してはどこか控えめだったのに。
 ソファーの座面に上げていた踵を床に降ろせば、クウちゃんは満足げに膝の上で丸くなった。そのぬくもりが身体だけではなく心にも染みこんでくる。
 言葉を持たないからか、彼女はいつだってその行動で何かを伝えてくる。言葉を持たないからこそ、そこに嘘や偽りがない。
 思い返せば、彼女はいつだって一緒にいてくれた。こうして綾が帰ってくるのを待つ一人きりの時間にも、いつも寄り添って、そのぬくもりと存在を伝えてくれていた。

 また、少し泣いた。



 日付が変わり、いつの間にかうたた寝していたのか、解錠の音で目が覚めた。クウちゃんと一緒に慌てて玄関に向かうと、少し驚いた顔の(りょう)がいた。その姿を目にした瞬間、鼻の奥がつきんと痛んだ。こみ上げてくるあらゆるものを、必死にもとある場所へと押し戻す。

「寝てなかったの?」
「おかえりなさい。少しうたた寝してた」
 伸びてきた綾の手のひらが頬を包む。そのぬくもりに縋りつきそうになる。

(あや)、暖房つけてなかったの? 身体が冷えてる」
 どくりと心臓が強く脈打った。クウちゃんの暖かさは感じても、肌寒さは感じなかった。きっと幽霊だからだ。

「ごめん、家の中冷えてるよね」
「いや、風呂入って寝るだけだからいいけど……(あや)、寒かっただろう? って、もしかしてまだお風呂も入ってない?」
 制服姿に眉を寄せた綾が、心配そうにその表情を曇らせる。

(あや)、何かあった?」
「何もないよ。ごめん、すぐにお風呂の用意してくる。お腹すいてたら、冷蔵庫にたくさん作り置きしておいたから、好きなのつまんで」

 慌ててお風呂に向かいながら、涙が零れそうになる。彼の優しさが胸に突き刺さる。当たり前に名前を呼ぶその声が、全身に響き渡り私の中を震わせる。
 私は間違っている。
 物わかりいい大人のふりをして、何もかもから逃げただけだ。



*飼い主など、自分より上位のものとは目を合わさない犬の習性。