時の間の邂逅
Hidden Story五年後 迷い込んだ想い
自宅マンションの前で車を停めた佐山先生は、喉の奥から絞り出すように小さく呻いた。
「なあ、この時間、お袋さんが家にいるわけないよな」
「そうですね。帰ってくるのは日付が変わる頃か、明け方か……。どちらにしても必ず一度は帰ってきますよ」
「それじゃあ遅いだろう」
そう言われて気付いた。
前回迷い込んでいたのは丸一日と数時間。同じような時間に迷い込んでいることを考えれば、残りわずかな今日と、明日丸一日、その翌朝には戻っていることになる。
滞在時間は前回と同じなのか。
私は、何をするためにここに迷い込んだのか。
まるでわからない。わからないから不安で仕方がない。だからこそ、綾に会いたい。
間違いなく何かをしなければならないはずだ。どうしてか、そんな気がする。気のせいでは片付けられないような、怖いほどの焦燥感に駆られている。
「先生、私は……何をするべきなんでしょう」
「それを確かめるために、お袋さんに会いたいんだ。彼女の勤務先って、隣の市にある製薬会社の研究所だろう?」
思わず目を見開いてしまう。
「よくご存じですね。教師ってそんなことまで記憶しているんですか? って、五年もあればそんな話にもなりますね」
佐山先生は彼の親友だ。身内だけの結婚式にも招待している。教師としてだけではなく、友人として知っていてもおかしくない。
「ああ、それに、最近ニュースになったばかりなんだ」
なんのニュースだろうかと考えているうちに、再び車が動き出した。夕日に照らされた先生の顔が怖いくらいに真剣だ。話しかけることもできず、両親がともに働く会社まで口を噤んでいた。
「いいか、車の中にいろ。絶対に誰にも見つかるな。最悪誰かに見つかった途端、元の時間に戻されるぞ」
よくわからないながらも、あまりの真剣さについ頷いてしまう。
もしかしたら、あの事実を知らない人には会わない方がいいのかもしれない。先生が言いたいのはそういうことなのだろう。
それとも──本当に死んでいるからだろうか。
もう一度、はっきりと頷けば、先生は「羽織ってろ」と、後部座席に無造作に置かれていたブランケットを手渡し、車から降りて正面玄関に向かった。
そもそも男性教師の車に、制服姿の女生徒が乗っていること自体問題だろう。もっと早く気付けばよかった。頭からすっぽりとブランケットをかぶって、背を丸めて身を隠す。
ブランケットから柔軟剤の香りがふわっと漂い、思わず笑ってしまう。きっと彼女とうまくいっている。そんな気がした。
どれほどそうしていただろう。
傾き始めていた日がすっかり暮れ、あたりは薄闇に包まれ始めた。
頭の中ではぐるぐると何をすればいいのかを考えている。けれど、答えらしきものは何ひとつ浮かばない。あたりが闇の色を濃くしていく。それが一層焦りを募らせる。
不意に音を立ててドアが開き、飛び上がらんばかりに驚く私をよそに、運転席のシートが前に倒された。小さな車の後部座席に乗り込んできたのは、母に続いて父も一緒だった。
「お母さん、に、お父さん……」
ずいぶんと久しぶりにその顔を見た気がする父は、どうしてかその目に後悔のようなものを浮かべていた。見れば母も同じような色をその目に浮かべている。
やはり今の私は彼らのそばにはいないのだろう。
シートが元の位置に戻ると、その後ろに座る父は渋い顔をしながら窮屈そうに足を折り曲げた。それを見た母が面白いものを見つけた子供みたいな顔で目配せする。
「佐山先生、確かにいい車だとは思いますが、身体に合わせた車にしようとは思わなかったんですか?」
「普段一人でしか乗らないもので、これでも十分なんですよ」
縮こまっている父すらもからかうような母の辛らつな言葉に、素知らぬ顔で返す先生は、やはり私が知っている先生とは少し違う。
「先生、なんか、強くなった?」
「井上、お前に言われたくないよ」
そう呆れたように返す先生の目は、またせつなそうに細められていた。
来た道を戻り、マンションの来客用の駐車場に先生の車が駐まる。やはり引っ越していなかった。二人とも住む場所には頓着しないから、勤務先が変わらない限り面倒な引っ越しなどしないだろう。
自分の家なのに、見知らぬ家にも思える扉の先に招き入れられると、そこは自分が知るより五割増しに殺風景になっていた。
「お母さん、なにこの部屋?」
「だって、家の管理する人がいなくなっちゃったから……いらないものをどんどん捨てていったら、こんな感じになっちゃったのよ」
呆れてものが言えない。だからって住宅展示場並みに殺風景にする必要があるのかと思う。
ふと父に目を向けると、出会った瞬間の先生同様、恐る恐るというふうに頬に手を伸ばしてきた。子供の頃、数えるほどではあるものの、父にこうして頬を撫でられた記憶がある。父の手からその体温が伝わってくる。
「あ、や……」
そう言ったまま、目をそらさずにいる。違う、そらせないでいる。その父の横から、母が遠慮なく抱きついてきた。母のぬくもり。
「綾、おかえり」
その言葉に違和感を覚える。
「お母さん、今の私は、みんなのそばにいないのね」
抱きしめながら肩の上にのっている母の頭が、小さく揺れた。
「生きてる? 死んでる?」
後者で母の肩がびくっとわかりやすく跳ねた。父がわかりやすく息をのんだ。少し離れた場所にいた佐山先生の目が、信じられないほど大きく見開かれた。
「加納は、加納は知っているんですか?」
「知らせました。けれど彼は、綾君は……信じなかった」
父の声に、今度は佐山先生が息をのんだ。
「事故? 病気?」
またしても後者で母の身体が強張る。彼らが私の未来を言葉にできないのであれば、こちらから聞いていけばいい。そのときの反応で知っていくしかない。
いち早く立ち直ったのは佐山先生だ。
「おそらく時間がありません。前回と同じであれば、井上は明日の夜中には戻ることになります」
「お父さん、お母さん、私がしなければならないことって何?」
その言葉に身体を離した母が声を上げようとして失敗した。
「──よ」
「──の──だ」
同時に上がった父の言葉もかき消えるように耳には届かない。両親が佐山先生を振り返り、先生が神妙な顔でひとつ頷く。
「井上の未来は口にできません。書くことも、文字を表示することもできない」
「そう、だったね」
事前に聞いていたのか、父が思い出したかのようにそう呟いた。
「私は、──を取りに行ってくる」
「持ち出せる?」
「持ち出すよ。そのための──だ」
「そうね」
まるで覚悟を決めたような両親の雰囲気と会話に、佐山先生が口を挟んだ。
「金で解決できるなら言ってください。おそらくあの金はこのためにある。二千万までならすぐに用意できます」
驚いて先生を見れば、黙ってひとつ頷いた。話には聞いていた。先生は今までずっと使っていなかったのか。
「前回彼女が過去に行った時、友人の父親が手にしたという万馬券を加納に見せたんです。そのときの配当が二千万と少し」
両親が驚きつつも納得した顔になる。
「おそらくなんとかなるかとは思いますが、万が一の時はお借りするかもしれません」
父が佐山先生に頭を下げる。
二人は何を覚悟したのか。何を取りに行くのか。
「お父さん、大丈夫なの?」
不安になってそう聞けば、父が眩しいものでも見るかのように、目を眇めながら笑った。先生が老けて見えた以上に、父が老けて見える。
「お父さんは、大切なものを取り戻すんだ」
「お母さんもよ。もう思い残すことはないの」
まるで遺言のような言葉に、咄嗟に両親の腕をつかむと、母がどういう訳か楽しそうに声を上げて笑った。
「大丈夫よ、死ぬわけじゃないわ。お父さんとお母さんはついこの間、大きな仕事をやり遂げたのよ。だから思い残すことはもうないって話していたところだったの」
両親がなんの研究をしているのかは知らない。家族にすら知らせてはいけない決まりらしく、一度も聞いたことがない。
もしかして、先ほどの佐山先生が言っていた最近のニュースとは、その大きな仕事のことだろうか。
その佐山先生は、父と一緒に出掛けていった。
それを玄関で見送り、母と二人になった家の中、リビングに戻りながら綾のことを聞く。
「お母さん、綾は、どうしてるの?」
「あなたを──わ」
眉を寄せた母は、小さく「なんなのこれ、面倒だわ」と吐き捨てるように呟く。なんだか申し訳なくて曖昧に笑えば、母もどうしようもない顔で笑い返す。
「元気そう?」
「元気、とは言えないわね。平日は仕事にのめり込んで、休みになると……うーん、そうね、あちこち出掛けているわ」
「もしかして、私を探しているってこと?」
大きく瞬いた母に、理解したことを示すように頷き返す。
二人並んで座ったソファーは、少しほこりっぽい。思わず顔をしかめれば、母が「後で掃除しておくから」と早口で言い訳した。
「私は、死ぬ前にいなくなったんだよね」
佐山先生がの様子がそれを物語っている気がした。死に際を見ていないから、信じられないのだろう。自分が死んだと聞いたところで、まるで実感は湧かない。私だって綾の死に際を見ずに突然姿を消されたら、死んだとは思えず探し回るだろう。
どうして私はいなくなったのだろう。
たとえ死ぬとわかっていても、わかっていたなら尚のこと、最後まで少しでも長く綾のそばにいたい。そう、思わなかったのだろうか。
「ねえ、綾。前に過去に行った時、その身体ごと行ってたわよね。だから、綾さんの服で戻って来たのよね」
「多分そうだと思う」
「だったらきっとなんとかなるわ」
そう言ったまま口を噤んだ母は、静かに私を抱きしめた。母の体温が染みこんでくる。
自分が死んでいる。どれほど考えてもその実感が湧くことはなかった。