時の間の邂逅
Hidden Story
五年後 迷い込んだ意味


「どうして……」
 自分の喉の奥から吐き出されたはずの声が、どこか遠いところから聞こえてきた。

 高校卒業を間近に控え、冬の気配の中に春の気配が感じられるようになってきたその日、私は再び今ではないどこかに迷い込んだ。

(りょう)、の……教室?」

 どこか見覚えのあるはずのその景色は、けれど、以前迷い込んだ(りょう)の教室よりも古びて見えた。むしろつい今し方まで使っていた自分の教室の方が新しいような気がする。
 そもそも学年が変わり、あの頃とはお互いに別の教室になっているはずだ。

「まさか……」
 不安からか、思っていることを口に出してしまう。
 それがより一層自分を追いつめる。どうして今になって……。

 慌ててポケットから取り出した携帯電話の日付は、リセットされたかのように小さな横棒が並んでいた。
 教室の中、どこかにカレンダーはないかと見渡せば、黒板の代わりに大きなテレビのようなディスプレイが壁に掛かっている。嫌な予感に肌が粟立つ。そこに小さく表示されている日付は、日にちも、月も同じ。けれど年が違う。咄嗟に頭の中で数を数える。……五年後。

「どうして……」

 教室の中程で、呆然と佇む自分を、まるでどこか人ごとのように感じる。現実だとは思えない、夢のような気さえする。けれど、以前迷い込んだあの時と同じく、これが現実だと自分の中のどこかが訴えてくる。

 不意に聞こえてきた足音に、大げさなほど身体がびくっと震える。咄嗟に隠れるべきかとあたりを見渡す。
 戸口に姿を現したその人は、自分が知るよりも少しだけ老けて見えた。しゃがみ込んで机の陰に隠れようと屈み込もうとしていた身体が、中途半端な位置で止まる。

「佐山、先生?」
「まさか……、そんな……、うそだろう……」
 まるで幽霊でも見たかのように蒼白になった先生は、ふらふらとそばに寄ってきたかと思ったら、怖々とした様子で肩に触れてきた。

「井上、か? もしかして、タイムトリップか?」
 確かめるかのように呟かれた言葉。

「はい」
 あまりの様子に訳もわからずただ一言だけを返してじっとしていれば、先生はまるで存在を確かめるかのように、肩に置いた手をゆっくりと腕に下げていき、肘のすぐ上を強く握った。もう片方の手が頭の上に置かれ、やはり形を確かめるかのように、ゆっくりとその輪郭を辿っていく。そして私の腕を握ったまま、頭に置いていた手で今度は自分の口元を覆い、「俺、初めて運命って信じたわ」と、感慨深げに呟いた。

「いいか井上、今度はちゃんと活かせ。おそらく三度はない」
 まるで謎かけのような言葉に、どういう意味かと思わず首をかしげる。そんな私の疑問などお構いなしに、先生はぶつぶつと呟きだした。

「加納に連絡してから行くか。いや、しない方がいいな。親父さんは今ヨーロッパだしなぁ。こんな時なのに。いや、こんな時だからか……」
 独りごちていたかと思ったら、腕を握る手に力がこもった。

「井上、俺に先に出会っといてよかったな。もし加納に先に出会っていたら、間違いなく監禁されるぞ」
 あまりの言いように驚きながらその大きな身体を見上げると、せつなそうに見下ろされている。
 先ほどからどうにも様子がおかしい。

「先生、私、どうかしたんですか?」
「どうかしたんだよ」
 驚いてじっと先生を見上げれば、痛ましそうにその目が細められた。
 まさか、綾と別れているとか……。監禁するってどういうことだろう。私から別れたとか? それはない気がする、けれど……。

「もしかして、別れたんですか? 私たち」
 再来月には結婚式だというのに、五年後には離婚しているのだろうか。それとも結婚すらしていないのか。

「別れた……そうだな、ある意味な。だからな、井上、戻ったら──」
 かき消えた言葉に驚いたのは私だけではなかった。口だけをぱくぱくと動かしていた先生は、目を丸くして再度何かを言おうとした。

「──。うそだろう、井上が──は伝えられないのか」
 慌てたように先生がポケットからメモ帳を取り出す。そこに何かを書き付けようとして、インクがつかないことに驚いている。試し書きした螺旋はちゃんとインクがついているのに。
 腕に巻き付いている腕時計のようなものに何かをしようとして、やはりできなかったのか、目の前で悪態をついている。

「井上、何年前から来た? 制服着てるってことは、いつだ? 五年、いや、六年前か?」
「五年前です」
「どうすりゃいいんだ」
 途方に暮れたように宙を見上げ、思いっきり息を吸い込んだ先生は、それを大きく吐き出すと、一気に言葉を紡いだ。

「いいか井上、おそらく今は加納に会わない方がいい。俺のこと信じられるか?」
 あまりに真剣なその様子は、鬼気迫ってすら見えた。気圧されるように頷けば、佐山先生はほっとしたかのように今度は小さく息をついた。

「頼れるのは……井上、お袋さんの番号わかるか?」
「携帯電話のですか?」
 携帯電話の電話帳を開き、そこから母の番号を表示する。それを見た先生が、眉を寄せた。

「旧番か……どうするかなぁ。とりあえず、俺んちに連れて行くにもなぁ、あとで加納に刺されるだろうしなぁ。お袋さん、まだあのマンションに住んでたっけなぁ。とりあえずそこに向かうか」
 まるで自分に言い聞かせるかのようにそう呟いた先生に、よくわからないながらも頷き返す。

 本当に、よくわからなかった。再び迷い込んだ意味も、先生の言葉や態度も。母に会えば、それがわかるのだろうか。
 綾に会えないことが重苦しいほどの不安をもたらす。どんなことがあっても、綾に会えば全てが解決するような気がしていた。綾だけが、私を繋ぎ止める全てだとすら思えるのに。
──その綾に、会えない。

「先生、(りょう)にはいつ会えますか?」
「そうだな、まずは井上のお母さんに会って、それからだな」

 携帯電話の番号は、2020年に一新されたらしい。先生の手首にくるっと巻き付いていたものが携帯電話。電話として使う時は平たい棒のように真っ直ぐになる。目の前で見せられたそれに、ここは本当に五年後なのだと実感した。



 先に職員用の駐車場に向かうよう言われ、何気なさを装いながら廊下を進み、解放されている渡り廊下から校舎を出た。今回は制服が同じだからか、すれ違う生徒に気にも留められない。
 暖かに感じる日だまりの中、頬をかすめる風はまだまだ冷たい。駐車場の脇にある花壇に咲く黄色い花は、なんという名前だったか。
 教えられていた駐車番号の白い枠の中には、イギリスの小さな車がちんまりと駐まっていた。

「先生、車買ったんだ……」
「ああ、三年前にな」
 思わず口をついた言葉に、背後から答えたのは先生の声だ。振り返れば帰り支度をした佐山先生がなんともいえない顔で立っていた。

「もう帰って平気なんですか?」
「おう。すごい下痢だって言ったら、むしろ早く帰れって追い出された」
 面白そうに笑う先生は、私が知っているよりその態度には親しみが込められ、けれどどこか投げやりな感じにも思えた。五年の間に何があったのだろう。

「車……もしかして先生、結婚したんですか?」
 私の予想では、彼女とうまくいく予定なのだけれど……。

「あのな、それなら俺んち連れて行くよ。一人暮らしだから連れて行けないんだ。あとで加納が色々面倒だからな」
 嫌そうにため息をつく先生の大きな身体が小さな車に押し込められた。その車は先生に妙に似合っているけれど、身体の大きさには見合っていない。

 車の窓に映る景色は、シルエットこそ見慣れているものとほとんど変わらない。その中にあるお店が様変わりしていたり、見知ったものより少しだけ古びていたり、逆に新しくなったりしている。

「まさかこの車に、こんな形で井上が乗ることになるなんてな」
 感慨深げに呟かれた言葉に、それまで以上に不安が募る。

 先生の様子や言葉、伝えられない何か。もしかしたら私は、五年後、彼らのそばにはいないのかもしれない。
 単純に思い浮かぶのは死だ。どう考えても私から綾と別れるなんて考えられない。事故なのか、病気なのか。そう考えたところで実感など湧かない。今の自分に死が結びつかない。

「先生、私、死んでますか?」
 赤信号で停まった車内に、軽い気持ちで放り投げた言葉は、先生をこれでもかとフリーズさせた。

「先生、信号青です」
 慌てて走り出した車内の空気が、それまで以上に重く息がつまりそうなほど苦しい。やはり死んでいるのだろうか。

「それが、わからないんだ」
「えっ?」
 ため息とともに呟かれた先生の声には、やるせなさが滲んでいる。

「わからないんだよ。井上は、三年──、──した。くそっ、これもダメなのか! いいか井上、俺たちの話す言葉の前後から、真実を自分で導き出せ」
 鋭く前を睨みながらそう吐き出された言葉は、それまでの投げやりな様子とは違って、まるで何かを覚悟したかのように鋭かった。


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