ぼくはいつも、きみからうまれる
第七話 「ボクは自分が増えていく」


「なぁ花歩、花歩はこれまでにお嫁さんになりたいと思ったことはあるか?」
 父の躊躇い混じりの声に顔をしかめそうになった。躊躇うくらいなら口にしなければいいのに。心が濃く深いざらざらの灰色で擦れる。
 横を歩く父に顔を向けられず、少し前を歩く駿くんの背中に視線を逃がした。

 元旦、年賀状を配達する郵便局のバイク音で目が覚めた。一瞬ここがどこだかわからなくなりかけ、家中に満ちる歩のご機嫌な声が実家に来たことを思い出させてくれた。
 よく寝た、と伸びをしながらすぐ隣を見れば、駿くんはすでに起きていたのか、手足を伸ばす私を見て柔らかに笑っていた。それがすごくきれいで、あまりにきれいな笑顔で、眩しさと恥ずかしさに照れ笑いを返せば、「おはよ、おめでと」とふたつの挨拶を立て続けに貰い、同じように「おはよ、よろしくね」とふたつの挨拶を立て続けに返した。

 真希さんが駿くんをダシにアップグレードした豪華なおせちとお雑煮を食べ、真新しい服を着て、雪でも降り出しそうな曇天の中、心は急くものんびりとした足取りで初詣に向かう。
 その途中で切り出された父からの脈絡のない問い掛けに、それまで私をふわふわと取り巻いていた今年最初の幸福感があっという間に薄れていった。

「女の子なら、一度は花嫁に憧れるものだと思うんだ」
 私がそう思わないことが父の後悔だ。
 昨日の提案といい、父が何を思っているのかわかってしまった。
「今ならどうだ? 駿くんと一緒にいたいと思わないか?」
「思う」
「彼となら、花歩だけの家族になれると思わないか?」
「思う」
 どこか必死な父の声に、返す言葉が力を失っていく。
 今日の空は無彩色だ。灰色の濃淡が心に染み込んでくる。
「彼の──」
 言い淀んだ父は、その言葉の続きを口にすることはないだろう。
 そこまではまだわからない。わからないから、私からは何も言えない。

 昨日の駿くんの言葉が頭をよぎる。──それを踏まえた上での言動。
 心の奥を慎重に探れば、ちくん、ちくん、と確かにある痛みに気付いてしまう。目を背け続けてきた傷が唐突に姿を現す。
 私が父と一緒にいられなくなった原因が今更ながらはっきりわかった。

「お父さんな、真希に出会えたことを奇跡だと思ってるんだ」
「うん。私も真希さんに出会えたことは奇跡だと思ってる」
「花歩にとっては駿くんもそうだろう?」
「うん。きっとそうだと思う。まだ冷静に考えられるほど落ち着いているわけじゃないから、気持ちが先走ってるだけかもしれないけど」
 神社に向かう道すがら、少し前を歩いていた駿くんが真希さんから手渡された歩を抱き上げた。駿くんに抱かれた歩は嬉しそうにはしゃいでいる。真希さんが軽く伸びをしながらのんびりとその横を歩いている。
 二人の背中から気遣いを感じる。
「花歩が彼を紹介するとき、真っ直ぐお父さんを見ただろう」
「そうだっけ?」
「見たんだよ。もうそれだけで、お父さんにとっての真希が、花歩にとっては駿くんなんだとわかったんだ」
 不意に気付いた。あの日以来、父を真っ直ぐ見たことがあっただろうか。父がまず最初に私を救ってくれたのに、それを感謝したことはあっただろうか。父にもたくさんの葛藤があっただろう。あの日以来、父は何よりも私を優先してきた。

「あのね、周りの人の言葉がいつの間にか染み付いてしまったんだと思う」
 あの頃は周りからたくさんの無責任な言葉を聞いた。幼い私はその是非を判断するだけの知恵もなく、ただ聞こえるがまま耳の奥に染み込ませてしまった。
「お父さんが助けてくれたのに。お父さんだけが気付いてくれたのに。お父さんが私を連れて家を出てくれたから今の私がいて、真希さんに出会えたのに」
 父とこうして並び歩き、今こんな話ができているのは、間違いなく駿くんのおかげだ。
 気付けば視界からベビーカーが消えていた。振り返ると、押し歩いていた父は足を止め、あの日と同じように泣いていた。あの日以来見たことがなかった涙が溢れていた。

「お父さんごめんね。あと、気付いてくれてありがとう」
 父がどれほど心を砕いてくれたか知っている。けれどその欠片はどうあっても私を傷付けてしまい、私は父のそばにいられなくなった。
 父が心を砕けば砕くほど、知らず知らず私の心は傷付いていく。駿くんに言われるまでそれに気付きもしなかった。父のそばにいることが苦しくて仕方がなかった。大好きなのに苦しくて、その矛盾に苛まれたまま仄暗い迷路を彷徨っていた。未だ迷路からは抜け出せない。それでも、そこに光が射した。今までとは違う道がきっと見付かるはずだ。

 父の躊躇する手が、そっと頭の上に乗った。
 あの頃、帰ってきた父を出迎えると、いつもこうして頭を撫でてくれた。それだけで体中の痛みが消えていくようだった。
「私、お父さんのこの手が好きだった。この手がなければ、きっともっとひどいことになってた」
 どうして忘れていたのだろう。この手の重みがあったから、あの時の私は私でいられた。
「お父さん、私もう、大丈夫かもしれない」
 父は涙を流しながら、何度もくしゃくしゃと私の頭を撫で続けた。



「駿くん、本当にいいの?」
「花歩は嫌?」
「嫌じゃない。でもあれ、お父さんが自分の後悔を駿くんに押しつけたようなものでしょ?」
 帰りの特急列車は展望席が取れた。車両の一番前。少し高い位置から線路沿いの冬枯れが迫り来ては、あっという間に後ろに流れ過ぎていく。
「わかってたの?」
「なんとなく。本人は気付いてなさそうだけど」
 あの家ではできなかった話が駿くんから苦笑を引き出す。
「それでも花歩は愛されてる」
「うん、それはわかってる」
 にっこり笑う駿くんは、何もかもわかった上で、婿養子の提案を受け入れていた。
 愛されていることは十分わかっている。わかっていてもどうにもできない。
「駿くん、でも私──」
「ボクは、花歩だけでいい」
 言いたくなくとも言わなければならない言葉を遮ったのは、穏やかでとても強い声だった。私を見る駿くんの真っ直ぐな視線は揺らぐこともない。
 それは、それを踏まえた言動、だと思う。それなのに、ふわっと心が何かに包み込まれた。もしかしたらそれは、それを踏まえた言動であり、それ以上の言動なのかもしれない。
「ゆっくり」
「うん、ゆっくり考える。私ね、駿くんと一緒にいると、自分が変わっていくのがわかる」
「ボクは自分が増えていく」
「増殖?」
「増殖」
 笑えるのは駿くんの存在があるからだ。そうじゃなければ負の感情にのまれていた。



 三学期の初日。登校した途端、真野くんに捕まった。
 空き教室に引っ張り込まれると、そこには険しい顔をした美紗と真結、鎌田くんが待っていた。
「渡良瀬、変な噂が出てる」
 一瞬、駿くんと一緒に住んでいることがバレたのかと思った。隠しきれない私の動揺を見た真野くんが、どこか諦めたかのように目を伏せながら口を開いた。

「渡良瀬が自殺未遂して一年ダブってるって」
 ぱっと駿くんに目を向ける。前髪に隠されて彼の目が見えないことをこんなに不安に思ったことはない。

 言いようのない不安が大きく手を広げながら覆い被さってくる。ずくん、ずくん、と心が悲鳴を上げる。
 真野くんの言葉は、駿くんが前に言っていた「半分死んでいた」に結びつくものなのだろうか。それとも──駿くんの背中にある傷痕に関わることだろうか。私に見せないよう気を遣っているのを知っている。だから私も見ない振りをしている。

 思わず駿くんの腕を掴む。それを見た駿くんは、大丈夫、とでも言うように口元に薄く笑みを浮かべた。
「一年ダブってるのは本当」
 動揺を見せない駿くんをじっと見ていた真野くんが、はーっ、と声を上げながら大きく息を吐いた。
「だよな。渡良瀬が自殺未遂はないと思った」
 美紗も真結も鎌田くんも、ほっとしたように表情を緩めた。

 真野くんの話を聞くに、部活を引退したとはいえ早朝練習に顔を出した真野くんは、そこで同じように顔を出していた先輩からとあるSNSの書き込みを見せられたらしい。

「鎌田と色々聞き回って、どうも出所があの駅前の塾生みたいでさ、そこから噂が広がっていったらしい」
 短時間でそこまでわかった真野くんと鎌田くんの人脈に驚くと同時に、心配を口にしつつもそんなそぶりは微塵も見せなかった駿くんの元同級生が思い浮かんだ。
 彼女か発端かどうかはわからない。単なる噂話かもしれない。そこに悪意があったかもわからない。
 噂は悪意を引き込みながら膨らんでいく。真実などあっという間に見えなくなり、根も葉もない噂が事実に取って代わる。

「とりあえず俺たちは否定してるから、そのうち落ち着くと思うけど……」
「消えることはない」
 きっぱり言い切る駿くんに、真野くんの顔が歪む。
「だな。完全に消えることはないだろうな。でもそのたびに俺たちは否定するよ」
 同じようにきっぱり返してきた真野くんに、駿くんは驚いたように目を見開いていた。



 不安を抱えながら教室に足を踏み入れた途端、波が引くような静寂が教室中に広がった。
 そこで何が話されていたのかは一目瞭然で、思わず顔をしかめたくなるのをなんとか堪え、できるだけいつも通りに振る舞う。
 誰も直接聞いてこないのは、駿くんと接点がなさ過ぎるせいだ。
 あとはまあ、今日の駿くんの話しかけるなオーラが強烈すぎるせいもある。あまりに強烈で、美紗と真結が堪りかねたように笑い始めた。
「渡良瀬、強すぎる!」
「この渡良瀬見て、なんで自殺とか! 有り得なすぎて笑う」
 美紗と真結が本気で笑っていて、駿くんが本気でむっとしている。
 気が付けば教室の雰囲気が少しだけ緩んでいた。どこからともなく、噂を否定しているような声も聞こえてくる。
「ってか、渡良瀬前髪長すぎるんだよ。だから一見暗く見えるんだって。前髪切ったらイケメン! ってほどでもないんから、もったいぶらずに切りなよ。せめて爽やかさ演出しなよ」
「あと暗号! 暗号やめて、暗号」
 ダメ出しまで始まった。美紗はここぞとばかりに言いたい放題だ。二人の笑い声に周りまでつられて笑い始めた。
「二人ともうるさい」
「うるさいとか!」
「暗号じゃないし!」
 思わずつられて笑っていたら駿くんに睨まれて、余計に笑ってしまった。



 そんなこんなで始まった三学期は、時々こそこそ噂されるだけで済んでいる。
 元々駿くんの存在が薄かったせいか、そこまで話が大きくなることもなく、むしろ迫り来る球技大会と定期考査に学校中がおかしなテンションになっている。
 そもそも駿くんがまるで気にしていない。逆に真野くんと鎌田くんが気を揉む始末だ。

 今年の球技大会は、男子はサッカー、野球、バスケ、バレーの四つの中から二種目を選ぶ。女子はソフトボール、バスケ、バレー、そしてなぜかドッチボールの四つだ。
 うちのクラスの女子は去年もドッチボールに命をかけた。もう一種目はバスケだ。男子は野球とバスケに参加するらしい。

「あ、駿くんもバスケ?」
 どうやら男子は公平にくじ引きで決まったらしい。女子は元バスケ部員をドッチボール組に集中させ、バスケはほどほどの人選になっている。ちなみに私たちは、そのほどほどのバスケ組だ。

 三学期の体育は球技大会の練習に宛てられる。ちなみに学業優先なので放課後や早朝練習は認められていない。見付かった時点で減点になる。体育の授業だけが唯一の練習時間だ。
 だからなのか、女子とはいえ怒号のような檄が飛ぶ。

「もうやだ、球技大会になると性格変わるヤツ多すぎ」
 真結の疲れた声に、若干性格が変わっている美紗が「もうちょっとがんばって!」と背中を思いっきり叩きながら気合いを入れてくる。

「三年って自由登校なのに球技大会参加するクラス多いよね」
「推薦決まってる人は暇なんだよ。あと、ストレス解消で参加するらしい」
 なるほど、と思いながら、滴り落ちる汗をタオルで拭く。

 バスケは程々でいいと言われているものの、総合優勝を狙うには程々ではいられない。幸い私と真結はレギュラーメンバーからは外れているので、レギュラーの美紗を応援しながら、交代要員としての練習をしている。

「二見さん! ボール来たら目を瞑るのやめなよ! 危ないから!」
「でも」
「でもじゃない!」
 怖い。
 普段教室ではおとなしめの元女子バレー部キャプテンの剣幕に血の気が下がり、身体が硬直する。
「あー、うん、確かに花歩も危なっかしいけど、その言い方はさすがにキツいよ」
 真結のフォローになんとか気持ちを立て直す。震える指先を必死に握り込んだ。
 さりげなく真結が背中に手を当ててくれた。それにほっとして震えが治まり始める。

「ごめん、いきなり目の前に飛んでくるとどうしても怖くて」
「気持ちはわからなくはないけど、だからって目を瞑ってちゃ本当に危ないから。目を瞑ってぶつかるよりは、目を開けて避けた方がいい」
 その通りなので何も言い返せない。
「だね。花歩はボールに慣れることが先かもね」
「何言ってんの! それじゃ遅いよ! 二見さん! とにかく目! 開けて! ボールよく見て!」
 言いたいことだけ言って別の人に注意し始めた彼女の背中を見ながら、真結が「気にするな、でもがんばれ」と慰めてくれた。

 一人必ず三分は試合に出なければならない。当日欠席すると総合優勝してもポイントはもらえない。うちの学校では、体調管理もできないようなヤツはいざというとき失敗する、というスパルタな一面もある。
 三分間、なんとか無難に時間が過ぎればいいと思っていた。去年はソフトボール組だったせいもあり、一打席の参加でなんとか免れた。三振だったことは言うに及ばず。



「当日欠席しようかなぁ」
 放課後、トイレに行くつもりがそのままふらふら廊下を彷徨い、前に見付けた穴場の非常階段で寒空の下一人黄昏れていたら、駿くんにあっさり見付かった。
 帰り道、落ち込んだまま駿くんに愚痴をこぼす。
「いいよ」
「いいよって、駿くんはちゃんと行きなよ」
「特に」
「特にって何? またポイントいらないってこと?」
 若干イラッとした。隣を見れば、駿くんは少し意地の悪い笑みを浮かべていた。
「去年の順位は?」
「総合九位」
「ポイントは?」
「上位三クラス」
「無駄」
 一学年六クラス。三学年合わせて十八クラス。そのうち三年生は自由参加なので、上位はほぼ一二年が占める。その上での総合九位。一年から二年へのクラス替えはなく、同じメンバーで望む。はっきり言って厳しい。

「そういえば、解約できた?」
「うん」
 駿くんはアパートを引き払うことにした。
 あのアパートの家賃は、なんと七万八千円もするそうで、お正月に真希さんからそれを聞かされた父が折れた。父が泣いた直後にその話をする真希さんは策士だ。

 父や真希さんの対応はおそらく世間一般からズレているのだろう。
 弁護士の堺さんは駿くんのおじいさんの知り合いだそうで、駿くんとも昔からの顔なじみだったらしい。父から連絡を入れたところ、いくつかの条件を提示されたものの了承されたそうだ。

 その際、家賃を半分払おうとする駿くんに真希さんが怒った。
「いい? あなたがどれだけお金を持っていようと、まだ子供なんだから大人に甘えていればいいの! そもそもあの部屋は賃貸じゃなくて分譲よ! 支払いは終わってるわ!」
 真希さん曰く、一人でも生きていけるようにとあのマンションを買ったらしい。こつこつ貯めたお金と、両親からの援助、当時中古マンションが買い叩かれていたこともあり、なんとか一括で購入したとか。ローンはリフォーム分だけで、それもあっという間に支払い終えたとか。

 お言葉に甘えます、と駿くんは叱られたくせに嬉しそうに笑っていた。

 話し合いの結果、ほぼ決まった額になるマンションの管理費や光熱費をうちの親が支払い、それ以外は駿くんが払うことになった。
 これまで以上に節約しようと思う。お金に関しては頼り切りになるのが心苦しい。

 住所については私が実家から通っていることにし、駿くんの住所は真希さんのマンションになった。あくまでも学校に提出する書類だけで、細かいことは担任が請け負ってくれた。
 代わりに駿くんは三学期の定期考査で本気を出すよう言われている。上位成績者の割合で担任の賞与が決まり、上位十名を排出すると、一人につき五パーセント上乗せされるらしい。世知辛く薄汚い。

「あと駿くん、特進クラス蹴ったんだって?」
 三年になるとひとクラスだけ、特別進学クラスが編成される。基本的には成績順の志望者が集められるものの、このクラスの現役合格率はかなり高い。
「駿くん法学部志望だよね」
「去年からA判定出てる」
 久しぶりに本気でイラッとした。私なんて狙い所はなんとかB判定なのに。
「つまりどこにいようと合格すると」
「余程のことがなければ」
「勉強教えてください!」
 がしっと彼の腕を掴んで言ったら、笑いながら頷かれた。

 堺さんの条件は、駿くんの財産には本人以外一切手を付けないこと、大学進学および弁護士資格の取得、自分の事務所に入所すること、の三つらしい。
 むしろ父は、すでに就職先が決まっていることを喜んでいた。弁護士も今や就職難らしい。ただし大手事務所ではないので、お給料はさほど期待できず、それを見越して財産云々の話をされたそうだ。
 弁護士になれば、もれなくセレブになれるものだと思っていた。

「セレブ妻は諦めて」
「庶民妻で十分です」
 高校二年の三学期、学校帰りにする話じゃない。

 毎日同じ家に一緒に帰る。ただそれだけで嬉しくて幸せな気持ちになる。
 家に帰ってくると駿くんは小さく息を吐いて肩の力を抜く。きっと駿くんはそんな自分の仕草に気付いていない。それが何よりも嬉しい。



 球技大会用のTシャツが配られた。クラスごとに色が変わる。
「なぜうちは赤を選んだ?」
「担任が適当に選んだらしい」
「適当すぎる」
 文句を言いつつも、きれい系の美紗とかわいい系の真結はなんてことなく着こなしている。問題は、普通系の私だ。
 私を見た美紗と真結が見てはいけないものを見たかのように二人揃って一瞬目を泳がせた。
「花歩、絶望的に赤似合わないね」
「自分でもわかてるから言わないで」
 最後の練習はお揃いのTシャツを着て行われる。

「もう! 二見さんは相変わらず目を瞑る」
「ごめん」
「目を瞑るとき顔の前に必ず手のひら出して。運がよければキャッチできるから」
 前回の剣幕はどこへやら、元女子バレー部長の小山さんがボール対策を教えてくれる。少し離れたところで真結が声に出さず「がんばれ」と笑っている。
「こないだはごめん。私推薦狙ってるからついムキになっちゃって。皆勤逃しちゃってるから余計に。あと、渡良瀬くんのことも。無責任に噂信じてごめん」
 そういえば、彼女は正義感の強い人だった。あまり話すこともないから深くは知らないけれど、それでも見ていればわかることもある。
「ううん。元はといえば私が鈍いからだし。教えてもらえて正直助かる。あと、駿くんのことはそう言ってもらえてよかった」
 笑いかければ、照れたように笑い返される。
 計ったようなタイミングで真結が来て「とりあえず花歩は相手の動きをブロックしてればいいから」と無理難題をふっかけてきた。
「無理だよ」
「あ、それいい。大丈夫。二見さんが目の前ちょろちょろしてるだけでかなりイラッとするから」
 小山さんのフォローなのか貶しているのかわからない言葉に、真結が声を上げて笑っている。
「花歩ね、挙動不審なんだよ。動きが読めないから本当イラッとするの」
「それって褒めてる?」
「褒めてる」
 真結と小山さんの声が揃った。褒められている気がしない。
 試しに美紗をブロックしてみろ、と言われ、必死に全身でブロックしていたら、美紗から「花歩邪魔! イラッとする!」と般若顔で怒号を浴びせられ、泣きそうな思いで振り返れば、真結と小山さんがコートの外でお腹を抱えて笑っていた。せつなくて涙が滲んだ。



 球技大会最後の練習のあとに、定期考査が始まるのはどういうことなのか。
 しかもだ、間にバレンタインデーを挟むという鬼畜っぷり。チョコレートは美紗と真結と一緒に泣く泣くオンラインショップで買った。その受け取りを駿くんがしてしまうというのは本当にどういうことなのか。
 かつては球技大会の後に定期考査だったらしい。球技大会で燃え尽き、定期考査惨敗者が続出したために順番が入れ替わったのだとか。
 入れ替わったからといって変なテンションのまま挑んだ定期考察でまともな結果が出せるのかは、クラス全体の雰囲気を見る限り残念な予感しかしない。

「どういうことだ、渡良瀬」
 鎌田くんの顔が怖い。
 クラス全体が残念な空気で満ちている中、張り出された考査結果の上位五十名の先頭に駿くんの名前があった。びっくりして二度見した。
「本気出したら一位って! マンガか!」
 荒ぶる鎌田くんの叫びに、真結が、まあまあ、と宥めている。鎌田くんの気持ちはよくわかる。私も同じことを思った。
「おまけに真野が二位だし! だったら俺が三位のはずだろう!」
「でもほら、賢吾も今回二十七位まで上がったじゃん」
「必死にがんばってそれだよ!」
「実はさ、渡良瀬に教えてもらったおかげで、私たち順位上げたんだよねー」
 美紗の自慢げな声に、鎌田くんが、きっ! と効果音が聞こえそうなほど真結を睨んだ。真結がへらっと笑っている。
「真結、今回何位?」
「五十位」
「載ったの?」
「載ったの!」
 真結の自慢げな顔がかわいい。美紗は四十五位、私は四十七位にまで成績が上がった。駿くんの「これだけ覚えろ」がパーフェクトだった。それでも間違えたことに呆れられたのは消したい記憶だ。
「渡良瀬は文系? 理系?」
「花歩と一緒」
 鎌田くんの縋るような目に、思わず駿くんの真似をして「真結と一緒」と逃げた。
「なぜ二人とも素直に文系だと教えない」
「面倒」
 駿くんの渋面に鎌田くんが唸りながらしゃがみ込んだ。真結がけたけた笑っている。

 三年次のクラス替えは文理に別れる。一組が特進クラスなら、二組と三組は理系、四組から六組までは文系に成績順で別れ、完全に受験対策授業になる。
 真野くんはすでに特進クラスと決まっている。私も駿くんも文系だ。美紗と真結も文系を希望している。成績順だと同じクラスになる確率が高い。



 その日の職員室には、うちの担任の笑い声が高らかに響き渡っていた。
「二見、よくやった! まさか一位取るとはな! 見たか? 学年主任の顔!」
 昼休み、進路指導室に引っ張り込まれた途端、これ以上ないほど上機嫌な声を上げた担任が肩をばんばん叩いてくる。痛い。
「プラスいくらだったんですか?」
「教えるわけないだろう。ってか、言うなよ」
「言いませんよ。お小遣いください、遠縁のおじさん。あと、同じクラスに鎌田くんも追加で」
「お前、なかなかいい性格してるよな。順当に行けばお前らみんな同じクラスだろ」
「真希さんの娘なので」
 嫌な顔をしていた担任が、途端に表情を緩めた。
「歩元気か?」
「意外と駿くんに懐いてます」
「あいつ特進蹴ったんだよ」
「聞きました。真野くん美紗経由で」
「なあ、あいつの志望校知ってるか?」
 急に真顔になった担任は声をひそめた。
「聞いてません。でも一年の時からA判定出てるって」
「学校に提出してる志望校は琉球大学と北海道大学になってるんだよ、あいつ」
「それ嘘ですよ」
「わかってるよ!」
 ムキになって言い返された。大人気ない──そう思ったことが顔に出たのか、担任が一層むっとする。
「大学在学中に予備試験受けるって言ってましたよ」
「あいつまさか、お前と同じ大学受けるつもりじゃないだろうな」
「さすがにそれはないですよ。ロースクールのある大学にするって言ってましたから」
 担任は、はーっ、と大きく息を吐き、身体の力をだらしなく抜いてパイプ椅子に背を預けた。
「あいつの考えていることがイマイチわからん」
「そうですか? うちから通える大学ですよ。私もそのつもりですし」
 がばっと音がしそうな勢いで担任が前のめりになった。思わず仰け反る。
「お前、在学中に婚姻届出すなよ」
「出しませんよ」
「なんだよ、真希が『在学中に婚姻届出したら誤魔化してね』って言うから、てっきり……」
「いい加減、真希さんの性格把握してください」
 ぐったりとテーブルに俯せた担任は、これでいて二児の父なのだ。しかも双子の人気キッズモデル。おまけに奥さんも元ショーモデルという、なかなか華麗な家族を持つ。
「あ、そうだ、愛理さんにお勧めヘアサロン教えてもらえませんか? 駿くん連れていきたくて」
「あー、あいつな。むさいよな。いっそボウズにしろ」
「いやですよ」
 文句を言いながらも愛理さんと連絡を取ってくれる。

 先日、美紗にボロクソ言われた駿くんが、家に帰って鏡を見ながら、ぼそっと「切るか」と呟いているのを聞いた。いつも駅近の激安店でカットしているらしく、そこに行こうとするのを「一緒に行きたい」と精一杯のかわいさでおねだりしながら必死に止めたのだ。

「愛理今日なら空いてるって」
「やった! 愛理さんも付き合ってくれるんですか?」
「なんか渡良瀬見たいらしい。お、美容師も押さえたって。放課後迎えに来るってさ」
 やった。愛理さんはとにかくセンスがいい。元々真希さんと仲が良く、私も可愛がってもらっている。

 私のワードローブはほぼ愛理さんの見立てだ。通学用はマニッシュでシンプルに、休日用はガーリーでかわいらしく、部屋着はとにかくラブリーに、下着こそ手を抜かない、というのが愛理さんのポリシーだ。

 すぐさま教室に戻り、駿くんに今日の予定を訊き、事の次第を話す。
 放課後、迎えに来てくれた愛理さんの車に乗り込み、個室のある美容院に連れて行かれた。子供たちは今、CMの撮影中らしい。愛理さんのお母さんが双子のマネージャーをしている。

 駿くんをじーっと眺めていた愛理さんがスタイリストさんに細かな指示を出して駿くんのカットが始まる。ついでのように私も愛理さんの指示でカットされる。
 私たちがよく見える後方に椅子を用意して座った愛理さんが「一度男の子を自分の好きなように構ってみたかったのよねぇ」と、スタイリストさんと一緒にほくそ笑んでいる。

「彼、ちょっと面白い感じの子ね」
 愛理さんの意味深な耳打ちに、どういう意味かと首を傾げる。
「そーちゃんのことおもちゃにしてそう」
 間違ってはいない気がして笑って誤魔化した。
 そーちゃんとは担任のことだ。福澤宗一郎という堅苦しい名前を持つ。
「駿くん、髪を切ったらイケメンになりますか?」
 前髪をあげている駿くんはなかなかイケメンだ。と思う。贔屓目かもしれない。
「プロだもの、イケメン風にはなるわ」
 私たちの会話が耳に入ったのか、目立つことがあまり好きではなさそうな駿くんがかすかに顔をしかめている。
 今日は愛理さんに全て任せることを駿くんに了承してもらっている。初めは渋っていた駿くんも、しつこく何度もお願いするうちに折れてくれた。
 カット代は担任のおごりだ。口止めと駿くんへの感謝料らしい。

 出来上がった駿くんは、短すぎず長すぎない、今までとは真逆の爽やか系だった! 目が出ている! 耳が出ている! 襟足がスッキリしている! 毛先がふんわりさりげない! すごい!
「駿くんすごい! かっこいい!」
 髪型ひとつでここまで変わるとは。今まではさらっとはしていても、いかにもっさりしていたのかがよくわかった。
 はにかむ駿くんはめちゃくちゃ爽やかだ。
「どう? 気に入った?」
「花歩が喜んだので」
 しれっと言い放った駿くんに、愛理さんが一瞬ぽかんとしたあと、「やだ、やっぱり面白い」とスタイリストさんと一緒にけらけら笑っていた。

 ちなみに私も、ふわっとかわいい感じにカットしてもらえた。ほとんど長さを変えていないはずなのに、できあがりの自分を鏡で見ながら「やだ、私ってかわいい」とうっとりしてしまうくらい、普通系がちょっとかわいいかも系に変わっている。本当に髪型ひとつでこうも変わるとは。プロってすごい。
「花歩かわいい」
 駿くんのたったひと言が私を女の子に変える。

 翌日、美紗と真結のぽかんとした顔が面白かった。駿くんの少し得意気な顔も面白かった。
 プロのスタイリングから素人のスタイリングに大幅スキルダウン私は、「あ、花歩も髪切った?」で終わった。