ぼくはいつも、きみからうまれる
第八話 「ボクたちはボクたちを壊すだろうね」春。
生き急ぐように咲き乱れる桜は薄紅を散らし、心に儚さを映したまま色褪せた花びらが乾涸らびた塵へと変わる頃、始業式が行われる。
この地域のソメイヨシノは卒業式には間に合わず、入学式を待てずに散ってしまう。掴めそうで掴めない夢のような存在だ。
幼い頃の記憶は心の奥にしつこく染み付いたまま、いつまで経っても桜を美しいだけの存在にはしてくれない。
「おはよー」
「おはよー。今日ちょっと寒いね」
いつもより少し早く駿くんと一緒に登校し、途中で美紗や真結、真野くんや鎌田くんたちと合流し、球技大会ですっかり仲良くなった小山さんも加わり、一年前では考えられないような賑やかさの中、クラス発表を確認する。
ちなみに球技大会は総合六位という微妙な成績だった。私が出場した三分間、真結と小山さんがげらげら笑いすぎて審判から注意されていたのは、嫌すぎる思い出だ。
駿くんはそれなりに参加したらしい。存在感を消すのが上手い駿くんは、こういうときもそつなく熟す。
「よっしゃー! 渡良瀬と同じ!」
思いっきり叫ぶ鎌田くんの声に周りが注目し、駿くんが本気で嫌そうに顔を歪めている。
最近の鎌田くんのキャラ崩壊が激しい。優しく穏やかな印象だったはずなのに、わりと熱い人らしい。
小山さんは理系なので三組だ。順当に同じクラスになった私たちは四組。隣同士なので、お昼は一緒に食べようと言い合う。
実は小山さん、たまたまバレー部員がいなかったうちのクラスでは気の強さをひた隠しにしていたのに、球技大会でボロが出て、同じグループだった女子たちとすっかり合わなくなったらしい。むしろ二年もの間隠し続けていたことの方が驚きだ。おまけに他校にカレがいることも隠していたらしい。
「そりゃあ、裏切られたって思うわ」との美紗の高笑いに、小山さんは苦々しい笑みを浮かべていた。
「うわ、担任福澤じゃん。丸三年福澤組だよ」
美紗の声に真結も「うわぁ」となんともいえない顔をしている。
真希さんに「俺が本気になった渡良瀬手放すと思うか?」と、懐がぽっかぽかな遠縁のおじさんが口を滑らせたらしく、担任が今年も福澤宗一郎であることは私も駿くんも事前に知っていた。
「ってことは! また一学期の席、早い者勝ちじゃん!」
真結の声に手を振る真野くんと小山さんをその場に残し、急いで教室に向かい、廊下側の後ろをみんなで確保する。黒板にはでかでかと「席は自由! 早い者勝ち!」という担任の無駄に達筆な文字があった。最後の「!」の点でチョークが折れた跡まではっきり残っている。
廊下側の一番後ろに駿くん、その前に私、私の前に美紗、駿くんの横には鎌田くん、その前に真結が陣取る。窓際はすでに元福澤組で埋まっていた。
二年前、初めての教室で同じように黒板に書かれた文字にびっくりして、どきどきしながら黒板が見やすい真ん中の列の後ろの方に座った。たまたま美紗が前に座り、たまたま真結が横に座った。
「なんかこの並び、思い出すね」
同じ思い出がある二人と懐かしさに笑い合う。
髪を切った駿くんがいきなりモテるようになったらどうしよう、なんてことを悶々と悩んでいた私の気持ちとは裏腹に、特に女子たちに大きく騒がれることもなく、けれど、確実に印象が変わったのか、時々差し迫った用でもないのに話かけられている姿を目にするようになった。男子に至っては当たり前に声をかけている。
春休みに愛理さんに誘われてもう一度駿くんと一緒に髪を切った。
またしても愛理プロデュースでカットされた駿くんは、一段と爽やかさが増してかっこよさが跳ね上がった。愛理さん曰く、イケメン風に磨きがかかった、らしい。あくまでも「風」を強調されたけれど、私から見た駿くんはかっこいいと断言できる。
おまけに、愛理さんが最近何か新しいことを始めるとかで、若い男の子向けの小物のサンプルを大量に駿くんにくれたりしたものだから、駿くんの小洒落感がぐぐんと上昇した。
嬉しいけれど嬉しくない。
スタイリストさんが言うには、駿くんはひとつひとつのパーツが完璧すぎて却って印象を薄めているらしい。そのサイズ感も配置も文句ないのに、人はどこか歪みを愛でる習性があるらしく、もう少し目が大きかったり細かったり、つり上がっていたり垂れていたりするだけでイケメンに早変わりする、という何とも言えないダメ出しを食らった駿くんは、ダメ出し同様、何とも言えない顔をしていた。
「あのタイプは表情を無くしてしまうと幽霊みたいに存在感が薄れてしまうのよ。気を付けてあげて」
そう冗談みたいに笑ったスタイリストさんの声は、ちょうどシャンプーブースで髪を流していた駿くんには聞こえなかったと思う。
耳に飛び込んでくる「渡良瀬くん」という高い声は、全聴力をフルパワーで集めてしまうスイッチだ。聞こえた途端、心がざわざわと嫌な感じにざらついてしまう。
それが普通だとはいえ、今までが今までだったせいか、いちいち反応する心の狭い私がいる。
急にかっこよくなった駿くんに焦る。
少しでも見合うようせめてスカートで登校しようとしたら、駿くんに激しく却下された。
「そういうのはボクにだけ見せればいいから」と、わりと必死に諭された。
「膝や肩も他の人に見せちゃダメだから」と、それはもう、饒舌かつ早口だった。
だったら、かっこいい駿くんも私だけに見せればいいのに、と思ってしまう私は本当に心が狭い。できれば目出し帽をかぶって真っ黒なごついサングラスをしてほしい。手袋も忘れずしてほしい。
こっそり美紗と真結に相談したら、「そんなのフツー」とあっさり返され、鎌田くんの元カノの愚痴を散々聞かされた。一時期は鎌田くんを呼んでいる女子の声が聞こえてくるだけで、真結から殺気が漏れていたらしい。
「関わらないで済むなら関わらないでほしいって思うのが本音かなぁ。美紗や花歩と話しているのはまあいいとして、やっぱりそれ以外はさぁ、時々考え過ぎちゃう」
同じことを思っていた真結に、何度も頷いていてしまう。
「やっぱさ、相手を信用できるかもそうなんだけど、話してる相手も信用できないと安心できないよね」
美紗も同じことを考えていたのか、そう言って悩ましげな顔をしていた。
美紗や真結に対しては、むしろ駿くんと仲良くなって嬉しいと思う。
でもそれは、二人にちゃんと真野くんや鎌田くんがいることが上乗せされているからで、やっぱり心の狭い私は消えたりはしない。
卑屈な自分が嫌だ。
駿くんと四六時中一緒にいて、どこかで嫌になられたりしないかと不安に思う気持ちもあった。
たとえば、鼻をかんだり、トイレに入ったり、思わず変なくしゃみが出たり、おならは絶対にしてないはずだけれど、一度うっかりげっぷをしてしまった。恥ずかしさに死ぬかと思った。
そういう恥ずかしい行為をしても、それで嫌われるわけじゃないことをどこかで信じている自分がいる。信じられるようにしてもらっている。
「つまり駿くんは偉大だ」
「花歩、口に出てる」
しまった。ついうっかりここが学食だということを忘れていた。
「二見さんって、本気で渡良瀬くんのこと好きなんだね。なんか意外」
三人揃ってにやにやするのはやめてほしい。
小山さんは私たちの前では本性を隠さなくなったせいか、このところ若干腹黒さが漏れている。
「意外とはなんでしょう」
少し目を細めて小山さんを睨めば、にんまーりとどこから見ても腹黒い笑みが返された。
「温和しめな受け身体質かと思ってた。渡良瀬くんに言われてなんとなく付き合ってるのかなーって」
「甘いな、小山。花歩はこれでいてなかなか渡良瀬に関しては頑固だよ」
「嫉妬もするしねー」
ねー、と首を傾げる真結はいつも以上に楽しそうだ。
「でもなんで渡良瀬くん? こう言っちゃなんだけど、真野くんや鎌田くんに比べてぱっとしないよね」
別に小山さんにわかってもらえなくてもいい。むしろわからなくていい。それでもむっとしてしまうのは仕方ない。
「そういうのって、比べることじゃないでしょ」
「え、なに、小山のカレってそんなにゴージャスでマーベラスでファンタスティックなの?」
美紗と真結の笑顔の嫌味に、小山さんがしょぼくれた顔で素直に「ごめん」と謝った。小山さんのこういうところはすごく付き合いやすい。
しょぼくれた小山さんを真結が楽しそうにからかっている。しつこく「プレシャス」だの「アメージング」だの言っては声を上げて笑っている。
「真結、なんかいいことあった?」
「んー、この分だと賢吾と同じ大学行けそうなんだぁ」
幸せそうに笑う真結を見て、同じ大学、という言葉が心にべったり貼り付く。
駿くんこうして四六時中一緒にいられるのもあと一年だ。
少し離れた席で、鎌田くんに引っ張られてきた駿くんが真野くんたちと合流してお弁当を食べ始めた。学食にいる駿くんを見るのは初めてだ。いつの間にか真野くんの友達とも仲良くなっている。
こんな風に、不意に見かけることもなくなる。
知らない誰かが私の知らない駿くんの初めてを見るようになる。
「で、お前どうすんの?」
「ほかの人にもそんな態度なんですか?」
だらしなく頬杖ついて資料をめくる担任との二者面談。
本当は真希さんが来る予定だったけれど、歩が熱を出したらしい。心配ないけど大事を取って、と朝のうちに真希さんから連絡が来た。急遽担任が担任兼保護者代わりだ。
「一応大学には行くんだな?」
「わかりません」
「お前なぁ」
頬杖ついていた腕をかくんと倒して、担任はテーブルの上に寝そべった。
「お前は推薦にした方がいいぞ。今の成績維持すりゃ、なんとか推薦狙える」
ああ、これも「それを踏まえた言動」だ。ちくん、と心が痛むけれど、その方がいいことは自分でもわかっている。
「うちから通えますか?」
「がんばれば」
「先生、駿くんと同じ大学に行けると思いますか?」
がばっと勢いよく起き上がった担任の目は、これ以上ないほどつり上がっていた。
「お前はそういうこと言わないと思ってたよ、俺は」
「私もそう思ってました」
「なんだよ、なんかあったのか? そもそもあいつの第一志望、まだ琉球大学のままだぞ」
ぼりぼりと肩を掻きながら嫌そうな顔をする担任に、首を左右に小さく振って応える。
「あのなぁ。そりゃ確かに四六時中一緒にいられる今を思えば、別々の生活になるのは不安だろう。でもな、あいつはお前を本当の意味で不安にさせると思うか?」
思わない。
顔に出ていたのか、担任が「そうだろうが」とわかったようなことを言いながら目の奥をのぞき込んできた。
そんなこと、誰に言われなくとも一番私がわかっているはずなのに、わかってはいても不安になる。
つい、八つ当たりのような感情で担任を見返してしまう。
「いいか、恋人同士だろうが、新婚だろうが、熟年夫婦だろうが、四六時中一緒にいられるわけじゃいだろう。俺がどんだけ愛理のこと愛していようと、四六時中一緒にいたら、さすがに一人の時間がほしくなるわ」
「それ、愛理さんに言ってもいいですか?」
「やめてください。ごめんなさい」
二日後に再面談の指示を出した担任に教室から追い出された。廊下で待っていてくれた駿くんの顔を見た途端、なんだか情けなくなって鼻の奥がつきんと痛んだ。
「どうだった?」
「んー、明後日再面談」
交互に繰り出される靴の先を見ながら、自分の心が自分でも掴み切れていないことが不安の原因なのだろう。漠然とそう思った。
何を目指せばいいのかがわからない。とりあえず大学に行けばいいと思いながら、大学に行ったところでそれが見付かるとは思えない。
突き詰めて考えていけば、駿くんと一緒にいる、という一点に絞られてしまい、それでは以前真希さんに言われた「自分の足で立つ」ことにはならず、ならばいっそ就職しようかとも思ってしまう。
もうずっと前から自分の行き先を決めている駿くんを見ていると置いて行かれるような気がして、将来に対する焦りと不安しか生まれてこない。
「花歩?」
不意に手を繋がれ顔を上げると、じっとのぞき込むように見つめる駿くんがいた。
「何か言われた?」
「言われたというよりは言った。駿くん、大学はうちから通えるとこだよね?」
「うん」
不可解な顔をする駿くんと繋がった手。繋がっていると不安は消える。安心するのにそれ以上の何かが欲しくてたまらなくなる。
真希さんと出会ってからずっと、私は私のことを自分で決めてきた。たくさん悩んで、たくさん相談して、たくさんアドバイスをもらって、その上で最終的には必ず自分で決めてきた。どんな些細なことでも、自分で決めさせてもらえた。
そこには自分しか関わらなかったから、だから自分一人でも決められた。
「好きになると不安になる」
「うん」
思わず口を衝いた言葉に、思いも寄らず素直な頷きが返されて驚いてしまう。繋がる指先が固結びのようにしっかり繋がり合う。
「駿くんも?」
「うん」
柔らかな笑顔。いつの間にかこんな風に笑う駿くんを当たり前だと思うようになった。初めはぎこちなく少しだけ笑っていたのに。
「もしかして、みんなそうなのかな」
「ほかは知らない」
「でも、駿くんも不安になる? 私と同じ?」
「うん」
「ずっと、一緒にいたいだけなのに」
「そのためにしなければならないことをするだけ」
ずっと喉の奥に引っかかっていた不安の塊がその言葉と一緒に、するん、とお腹の底に落ちて砕け散った。
繰り出すつま先にあった重さが消える。
踵を迷いなく着いて、つま先をしっかり蹴り上げて、一歩一歩進んでいく。
駿くんと同じ大学に行くことも、駿くんのそばで働くことも、実はこっそり調べた。
駿くんは堺さんを間近で見て、弁護士になることを決めたらしい。真希さんも愛理さんも自分の夢や希望を叶えるためにたくさんの努力した。
それに比べると私の未来は漠然としていて、大学に入って、就職して、生きるために働く、それしか考えられない。穏やかな今が続くことしか考えられない。駿くんと出会って、そこに駿くんの存在が加わったとしても、それは変わらない。
きっと駿くんは自分の考えている未来に私の存在を置いたところで、同じ大学に行こうとか、同じ職に就こうとか、そういう風には考えない気がする。私は私で自立しなければならない。
「お給料いっぱいもらえることが目標かなぁ」
「いいね」
にこっと駿くんが明るく笑った。それに吃驚した。
「本当? そんな考えでもいいと思う?」
「いいと思う。生きるための仕事だから」
夢や希望じゃなくてもいい、そう言われているような気がした。子供の頃から「将来の夢」が苦手だった。
私そのものを肯定されたような気がした。
「私、いつか駿くんのお嫁さんになりたい」
目を瞠った駿くんの顔からゆっくり力が抜けていった。
「ボクはとっくに花歩のもの」
きりっと凜々しい顔を作った駿くんに笑う。生まれて初めてそう思えた自分に笑う。笑う私を見て駿くんも笑った。
まるで現実味のない言葉だった。きっと駿くんもわかっている。そう思えたことが重要だった。それもきっと駿くんはわかっている。
笑い合う私たちの間を、風が気まぐれな優しさで通り過ぎていった。少しだけ乱された髪が駿くんの長い指によって丁寧に整えられる。とくん、とくん、と心が笑う。
「駿くん、来月のお誕生日、何かしてほしいことある?」
プレゼントをし合わないと決めた以上、高校卒業までは物ではなく別の何かをプレゼントしたい。
帰り道にスーパーに寄って数日分の食料を買い込む。初めの頃は一人じゃないことが楽しくて、次第に生活の一部に駿くんがいることを過剰に意識して、それに落ち着くとただ一緒に買い物することすら愛おしくなった。
荷物を全部持ってくれるのも、扉という扉を全部先に開けてくれるのも、車道側を歩くのも、歩調を合わせてくれるのも、初めから変わらない。
「いつもと一緒」
「駿くんの好きなもの作るよ?」
「一緒にいて」
その声がどこか縋るように響いて、いつも一緒にいる、と返そうとして、私と同じように駿くんも不安なのだと気付いた。
「あのね、駿くんの誕生日にって思ってたんだけど──」
どう切り出せばいいかわからない。
一緒に暮らしているのに、まだ数えるほどしかしていない。それが駿くんなりのけじめだということはわかっているつもりだ。
こうして手を繋いだり、抱きしめられたりするだけで私は満足してしまうけれど、駿くんはそれだけでは満足できないこともわかっている。
もっと一方的でもいいとすら思うのに、駿くんは常に私を優先する。
ぐるぐるとたくさんの言葉が頭に浮かぶ。どれが正解だったか、焦るあまり頭の中がブラックホールだ。
「えっと、今日……あ、威勢、じゃなくて、情熱的? になりますか?」
言ってから、また言葉を間違えたことに気付いた。よりによって出てきた言葉がそれはない。それが一番正解から遠い。
全身が熱った私に、少し驚いた顔の駿くんがはにかむように笑った。
「いい?」
「うん」
耳まで赤くなった駿くんが早足になる。それがなんだかクリスマスの時に似ていて、少し笑ってしまった。
繋がる手が同じくらい熱かった。
駿くんの誕生日は、一年前と同じく二人だけで過ごした。
バースデーと頭に付くケーキだけは未だに苦手で、駿くんもクリスマスで嫌になったのか、ケーキはいらない、と神妙な顔で言われた。初めはおいしく感動的に食べ始めたタルトだったのに、半分を超えたところで飽き始め、最後は胃が重くなった。駿くんは何も言わなかったけれど、それ以降大量に買ってくることはなくなった。
その代わりにちらし寿司ケーキを作ることにした。その材料を食費担当の駿くんが支払うのは違うだろうと、それだけは頑として自分が貰っているお小遣いから出した。この時ばかりは早く自分で稼げるようになりたいと切実に思ったものだ。
ちらし寿司を作っている間中、駿くんはそわそわしっぱなしだった。いくらは自分で散らすと張り切った。錦糸卵が分厚くなったのはご愛敬だ。
作っている間中駿くんは楽しそうで、私の方がプレゼントをもらった気になった。心がまろやかに和む。
「まだ一年なのか」
食事を終え、お風呂にも入り、ソファーに並び座り、寝る前のひと時をまったりと過ごす。一日の終わりに駿くんと一緒に迎える、この静かにゆったり流れる時間が好きだ。
今日という日は駿くんの誕生日というよりも二人が出会った日という印象が強い。
私にとってあの日が宝物になったように、駿くんにとっても別の意味が生まれた日になったのかもしれない。
一年前よりも穏やかになった駿くんの顔を見ていたら、そんな風に思えた。
もしかしたら、私が知らないだけで、この一年の間にそんな風に生まれ変わった日がほかにもあったのかもしれない。
「まだ、なの?」
「ボクはこの一年をすごく長く感じた」
「そうなの?」
つけっぱなしのテレビが、明日は晴天だと知らせている。駿くんはそれを見るともなく、少しぼんやりしている。
駿くんの存在を知って一年。まだ、なのか、もう、なのか、私にはどっちだろう。
どっちでもあってどっちでもないように思う。
「それまで生きていなかったから」
ゆっくりと振り向く駿くんの瞳に私が映る。
間接照明だけが点いているリビング。テレビから溢れる色が駿くんの頬を照らしていた。
「ボクの一生はあっという間に終わるはずだった」
駿くんの長く骨張った確かな指にそれよりも細く頼りない指を静かに絡め、できる限り丁寧に手のひらを合わせる。
「私もそうかもしれない」
駿くんと一緒にいると、考える間もなく思っていることが口を衝く。
「死ぬときに振り返ると、何もない一生になっていたかもしれない」
滾々と湧き出でる時間の中、ただそのままに生きただろう。自らは決して溜めようとも、流そうともせず、湧き出でるままに、涸れるままに、ただそのままに終わりを迎える。
「ずっと一人で生きていこうと思ってたし、もし誰かを好きになったとしても、一緒に生きようとは思えなかった」
うん、と打たれた相槌が優しい。
「知られるのが嫌で、きっと深く関わろうとは思わなかった気がする」
「ん」
「何も知らなくても、何も知らせなくても、こんなに深く関われる人がいるとは思わなかった」
それぞれが抱えるものを打ち明けてこそ、絆が深まるものだと思っていた。だから、私には無理だと思っていた。
もしかしたら、駿くん以外にも同じように考える人はいるかもしれない。それでも私は、駿くんがいい。それだけは自信をもって言える。私の一部はすでに駿くんにつくられている。私の変化の源はいつだって駿くんだ。駿くんから新しい私は生まれている。
はっとした。
気付いた瞬間、静かで強い感情のうねりにのみ込まれ、一瞬、息が詰まった。
咄嗟に駿くんの腕を掴んだ。
「なんか、前に駿くんに言われたことが今わかった」
喘ぐように言葉が飛び出した。
駿くんのよくわからない言葉は、もしかしたら途轍もなく大切な何かだったのかもしれない。
「なに?」
私は丁寧に扱えたのだろうか。だから今、こうして笑ってくれるのだろうか。
「内緒。大好きってこと」
喉の奥からせり上がる強く心を揺さぶった何かを必死に堪えて笑えば、ぐん、といつもより強い力で引き寄せられた。
駿くんの腕の中は、いつだって駿くんで満ちている。匂いも、力加減も、ぬくもりも、何もかもが駿くんそのものだ。
力を抜いて寄りかかる。力が抜けて寄りかかられた。肩にのる頭の重みが嬉しかった。
「ボクたちはいつか、お互いの全てを知るときがくる」
「うん」
今は知らないままでも、いつか駿くんの全てを知って、私の全てを駿くんは知る。知らないままではいられなくなる。
「ボクたちはボクたちを壊すだろうね」
それは、終わりを予感させる言葉であり、始まりを意味する言葉にも聞こえた。
微笑みの中交わすキスは誓いのようでいて、過去の幻を見ているようでもあり、未来の儚さを感じるようでもあった。
彼のいつにない息遣いと重みと熱。それをひとつ残らず全身で覚える。
きっと私たちなら大丈夫──そんな風に簡単には思えないけれど、それでもきっと私たちなら大丈夫だと、心のどこかが信じている。
もしこれが真希さんの言う、高校生ならではの自信だとしても、それでもその先に繋げる努力をしたい。
「でも、いつだって知りたいのは、今の駿くんのことで、これからの駿くんのことだよ」
「同じだ」
しなやかに笑う彼を見て想いを強める。
きっと、私たちなら大丈夫。
傷ができた過程より、傷を抱えている今を知りたい。抱えた傷ごと、ずっと一緒にいたい。
全てを知っても、一緒にいてくれるだろうか。全てを知っても、一緒にいたい。
いつか、知ってほしいと思う日がくる。
「ねえ、なんで、三年、最初の、校外、学習が、山登り、なの?」
「精神と体力作りとかなんとか言ってなかった?」
言葉の間にぜはぜはと荒い息を吐く真結とは違い、美紗は余裕で歩いている。私はもう話すこともできない。
「早く来なよー!」
小山さんの鬼のような体力が羨ましい。ものすごくいい笑顔でかなり上から手を振っている。
「平気? 休む?」
駿くんの気遣いに、二つ返事でその場にへたり込む。
新緑が眩しいハイキングコースの脇に座り込み、飲み物とチョコレートを一欠片与えられ、ようやく息が整ってくる。
「なんで駿くんはそんなに体力あるの?」
「男だから」
「そうだけど。いつも家でごろごろしているのは同じなのに」
「花歩のお風呂中、腹筋や腕立てしてる」
「そうなの?」
知らなかった。
「情熱を逃がすため」
理由は知らなくてもいい。慌てて周りを見渡す。誰にも聞かれていないようでほっとした。
最近駿くんは自分のことをよく話す。言葉数が少しづつ増えているのが嬉しい。こうやって意地悪く笑いながらからかわれることもある。むっとしつつもそれすら嬉しくて、八つ当たり気味に隣に座る駿くんの肩に頭突きした。
再び歩き始めると、前方にさっきまでの私と同じように端に座り込む真結とそれを心配そうに見下ろしている鎌田くんを発見した。
「今野と小山は真野と一緒に先行った」
鎌田くんに頷く駿くんは、自分のバックパックからチョコレートを取り出し、無言のまま鎌田くんに渡す。さんきゅ、と自然に受け取る鎌田くんを見ていると、本当に友達なんだな、と感慨深い。
同じクラスになって、鎌田くんの友達とも駿くんはよく話すようになった。とはいっても相変わらずの片言で、それが今や駿くんの個性として受け入れられている。
駿くんには駿くんの世界があって、私には私の世界がある。
美紗と真結の間に駿くんが入り込んでこないのはそういうことで、駿くんの友達の間に私が入り込めないのもそういうことで、それでいいのだとわかったような気がする。
ちゃんとわかったわけじゃないけれど、それはきっと私と駿くんとの間にある境界線だ。そこをきちんとしておかないと、きっと自立はできない。
頂上から見た景色は、清々しいほどに晴れ渡る青空と連なる緑の山々に、ここまで登ってきた苦労がこれでもかと上乗せされ、そこで駿くんが「がんばったね」なんて爽やかに笑うから、その背景が眩しすぎて涙が滲んだ。
不意に、広大な自然を背景にした駿くんの存在が大きく見えた。
あんなに幽かな存在だったのに、今は力強い輪郭を持って目の前で鮮やかに笑っている。
出逢った頃に比べて背が伸びたのか、幾分か見上げる角度が変わっている。初めはほんの少し顔を上げる程度だった。今は顎が上がり首が後ろに少し反る。
「駿くんは大きいね」
頼もしくなった。初めは、守らなければいけないような気がしていた。今は、守られている。もしかしたら、最初から守られていたのかもしれない。初めから大きかったのかもしれない。
「花歩は小さいのに大きい」
ぽすっ、と頭の上に駿くんの手のひらがのる。そのまま滑るように髪を梳きながら長い指が毛先に余韻を残しながら離れていった。
涙が滲んだせいなのか、駿くんの背後が煌めいて見える。
思わず追いかけた指先を当たり前のように掬い取って握りしめてくれる。
口元にかすかな笑みを浮かべ、眩しそうに目を眇める君は、私の背後に何を見るのか。
同じ景色を同じように見ているのか。それとも、別の景色が見えているのか。
いつか、訊いてみたい。