ぼくはいつも、きみからうまれる
第六話 「ボクは花歩につくられる」「さすがにこれは……ちょっと大きくない?」
クリスマス・イブに駿くんが買ってきてくれたフルーツたっぷりのタルトは、直径が二十センチ以上もありそうな、どう考えても二人分だとは思えない大きさだった。
箱から出された瞬間、あまりの豪華さに思いっきり喜んでしまったがために、我に返った今、怒るに怒れない。
「んー……美紗たち来るかなぁ」
すでに冬休みが始まっている。
出不精の駿くんとはクリスマスデートもなく家でクリスマスっぽい映画をいくつか観ることにしている。イルミネーションは学校帰りにいくつか見に行って、「クリスマスだねぇ」「だねぇ」というやりとりを何回かしてすっかり満足してしまった。人混みに辟易したとも言える。
私とは違って、美紗と真結は初めてのクリスマスに張り切っていた。人混みすら醍醐味だと笑っていたくらいだ、さすがにイブに呼ぶのは申し訳ない。明日にでも来ないか訊いてみようと携帯電話に手を伸ばそうとして、長い指に遮られた。
「ここに?」
駿くんの渋い顔に、自分の中にあるはずのなけなしのラブリーさをできるだけ前面に押し出しながら言ってみる。
「ダメ?」
確かこのくらいの角度で首を傾げていた。
「ダメ」
にべもない。地味にショックだ。
終業式の日に見た駿くんの同級生だったという彼女は、声も仕草も見た目も何もかもが全力で女子だった。
あれ以来、自分の感情に灰色が混じる。それがすごく嫌だ。
「じゃあどうする? ものすごくおいしそうだけど、さすがにこのサイズだよ? 駿くんそこまで甘いもの好きじゃないよね」
どこからどう見ても絶対においしいだろうリースに見立てたフルーツが艶めくタルトは、そう日持ちするものでもなかろう。上に散らばる雪の結晶を模したチョコレートがかわいい。賞味期限シールには今日の日付がスタンプされている。少し味は落ちるだろうけれど、明日までならおいしくいただけると思う。
それにしても、この浪費癖はいかんともしがたい。
ほかで無駄遣いしている様子はないのに、私に関しての無駄遣いが多すぎる。本音を言えば嬉しくないわけじゃない。素直に言えば嬉しいに決まっている。が、さすがにやり過ぎだ。
これまでに散々プレゼントをもらっていたため、クリスマスプレゼントは丁重にお断りしたら、私からのプレゼントも断られた。バイトもできず、親のスネをかじっている現状、そこから駿くんへのプレゼント代を出すことに少なからず抵抗があったので、お互いナシにしたのだ。
その反動がこのタルトの大きさなのかもしれない。ツリーもリースもないから、せめてケーキくらいはとお互いにお金を出し合ったはずなのに、どう考えても予算オーバーだ。ここのタルトはただでさえ高いのに。
「うちに呼ぶ」
「え? 駿くんの家? 私も行ったことないのに?」
駿くんの渋面が一層深まる。
おそらく美紗や真結が問題じゃない。彼女たちを呼べば必然的に一緒に来る真野くんや鎌田くんをこの部屋に入れたくないのだろう。
だとしたら私も同じだ。彼らはともかく、駿くんの部屋に彼女たちを招くのはいくら仲が良くとも嫌だ。ましてや私もまだ行ったことがないのに。
自分の性格の悪さに落ち込む。
「今から──」
「行く!」
急いで冷蔵庫にタルトをしまった。
うちから歩いて十分ほどにある駿くんが住むアパートは三階建ての鉄骨造だ。
新築というわけでもなければ、それほど古いというわけでもない、ベージュとアクセントに茶色が加わったわりとありふれた四角い外観。道路に面した壁には、フォレストコート、という館銘板がかかげられている。フォレストというわりに、ざっと見たところ敷地内には植栽すらない。
その二階の角部屋に駿くんの部屋はあった。
「おじゃまします」
冬晴れとは対称的な室内の薄暗さに視界が鈍る。
スリッパがないと言うので、ブーツを脱いでそのまま上がれば、足の裏から体温が急速に奪われていく。思わず足踏みしてしまうほどに寒い。
廊下に面した小さなキッチン、お風呂とトイレがひとつになったユニットバス、壁の隙間に押し込められた洗濯機、そして──六畳ほどの洋室は冷え切っていた。
その部屋にはシングルベッドと小さなローテーブル、その上に置かれたエアコンのリモコン、床に積まれた少しの本。それしかない。
電源が入れられたエアコンからは暖かい風が吐き出されているにもかかわらず、凍えたままの空気がこれでもかと痛めつけてくる。
「駿くん、自分の家に帰ってきたって思った?」
「思わない」
駿くんの部屋のはずなのに、彼はここに一欠片も馴染んでいない。鼻の奥がつきんと痛んだ。
「じゃあ、帰ろ。ついでに荷物、全部持っていこ。タルトは二人で全部食べよ」
こんなに余所余所しくて、こんなに寒々しい部屋に駿くんをもう二度と帰したくない。絶対に嫌だ。どうしても嫌だ。
どれだけエアコンで暖められても、春になろうと、夏が来ようと、きっとこの部屋は冷たいままだ。
一人パンをかじる駿くんを思い出した。
冷蔵庫も電子レンジも食器すら見当たらないこの部屋で、彼は何を食べていたのか──。
「真希さんを説得する。住所はそのままでも一緒に住もう? 毎日私のところに帰ってきて。けじめなんて言わないで」
言いながら涙が滲んだ。もっと早く来るべきだった。もっと早く言うべきだった。あの時真希さんを説得するべきだった。
「ボクは毎日花歩と一緒にいたら、自分の思いを持て余してしまう」
静かながらも抑え込まれた声に、握りしめられた拳に、噛みしめられた唇に、伏せられた視線に、涙が零れるのもかまわず、身体ごとぶつかった。
「私だってだよ。好きすぎて頭がおかしくなりそうだよ。勝手に不安になって、勝手にいじけて、勝手に羨んで、もっと駿くんがほしくなる。全部ほしくなる」
押し倒されたベッドからは、嗅ぎ慣れた駿くんの匂いがふわっと浮かんで弾けた。
「あぁ、ダメ、ゴム」
艶めかしいほどのキスをして、素肌が外気に触れそうになったそのとき、それまで男の人の顔をしていた駿くんから呆然とした片言が呻くように飛び出した。
急に起き上がった駿くんは、クリスマスだからといつもより女の子らしく着飾った私の服を手早く元通りに整え、クローゼットを開け、そこからキャリーケースを引っ張り出し、その中に掛かっていた服を片っ端から放り込んでいく。
「何してるの?」
「急いで帰る」
気が付けば声を上げて笑っていた。
「そんなに急がなくても」
「無理。もう限界」
焦る駿くんが面白すぎて、手伝うどころか笑い転げてしまう。
ごく自然に、帰る、と言った。それが嬉しくて仕方がない。
せき立てられるように家に戻ってきた途端、駿くんは気が抜けたようにソファーにへたり込んだ。
「ボクはバカみたいだ」
「なんで?」
寝室のクローゼットを軽く整理し、駿くんがハンガーごとキャリーケースに突っ込んできた洋服を収めていく。
それが終わると玄関に行き、シュークロークの空いている場所に、紙袋にぐちゃぐちゃに突っ込まれてきた靴を一足ずつ拾い上げながら揃えて並べる。
コンビニの袋に突っ込まれた洗面道具も並べ、細かなものは一旦全て寝室にある棚に並べ、キャリーケースを水拭きして廊下のクローゼットにしまった。
あまりに物が少なすぎてあっという間に終わった。それがどうしようもなくせつない。
ぼんやりしている駿くんのコートを脱がせ、隣に腰をおろすと、そのままきゅーっと力を込められながらゆっくり抱きしめられた。
「花歩、ありがとう」
ありがとうを言うのは私の方なのに、上手く言葉にできなくて、ただ、小さく首を振ることでしか応えられない。
「少し、話してもいい?」
「ん、聞きたい」
「もしかしたら怖がらせるかもしれない」
ん、と返せば、身体を離すも手を繋げた駿くんは、一見寛ぐようにソファーの背にもたれた。同じようにもたれる。見上げた天井には何かに反射した光が小さく煌めいていた。隣から伝わるかすかな緊張が宙をくゆらす。
「この間、ボクは自分でもよくやったと思うくらい、花歩のことを大事にできたと思うんだ」
この間、とは宝物に変わった日のことだろう。とても丁寧に、大切に、扱ってくれたと思う。不安も恥ずかしさも少しの恐怖も、ひとつずつ丁寧に取り払ってくれた。
「でもそれは、はっきり言って苦しいくらいボクにとっては忍耐のいることで、この先同じようにできるかといえば、きっとできないと思うんだ」
繋がれた手がしきりに緊張を伝えてくる。
「自分勝手なことをしたり、花歩より自分を優先したり、少し乱暴になったり……むき出しの思いをぶつけてしまうかもしれない」
心許なげな声に、うん、と相槌を打った。
「さっき、いきなりで怖かった?」
「怖くなかったよ。きっと、私も駿くんと同じだと思うから」
「でも、どうしたってボクは男で、花歩よりも力がある。無理矢理やろうと思えばできてしまうんだ」
少しの間、天井に揺れる煌めきを眺めながら考えた。
どう考えても、駿くんが無理矢理するとは思えない。いつだって私に関することには慎重だ。その慎重さがなくなったところで、それを無理矢理や乱暴だとは思わない気がする。
「それは……情熱的って思うかな」
駿くんが勢いよく背もたれから身体を起こし、私の顔をまじまじと見ている。
あ、もしかして間違えた?
顔に熱が集まる。慌てて身体を起こして言い換える。
「違った。情熱的じゃなくて、なんだろう、熱烈? 猛烈? 勢いがいい? あ、威勢がいい?」
必死に言い繕っていると、ぶはっ、といきなり駿くんが吹き出したかと思ったら、声を上げて笑い始めた。
初めて駿くんが声を上げて笑っている。笑いすぎて涙さえ滲ませている。
こんな声音で、こんな表情で、こんな空気で、彼は笑う。その全てに見惚れた。
「ボクはバカみたいだ」
さっきと同じ台詞なのに、言葉が纏う雰囲気はまるで違う。ぼんやりとしながらもどこか張り詰めた気配を漂わせていたのに、今はリラックスしたものに変わっている。
「ボクは花歩のことが好きで好きで、本当にめちゃくちゃにしてしまいたいくらい好きで、頭の中は煩悩だらけなんだ」
煩悩という言葉に一瞬、除夜の鐘が聞こえた気がした。
「うん。私も駿くんのことが好きで好きで、時々憎らしくなるくらい好きで、独り占めして誰にも見せたくないって思ってる。えっと、監禁?」
「するの?」
「しないけど」
「してもいいよ」
「しないから」
笑いながら矢継ぎ早にからかわれる。いつもゆったり話す駿くんとは違い、何もかもがすごく新鮮だ。
「ボクは花歩につくられる」
またよくわからないことを言いながら、何を納得したのか、駿くんは満足そうに笑った。
「駿くん、緊張してる?」
隣の座席に座る駿くんは、じーっと窓の外を見たまま、小さく「ちょっと」と、どう見てもちょっとどころではない様相で答えてくれた。
雑然とした街並みは電車が進むにつれ少しずつゆとりを取り戻していく。
父と真希さんと歩は、真希さんの実家のそばで暮らしている。父は通勤に一時間半もかけている。
「やっぱり展望席の方がよかった?」
特急列車内は暑いくらいに暖房が効いている。それなのに、握られた駿くんの指先がいつもより冷たい。
一本遅らせれば、展望席の予約が取れた。この緊張具合を見たら、一本遅らせた方がよかった気がする。もしくは普通の電車でのんびり行けばよかったか。
「いや」
「平気?」
「わりと」
真希さんに会うときはあんなにあっさりしていたのに、父に会うのは緊張するらしい。
駿くんのキャリーケースに二人分の着替えを詰め、お正月色に染まった迷路のようなターミナル駅で真希さんの好きなお菓子を買い、今日は実家に帰省する。
実家といっても私が幼い頃に住んでいた家でもないし、そもそも私は住んだこともない。けれど、実家は実家だ。
「駅に真希さんが迎えに来てくれるって」
届いたメッセージを読み上げれば、ん、と窓の外を見たまま相槌が打たれる。余程緊張しているらしい。
「花歩ちゃーん!」
改札を出たところで聞こえてきた真希さんの機嫌のいい声に、軽く手を振りながら応える。
「あれ、真希さん一人?」
「うん。解放中! ちょっとさ、お茶して行かない? まっすぐ帰るのもったいなくて」
あからさまに緊張しながら会釈する駿くんを見た真希さんが、笑いながらそう提案してくれた。
「駿くん何にする?」
駅ビルにあるコーヒーチェーン店に入り、カウンターでメニューを見ながら訊けば、一瞬彷徨った指先がカフェモカの写真に置かれる。
「珍しいね」
「なんとなく。ショート」
「真希さんは?」
「カモミールティー」
「私は……バニラクリームフローズンのトールで」
注文を終えると、年末で混み合う店内を一瞥した駿くんに先に席に着くよう言われ、真希さんと一緒になんとか空いている席を見付けた。
「冬なのにフローズン?」
「うん、最近なんか自分の中で流行ってるの」
「口の中寒くならない?」
そのときは駿くんからひと口もらう、とは言えなくて一瞬答えに詰まると、目の前に座る真希さんがにやっと意地悪い笑みを浮かべた。
「青い春ね」
「その言い方ちょっとヤだ」
「いいじゃない。私だって課長とまだまだ青い春よ」
恥じらいもなく言うあたり、どう考えても青い春じゃない。
「お父さん、何か言ってる?」
「んー、色々考えてはいるみたい」
真希さんの様子から、特に反対されているわけではなさそうだ。それならいっそ、嫌なことは先に済ませようと、思い切って口にする。
「真希さん、駿くんと一緒に住むことにした」
「アパート引き払った?」
「それはしてない」
「まあそこまでは想定内だから別にいいんじゃない?」
あっさり言われて、下げていた視線が真希さんの顔をとらえた。なんてことない顔でほほえんでいる。
「高校生なのにって思わないの?」
「逆よ、むしろ高校生だからよ」
意味がわからなくて、思わず考え込みそうになったところで、駿くんがそれぞれの注文の品をトレーに載せて現れ、私の隣に腰掛け、飲み物を配ってくれた。
一口飲んだ真希さんにつられ、ストローに口をつけると、冷えた甘さが口に広げる。隣では一口飲んだ駿くんが思ったよりも甘かったのか、かすかに顔をしかめていた。
「大人になるとね、余計なことを考えすぎて踏み止まってしまうのよ。高校生だからできることってあると思うの」
何かを思い出すかのような表情で、真希さんは薄く笑いながらそう言った。
「大学に入ると、まあ、最初はいいんだけど、そのうち先を見なければならなくなって、やっぱり踏み止まってしまうのよね」
「保身、ですか」
「そうね、高校生の時が一番自由なのよ。その頃が一番なんでもできるの。一生懸命になれるのも、一生の友達ができるのも」
そこで真希さんはもうひと口飲んだ。つられるように駿くんも、私も、一口含む。
「きっとあなたたち二人なら道を踏み外すこともないでしょうし、二人で相談しながら思う通りにやってみればいいわ。どうしても迷ったり、困ったことは相談してくれればいいから」
駿くんに答える真希さんは大人で、私にとって理想の女性だ。
「私はその自由を謳歌できなかったから、あなたたちは思う存分謳歌するといいわ」
「真希さんは謳歌できなかったの?」
「モテなかったのよ。ほっといてちょうだい」
私の知る真希さんは、仕事ができ、いつもかっこよくスーツを着こなし、背を伸ばし颯爽と歩く、そんなかっこいい女性だ。
父の前に彼がいたことも知っている。私に構ってばかりいるせいでお別れすることになったのも、知っている。
真希さんがぐびぐびカモミールティーを飲み干した。
思わず隣に座る駿くんを見れば、真希さんにつられたかのように顔をしかめながらカフェモカを飲み干した。
溶けかけのフローズンに口を付ける。半分まで飲んだところで口の中が凍え、駿くんが引き取ってくれた。また真希さんがにやけている。
「ところで花歩ちゃん、駿くんって呼んでるのね」
「うん」
「じゃあ私も、駿くんって呼んでいい?」
実家へと向かう道中、バックミラー越しに訊かれた。他の人なら嫌だと思うことも、真希さんなら素直に頷ける。
真希さんが駿くんにも「いい?」と訊き、「構いません」という大人びた了承を得ていた。
駿くんから伝わる緊張は、まだ、解れない。
「おじゃまします」
どうしても、ただいま、とは言えない。言いたいのに言えないでいることを、父も真希さんもわかっている。
「おかえり」
それでもそう言って迎えてくれる父に、「お付き合いしている渡良瀬駿くん」と玄関先で紹介すると、少し作られた笑顔で「花歩の父です」と会釈し、「渡良瀬駿です。お世話になります」と頭を下げた駿くんを招き入れてくれた。
「花歩ちゃん大掃除終わらせた?」
「終わらせた」
「うちあと窓掃除が残ってるんだけど」
「やっぱり。去年も残ってたよね、窓掃除」
「今年は駿くんも来てくれるって思ったら、丸々残しちゃった」
えへっ、と白々しく笑う真希さんに、昨日で仕事納めだった父が苦笑している。
去年の寝てばかりの歩とは違い、歩き回る歩の相手をしながら窓以外を終わらせた真希さんは偉いと思う。
駿くんはまだ緊張したままなのか、立ったままリビングの窓からぼんやり外を眺めている。
駅から少し離れた場所にある住宅地の中に私の実家はできた。築浅の中古住宅。小さくてもいいから庭がほしいと言い出した父が、駅から遠いと渋る真希さんを説得した。
一度も住んだことはないのに、私の部屋も用意されている。
「まずは荷物を置いてきなさい」
父に促され、駿くんを連れて私の部屋に入ると、殺風景な部屋の中に客用の布団が二組畳まれていた。
「一緒に寝てもいいんだ」
「課長は渋ってたけどねー」
真希さんの楽しそうな声が廊下を通り過ぎていく。
荷物を置いて、所在なげに立ち尽くしている駿くんをそっと、丁寧に抱きしめる。きゅーっと力を入れて抱きしめ返され、いつものように首元に顔を埋めた駿くんは、ふーっ、と大きく息を吐いた。息を吐いたものの、肩の力は抜けていない。
「まだ緊張してる?」
ここまで緊張するものなのか、何が彼をここまで緊張させているのか、それがわからない。
「ボクは認めてもらえるかな」
何を心配しているのかと思えば。
「認めてるから、今日呼ばれてるんだと思うけど」
そうだといい、と小さなため息とともに自信なさげな声が耳元に吹き込まれた。くすぐったくて首をすくめる。
「駿くん、きっと扱き使われちゃうよ」
「それはいい」
「えー、いいの? うちの大掃除だって昨日終わったばっかりなのに」
父と一緒に窓掃除を始めた駿くんは、最初こそがちがちに緊張していたものの、終わる頃には父とも打ち解け、肩の力もかなり抜けていた。
「明日にはおせちが届くし、おかげで明日からはのんびりできそう」
夕食の席で向かいに座る真希さんが機嫌良く笑う。歩に食べさせているせいか、自分の食事がすっかり後回しになっている。
「歩、お姉ちゃんと一緒にご飯食べよ」
そのときの父の顔が、しまった、と言わんばかりでちょっと笑ってしまった。
「いいの? 助かる」
「もうほとんど食べ終わったから、真希さんゆっくり食べて」
慌てた父が、俺が、と言いながら席を立とうとした私を制し、真希さんとの間に座る歩の世話を始めた。真希さんの目配せに、そんなつもりじゃなかったのに、と歩に離乳食を食べさせている父を見る。
父は気張りすぎだと思う。気張りすぎて、逆に視野が狭くなっているような気がする。
ふと、そんな風に思えた自分の変化に驚いた。
隣でお行儀よく食事している駿くんに目を向ける。私の変化の源には、間違いなく彼がいる。
順番にお風呂に入っているうちにあっという間に夜は更けていく。
一番風呂だった駿くんは、お風呂上がりにみんなに挨拶したあと、父に勧められるまま部屋に引っ込み、次に入った私が部屋に戻れば、駿くんがお風呂に入っている間に敷いておいた布団の上でうつらうつらしていた。
「お布団の中に入らないと風邪ひくよ」
んー、と小さく唸りながらのっそり起き上がり、いつもより緩慢な動きでもぞもぞと布団の中に潜り込んだ。
「疲れた?」
「んー、わりと」
「来てくれてありがと。あと、窓掃除お疲れさま」
駿くんが布団の中から伸ばしてきた手を握る。くん、と引かれ、そのままぽすっと布団の上に倒れた。布団から陽だまりの気配がした。
「もっと警戒されるかと思った」
「うん、実は私も」
真希さんから聞いていたからなのか、父は始終落ち着いていた。むしろ駿くんを歓迎しているような素振りさえあって、これまでの父からは考えられないほどだった。
父はずっと後悔したままだ。後悔しすぎて、真希さんを信じ切れないでいる。
さっきも歩にご飯を食べさせている真希さんから目を離さなかったくせに、真希さんが食事できないでいることには気付きもしない。
この地に家を買ったのは、駅前のマンションより真希さんの実家により近い場所だったからだ。
真希さんじゃなければ、きっと上手くいかないと思う。真希さんだから、そんな父を理解し許せている。
「なんか、色々説明したいんだけど、上手く説明できない気がする」
「いいよ、そのうちで」
「そのうち駿くんが自力で理解しそう」
「それはそれで」
部屋の明かりを落とし、布団の中に潜り込む。ひんやりとした布団に身体の熱が奪われていく。自分でも驚くほど、ぶるっと大きく震えた。
「こっちくる?」
「いい? 布団の中冷たい」
「いい感じに暖まった」
駿くんの布団の中に潜り込ませてもらえば、その言葉通りぬくぬくしていた。
「いい加減、駿くんの枕買わないとね」
「アパートから持ってくる」
「んー、どうせならお揃いの枕にする? 今使ってるの、ちょっと首が痛くなるんだよね」
外国の雑誌に載っているような、おしゃれなベッドリネンに憧れて買ったふかふかの枕は、実際は首が変な感じに沈みすぎて寝心地がイマイチだった。折角買ったのだからと使っているものの、実際にはクッションを枕にしている方が楽だったりする。
「花歩もクッションにする?」
「えー、でもそれってせつなくない?」
「わりと寝心地いい」
えー、と笑い合いながら、眠りについた。
翌日にはすっかり肩の力を抜いた駿くんは、慣れたのか開き直ったのか、自分から歩を捕獲しては、ちょいちょい構って笑わせている。
午前中にはおせちも届き、歩から解放された真希さんがお昼の年越し蕎麦用にかき揚げを作り始めた。
「せっかく大掃除したのに」
「そんなこと言ってたら揚げたての天ぷらなんて家で食べられないわよ」
「でもさー」
ぶつぶつ言う私を余所に、真希さんは次々かき揚げのタネを油の中に落としていく。リビングからは駿くんと一緒にいる歩のはしゃぐ声が聞こえてくる。
「あれ? そういえばお父さんは?」
「お肉買いに行ってもらってる。夜はすき焼きにしようと思って。もうすぐ帰ってくるわよ」
「え、でもお父さんだと見境なく高い肉買ってくるんじゃない?」
「だからよ。ここは駿くんにいいとこ見せなきゃって奮発すると思うのよねぇ。絶対に霜降りの高級和牛買ってくるわよ」
したり顔で笑う真希さんの予言通り、わざわざデパートまで出掛けたのか、年末で割高になっているにもかかわらず、どうだとばかりに高級なお肉を買ってきた。
披露されたお肉を見た駿くんの目がわかりやすく輝き、それを見た父が得意気な顔を真希さんに向け、それに真希さんがお腹を抱えて笑い、真希さんにつられた歩が駿くんの腕に中でご機嫌にはしゃいだ。
夕食の前にお風呂に入り、すき焼きをつつく。
昼間散々駿くんと遊んだせいか、すでに歩はうとうとし始め、食事もそこそこにバウンサーに寝かされた。
「花歩ちゃんたち二年参り行くの?」
場所をダイニングテーブルからリビングのソファーに移し、ゆっくりお茶を飲みながら年末特番を眺める。
真希さんたちは明日のお昼前に参拝する。毎年ゆっくり朝寝坊するのが、私と父の元旦だった。それに真希さんも合わせてくれている。
「んー……駿くん行く?」
「一緒で」
「だよね。寒いし混むし、明日みんなと一緒でいい」
「あなたたち年寄りくさいわね」
呆れ顔の真希さんに、父が「俺も二年参りは嫌だなぁ」と笑っている。初日の出を見るために臨時列車まで走る沿線に住んでいるのに、誰も初日の出を見に行こうとは言い出さない。
「駿くん、少し話をしてもいいかな」
父の落ち着いた声に、駿くんの背が伸びた。
「まず、堺さんから君の詳細な事情を聞いたのは私だけだ。真希は聞いていないし、私も話していない」
驚いて駿くんを見れば、「事前に連絡はもらっていた」と言いながら、私を落ち着かせるような笑みを浮かべた。
ここに来るまでの駿くんの緊張と、認めてもらえるか、という台詞の意味が、今になってようやくわかった。
父に目を向ければ、ひとつ頷きが返され、真希さんに目を向けると無言で頷かれた。
「花歩、私はね、花歩を幸せにしてくれる人はどんな人だろうとずっと考えていた」
両手で湯飲みを抱え、そこに視線を落としながら、父は静かにそう言った。
「駿くん、花歩のことを聞くかい?」
「いえ。必要ありません」
間髪入れない返しに、父は驚いたように勢いよく顔を上げた。
上手く言えるかわかりませんが、と前置いた駿くんが、父を真っ直ぐ見ながら話し始めた。
「事情を知り、相手を理解しようとするのが普通なのだと思います」
あ、と思わず声が出そうになった。その駿くんの言葉は「普通」を否定しているように聞こえた。どうしてか胸が痛いほど騒いだ。
「事情を知ってしまうと、どうしてもそれを踏まえた上での言動を取ってしまいます。直接傷を受けてしまうと、その傷は一生消えることなく残ります。傷を受けた者を間近で見てしまえば、その事情を知ってしまえば、どうしたってその傷を癒やしたくなる。消したくなる。そして、傷を受けた者はそんな言動に救われたり癒やされたりもする」
そこで駿くんは瞬きひとつ分ほどの間、口を噤み、目を伏せ、それから、再び視線を上げた。
「でも、中にはそうじゃない人間もいる。見えなくなることはあっても、傷自体が消えることはない。踏まえた言動を取られると、傷を受けた者は無意識にでもそれを感じ取ってしまう。そのたびに、自分でも気付かないような小さな傷が増えていく」
長く彷徨っていた仄暗い迷路に光が射し込んだ。そんな気がした。
「ボクは、そういうタイプです。おそらく──花歩さんも」
誰も何も言わなかった。父は視線を下げ、微動だにしない。真希さんはそんな父を心配そうに見ていた。
あまりに覚えがありすぎて、頭の中が上手く整理できない。
「だから、花歩さんはボクに事情があることを知っても、決してそこに触れようとはしません。ボクも、彼女に事情があることは聞いていますが、それを知ろうとは思いません」
自分の心の内側を、駿くんから知らされた。意識していたわけじゃない。けれど、確かにその通りだった。
「花歩さんに言われた言葉です。それでもボクはボクで、彼女は彼女だと。その通りだと思いました」
逃げだと思った言葉は、駿くんの中で別の意味を持っていた。
「ボクは、花歩さんがいなければ生きていけないような人間にはなりたくない。花歩さんがいるから、生きていける人間になりたい」
私の中に浮かんだ思いが駿くんの唇を動かしているようだった。
ずっと黙って聞いていた父が視線を上げ、ふと表情を緩めた。
「駿くん、変えるなら就職前だ。就職して一度覚えられてしまってからの変更はなかなか周囲に浸透しない」
何のことを言っているのかと、思わず真希さんを見た。真希さんも訝しげな顔で父を見ている。
駿くんだけが目を見開いて父を凝視していた。
「いいん、ですか?」
「君さえよければ。私は君を逃したくない。君も花歩を逃したくないだろう?」
「彼女さえよければ今すぐにでも」
「高校卒業までは待ちなさい」
なぜ駿くんが前のめりなのかも、なぜ父が苦笑しながら諭しているのかも、まるでわからない。
さすがに説明してほしくて、隣に座る駿くんの腕を小さく揺さぶった。
「ボクは、渡良瀬という家名が嫌なんだ。花歩に出会うまでは憎んでさえいた」
駿くんから吐き出された忌々しげな声に、びくっと震えた。
「駿くんに婿養子に来てもらおうという提案だ」
次に聞こえてきた父の言葉が信じられなくて、頷く駿くんを見ながら、ぽかん、と頭の中に空白を生み出してしまった。