ぼくはいつも、きみからうまれる
第五話 「ボクはいつも、花歩から生まれる」


 渡良瀬くんとケンカした。

 最近、渡良瀬くんが頻繁に無駄遣いするようになった。
 雑誌や渡良瀬くんのノートパソコンでウェブページを見ながら、何の気なしに「かわいい」と言っただけで数日後にプレゼントされたり、ちょっと「おいしそう」と言っただけですぐさまお取り寄せしたり。
 前々からその傾向はあったものの、ここ最近の無駄遣いっぷりに、ついに苦言を呈したところ、あからさまにむっとされ、むっとし返し、今に至る。

「あのね、プレゼントしてくれるのは嬉しいの」
 無言だ。返事もしない。
 それなのに、背後から抱きしめられているのは、一体どういうことなのか。ケンカとは、正面切って睨み合うものじゃないのか。もしくは殴り合いとか。

 渡良瀬くんは何気に頑固だ。

「私ね、渡良瀬くんが一緒にいてくれるだけで嬉しいの。何か買ってもらわなくても、十分嬉しいの」
 背後から肩の上に頭が乗った。それでも無言は続く。ただでさえ片言なのに、無言になった上に、顔も見えなければ何を考えているかわからない。
「渡良瀬くんが私に何かしてあげたいって思ってくれているのは、ちゃんをわかってるつもりだから。そういうときは、手、繋いで」
 断面がテトラポットみたいな三角スケールは平らなスケールが使えない私に真希さんが貸してくれたものだ。それで線を引き終わった途端、手を繋がれた。両手ともがっちり繋がれた。
「渡良瀬くん、これじゃ勉強できない」
 定期考査が目前に迫っている。

 週末恒例のドラマ鑑賞を控え、必死になって勉学に勤しんでいるというのに、このザマは一体どういうことなのか。

 ソファーに座って教科書をぱらぱらめくるだけで頭に入る渡良瀬くんとは違い、彼の足の間に座り、ローテーブルにノートを広げている私は、書いて覚えるタイプだ。時々背後から間違いを指摘される。

 いつの間にか渡良瀬くんまでソファーから降り、ローテーブルとソファーの間に座る私の背後に無理矢理身体を押し込んで、またしてもいつの間にか買ってきた、雑誌に載っていた高級おしゃれ万年筆を背後からプレゼントされ、ついに怒ったのがついさっきの出来事だ。
 高校生に万年筆は百年早い。購買の三百円のシャーペンで十分だ。

「こんなことばっかりされちゃうと、私もう渡良瀬くんの前で気軽にしゃべれなくなっちゃう」
 手を握られたまま、繋がった手ごとぎゅっと抱きしめられる。渡良瀬くんはやりたい放題だ。

 ローテーブルの上には蓼科の工房で作った歪なマグカップがふたつ並んでいる。
 意図したわけでも示し合わせたわけでもないのに、後日焼きあがたものが送られてきたら、ペアと言っていいほどお互いの手が作り出したものは似ていた。色も形も大きさも、不格好な歪みまでもがよく似ていた。

「嬉しいから大切に使う。でももうやめてね。買ってほしいときはちゃんとお願いするから」
 私に関することは、いちいち「いい?」と訊いてくれるのに、さっきだって線の引き終わりを待ってくれるのに、プレゼントに関しては本当に自分勝手に買い与えようとする。

「気持ち」
「うん、十分伝わってるから。プレゼントじゃなくて言葉で教えて。私ね、渡良瀬くんの声、すごく好きなの」
「んー……」
「無理して何か言おうとしなくていいから。気持ちを伝えたいときに、手を繋いだり、名前呼んでくれればそれでいいから」
「花歩」
「ん」
「花歩」
「ん?」
「花歩」
「うん、わかった。とりあえず今は勉強しよ? 私今回九十位くらいを狙ってるから。渡良瀬くんも今回二十五位くらいを狙ってみれば?」



 そう言ったからといって、きっちり二十五位を取る渡良瀬くんは本当に感じ悪い。
 鎌田くんはまたもや四十位前後で、真野くんも変わらずトップテン入り、今回は八位にいる。私の成績データは、八十七位に繰り上がった。快挙だ。

「二見、今回がんばったな。これで数学は次、Bクラスだな」
 やった。これまでどれだけがんばっても数学だけがCクラスだったのだ。
「渡良瀬様々です」
「あいつなー、一回でいいから本気でやれって言ってくれよ」
「校外模試は本気でやってるって言ってましたよ」
「腹立つなー」
「鎌田くんも同じこと言ってました」
 ぺこっと頭を下げて職員室をあとにする。
 考査結果が出た後、必ず担任と話すよう真希さんに言われている。

 うちの高校は生徒側から動かない限り教師は生徒を構わない。一見冷たいようなシステムだけれど、逆に生徒の方から絡まないと成績データだけで全てが判断されるので、成績上位者でもない限り、積極的に教師に絡む。主に情に訴える方向で。
 かなりゆるい校風だけれど、それなりの進学率を誇っている。
 修学旅行もなければ、体育祭も、文化祭もない。委員会はあるけれど、それをまとめるのは担当教師で、生徒会もない。基本的に勉強だけをしに来る場所だ。青春なんてない。
 おかげでそこまで生徒に人気のある学校ではない。おまけに私立ゆえ授業料が高く、親御さんにも人気はない。それでも塾に通わなくて済むだけのカリキュラムが組まれているので、一貫して勉強を見てもらえることを考えると悪くないと思う。
 私も真希さんに勧められなければ、制服がかわいい公立高校に行くつもりだった。

『花歩ちゃん成績上がったんだって?』
「うん。渡良瀬くんに教えてもらって」
 担任と話した日の夜、必ず真希さんから連絡が来る。
『花歩ちゃん、今年はどうする?』
「大丈夫かな。たぶん大丈夫だと思う」
『ダメそうだったら連絡ちょうだいね』
「うん。そのときはごめんね」
『何言ってるの。親友なんだからそのくらい任せて』
 真希さんは、あえて「親友」という言葉を使ってくれる。「母」と付く言葉を決して口にしない。
「真希さん、ありがと」
 私の今があるのは真希さんのおかげだ。真希さんがいてくれなかったら、今こんな風には生きていない。



 ついに今年のカレンダーが最後の一枚になり、そこから数日が過ぎていった。
 このところ毎日のように渡良瀬くんがうちに泊まっている。学校でも私のそばを離れない。美紗と真結に「渡良瀬となんかあった?」とこっそり心配されるほど付きっ切りだ。さすがにトイレの前で待ち伏せされたときは本気でやめてくれと懇願した。

「渡良瀬くん」
 食後の後片付けが終わったあと、ソファーの座面をぱしぱし叩きながら呼ぶ。どうした? と言いたげな顔で、渡良瀬くんは隣に静かに腰をおろした。
「渡良瀬くん、私にスマホの着歴見せられる?」
 渡良瀬くんの目があからさまに泳いだ。やっぱり。

 渡良瀬くんの部屋着が、Tシャツとハーフパンツからぬいぐるみみたいなボアパーカーとイージーパンツに替わっている。寝るときは今までと同じTシャツとハーフパンツだ。私はいつぞやに渡良瀬くんからプレゼントされた同じくもこもこのルームウエアを着ている。寝るときはパジャマだ。

「私の誕生日のこと、真希さんから聞いた?」
 観念したような「はい」が渡良瀬くんの口から小さく聞こえた。これほど神妙な渡良瀬くんなんて滅多に見られない。
「もしかしたらその日、私の様子は少し変になるかもしれないけど、でも、たぶん大丈夫だと思うから」
 いきなりぎゅっと抱きしめられた。肩口に鼻が当たってちょっと痛い。
「詳しいことも聞いた?」
「聞かない」
 聞いていない、ではなく、聞かない。待ってくれて、信じてくれる。
 とくん、と胸が鳴る。心が溢れる。
「様子がおかしくなるって聞いただけ?」
「そう」
「渡良瀬くん、その日は一日中一緒にいてほしいんだけど、お願いしてもいい?」
「いいよ」
 渡良瀬くんの「いいよ」は、いつもそれ以上に私を許容してくれるような気がする。
「皆勤逃すけど」
「別にいい」
「内申ポイント逃しちゃうよ?」
「その程度」
 軽く鼻で笑われた。思わず腕の中から逃れた。自分史上最高レベルで睨んでやる。
「また鎌田くんにむかつかれるよ。私も若干イラッとした」

 うちの高校は成績至上主義だ。皆勤すると内申点が大きく加算される。三学期に行われる球技大会では、総合優勝したクラスには三ポイント、二位には二ポイント、三位には一ポイントがクラス全員に加算されるので、みんな本気で挑む。ちなみに一ポイントが何点かは教えてくれない。小数点以下じゃないと思いたい。
 内申点は推薦に影響してくるので、これまた成績上位者以外は本気で取りに行く。まあ、渡良瀬くんのように初めから推薦を視野に入れていない人には関係のないものだ。私は、あわよくば、と思っていたりする。

「ボクがそこそこ賢くてよかったね」
 渡良瀬くんがにっこり笑った。ごもっともすぎてぐうの音も出ない。
 もし付き合っているのが鎌田くんだったら、絶対にこんなこと頼めない。推薦を狙っているという真野くんでも無理だ。
「渡良瀬くんは意地悪だよね」
「そう?」
「優しいけど! なんか意地悪!」
 八つ当たり気味に渡良瀬くんの胸を頭突きする。
 さらっと髪がうなじを滑り落ちていく。そこにかすかな指先の気配を感じた。すっと触れるか触れないかの軌道でうなじを辿りながら、髪がひと房掬われる。とくん、と胸が鳴る。

「渡良瀬くん、大好き」
「ん、ボクも花歩が好き」
 顔を上げると、唇が重なった。その直前で目を閉じられるのは、渡良瀬くんの存在を受け入れているからだ。
 それなのに、あの日「いい?」と言ったにもかかわらず、キスで踏み止まったまま、「全部」と言ったくせに、その先に進まないまま──。
 大切にされていることをわかってはいても、進展のなさに不安が少しずつ募っていく。



 十二月十二日は私が生まれた日だ。
 私が一年で一番、フラジールステッカーを所狭しと大量に貼り付けられる日でもある。

「今日一日、大変面倒ですが丁寧に扱ってください」

 担任にはこの日、渡良瀬くんと一緒に休むことを伝えてある。伝えた時点で心配そうな顔をされてしまうあたり、すでにフラジールステッカーがいくつか貼り付いていたのかもしれない。食が徐々に細くなっている自覚はある。

 朝一番に渡良瀬くんに礼儀正しく頭を下げた私は、自分が思っていたよりも平気だった。
 平気だと思っていた。
「花歩、おいで」
 インスタントのスープを無理矢理流し込むようなお昼を終え、いつも通り食器を片付け、揃って歯を磨いたあとで渡良瀬くんに手を引かれ、連れて行かれたのはベッドだった。

「少し昼寝しよう」
「眠くないよ?」
「じゃあ、ちょっと一緒に寝転がろう」
 訝しむ私に、いつもより言葉の多い渡良瀬くんは、優しくも心配そうに笑いながら「顔色が悪い」と布団をめくった。
「おいで」
 渡良瀬くんは普段人を寄せ付けないくせに、私をすごく許容してくれる。
 こんな風に無条件で全てを受け入れてくれることがどれほど尊いことか、本当は知らずに育ちたかった。知るのは大人になってからでよかった。私も歩のように真希さんから生まれたかった。

 先にベッドに入った渡良瀬くんの隣に寝転がる。抱きしめてくれる渡良瀬くんがあまりにもあたたかい。
「やっぱり冷えてる」
 ついさっき洗面所の鏡に映る自分の顔を見たばかりなのに、自分の顔色に気付かなかった。渡良瀬くんに触れるまで、冷えていることにも気付かなかった。

 腕枕というものは、改めてされるとものすごく恥ずかしい。
 蓼科でも経験しているけれど、あの時ははっきり意識する間もなく自然とそういう体勢になったせいか、その単語が頭に浮かぶことはなかった。
 肩を抱き込まれた今は明らかに、そういう体勢です、と言わんばかりで、目の前にある喉仏がクローズアップされ、動くたびにいちいち反応してしまいそうになる。
 どきん、どきん、と胸が騒ぐ。身体に変な力が入る。

「何見てる?」
 渡良瀬くんの肩にぴったりくっついている耳から彼の身体を通して響く声と、反対の耳から空気を通して響く声が少し違って聞こえる。
「喉仏」
「面白い?」
「わりと」
 しまった、渡良瀬くん化してしまった。

 こういう甘めな雰囲気に馴染めない。
 始まりがニュートラルだったせいか、一緒にいることが妙にしっくりきて、恋愛的盛り上がりがさしてないまま、じわじわ気持ちがせり上がってきた感じだ。

「今ボクが考えてること、知りたい?」
「今だけじゃなくていつだって知りたいよ」
「んー、わりと花歩はボクのこと知ってるよ」
「本当? ならいいんだけど。ときどき間違ってるんじゃないかって思うこともあるんだよ」
「そっか」
「そうだよ」
「的確」
「本当?」
「本当」
「で、知りたい?」
「うん」
 天井を見つめたまま話す渡良瀬くんの喉仏を見ているうちに、同じ体温になってきた。

「花歩の中にある、この日にまつわる嫌なものを、別のものに変えてしまいたいと思っているんだけど、はたしてそれが花歩にとっていいことなのかがボクにはわからなくて、どうしたものかと悩んでいます」
 すごい長文がきた。
 そして、渡良瀬くんは私のことをちゃんと知っていた。身体の力がいつの間にか抜けていた。
「よくわかったね」
「ボクにもあるから、似たようなものが」
 この日にまつわる嫌なもの。渡良瀬くんのそのときは、私が丁寧に扱いたい。丁寧に扱える存在になりたい。
「お願いします」
「いいの?」
「はい。きっと、一生の宝物になると思うから」
 ん、と言いながら身体を起こし、真剣な目をした渡良瀬くんは、ゆっくりと丁寧に私を扱ってくれた。



「花歩、起きて」
 んー、と唸りながら寝返りを打つ。なんだか懈い。
「花歩、いいから起きて」
 耳元で囁く渡良瀬くんの声が好きだ。
「花歩ちゃん? 大丈夫? 開けるわよ」
 真希さん!
 するる、とスライドドアが細く開いた瞬間、思いっきり叫んでしまった。

「避妊はちゃんとしてるんでしょうね」
 真希さんの咎めるような声に、渡良瀬くんが落ち着いた声で「はい」と返している。
 穴があったら入りたいとはこのことだ。

 私が叫びを上げた瞬間、どういうわけか何もかもを悟った真希さんは、遠慮の欠片もなくスライドドアを一気に開けた。そこは本来閉める場面じゃなかろうか。
 まさかこれを見越していたわけではないだろうけれど、冷えないようにときっちり部屋着を着るよう言ってくれた渡良瀬くんに頭が下がる。

「しっかり責任が取れちゃう十八歳って、ホントかわいくないわね」
「ありがとうございます」
「褒めてないわよ。もうちょっと焦りなさいよ」
「十分焦りました」
「嘘言いなさいよ。涼しい顔をしてもう、本当かわいくないわ」
 不満顔の真希さんと何食わぬ顔の渡良瀬くんがダイニングテーブルを挟んで対峙している。
「二人とも、もうそのへんで……」
 何もかもが恥ずかしくて顔を上げられない。萎びそうだ。
「でもまあ、よくやったわ」
「はい」
 いつの間にか真希さんと渡良瀬くんが通じ合っている。なんとなく面白くないと思ってしまうのは、気のせいではあるまい。
 渡良瀬くんに並んでダイニングテーブルに着いているせいか、急にお腹が空き始めた。

「花歩ちゃん、ご飯食べれそう?」
「実はすごくお腹が空いちゃって」
 恥ずかしながらもそう言った瞬間、真希さんの目からぽろぽろと涙が零れ落ちた。
「よかっ、よかった、花歩ちゃん、よかった」
 あっ、と思ったときには、真希さんと同じように涙がぽたぽたとダイニングテーブルに落ちていた。
 向かいに座る真希さんが伸ばしてきた手をしっかり握る。
「わた、渡良瀬くんが、渡良瀬くんが……」
 うんうん、と頷きながら、真希さんが泣き笑う。渡良瀬くんがさりげなくティッシュを二人の間に置いてくれた。揃って涙を拭きながら鼻をかんだ。

 かたっ、と小さく音を立てて椅子から立ち上がった真希さんが、渡良瀬くんに向かって深々と頭を下げる。
「花歩の母として、心から感謝します。ありがとうございました」
 私の涙腺は本気で決壊した。



「なぜ?」
 ずらっと並んだインスタントな物体に、渡良瀬くんの眉間に皺ができた。そういえば、この類を食べている渡良瀬くんを見たことがない。

「私ね、真希さんに会うまでカップ麺って食べたことなくって、そのせいで友達にバカにされたことがあって、初めて真希さんに会った日にこっそり食べさせてくれたの。なんかそれ以来、この日はカップ麺を食べることになってて……」
 それは真希さんの気遣いだった。ケーキやごちそうとは対極にある食べ物だから、多少なりとも口にできたのだと思う。

「私と花歩ちゃんとの秘密だったのにー。一歩さんにだって内緒だったのにー。かわいくない十八歳に私のこのやるせない気持ちわかる? ねえ、わかる? あとから来ていいとこ取りってどうなの? どうなの?」
「どうでもいいです」
 真希さんが若干壊れ気味だ。父のことを名前で呼ぶなんて珍しい。渡良瀬くんの機嫌も何気に悪い。
「今日歩くんは?」
「一歩さんと一緒。今日は女同士の日だもんねー!」
 ねー、と言いながら首を傾げる真希さんは、酔っ払っているわけじゃない、と思う。

 カップ麺を食べ終わると、真希さんは父からのSOSの電話を受け、軽く舌打ちをしながら帰り支度を始めた。育児疲れかもしれない。

「花歩ちゃん、渡良瀬くんにたくさん愛してもらいなさい。そして、たくさん渡良瀬くんを愛してあげなさい」
 愛なんて言葉を照れずに言える真希さんは大人だ。
「それにはね、まずは自分の足で立つことが必要よ」
 別れ際にそう言い残して真希さんは帰っていった。



 迎えた二学期の終業式。

 始業式では前方を歩く渡良瀬くんに声をかけていいのかわからなかった。
 今は、当たり前のように教室から並んで歩いている。
 あのフラジールの日から何かが変わったのか、と訊かれれば、何も、と答えるしかない。
 相変わらず抱きしめられるし、手を繋がれるものの、それ以上のことはなく、キスすらしていない。
 抱きしめられるたびに胸を騒がすのも、手を繋ぐたびに体温を上げているのも、私だけのような気がして、渡良瀬くんを盗み見る機会が増えた。
 渡良瀬くんは、何も変わらない。私だけが変わってしまった。
 好き、の感情を持て余してしまう。

「どう思う?」
「鎌田くんは断ったんでしょ?」
「当たり前だよ。はっきり断ったんだけど……」
「面倒だよなぁ」
 終業式のあと、いつもの、と頭に付けたくなる六人でファミレスランチだ。いつもの、と付けたくなるコーナー席に案内された。

 実は鎌田くん、蓼科の前に元カノから復縁を迫られていたらしい。
 真結がいる、と断ったものの、未だ諦められない元カノはことあるごとに真結に意味深なことを言ったり、鎌田くんにこれ見よがしに話しかけてくるらしい。
 真野くんが「しつこい女はなぁ」とうんざりしているのを見ると、前に美紗が言っていた「断る方も大変」という言葉が真実味を増す。

「同じクラスってのを盾にしてるよね」
 どうやら美紗はその元カノを知っているらしい。このところ渡良瀬くんと一緒にいすぎたせいで、美紗や真結とはゆっくり話ができていない。
「真結は不安?」
 口にしてから、わかりきったことを訊いてしまったことに気付いた。それなのに、真結はにこっと笑顔を見せた。
「そうでもない。賢吾もはっきり断ってるし、最近ちゃんと言葉にも態度にもしてくれるし」
「でも気分悪いよね」
「まあね。触るなって思うし」
 美紗に答える真結の発言に、鎌田くんが心なしか嬉しそうな顔をした。
「渡良瀬ってそういうのないの?」
「ない」
 きっぱり言い切る渡良瀬くんから視線を移してきた真野くんに、同じように「ないよ」と返す。
「でも渡良瀬だって元カノいるだろう?」
 え、っと声を漏らし、すぐ隣に座る渡良瀬くんに目を向ける。
 元カノ──自分に元カレがいないせいか、考えたこともなかった。
「いない」
「本当?」
「本当」
 じっと前髪の奥をのぞき込む。目は泳いでいない。
 ほっとして前を向けば、真野くんが不可解な顔をしていた。

「じゃあ、なんであんな色々わかんの?」
「花歩のことだけを真剣に考えれば、自ずとしなきゃならないこともわかるだろう?」
 渡良瀬くんらしくない長文に、みんなの目が点になった。
「渡良瀬、喋れんの?」
「は?」
 聞いたことのない地を這うような声が渡良瀬くんの口から出た。真野くんの顔が引きつっている。
 驚くみんなの中で、鎌田くんだけは普通にしていた。
「もしかして、鎌田くんは饒舌な渡良瀬くんも知ってるの?」
「前に相談したときにちょっと。今回も相談してるし」
 なんとなく面白くない。饒舌な渡良瀬くんは私だけが知っていると思っていたのに。

 トイレに席を立つと、珍しく美紗と真結も付いてきた。
「花歩ってさ、渡良瀬と付き合うようになってかわいくなったよね」
「うん。よく笑うようになった」
 思わぬ言葉に洗っていた手が止まり、まじまじと二人を見つめてしまう。
「無表情ってわけじゃないけど、花歩ってあんまり顔に出さない方だったでしょ?」
「最近はよく顔に出てるよね」
 でしょ、と言われたところで、自分ではわからない。
「さっきも賢吾に嫉妬したでしょ?」
「さりげに渡良瀬嬉しそうだったよね」
 流れ続ける水に指先が冷やされ痛みを伝えてきた。慌てて水を止め手を拭いた。
「私、ちょっとは変われたのかな」
「変われてるんじゃない? 少なくとも私は今の花歩の方が好き」
 真結が「私も」と笑ってくれた。
「詳しいことは知らないけど、花歩、なんかがんばったんでしょ?」
「渡良瀬がね、十二月入ったくらいかな、トイレとか体育の時とか、自分の目の届かないところは、花歩から目を離さないでほしいって頭を下げたんだよ。少し弱っているからって」
「初めて話しかけられて、ちょっとびっくりした」
「渡良瀬も花歩と一緒にいるようになって変わったよね」
 驚くことばかりで、頭がついていかない。
「話したくなったらいつでも聞くからね」
 美紗が笑った。真結も笑顔で頷いている。
「ありがと」
 他人から見れば、呆れるほど小さな心のがんばり。目に見えないそれをちゃんと認めてくれる人がここにもいた。
 嬉しくて泣きそうになりながら、私も精一杯笑った。



 帰り道、少しふわふわした気持ちで歩いていると、渡良瀬くんに「外はダメ」と注意された。
 ふと前方に見えた塾の看板。授業前なのか入り口付近に生徒らしき小さな集団がいくつもできている。
「渡良瀬くん、ここの全統模試受けたことある?」
「ある」
 何の気なしに訊いた声に反応したのは、渡良瀬くんだけじゃなかった。
「渡良瀬?」
 小さな呟きを拾えたのは、その四文字が私にとって特別なものだからだ。
「え、渡良瀬って、あの渡良瀬くん?」
 背後から聞こえたかわいらしい声。振り向いたそこには、私が行こうと思っていた公立高校の制服を女の子らしく着崩した、声同様すごくかわいらしい人がいた。
「あ、やっぱり渡良瀬くんだ! 覚えてる? 中学の時一緒だった──」
「まさ、み」
 渡良瀬くんの唇が作り出した音に、つきん、と胸が痛んだ。
「そう! やだ、覚えててくれたんだ。みんな心配してたんだよー。あーなんか渡良瀬くん雰囲気変わったぁ? 前髪ながーい」
 人懐っこい笑顔で、とん、と跳ねるように渡良瀬くんの目の前に立った彼女は、軽く小首を傾げながら満面の笑みで渡良瀬くんの前髪に手を伸ばした。
 ずきん、と胸が軋む。
 すっ、と一歩後ろに下がることで彼女の指先を躱した渡良瀬くんは、ひどく驚いた表情の彼女をそのままに「じゃあ」と踵を返して歩き始めた。
 そして、五歩進んだ先で振り返る。
「花歩」
 差し出された手を見て、その意味を悟り、駆け寄って指先を絡める。
 絡まり合った指先から、言葉にできない何かが伝わってくるような気がする。言葉にできない何かが伝わってるのかもしれない。
 再び歩き出した渡良瀬くんが何かを思い付いたのか、ああ、と小さく声を上げた。
「確か、まつりごとをみのらすで政実。名字。名前は知らない」
 痛んだ胸が痛みを忘れ、ふわっと柔らかなものに包まれる。指先から全身があたためられていく。
「中一で同じクラス」
「仲良かった?」
「話しかけられれば話す程度」
 背中に視線を感じた。小さな不安が大きく渦巻いて、気になるのに振り向けない。
「花歩」
 その意味を悟り、隣を歩く渡良瀬くんを軽く見上げる。もう一度、花歩、と呼ばれた。その声はいつもより甘く響いた。

 心が軋んだ瞬間に浮かんだ、ついさっき否定されたばかりの「元カノ」という存在。
「私ね、渡良瀬くんが初カレなの」
「ボクは全ての始まりが花歩」
 嫉妬にまみれた卑怯な確認を、柔らかな笑顔で受け止めてくれる。
「花歩、名前呼んでみる?」
「いいの?」
「いいよ」
 本当は、ときどき頭の中で練習していた。一人淋しい夜に小さく声に出して呼んだこともある。最初はどっちかわからなかった。わかった途端、呼びたくなった。

「かける、くん」

 騒ぐ胸を押さえながら、渡良瀬くんの目を見て呼んだ瞬間、ふわっと腕の中に閉じ込められた。背中にあるバックパックのせいで、いつもなら腰にあるはずの渡良瀬くんの手のひらのぬくもりを逃している。それが惜しい。そう思った瞬間、彼の手に肩と頭が抱き込まれた。

「ボクはいつも、花歩から生まれる」
 不思議な言葉をゆっくりと紡いだ渡良瀬くんは、身体を離すと子供のような笑顔を見せた。
 同じなのかもしれない。
 渡良瀬くんに呼ばれると、私を示すふたつの音が特別な振動で心を震わせる。

「私ね、渡良瀬くんに呼ばれるの、すごく好きなの」
「うん。かける、ね」
「あ、うん、駿くん」
 照れ隠しに、へへ、と笑うと、真似たかのように、へへ、と返された。ちょっとかわいいと思ってしまった。

 冬晴れの中、街はクリスマス一色に染まっている。
「クリスマス、今年は渡良瀬くんと一緒だね」
「今年から、かける」
「うん、今年からは駿くんと一緒」
 未来に続く何気ない言葉をちゃんと言い直してくれる。それがすごく嬉しい。

 私もちゃんと君を喜びや嬉しさで包めているだろうか。
 私もちゃんと君の不安を拭えているだろうか。
 君が与えてくれるように、私も与えられているだろうか。

 喜びや嬉しさと同じくらい、不安と恐怖も生まれる。
 大切になればなるほど、どう扱っていいかわからなくなる。