ぼくはいつも、きみからうまれる
第四話 「ボクは十四の頃、半分死んでいた」二学期に入り、席替えが行われた。
渡良瀬くんは廊下側の一番後ろに、私はちゃっかりその前の席を手に入れ、私の前には美紗が、美紗の横には真結がいる。
一応くじ引きという体裁をとっているものの、くじの交換が横行している。
「渡良瀬、同室希望に俺の名前書いといて」
がらっと廊下側の腰窓を勢いよく開け、ひょいと顔を出した真野くんが美紗に軽く手を上げながら渡良瀬くんに話しかけた。
いきなり話しかけられたせいか、驚いた顔で固まっている渡良瀬くんを見た真野くんが、背を屈め声をひそめながら一枚の紙を差し出した。
「蓼科のホテル、ほかと違ってツインなんだよ。美紗と二見さんが同室になれば、入れ替われるだろう?」
黙ってひとつ頷いた渡良瀬くんが、真野くんから用紙を受け取り、空欄に彼の氏名を記入した。真野くんは健という名前らしい。
「ついでに俺が出してくるよ。美紗たちも」
言われるがまま、真野くんから渡された用紙に美紗の氏名を記入する。
これは間違いなく担任にバレる。確信しながら、美紗と一緒に真野くんに用紙を渡した。
「真結は?」
「私も確約済み」
大丈夫なのかな、と思いつつも、妙に心が浮き立つ。美紗と真結も楽しそうに笑っていた。振り返ると教室では珍しく渡良瀬くんの表情も明るかった。
あの日、真希さんは父からの電話で慌てて帰っていった。父にはまだ渡良瀬くんのことは内緒らしい。年末までにさりげなく少しずつ渡良瀬くん情報を明かしていく作戦なのだとか。
真希さんと歩を見送ったあと、しばらく何かを言い淀んでいた渡良瀬くんは、意を決したように口を開いた。
「今まで黙っててごめん」
なぜかソファーに座らず、ラグの上で正座している渡良瀬くんはぐっと口を引き結んで、まるで殴られる直前のような顔をしていた。その渡良瀬くんの前に私も正座する。
「あのね、一番びっくりしたのは、渡良瀬くんが普通に喋ってることだったんだけど……」
あんなにもすらすら話せるとは思わなかった。いつもの片言はどこに行ったのかと、話の内容よりもそっちの方が気になって仕方がなかった。
どうやら私の感想が予想外だったのか、渡良瀬くんは驚いた顔のまま固まっていた。
「ひとつだけ訊いてもいい?」
その途端、表情を改めた渡良瀬くんは、神妙な顔で「はい」と礼儀正しく返事をした。
「お父さんとお母さんのこと、無理?」
しばらく考えるように目を伏せていた渡良瀬くんは、不意に視線を上げ、真っ直ぐ見返しながら「無理」とこれ以上ないほどきっぱり答えた。
「私もね、私を産んだ人は無理なの。だから、同じじゃないだろうけど、少し気持ちはわかるかもしれない」
私の母だった人は、幼稚園受験に続いて、小学校受験にも失敗した私を許せなかった。
「真希さんはね、そんな私を知っているから、きっと渡良瀬くんのこともわかってくれると思う」
「詳しく聞く?」
「渡良瀬くんは話したい? 私ね、あの人が無理な理由を今更思い出したくない。だから、正直あまり話したいとは思えない」
「ボクもだ」
「うん。だからね、必要に迫られない限り、話さなくていいよ。話しても話さなくても、渡良瀬くんは渡良瀬くんだし、私は私だから」
逃げだ、と思った。
自分が話したくないから話さなくていいなんて、自分勝手で嫌になる。それでも、もう一度あの時のことを誰かに話すのは無理だ。できれば二度と話したくない。
たくさんの痛みを思い出したくない。忘れた振りをしていたい。覚えていないことにしたい。
「ごめんね、なんか私、自分勝手だ」
「安心した」
いつの間にか下がっていた視線を上げれば、渡良瀬くんが優しく笑っていた。
「同じだから」
膝の上で握りしめていた手を思わず伸ばした。そっと、丁寧に抱きしめてくれた。
渡良瀬くんの首元に顔を埋め、いつの間にか詰めていた息を、ふうっ、とゆっくり吐いたら、くすぐったそうに首をすくめられ、力が抜けた。
それから渡良瀬くんは週末ごとにうちに来るようになった。毎日でもいいのに、と言えば、けじめだから、と真顔で返された。
その代わり、毎朝迎えに来てくれるようになった。帰りもマンションまで送ってくれる。
平日は渡良瀬くんの分もお弁当を作る。相変わらずババくさいお弁当だけれど、渡良瀬くんは文句も言わず嬉しそうに食べてくれる。おかずが今までより少しだけ手が込んだものになった。
週末は渡良瀬くんがごちそうしてくれたり、レシピサイトを見ながら作ってくれたりもする。材料費がかかる高級料理ばかりを作ろうとするので、野菜炒めをおいしく作る、というミッションを与えた。彼の調理は化学の実験みたいで面白い。
渡良瀬くんは相変わらず片言だ。
饒舌だったのはあの日だけで、やっぱり美紗と真結に「暗号」だと言われている。
「渡良瀬くん、これわかる?」
「ん」
渡良瀬くんと席が前後しているおかげで、休み時間にわからなかったところを訊けば、わかるまで丁寧に教えてくれる。
この高校の定期考査は中間と期末に分かれていない。ひとつの学期にたった一回しかない無情な勝負だ。
中間での失敗を期末で取り返す、なんてことができないからか、考査前は誰もが必死になって勉強する。なんとか挽回に繋がりそうな課題はきっちり提出するし、教師の気まぐれによって時々行われる小テストなどはむしろ拝む勢いでここぞとばかりに全力で挑み、万が一に備えている。
渡良瀬くんは職員室横の掲示板に張り出される上位成績者五十名に含まれていた。常に三十位前後をキープしているできる子だ。私はひと学年約二百四十人のうち百位あたりをうろちょろしている当たり障りのない子だ。
「渡良瀬くん、進路決めてる?」
「うん」
「私まだ決まってないんだよね」
「私も」
美紗に続いて、真結まで「私も」と声を上げた。
進路以前に、自分が何になりたいのかがわからない。
「まず、大学か専門で悩む」
「わかる。まだ就職はしないけど、その先が決まらない」
美紗と真結に「私も」と声を上げると、二人揃って「だよね」と声に力が込められた。
「親とかは大学出とけって言うけどさ、実際大学出たからなんだって思っちゃうし」
「かといって専門学校はなぁ、まだそこまでやりたいこと絞れてないから、どこ行けばいいのって思っちゃうし」
思わず、うんうん、と相槌を打つ。まさにその通りだ。
自分の中にある可能性を一番遠いものからひとつずつ消していくと、最後には「どこかの会社員」という夢の欠片もない現実しか残らない。おまけにそれがどんな会社かすらイメージできない。
ほんの一欠片でも何かの才能があれば、それに縋ってそれに付随する何かを掴もうとするのに、それすら自分の中にはない。
「いっそ語学留学とかしちゃおうかなって思ったりして」
真結の言葉に「わかる!」と美紗と声が揃った。
そんな逃避行で大袈裟にも聞こえる「人生の選択」を後回しにしたくなる。七割ほど本気で考えたところで、どこの国に行きたいかすらわからないことにがっかりする。
「する?」
後ろから頼りない声がかかった。振り向けば、頼りない表情が待っていた。
「しないよ」
小さくやりとりした私たちを見た真結がにやにや笑っている。
「渡良瀬さ、一瞬、花歩がいなくなるって思った?」
「うん」
渡良瀬くんは時々すごく素直だ。真結が虚を衝かれたように動きを止めたあと、はーっ、と大きなため息を吐いた。
「渡良瀬って、花歩のことすごく好きだよね」
「うん」
照れることなく答える渡良瀬くんに、私の方が照れる。
「聞いた? 鎌田くん」
くん、を強調した真結の視線を追って振り返ると、開いていた廊下側の窓越しに鎌田くんが気まずそうな顔で立っていた。
「渡良瀬くんは、なんでそういうこと普通に言えるわけ?」
「大切だから」
そう答えた渡良瀬くんを少しの間眺めていた鎌田くんは、突然「うぅーっ」と唸ってしゃがみ込んだ。思わず身を乗り出して窓の下を覗いてしまう。
「渡良瀬くん、今日放課後ちょっと付き合って」
顔を上げた鎌田くんにそう言われた渡良瀬くんが、「いい?」と訊いてきたので、一抹の淋しさを隠して「いいよ」と返す。
真結を見ればあからさまにむすっとしている。どうやら鎌田くんと何かあったらしい。美紗にちらっと視線を向けると、無言で小さく首を振られた。
「真結、一緒に帰る?」
「うん。渡良瀬、いい?」
律儀に渡良瀬くんに訊いてくれた真結に、渡良瀬くんが無言で頷いた。
結局、美紗と三人で前に行ったファミレスで話すことにした。
真結は鎌田くんが中々気持ちを伝えてくれなくて、不安になっているらしい。
「花歩たちは、お互いに好きって言い合ってんの?」
「言わないよ」
何を言うのかと思いきや、恥ずかしさにわたわたしながら否定する。
「でも、渡良瀬の態度はわかりやすいよね」
「それは……うん、大切にしてくれてることはわかる」
あまりに恥ずかしくて俯いてしまう。不意に渡良瀬くんのあの長い指を思い出してしまい顔が熱る。
美紗はどうなのかを真結が訊けば、「真野はあの性格だから、わりとはっきり言ってくれる」と、少し顔を赤らめながら教えてくれた。
「二人ともいいなぁ。なんかさ、やることやってるのにちゃんと好きって言ってくれないし、態度でもあんまり示してくれないから、私ってセフレなのかなってちょっと悩んじゃって」
声をひそめた真結に、美紗が「最中も?」と聞き返している。「最中もなんだよ」と機嫌悪く答えた真結に、美紗が呆れた顔で「それはないわ」と怒り出した。
びっくりした。二人とも、そういうことをしているのか。
「なんで花歩はびっくりした顔してるの?」
「びっくりしてるからだよ」
「でしょ、普通そのときくらい言ってくれてもいいのにって思うよね」
「違うよ、そこじゃないよ」
色々想像しそうになるから、生々しい発言はやめてほしい。友達のあれこれは想像したくない。
「まさか、花歩ってまだなの?」
「だって、渡良瀬って家に何度も来てるんでしょ?」
来ているどころか泊まっている。
「どこまでいったの?」
「どこにもいってない」
「ボケなくていいから」
「ボケてない」
今度は美紗と真結が揃って驚いた顔になった。声にならない叫び、というものを初めて目にした。
「まさか、キスもまだとか?」
「そのまさかですが」
だからその声にならない叫びのポーズはやめて。ムンクか。
二人と別れた帰り道、たくさんのことを考えた。
してみたいか、と言われれば、未知への不安や恐怖はあれど、してみたい、と思う。現状に不満はないのか、と訊かれれば、不満はない、と答えられる。
今はきっと心が満たされているから身体のことは二の次なのだろう、と自己分析をしながらも、やっぱり気にならないわけもなく、頭の中がよくわからないことになった。
「花歩!」
聞き慣れた声に振り返れば、渡良瀬くんが走ってくる。走る渡良瀬くんを初めて見た。ちょっと感動。
「暗くなってるのに、一人で帰らないで」
「ごめん。連絡するの忘れてた」
携帯電話片手に駆けてきた渡良瀬くんを見て、自分の携帯電話をチェックしたら、マナーモードのまま着信履歴がずらっと並んでいた。滅多にない渡良瀬くんからの着信を逃したことが非常に惜しい。
走って暑くなったのか、渡良瀬くんがシャツのボタンをひとつ外した。その仕草についさっきまでの会話が蘇り、どきん、と胸が疼く。
「何かあった?」
「ん、なんか色々考えちゃって。ちょっとぼーっとしてた」
「外はダメ」
「うん、気を付ける」
そのまま渡良瀬くんは部屋まで来た。平日なのに珍しい。
「泊まる?」
「泊まる」
お互いにシャワーを浴びたらなんだか疲れてしまって、おまけに中途半端な時間に食べたせいでお腹も減らなくて、訊けば渡良瀬くんも鎌田くんにつられてバーガーをふたつも食べてしまったらしく、テレビも付けずにソファーに並んでぼーっとしてしまう。
「鎌田くん、友達っぽい」
「っぽいって、友達でしょ?」
それに少しだけ戸惑い気味に、それでも嬉しそうに、渡良瀬くんは笑った。
「鎌田くんに相談されたんでしょ?」
「花歩も?」
「うん、真結の愚痴聞いた」
バルコニーに面したリビングの窓から、カーテンを膨らませながら涼やかな風が入ってきた。
いつの間にか残暑も終わり、どこかの葉擦れを運んできた風は秋を孕んでいる。どこもかしこもアスファルトばかりなのに、どこからともなく聞こえてくる虫の声が、より一層秋の気配を色濃くしていた。
渡良瀬くんと肩が触れている。
最初はソファーの端と端に座っていたのに、いつの間にか距離が近付いて、今は触れるほどになっている。
「手、繋ぐ?」
うん、と答えると、指を絡ませながら手のひらが合わさった。初めて見たとき、大きさを比べてみたくなった手だ。今その手は、私と繋がっている。
「渡良瀬くん、我慢、してる?」
我慢してるんじゃないの? と言われた。我慢させているのかも、と思った。
すぐ隣から、ふっ、と小さな笑いが漏れた。顔を上げると、渡良瀬くんの優しそうな目に囚われた。
「我慢してない、わけじゃない」
「え、どっち?」
渡良瀬くんは時々、何もかも見透かしたような目をすることがある。今もそう。私の一番奥にあるものを見透かすようにほんの少しだけ目を細めた。
「不安?」
そうか、不安になったんだ。
美紗も真結もしていると聞いて、自分がしていないことが急に不安になった。
「ボクは少し不安なんだ」
俯いてしまった顔を上げると、さっきと変わらない目で見つめられる。
「ボクは花歩を傷付けてしまうかもしれない」
「どうして?」
「好きすぎて、花歩の全部がほしくなる」
どうしてそれが私を傷付けることになるのかがわかるようでいてわからない。
「ボクも男だから、花歩を大切にしたいと思う反面、壊してしまいそうになる」
渡良瀬くんの声も目も口元も雰囲気も優しいままだ。優しいまま、物騒なことを言われている。
「怖い?」
「んー……でも、きっと私を大切にしてくれるのも、壊してしまうのも、渡良瀬くんしかいないと思う」
急に渡良瀬くんの顔が迫ってきた。と思ったら、お互いの鼻先が、とん、とぶつかった。何がなんだかわからないうちに、次に触れたのは一瞬。触れ合ったのは唇と唇。
──キス。
頭が理解した瞬間にはあっけなく離れ、いつもとは違い、少し乱暴に抱き寄せられた。
「ごめん、我慢できなかった」
勢いのまま渡良瀬くんの背中をぎゅっと抱きしめる。いつもより体温が高い気がする。心臓が苦しいくらい勢い付いて、全身を熱らせようとはしゃいでいる。
「嬉しい」
嬉しかった。ただ嬉しかった。嬉しい、嬉しい、嬉しい……。頭の中にはそれしかない。
今度は勢いよく身体が少しだけ離され、さっきよりも長く唇が重なった。
身体がふわふわと宙に浮かんでいるようで、今まで生きてきて初めて知る幸福感に、体中の力が抜けてしまいそうだった。
「ボクも嬉しい」
今日の渡良瀬くんはいつもより饒舌だ。それも嬉しい。
もう一度抱きしめられて、丁寧に抱きしめ返した。
渡良瀬くんの心臓が強く脈打っている。私の心臓も激しくうるさい。うるさくて苦しくて嬉しくて、まるで真冬の陽だまりのように幸せだった。
いよいよ校外学習が迫ってきた。
そのあとに続く定期考査は、渡良瀬くんのおかげで少しだけ順位が上がりそうだ。ここ最近は小テストの結果もいい。
渡良瀬くんは三十位前後をあえてキープしているという、感じの悪いことをさらっと言って、鎌田くんを激怒させていた。鎌田くんは必死にがんばって四十位前後らしい。ちなみに真野くんはいつも十位以内にいる。三人揃って上位成績者の一覧に名前がある。
その彼女である私たちは、揃ってその一覧に載ったことがない。
真結と鎌田くんは仲直りしたのか、あの日の少し後で真結が渡良瀬くんにお礼を言っていた。気持ちを伝えるのが苦手な鎌田くんは、すごくがんばって真結に気持ちを伝えているらしい。真結が幸せそうに笑いながら教えてくれた。
「二見って、渡良瀬と付き合ってんの?」
最近そう訊かれることが増えた。
元々それほど親しい男子がいなかったせいか、渡良瀬くんと一緒にいることが目に付くらしい。
「いつから? なんで渡良瀬?」
付き合っている、と答えると、必ずと言っていいほど似たような質問が飛んでくる。「なんで」に答えたくなくて、つい黙り込んでしまう。
そもそも渡良瀬くん本人にだって訊かれたことがないのに、どうして彼以外の人にその答えを言う必要があるのか、全く以て意味がわからない。
「そんなに私って渡良瀬くんと合ってないのかなぁ」
「渡良瀬の暗号解読できるの花歩だけだから」
うんざりしながら移動教室の帰りに真結に話せば、笑いながら否定してくれた。
「ほら、もうすぐ校外学習だからでしょ」
「校外学習だとなんで?」
「折角なら、カップルで参加したいんじゃない? 一泊なの二年二学期だけだし。いちいち聞いてくる男って、みんな蓼科希望のヤツでしょ?」
「そうなの?」
そもそもそのために付き合う意味がわからない。そのために付き合いたいとも思わない。
「真野なんて、ここ連日呼び出され続けてるよ」
「美紗がいるのに?」
「あわよくばって思うんじゃない?」
それはない。真野くんは正直見ているこっちが恥ずかしくなるほど美紗が好きだ。あれを目にして、どうして「あわよくば」なんて思えるのか。
「まさか渡良瀬くんも……」
「大丈夫、それはない。渡良瀬は基本、話しかけるなって姿勢だから。相変わらず自分から話しかけるの花歩だけだし。たぶん花歩じゃなきゃ上手くいかないよ、あの男は」
そうだといい。渡良瀬くんのいいところは、私だけが知っていたい。他の人には教えたくない。
「花歩と渡良瀬は体験工房って陶芸だっけ?」
「うん、真結は木工だよね」
「私はガラスがよかったんだけど、賢吾がさぁ……」
文句を言いながらも鎌田くんの名前を口にするたびに嬉しそうだ。美紗と真野くんはガラスを選んでいる。
「高原さみー!」
蓼科は本当に錦のような紅葉だった。モミジの深く濃く激しいほどの赤は、きっとここでしか見られない。落葉した葉までが、美しく大地を彩っている。
バスを降りた途端叫んだ真野くんにマフラーをぐるぐる巻き付けている美紗も、真野くんにマフラーを巻かれている。真結は鎌田くんにブランケットでもこもこにされ、私たちはコート代わりにもなる学校指定の冬用ブレザーの下に色違いで買った薄手のダウンベストを着込み、渡良瀬くんのポケットの中で手を繋いでいる。
「満足?」
「満足。一緒に見たかったの、こういうきれいなもの」
湖に映える紅葉もまた本当にきれいで、すぐ隣に立つ渡良瀬くんに必要以上にくっついてしまう。
湖の外周をゆっくり散策する。
真結と鎌田くんは歩くのが意外と早い。かなり先の方にいる。逆に美紗と真野くんは陸上部だったから歩くのも速いのかと思えば、私たちの後ろをのんびり歩いている。
「来る?」
「いいの?」
嬉しくて思わずへらっと笑っていると、後ろから真野くんの声がかかった。
「いまの渡良瀬の『来る?』って、また来年も来る? って意味?」
「そう」
「なんで二見は渡良瀬の言うことわかるんだ?」
思わず渡良瀬くんを見た。わかっているかを訊かれたら、わかっていないような気がする。
「たぶん、そうだったらいいなって憶測で答えてるのかも。渡良瀬くんの方が私の考えてることをわかってくれて、それを言葉にしてくれてるんだと思う。だから、私がわかってるんじゃなくて、渡良瀬くんが私のことをわかってくれてるんだと思う」
違うかな。歩きながらじっと見つめ返してくる渡良瀬くんの表情は読めない。
「いい?」
「ここで? ダメだよ」
何を言い出すのかと胡乱な目で見れば、かすかな舌打ちが聞こえたような気がした。
「すげーな。そんな堂々と彼女にのろけられたら、確かに抱きしめたくなる」
ばっと振り向けば、真野くんだけじゃなく、美紗にまでにやにやされていた。
のろけたつもりはなかったのに、恥ずかしすぎて歩く速度が上がる。そもそも、そんなことしれっと言っちゃう真野くんも相当だ。
「なんで真野まで暗号解読できんの?」
「最近結構渡良瀬と電話で話してるんだよ」
びっくりして、思わず後ろを振り向く。真野くんがなぜか得意気に笑っている。
「電話してたの? 真野くんと?」
「わりと」
「私とはあんまりしてくれないのに?」
渡良瀬くんは滅多に電話をしない。SNSも面倒だからとアプリすら入れていない。みんなからの連絡は常に私経由だ。
「あー……わりと俺が一方的にかけてる」
「しつこい」
「渡良瀬は機嫌悪いと出ないしな。かけ直してもこないし」
真野くんと何を話しているのだろう。
「渡良瀬と何話してんの? え、会話になるの?」
つい、後ろの美紗と真野くんの会話に聞き耳を立てる。
「わりとつまんないこと。でも、美紗と上手くいってるのは渡良瀬のおかげだな」
「私のこと相談してるの?」
「美紗のことっていうより、俺のことだよ。どうやって美紗を不安にさせないか、とか」
真野くんはモテる。世間一般で言うイケメンだと思う。
確かにつきあい始めた頃は、真野くんが女子に呼び出されるたびに、美紗は不安そうな顔をしていた。それが最近は、心配そうな顔に変わっている。
美紗曰く、断る方も大変らしい。
「花歩とは、電話より会いたい」
いきなり聞こえた小さな囁きに、後ろに向かっていた聴力が全力で引き返してきた。
確かに、渡良瀬くんは前触れもなく突然来ることがある。
会いたい──言葉にされると嬉しい。
「な、渡良瀬はああいうことわりと普通に言うんだよ。時々男の俺でもキュンとくるわ」
背後にしっかり聞かれていた。真野くんだってわりと言っていると思う。
「でも言われたら嬉しいかも」
「うん、俺も言われたら嬉しいって思うから、そういうの、美紗にはちゃんと伝えるようにしてる」
美紗と真野くんの仲がいいのは渡良瀬くんのおかげなのか。なんだか自分のことのように誇らしい。
「渡良瀬くんはすごいね」
こんなすごい人の彼女なのかと思うと、嬉しさとプレッシャーの板挟みになりそうだ。
「でも、うん。私、渡良瀬くんの彼女になれてよかった」
なんだか突然言いたくなって、恥ずかしいけれど小さく声に出す。
恥ずかしくて渡良瀬くんの顔は見られないのに、全ての神経は渡良瀬くんに向かっている。繋がる手が熱を持つ。
こんなにきれいな景色の中、渡良瀬くんしか見えていない。渡良瀬くんの背後にある景色だからこそ、美しくてきれいなのだと思えて仕方がない。
「いい?」
「え、ダメだよ」
痛いくらいポケットの中で手が握られた。お返しに、ぎゅーっと思いっきり力を込めて握り返す。
楽しくて笑えば、渡良瀬くんも笑った。いつもみたいに少しじゃなく、ちゃんと笑った。
バスの中で配られたホテルの部屋割りを見て、担任に間違いなくバレていることを悟った。私たちの部屋と渡良瀬くんたちの部屋は階が違うものの同じ非常階段のすぐ隣に割り当てられていた。真結たちの部屋も別の非常階段のそばにある。
「いいか、お前たち。教師に面倒かけるなよ。点呼は九時だからな。それまでは大人しくしてろよ」
あからさまな見逃し発言に、バスの中は大いに盛り上がった。クラス混合かつ行き先は三カ所に分かれているのに、このバスの引率として登場したうちの担任に、渡良瀬くんは乗車する際、さりげなく会釈していた。
わいわいと賑やかというよりは騒がしいバイキングの夕食を終え、二時間ほどの自由時間は渡良瀬くんと一緒にホテルの庭を散歩する。
今でも暗闇に身体が強張る。
薄暗い庭に紛れ込む瞬間、握られた手に力が込められた。それに励まされるように闇に足を踏み入れる。
高原の夜は、真冬かと思うほど空気が冴えていた。吐き出す息が白く煙る。
庭一面に広がる幻想的な風景に魅入られる。
庭のあちこちに置かれているロウソクの炎が凍えるように揺れていた。
「すごい。キャンドルナイトだ」
思わず声をひそめてしまうのは、凜とした風景がかすかな音にすらひび割れてしまいそうだったからだ。
「花歩、上」
仰ぎ見ている渡良瀬くんにつられて見上げると、そこには信じられないほど満天の星が瞬いていた。
「すごい。星って、こんなにたくさんあったんだね」
庭の奥にぽつんと置かれていた木製のベンチに腰をおろし、凄まじいまでの星屑を見上げる。すぐ隣に座る渡瀬くんからも、甚く感動したような声にならないため息が白い吐息となってたゆたった。
「ボクは十四の頃、半分死んでいた」
それは、聞かせようとして発せられたのではなく、ただ、吐き出されてしまったのだと思った。
表情をなくした渡良瀬くん越しに、細く鋭い月が凍えていた。それすらも、あまりに美しすぎて涙が滲んだ。
担任に睨まれながらの点呼のあと、渡良瀬くんと一緒に真野くんが美紗を迎えに来た。
ふたつ並んだシングルベッドの間には、ナイトテーブルひとつ分の隙間がある。いつも手を繋いで寝ていたせいか、その隙間が怖くなった。
「渡良瀬くん、狭いんだけど、一緒に寝てもいい?」
苦笑しながら「いいよ」と言ってくれた渡良瀬くんに甘える。
いつもより近い渡良瀬くんの体温に、冷え切った身体が温められていく。彼からもらうあたたかさが心地よく染み込んでくる。
二人の体温が同じになった頃、歩き疲れたせいかあっさり眠ってしまった。
ふと目が覚めると、暗闇の中、渡良瀬くんがベッドヘッドにもたれていた。
「寝てないの?」
起き上がり、隣に同じように並ぶと、触れた彼の肩が冷え切っていることに気付いた。布団をたぐり寄せ、反応のない彼の肩まで覆い、膝立ちのまま、いつも以上にそっと、できるだけ丁寧に、彼の頭を抱きしめる。
「すごかった」
ぽつん、と零れ落ちたかすれ声を暗闇の中で拾う。
「うん、すごかったね、あの星空は忘れられない」
抱えた頭が小さく頷いた。
そっと腰に回された手に従うと、彼の足の間に座らされる。背後から抱きしめられ、肩に渡良瀬くんの頭が乗る。お腹に回された手がまだ冷たい。少しでも暖めようと手を重ねる。
「花歩」
「ん」
「いい?」
「いいよ」
「すぐじゃなくて」
「うん。渡良瀬くんのタイミングでいいよ」
「全部」
「うん。全部いいよ」
夜が明けていく。
閉めきられていないカーテンの隙間から、光が忍び込んでくる。
「少し寝る?」
そう訊いた私を抱きかかえたまま、ずりずりと布団に潜り込んだ渡良瀬くんは横になった途端眠りに落ちていった。
眠る渡良瀬くんの背後で朝が始まる。
部屋の中にどんどん光が溢れて、夜に冷やされた空気が暖められていく。
渡良瀬くんの背後に見たあの細く鋭い月も、日の光と暖かさにほんのひと時でもその凍えを和らげているといい。
私はこれからも、たくさんのきれいなものを君の背景として見たい。
君の笑った顔がもっと見たい。