鳴かぬ蛍
第二話 薫風


 ふと見れば、いつもならもうそこに居るはずのない姿があった。
「佐藤、まだ帰らないの?」
 届くだろうはずの声で話しかけても、手元の本に夢中なのか気付きもしない。彼女は両肘をテーブルに置き、両手で本を持ち上げるようにして読んでいる。十人ほどがゆったりと座れる大きめの閲覧テーブルに身を乗り出し、その本の頭に人差し指をかけ、くいっと引いた。
「まだ帰らないの? もうすぐ閉館だけど」
 本から目を離し、少しの間視線を虚ろに彷徨わせ、その瞳に現実を戻し、俺の背後に目線を送る。受付カウンターの上部にある時計を見たのだろう、「うそ」っと小さく呟き、今度は窓の外に視線を向けた。
 同じように視線を向ければ、いつの間に降り出していたのか、糸のように細い雨が街灯に照らされて浮かび上がっていた。
 視線を戻せば、呆然としながらも眉を寄せる佐藤。
 文学少女と噂される、隣のクラスの女子。本ばかり読んでいるからか、大人しく暗いのかと思えばそうでもないらしい。仲のいい子もいれば、分け隔てなく誰とでも話すらしく、落ち着いた物腰に憧れのような感情を持つ男も少なくない。すごくいいわけじゃないけれど、なんかいいというカテゴリの子。

「佐藤君、ありがとう」
 声をかけた礼なのか、はにかむように囁かれた、高すぎない落ち着いた声が耳を擽る。知られていた自分の名に照れくさくなる。
「どういたしまして。佐藤さん」
 俺も知っているという意味を込めて敢えて同じ名字を声に出せば、少しだけ目を瞠り、ふわっと綻ぶかのように小さく笑った。思わず見惚れるほどの柔らかなその笑顔は、まるで薫風だ。ふわりと香り立つ風が吹き抜けたかのようで、その残り香を追いかけたくなる。
「傘、持ってる?」
「持ってない」
「じゃあ、折りたたみ貸すよ。俺今日たまたま置き傘持って帰ってきたんだ」
 常に鞄に入りっぱなしの折りたたみ傘を差し出せば、素直に手に取りながら「ありがとう」と言って静かに席を立ち、足早に去って行った。
──家まで送る。
 言う間もなかった。いつもは日が暮れる直前には帰っていたのに、大丈夫か?
 慌てて読んでいた本を片付け、後を追うも既にその姿は見当たらず、狐につままれたような心地で帰路に就いた。



 記念公園沿いに立つ市立図書館は、来年の春に閉鎖される。代わりに真新しい大きな図書館が駅の側に開館している。閉館の知らせに、子供の頃に自転車で通ったこの古い図書館の居心地の良さを思い出し、再び訪れるようになって、佐藤の存在に気付いた。
 背を伸ばし、静かに本を読むその姿は、学校で見るより密やかで、閉じ込めてしまいたくなる何かを感じた。その感じた何かの意味が分からず、どこかむず痒い気持ちになる。
 静かにその斜め前の席に着けば、頁を捲るその指先が微かに反応しただけで、気にも留めて貰えなかった。しばらく観察していても気付くそぶりもなく、仕方なく本を漁りに行けば、その間に帰ってしまっていた。
 どうやら日が暮れる直前に帰るらしい。ここ何日か観察して知り得た。
 帰るときに顔を合わせないよう、なるべく席を立つようにしている。おそらく俺の存在を知れば、彼女はここに留まらないような気がしたから──。



 いつもなら先に本を読み始めている佐藤の姿がない。今日は来ないのかもしれない。昨日まで読んでいたのとは別のキングを一冊手に取り、続きを読み始める。昨日まで読んでいたのは貸し出されてしまったらしい。
 ふと気付けば、目の前に佐藤が居た。閉館までいる俺と違って彼女は日が暮れる頃には帰っているはず。声をかけるべきか悩んで、声をかけた。家まで送っていった方がいいだろう。
──そう思って声をかけたんだけどなぁ。

 翌日、傘のお礼だと図書館で渡されたコンビニの小さな袋には、うまし棒が十本入っている。うっかり数えてしまうほど、俺の中では衝撃だった。
 佐藤とうまし棒。カサッとコンビニの袋が小さく音を立てた。
「嫌いだった?」
 どこか不安そうな声に顔を上げると、声同様不安そうな顔で見られていた。
「いや、嫌いじゃないけど……ありがとう?」
 思わず語尾が上がってしまう。どうにも彼女とうまし棒が結びつかない。イメージじゃない、と言えばいいのか。俺が勝手に思い描いていたイメージと実際の彼女は違うようだ。もっと女の子っぽいものを好むのかと思っていた。
 鞄に折りたたみ傘とうまし棒を入れ、再び視線を戻せば、すでに彼女の関心は本の中だったことに、少しがっかりした。

 いつもの時間に席を立つ彼女の気配を感じながら、今日からはもう席を立たなくてもいいだろうと、本を読み続けているふりをする。
 彼女が横を通るときに香った爽やかなそれに、彼女を薫風のようだと思ったことを思い出す。最近流行りのくどく甘ったるい柔軟剤の匂いじゃない、微かに香る柑橘系の爽やかな香りは、彼女によく似合っていた。
 そのまま文字を追う気にならず、本を棚に戻し、正面玄関を出ると、その先に佐藤が居た。そよぐ風に肩までの黒髪をふわりと靡かせ、心地よさそうに小さく笑っている。それが妙に色っぽくて、目に焼き付くほどに鮮やかだった。
 思い描いていた彼女のイメージと現実の彼女はやはり少し違う。

「佐藤、家どっち?」
 引き寄せられるように彼女の側まで行き、声をかけると、弾かれたように振り向いた。ふわっと彼女の香りが鼻先に届く。
「佐藤君って、背が高いんだね」
「ん? ああ、百八十三はある」
 まるで初めて気付いたかのような声に、思わず苦笑いしてしまう。彼女にとって俺は取るに足らない存在なのだろう。
 じっと見上げるように視線を寄越す彼女を見下ろせば、ほんの微かに小首を傾げた。何を考えているのか。彼女は何かを考えるとき、微かに首を傾げるようだ。あからさまじゃないその仕草は、普段大人びて見える彼女を少しだけ幼く見せている。

「で、佐藤の家、どっち?」
「あっち」
 一番町の方を指差す彼女に、一緒に帰る口実が出来たことに喜んでしまう。言い訳がましく「なんだ一緒か」と呟けば、その目に俺に対する興味が宿り、更に嬉しくなる。佐藤とはもっと話してみたい。
「佐藤君の家もあっち? うちは一番町だけど、佐藤君は?」
「うちは二番町」
「もしかして記念公園の先?」
「そう。佐藤んちは記念公園の手前?」
「そう。公園沿い」
「うちもだ」
 意外な共通点のおかげか、ごく自然に同じ方向に歩き出した。何故この図書館に通っているのかを説明しながら、彼女の歩く速度に合わせてゆっくりと歩く。

 頭ひとつ分小さな女が俺を見上げる時、態とらしいほどの上目遣いにうんざりすることがある。俺に媚びを売りたいわけじゃない、そうする自分に酔っているだけだ。
 確かにその仕草そのものが好きな男もいれば、その態とらしさを可愛いと思う男もいる。単純に騙される男はもっといる。俺は純粋に、目が疲れないのかと聞きたくなる。妹が我が儘を通そうとするときによく使う手だ。
 佐藤は顔そのものをきちんと俺に向ける。それはちゃんと俺自身に向き合ってくれているようで、悪い気はしない。

 思っていたよりも快活に話す彼女が、ふと立ち止まり、手にしたスマホで夕暮れ時の空を撮った。撮った写真を確かめ、満足げに笑うから、思わずその画面を覗き込めば、青とピンクの空が切り取られていた。
「へぇ。綺麗だな」
 躊躇せずにいきなり撮ったにしては良く撮れている。すかさず「俺にも頂戴」とスマホを出しながら強請れば、あっさり写真を送ってくれた。どうしようなかぁ、などと勿体付けたりもしない。佐藤には媚びがまるでない。それは俺が対象外だからなのか、元々そんな性格なのか。
 聞けば日課のようにこの時間の空の写真を撮っているらしい。
「へぇ。今度見せて」
「いいよ。上手いものじゃないけどね」
 ついでにメールアドレスを聞こうと口を開きかけたとき──。
「うちここ」
 佐藤の家の前だった。歩いてきた公園沿いの遊歩道の脇に佐藤の家はあった。
「俺んち、ここ真っ直ぐ突っ切った、ほらあそこ」
 同じく遊歩道沿いにある豆粒みたいに小さく見える自宅を指差せば、少し目を細めて俺の指差す先を見ている。どうしてか、その小さな頭を思わず撫でたくなった。自分の胸に引き寄せ、その頭を抱えたくなった。
「本当に近かったんだね」
 その声に我に返れば、俺を見上げながらふわっと笑う。薫風の笑顔だ。最後にいいものが見られた。
「だなぁ。じゃあな、また明日」
 手を挙げれば、釣られたように佐藤も手を挙げる。その手首の細さと白さに、女の子であることを改めて意識した。



 彼女とは市立図書館でしか会わない。学校では隣のクラスというだけでたいした接点もない。相変わらず文学少女然とした彼女が、実は大人しいだけの女の子じゃないと知る人は割といる。うまし棒とチロリアンチョコが好きだと知る人はどのくらいいるのだろうか。それを知っていることに優越感を覚える。

 市立図書館で会う彼女は学校で見かける彼女とは雰囲気が違う。素でいるような、伸び伸びとしてリラックスしているようにも見える。
 知れば知るほどもっと知りたくなる。最初は単純な興味だった。媚びのない彼女に好感を持った。

 互いに読み耽っているその手元から、不意に視線を外すタイミングが同じで、互いに絡む視線はどこか現実とはかけ離れていて、何を思うでもなく再び手元に視線を落とす。後になって気付く。ああ、さっき目が合ったよな、と。それが気にならない人は初めてだった。

 彼女は毎日図書館に来ているわけじゃない。俺も毎日通っているわけでもない。タイミングが合えば互いの気配を感じながら暫しの時を共有し、更にタイミングが合えば一緒に帰る。もう少し先まで読んでおきたいときなどは、彼女は遠慮なく先に帰った。自分のペースを崩されることのない距離感が、なんとも自然で心地いい。

 並んで歩くときの速度が、回を重ねるにつれ緩やかになっていった。
 並んで歩く二人の間が、気付かないうちに自然と近寄っていった。
 女の子として扱えば扱うほど、あのふわっと綻ぶように笑う薫風の笑顔が見られるようになった。

「佐藤、下の名前なに?」
「茉莉。ジャスミンの花の茉莉花の茉莉。佐藤君は?」
「翔悟。飛翔の翔に悟る」
「翔悟君?」
「茉莉はそれでいい?」
 こくりと頷く彼女は、察しがいい。大抵のことは半分も言わないうちに理解してくれる。
──同じ名字だから。
 最初にそう言っただけで互いに名前を呼び合うことを理解してくれる。何度も小さく翔悟君と呟き、その口に馴染ませている彼女の名前を、実は知っていたと言ったら呆れられるだろうか。

「茉莉」
 呼ぶ度に、そこに気持ちが籠もっていく。
「翔悟君」
 呼ばれる度に、そこに籠められていく気持ちに気付く。

 互いに何かを確かめたわけではない。でも彼女は俺のことが好きで、それを俺は知っている。俺が彼女を好きなことも、彼女はちゃんと気付いている。

 一緒に居ることがあまりに自然で、恋愛特有の心が浮つくようなこともなく、あまりにその存在に馴染みすぎていることに少し戸惑う。それでいて、彼女のさりげない仕草に色を見てしまう。自分のものにしたくて仕方なくて、でもこの穏やかな心地よさも手放したくなくて、どうしていいのか分からなくなる。



「なあ、翔悟って隣のクラスの佐藤と付き合ってんの?」
 なんか名前で呼び合ってるーとか、一緒に帰ってるーとか、噂になってるぞ。
 そう教えてくれた山内の言葉に、改めて彼女への気持ちを自覚する。そろそろ潮時だなと肯けば、「やっぱりか」と笑われた。
「なにがやっぱり?」
「翔悟さ、最近時々なんか葛藤してるっぽかったからさ。それってあれだろう?」
 どうやってそういう雰囲気に持ち込むか、山内はどこか得意気に声を抑えて話し出した。まだその随分と前の段階なんだとは言えなかった。彼女の指先にすらまだ触れたことはない。
 にやにやと笑いながら一通り持論を展開し、「ちゃんと避妊しろよ」と言い放つヤツの背中を、八つ当たり気味に思いっきり引っ叩いた。



 その日の図書館帰り、茉莉の方からその話をしてきた。
「翔悟君。噂、聞いた?」
 ぐっとその表情を引き締めてから切り出した彼女に、思わず笑いそうになる。そんなに気合い入れなくてもいいのに。
 俺との噂は嫌じゃないかと聞けば、どうしていいか分からないと言う。それは二人の関係を指しているわけではない。噂を肯定するときの答え方が分からないと言う意味だ。
「他人にとやかく言われたくはないけど、付き合ってるかって聞かれたから、黙って肯いといた」
「そっか。じゃあ私もそうする」
 どこかすっきりとしたような顔で笑う彼女の手を咄嗟に掴み、指を絡めてしっかりと繋いだ。
 初めて触れた彼女の手は、とても小さく頼りなくて、うっかり力を入れたらその華奢な指を折ってしまうんじゃないかと思えた。
「なんだか、恥ずかしいかも」
 俯きながら照れくさそうにそう言う彼女がどうにも可愛くて、いっそこのまま抱きしめてもいいだろうかと葛藤する。あれほど馴染んでいると思っていた彼女の存在が、実は何一つ知らない存在なんだと、触れてみて初めて気付く。

 もっと知りたい。もっと触れたい。上擦るように心が浮き立つ。どうしようもないほどの欲が膨らんでいく。
 隣に在る存在が、所有物だと主張したくなる。俺のものだと周りに知らしめたくなる。今すぐ食らいついて貪り尽くしたい。その全てが知りたい。全てが欲しい。
「俺も」
 浮き上がりそうな心をなんとか押さえつけて、とりあえずそれだけを返せば、彼女がふわっと綻ぶように笑った。