鳴かぬ蛍
第一話 野分


 彼は、まるで嵐の中にいるかのように思えることがあった。何かに抗うような、どこかしら体に力を入れ、微かに息苦しそうな、そんな風に見えることがあった。時折、ごうっと彼の中に吹く風の音が聞こえるかのような、そんな気さえした。

 誰もが彼は穏やかな人だと口を揃えるのに。



 この街には新しく出来た大きな図書館があり、この小さな図書館は大きな図書館が出来る前の図書館で、数年後には取り壊しが決まっている。だからなのか、蔵書も古く傷んだものが多く、最近では新刊などが並ぶことは稀で、司書さんも定年間近の男の人がひとりだけ。聞けばこの図書館の閉鎖と定年がほぼ同じだから、最後まで付き合うことにしたのだと、どこか誇らしげに教えてくれた。
 利用者もほとんどいないこの小さな図書館に通うのは、単に家から近いだけじゃない。この小さくて古くてどこか懐かしい雰囲気の図書館に、幼い頃から居心地の良さを感じていた。

 大抵は学校から真っ直ぐこの図書館に向かい、課題を片付けた後は日が暮れる直前まで好きな本を読んで過ごす。時々同じ趣味を持つ沙緒里も一緒に来ることもある。けれど交友関係の広い彼女が来るのは月に一度か二度あるかないかだ。

 この小さな図書館の利用者は大抵が顔見知りだ。顔見知りになるほどに利用者が少ない。互いに声をかけるわけではないけれど、いつも決まった場所にいる彼らの存在を感じると、何故かほっとする。
 いつものように老眼鏡をかけて、カウンターの中で傷んだ本を慈しむように修理している司書さん。いつもの窓際の閲覧席で静かに本を読んでいる小学生。その席から少し離れて背もたれにもたれながら本を読んでいる中学生。そして、西日が最後に真っ直ぐ射し込んでくる、十人以上が座れる大きな楕円の閲覧テーブルに座る私。帰り際、入れ違いに仕事帰りの男の人が何人かと、それよりも少ない女の人が数人、それぞれまちまちにやってくる。
 たったそれだけの利用者。昼間や休日のことは知らない。私がここにいるのは平日の放課後から夜にかけてだけ。

 そこに紛れ込んだ彼に、最初はみんなが少しだけ戸惑い、その静かな佇まいに誰もが同じように静かに彼を受け入れた。
 同じ高校の制服。同じ学年を示す同じ紺色のタイ。どことなく見覚えがあると記憶の端の方を掬い上げれば、隣のクラスの佐藤君だ。いつも穏やかに笑っている、誰にでも優しいと評判の人。
 でもどうしてなのか、彼から野分に似たなにかを感じた。まだ初夏と言うにも早すぎる季節に。



 その日、いつもなら誰も座らないはずの斜め向かいの席に、静かに誰かが座ったのを目の端に捉えた。時々訪れる、いつもいる人たちじゃない誰かだろうと、特に気にも留めず、目は『秘密の花園』の中ほどを追っていた。バーネットは『小公女』より『秘密の花園』の方が好き。このところ立て続けにバーネットを読んでいる。

 西日が真っ直ぐに窓から目に飛び込んできて、帰る時間かと読みかけのページを覚え、静かに本を閉じ、席を立つ頃には、目の端にあった気配のことなどすっかり忘れていた。

 彼に気付いたのは、何度か目の端に同じ姿を捉えた後だ。最初に気付いてから一週間は経っていたように思う。
 その日は提出し忘れていた進路調査票を職員室に提出していたために、いつもより少し遅れて小さな図書館に着き、読みかけのバーネットの『白い人びと』を手にして、いつもの席に向かえば、その斜め前に座る背筋がすっと伸びた大きな背中が目に入った。
──ああ、目の端の気配はこの人か。
 何となくいつもの自分のテリトリーを侵されたような気になって、だからと言って別の席に着くのも癪で、ほんの一瞬の戸惑いの後に、いつも通り西日が真っ直ぐに目に射し込む席の椅子を静かに引いた。

 どことなく浮いているようでいて、同じくらいこの小さな図書館の雰囲気に馴染んでいるその人は、よく見れば同じ制服を着ていた。タイの色も同じ。見れば隣のクラスのいい人と噂されている佐藤君だ。
 目を伏せ文字を追うその涼やかな目に陰を作るまつげ、すっきりとした鼻筋、引き締められた口元、学校で見かけるよりも大人っぽく見えて、なんだか心許ない気持ちになった。
 何を読んでいるのか、彼からは吹き荒ぶ風のような、激しさすら感じるほどの感情が滲み出ていた。一見穏やかに見えるだけに、少し驚いた。

 本を読んでいる人からは、夢中になっていればいるほど、どこか感情が透けて見えるように思う。勝手にそう思っているだけで実際は違うのかもしれないけれど。

 見下ろしていたその視線を意識して逸らし、静かに椅子に座り、覚えていたページの少し手前から読み始める。もう何度も読んでいるから諳んじられるほどなのに、本は読む度に新しい何かを発見する。目の端に捉えた気配を意識していたのは最初のうちだけ。読み始めると夢中になって何も気にならなくなる。

「佐藤、まだ帰らないの?」
 読んでいた本に指がかけられ、ついっと向こうに少しだけ傾いた。急に現実に呼び戻されたような、少しの混乱の後、何かを言われていたことに気付き、聞こえていた言葉をなぞろうとしたところで、彼の口が動いた。
「まだ帰らないの? もうすぐ閉館だけど」
 囁かれたその声に慌ててカウンターの上に在る時計を見れば、閉館の十分前──。
「うそ」
 窓の外を見れば雨が降っていた。暗闇にぽっかりと浮かぶ街灯の明かりの下に、雨が光を反射して真っ直ぐに降り落ちる細い線を幾筋も描いている。

 西日の知らせが今日は届かなかったらしい。読み始めるまでは綺麗な青空が広がっていたから油断していた。おまけに傘も持ってない。家まで走れば数分だろうけれど、明日も着る制服が雨に濡れるのは嫌だ。
 ふと視線を感じ、その先を辿れば、いい人の佐藤君にじっと見られていた。さっきから声をかけてくれていたのは彼だ。
「佐藤君、ありがとう」
「どういたしまして。佐藤さん」
 佐藤君がからかうように笑う。
──私のこと知っていたのか。
 同じ名字だから知っていた。きっと私と同じ理由だろう。特に目立つグループにいるでもなく、かといって一人で居るわけでもない、容姿も成績もぱっとしない、とかく埋もれがちな私のことをよく知る人は少ない。その逆に私がよく知る人も少ないけれど。
「傘、持ってる?」
「持ってない」
「じゃあ、折りたたみ貸すよ。俺今日たまたま置き傘持って帰ってきたんだ」
 いいの? と言いながらも手が出ている。一本しかないなら遠慮するけれど、二本あるなら有難く借りる。佐藤君は噂通りいい人だ。
 ひそひそとしたやりとりを終え、傘を借り、本を元の位置に戻し、司書さんに会釈して、小さな図書館の正面玄関に立ち、雨の匂いを吸い込む。
 雨が降るときの湿気が嫌い。でも雨の匂いや雨の音は好き。
 借りた傘を開き、傘に跳ねる雨音を聞きながら急いで家に帰る。

 それが、初めて佐藤君をその他大勢の一塊ではなく、同じ名字を持つ誰かではなく、ひとりの佐藤君として認識した最初だった。



 翌日しっかりと乾かした傘を丁寧に畳み、学校で返すのは何となく憚られて図書館で待てば、私より少し遅れてきた佐藤君は、本を片手に斜め向かいの席に静かに座った。
 どことなくこの小さな図書館では浮いて見えたその姿は、ちゃんと一人の人と認識した所為なのか、今日は浮いているようには見えない。私の印象はいい加減だなと思いながら、読み始める前に傘を返す。
「佐藤君、傘ありがとう。これお礼」
「うまし棒?」
 心底不思議そうな顔をされた。傘と一緒に渡したうまし棒をじっと見ている。
「うん。嫌いだった?」
「いや、嫌いじゃないけど……」
 何が言いたいかは何となく分かる。こういう時、きっと女の子らしさをアピールしたいなら手作りの何かをお礼にする。だがしかし。昨日の今日で材料が揃っているわけでもなく、そもそも傘を借りたくらいで、知り合ったばかりの他人の手作りを押しつけるほど、自分に自信もなければ無邪気にもなれない。
 ならばと自分が貰って気兼ねせずに嬉しい物にした。私ならうまし棒かチロリアンチョコ。うまし棒よりチロリアンチョコの方が嵩張らない分よかったかも。
「ありがとう?」
 目の前の彼は、やっぱりどこか腑に落ちない顔をしながら、コンビニの小さな白いビニール袋に入ったうまし棒十本と折りたたみ傘を鞄に入れた。



──眩しい。
 西日が帰る時間を教えてくれる。私がいつも座るこの席にだけ、色んな障害物をすり抜けた西日が細く届く。
 いつも通りそのページの数字を覚え、そっと本を閉じ、荷物を持って立ち上がろうとすれば、いつもはいなくなっている斜め前の席に座る佐藤君が今日はまだそこにいた。本に落とされたその目を縁取るまつげを少しだけ見つめて、邪魔をしないように静かに椅子を元に戻し、そっと立ち去る。

 図書館の敷地の際の綺麗に刈り込まれた生け垣に、濃いピンクと白いツツジが咲いている。ツツジだろうか、サツキだろうか。確かツツジの方が花も葉も大きいと聞いたことがある。さあっと吹き抜けた一陣の風が、香りの強い花が近くで咲いているのか、爽やかな花の香りを届けてくれた。
 立ち止まりゆっくりとその香りを吸い込む。排気ガスや埃の匂いに混ざる、少し甘さを含む爽やかな花の香りに頬が緩む。

「佐藤、家どっち?」
 かけられた声に振り向けば、佐藤君がすぐ後ろに立っていた。随分と背が高い。私より頭ひとつ高いだろうか。いつも座っているところしか見たことがなかったから、ここまで背が高いとは思わなかった。
「佐藤君って、背が高いんだね」
「ん? ああ、百八十三はある」
 佐藤君の肩ほどまでしかない、百六十㎝をぎりぎり切る程のありふれた身長の私には、百八十三㎝は未知の高さだ。頭ひとつ分高い目線からはどんな景色が見えているのだろう。アメリカの歌姫の靴を履けば私も同じ景色が見えるだろうか。もしくは花魁の三枚歯の高下駄。その前に転びそうだけれど。

「で、佐藤の家、どっち?」
 見下ろす佐藤君に「あっち」と指差せば、にかっとした笑い顔と一緒に「なんだ一緒か」と返ってきた。佐藤君はこんな風に笑うんだ。邪気のないその素直な笑みは、向けられた人を楽しくさせる。
「佐藤君の家もあっち? うちは一番町だけど、佐藤君は?」
「うちは二番町」
「もしかして記念公園の先?」
「そう。佐藤んちは記念公園の手前?」
「そう。公園沿い」
「うちもだ」
 互いに、近かったんだね、と言い合いながら歩き出す。
「佐藤君はどうしてこの図書館? 新しい大きい方の図書館じゃなくて」
「ここ、子供の頃に良く来てたから。来年には取り壊しだろう? なんかもったいない気がしてさ」
「来年だっけ? そっか、もう来年かぁ、まだ何年か先だと思ってた」
 自然と並んで歩くことに、なんの違和感も感じない。知り合ったばかりなのに、なんの気負いもなく話すことが出来る。それがすごく不思議だった。

 日が沈む。逢魔が時。黄昏。誰そ彼。
 日が沈みきった直後の、夕日の余韻が残る藍色の空が好きだ。スマホで空の写真を撮る。今日の空は紅掛空色に赤紫の余韻が残っている。空の写真を撮るようになって、色の和名を覚えるようになった。
「へぇ。綺麗だな。俺にも頂戴」
 横からスマホを覗き込んだ佐藤君が、自分のスマホをポケットから出した。撮ったばかりの写真を送る。
「他にもあるの?」
「うん。晴れてる限りほとんど毎日この時間の空を撮ってる。日課みたいな感じ?」
「へぇ。今度見せて」
「いいよ。上手いものじゃないけどね」
 そう言ったところで家に着いた。
「うちここ」
「俺んち、ここ真っ直ぐ突っ切った、ほらあそこ」
 指差す先を見れば、公園の木々の向こうに小さく見える家が何軒も並んでいる。あの内のどれかなのだろう。
「本当に近かったんだね」
「だなぁ。じゃあな、また明日」
 にかっと笑って手を挙げる佐藤君に釣られるように手を挙げ、公園を突っ切るように歩き出した彼を見送る。そう言えば、初めて男の人と一緒に並んで歩いたかも。佐藤君は男の人だけれど、それをあまり意識することなくするっと側に居ることが出来た。なんだか不思議な存在だ。



「茉莉、昨日隣のクラスの佐藤君と一緒に帰ってきたでしょ」
 翌朝教室に入り、周りに軽く挨拶しながら自分の席に着けば、沙緒里が声をひそめるようにそう話しかけてきた。近所に住む沙緒里は所謂幼馴染みだ。
「窓から見えた」
「たまたま帰りが一緒になっただけだよ。佐藤君、公園の反対側に住んでるんだって」
「そうなんだ。へえ。近いというか遠いというか」
 公園を突っ切れば近いと言えるが、道を行けば公園をぐるりと迂回するために結構な距離がある。記念公園はこのあたりで一番大きな公園だ。
「気を付けた方がいいよ。佐藤君、隠れファンが多いから」
「そうなの?」
「うん。なんか雰囲気柔らかいからね、目立つほどのイケメンじゃないけど、雰囲気イケメン?」
「雰囲気イケメンって……なんかそれ、微妙な褒め言葉? だね」
 沙緒里が「まあね」と言いながらも顔を寄せてきた。
「でも本当に気を付けなよ」
「でも、気を付けるような何かがあるわけじゃないのに。単に帰る方向が一緒だっただけで」
「そうは見ない人もいるってこと」
 がらっと音を立てて教室の引き戸が開き、担任が入ってくる。
「何かあったらちゃんと言うんだよ」
 そう言って沙緒里は斜め二つ前の自分の席に着いた。

 佐藤君は雰囲気イケメン。新しい噂だ。穏やかでいい人で雰囲気イケメン。穏やかでいい人というのは分かる。あのにかっと笑った顔はいい人っぽい笑顔だ。雰囲気イケメンというのはよく分からないけれど、雰囲気はいいと思う。一緒に居て気負うこともない。あまり男子と接点のないためか、多少の苦手意識があるにしては、彼とは気負いなく話せた。
──雰囲気イケメン。
 確かにそうなのかもしれない。



 それからも時々、小さな図書館でその気配を感じたり、時折帰りが一緒になったり、互いのタイミングがあった時にだけ、一緒に過ごすことが重なって行き、それはあまりに自然なことで、意識することなく彼の存在に馴染んでいった。
 特に何か変化があったわけではない。ただ、小さな図書館にある閲覧スペースの大きなテーブルの斜め向かいに座り、互いの気配を微かに感じながら、互いに好きなことをして過ごし、タイミングが合えば一緒に帰路に就く。ただそれだけだ。互いの存在を意識するより先に、互いの存在に馴染んでしまった。

 日が短くなり、冬服から夏服、再び冬服に替わる頃には、西日の知らせより遅くまで残ることもあり、そんなときは必ず彼が家まで送ってくれた。単に通り道だからと言うのもあるし、やはり女の子だからと気を遣ってくれているようで、それを自然と受け入れられるほどに、互いの存在が当たり前になっていた。

「同じ名字だからなぁ。佐藤、下の名前なに?」
 不意にもたらされた言葉に、それもそうかと自分の名前を教える。
「佐藤君は?」
「翔悟。飛翔の翔に悟る」
「翔悟君?」
 教えられた音を何度か呟いてみる。喉を震わすその音が唇にも耳にも馴染んでいく。
 どうして彼の何もかもがこんなにもあっさりと馴染むのか。そこに特別な何かがあるような気がする。こういうのを乙女思考って言うのかもしれない。
 そう考えたら急に名前を呼ぶのが恥ずかしくなった。
「茉莉はそれでいい?」
 互いに名前を呼び合うことに対してだろう。恥ずかしい乙女思考を追いやっても、彼に呼ばれた自分の名前までが照れくさく思えて、顔に集まる熱を誤魔化すように頷けば、翔悟君は柔らかに笑った。

 彼の存在に馴染めば馴染むほど、彼がただ穏やかなだけの人ではないことに気付く。時折感じる野分のような気配に、意味も分からず心がざわめく。おそらく憤りのようなものを抑え込んでいるのだろうそれは、体育の時間に惜しいところで得点出来なかったときや、小テストでケアレスミスをしたとき、友達とちょっとした諍いをしたときなど、僅かに交わす言葉からその原因を察することが出来た。
 それでも彼は、私と一緒に居るときは常に穏やかであろうとしてくれる。

 その存在に馴染んでいくのに少し遅れて、自分の気持ちも自覚した。それは心が跳ねるような、そんな大げさなものではなく、彼の存在と同じように穏やかで自然に芽生えた淡い気持ち。
 最初は淡かったその気持ちが、ゆっくりと少しずつその色を濃くしていき、いつの間にか自分の中にしっかりと存在していた。
 彼との間に何か大きな変化があったわけではない。特別何かがあったわけでもない。ただ、本当に少しずつゆっくりと気持ちが降り積もっていっただけ。

「茉莉」そう呼ばれる度に、彼の声で呼ばれる自分の名前に、体中が馴染んでいく。
「翔悟君」そう呼ぶ度に、頭の中に響く彼の名前が少しずつ心に刻まれていく。



 私と彼のその馴染みを知るのは、小さな図書館の常連と司書さん、それに沙緒里くらいだろうと思っていた。時折一緒に沙緒里もあの図書館の中に馴染み込む。
 でも──。見ている人は見ている。
 いつしか私と彼のことが囁かれるようになっていた。付き合っているらしいと。
 互いに同じ名字だからと、いつしか名前で呼び合うようになったそれをどこかで聞かれたらしい。学校ではほとんど話すこともないのに、一体どこで聞かれたのか。図書館からの帰りを目撃した人もいるらしい。
 沙緒里から知らされたそれに眉をひそめる。

「翔悟君、噂、聞いた?」
 いつもの図書館の帰りに思い切って聞けば、少しだけからかうような顔で頷かれた。
「茉莉は嫌じゃない?」
「なにが?」
「俺との噂」
「嫌じゃないけど、どうしていいか分からない」
 私が彼に特別な想いを抱いているように、彼も私に同じ想いを抱いてくれている。互いに口にしたことはないけれど、互いに何となく分かっていることだ。

 ふと手元の文字から目を離したときに不意に絡む視線や、並んで歩いているときに感じる何気ない仕草や、少しずつ並んで歩く二人の間の空間が狭まっていったことや、ぽつぽつと交わす言葉の端や、名前を呼ぶときの声音や、そういうあからさまではない小さなことが少しずつ少しずつ積み重なって、互いに何となく分かり合った。
──そうかな? そうじゃないかな?
 そうやって探り合うように、互いの気持ちを確かめ合うように、何となく互いを理解し合う。そんな、はっきりとしない、曖昧でくすぐったい、じれったいほどに穏やかな関係が好きだった。

「他人にとやかく言われたくはないけど、付き合ってるかって聞かれて、肯いといた」
 初めて言葉で二人の関係が語られた。彼の落ち着いた話し方が好きだ。
「そっか。じゃあ私もそうする」
 胸の前で携帯カイロを両手で握りしめ、指先を温めていたその片手を、不意に彼の手に絡め取られた。初めて繋いだ手は、互いの指を交互に絡める、所謂恋人繋ぎというもので──。
 思った以上に心が跳ねた。
「なんだか、恥ずかしいかも」
「俺も」
 自分からやっておきながら恥ずかしがりもする、その翔悟君からまた野分の気配がした。色んな思いが彼の中にすごい勢いで渦巻いているのかもしれない。私の心が跳ねているように、彼も心がどうにかなっているのかもしれない。
 翔悟君と繋がった冷たかったはずの指先が、痺れるほどに熱を持つ。熱いと感じるのに、緊張からその指先は冷えていく。繋がれた手の先に全ての神経が集まって、そこがどんどん鋭敏になっていく。
 私のそれより大きくてあたたかい、初めて繋いだにしてはしっくりと馴染む、その温度も、その湿度も、その感触も、彼の存在と同じで、自然に、当たり前のように感じる。

 それが嬉しい。恥ずかしいけれど嬉しい。

 心が沸き立つような、気持ちが溢れるような、持て余してしまうほどの感情が私の中でも渦を巻く。思った以上に満たされた心に、手を繋いだだけなのにと呆れたような気持ちになる。でも嬉しい。

 好きって気持ちが、恋しいって気持ちに変化する。
 他の人より好きって気持ちが、誰よりも好きって位置へと繰り上がる。

 すごい。手を繋いだだけなのに、一気に頭の中が乙女思考に変わった。自分にもあった乙女思考に戸惑いながらも、繋がった先にある存在の大きさに安心する。
 本当にすごい。自分の中にあった彼の存在感が一気に膨らんで、その全てを余すところなく取り込んで独り占めしたくなる。
 引き締めても引き締めても締まりなく弧を描く口元を、マフラーに埋めてこっそり隠した。

 曖昧で穏やかでくすぐったい、はっきりとしなかった関係が、その日、はっきりとした関係になった。


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