テディ=ベア
第九章 セオドアは本当は甘やかされたい②


 央主催の夜会後に俺とキヨラの婚約が正式に公表されることが決まった。
 アストンの屋敷にグレネル公爵家から訪問の先触れが何度か来ているが、全て俺が直接断っている。さすがに俺に直接断られると相手も如何ともしがたいようで、先触れに来るグレネルの使用人も、回を重ねるごとに申し訳なさそうに小さくなっていく。
 そのグルネルの使用人にさえ、キヨラは直接声をかけて労っている。茶と焼き菓子を振る舞い、軽く休ませてから帰すため、すっかり味方に付けている。
 キヨラは「噂は馬鹿にならない」とその重要性を存分に理解している。
 賄い方にも買い出しの際、時間が許す限り様々な噂を集めてくるよう指示しているらしく、アストン家の密偵を兼ねる賄い方は年若き主の理解にただただ驚いていた。一体キヨラはどこで知行を学んだのか。
 ただ、なにか嫌な思い出でもあるのか、キヨラは沈んだ表情で情報の重要性を訥々と話していた。思わず抱きしめて背をさすってやれば「いい加減もふりたい」と不満顔で睨んでくる。人型の俺にも癒やされろ。

 そんなキヨラの不満顔にもめげずに人型で通してきた成果か、徐々に本来の俺にも慣れてきたようだ。
 軽い口づけから始まり、深い口づけを交わすようになり、服の上からの愛撫にも慣れさせ、毎夜同じ寝台で眠るようになり、ゆっくりと時間をかけてキヨラの自覚が追いついてくるのを待つ。
 とはいえ、本人の自覚を待つことなく昏薬を使って体を開き、膜襞を広げてきた。最近ようやく指二本まで広がった。三本まで広げないと、さすがに無傷では無理だ。俺はキヨラに傷も痛みも与えたくない。
 これがどれほど卑怯な行いであるかなど百も承知だ。
 だが、央妃主催の夜会でキヨラに付いた俺の匂いに気付いた者たちが、俺がそこまでするのであれば、とキヨラを認め始めている。兄のアルには呆れられ、弟のレオには「マーキングしすぎです!」と真っ赤な顔で抗議された。
 俺が普段から女を避けてきたのは周知の事実だ。その俺が愛称を許し、腕に抱き、跪き、匂いを付ける。それがどれほどのことかを理解している者たちは、俺にそこまでさせたキヨラを高く買っている。先触れに遣わされたグレネルの使用人たちが、他家へ遣いに出る度に、キヨラに労ってもらったことを「ここだけの話」として広めているのもじわじわと効いている。噂は馬鹿にならない。



 随分と濃くなった青のドレスを纏うキヨラを伴い、いつも通り刻限ぎりぎりに央主催の夜会に参加する。
 母親と懇意にしている公爵夫人たちが母親の許可を取った上でキヨラに話しかけてきた。さすがにこれは断れない。俺の戸惑いを見たキヨラは気丈にも怯えを隠し、社交を牛耳る彼女らに丁寧に応えている。わからないことは正直に詫び、素直に教えを請うキヨラに、周囲で耳を澄ましている物見高い目の中には無知を嗤う者もいるが、当の夫人たちの印象は悪くないようだ。鼻持ちならない娘よりずっといい、と代わる代わる俺に囁いていく。
 色々教えたいと張り切る夫人たちに、キヨラは嬉しそうに目を細め、和やかな空気の中最初の一曲が流れ始めた。

 曲が終わる直前に父親の足音が聞こえてきた。公爵夫人たちの勢いに押されて、舞踊の前に話しかけられなかった、と俺にしか聞こえないよう口の中でぶつぶつ文句を言いながら近寄ってくる。どうやら最初の曲が終わるのを待ち兼ねていたようだ。
 キヨラに父親を紹介する。つつがなく挨拶を終えたキヨラの顔が緊張で強ばっている。さてどうしたものかと親子で目配せしているうちに、少し遅れて母親が父親の横に並び立った。母親の姿を見たキヨラが緊張を和らげ、さも嬉しそうに笑った。その様子が嬉しかったのだろう、母親も同じように目元を和ませている。
 キヨラが手にしているのは母親からもらった扇だ。
「この扇、仰ぐととてもいい香りがして、ずっと仰いでいたいくらいです。ステフ様と同じ香りですよね。とってもいい香り」
 父が唯一好きだという香を母親は俺たちに害がないほど本当に仄かに香らせている。余程でなければ気付かない香りにキヨラは気付いていた。
 両親とひとつふたつ言葉を交わす中、ほんのり頬を染めながら、キヨラは思っていることを素直に口にする。
 キヨラ自身は、思っていることをそのまま口にするのはよくないことだと考えているようだが、俺たちにとっては信用に値する。口と腹の中がまるで違う者が多い中、口も腹も同じキヨラの話は小気味好く響く。
「私のこともウィルでよい。私からも何か贈ろう。何が欲しい?」
 キヨラが虚を衝かれたようにきょとんとした後、俺を見上げ、次に戸惑ったように眉を寄せた。
「なんでも欲しいものを贈ろう」
 父親の猫なで声に怖気をふるう。キヨラを試しているつもりだろうが、キヨラはその辺の小娘とは違う。
「なんでも……テディ、欲しいものある?」
 しばらく黙考していたキヨラが小声で聞いてきた。
「お前は欲しいものはないのか」
「ないかも。だって、必要な物は黙っててもみんなが用意してくれるし、欲しいもの、欲しいもの……あっ医師! せめてもう一人領知に医師が欲しい。本当は五人くらい欲しいけど。でも人を欲しがるのはダメだよね。人はもらうものじゃないし。紹介してもらうのはいいのかな。それで来てくれるか聞いてみるとか?」
 キヨラは小声で話しているつもりだろうが、耳の利く父親には丸聞こえだ。面白そうにキヨラを見ている。
「せっかくくれるって言うんだから何かもらいたいけど、無償より怖いものはないっていうし……」
 キヨラの本音に父親が笑いを堪えている。母親は扇で口元を隠した。な、キヨラは面白いだろ。
「断るのって失礼かな、でも欲しいものないし……どうしよう。テディ、どうしよう」
 段々とキヨラが思い詰めた表情に変わり、ついに父親が声を上げて笑った。
「よいよい。これと一緒によく考えてからでもよい。いつか欲しいものができたら、私に知らせておくれ」
「よろしいでしょうか」
「かまわんよ。楽しみに待っておる」
 父親が柔らかく笑えば、キヨラが控えめながらも嬉しそうに、本当に嬉しそうに笑った。
「ほら、今のうちに行け」
 父親に小声で言われ、キヨラを抱き上げて素早く会場を抜け出す。
 三回目ともなれば警護の者がしっかりと俺たちを囲み、馬車まで先導してくれる。家令と侍女は既に馬車で待機しているらしい。
 気を利かせて警護してくれたフィルの兄に礼を言って馬車に乗り込むと、見知らぬ男たちに取り囲まれたせいで強張っていたキヨラの体から一気に力が抜けた。
「大丈夫か?」
 いまだ己の心の傷を理解していないキヨラは俺の言う「大丈夫か」の意味がわからない。「ん?」と首を傾げながらも、いつも以上に俺にしがみついている。その背をさすりながら軽く口付けてやれば、しがみつく力が少しだけ緩んだ。
「寝ていいぞ」
 公爵夫人たちに囲まれたり、父親に試されたり、いつも以上に気を張っていたのだろう、キヨラは馬車が走り出すとすぐにこてんと眠りに落ちた。

「フィル、キヨラは見知らぬ者に怯える。慣れるまではあまりキヨラに近付きすぎないよう、デイヴにそれとなく言っといてくれ」
 フィルがひとつ頷くと、その横でラリーがキヨラが寝ているかを確かめたあと、静かに口を開いた。
「グレネルの娘が祈青院に入ることが決まった」
「ああ、それでか。面会の先触れがなくなった上に、今日は見かけなかった。祈青院か、随分と甘い処分だな」
「そうか? ああいう娘には厳しいんじゃないか? 毎日祈りを捧げるだけの生活は幽閉みたいなもんだろう。おまけに一度門をくぐったら最後、死ぬまで出れん」
「最終的に何をやらかしたんだ?」
「お前の執務室に忍び込んだ」
「……忍び込むのを見ていたんだろうが」
「運悪く央に発見され、その場で断罪されました」
「……待ち構えていたんだろうが」
 あまりのわざとらしさに呆れもするが、そのわざとらしさに付け入られるあの娘もどうなんだ。
「グレネル家は取り潰し。グレネル領はキャンディス様預かりとなります」
「グレネル領はたしか婆の領の隣の辺境だよな。要とまでは言わないがそれなりの要所だろう?」
「最終的にキャンディス様の領知共々殿下の領知となることが内々で決まっています」
 にやりと笑う父親の顔が浮かぶ。こういうときだけ殿下と呼ぶフィルに苦笑いするしかない。
「……俺に押しつけたな。ならば俺はデイブに押しつける。デイブの爵位をひとまず伯爵位に上げる。その後父親に辺境伯に任命してもらうよう根回ししといてくれ。グレネルの使用人は希望する者はそのまま据え置き、すぐにでもデイブに知行させろ」
 フィルのここまで驚いた顔は滅多に見られない。
「なに驚いてんだ。お前の兄が一番適任だろう。それだけの実績もある。デイヴィッドならやっかみ程度は切り捨てられるだろう。父親と婆に話を通しておいてくれ。どうせあの二人もそのつもりだ。父親の補佐から一人デイヴに付けてもらうよう言っといてくれ。俺が男爵位から上げられるのは伯爵位までだが、父親なら最初から辺境伯にできるだろ。どっちがいいかも確認しといてくれ。お前たちもそろそろもうひとつ爵位を上げるか?」
「俺は伯爵位のままでいい。これ以上は面倒だからいらん。それよりフィルを伯爵位にしてくれよ。外でわざとらしく傅かれるのはもうたくさんだ」
 嫌そうな顔をするラリーにフィルが肩をすくめている。フィルは相変わらずラリーをからかって遊んでいるようだ。
「ジェームス、笑い事じゃないぞ。お前たち三人もすでに巻き込まれているからな。覚悟しといた方がいいぞ」
 声を出さずに笑っている家令に、ラリーが八つ当たりし始めた。子供か。