テディ=ベア
第五章 クマゴローは実は小心者① アストン領に向かう馬車に乗り込むと、ヘナコが当たり前のように俺の膝によじ登ってきた。腹を抱えてやれば、安堵したように体の力を抜いて全てを預けるようにもたれかかってくる。同行する庭師の驚いた顔に優越感を覚えた。
領館はわずか一晩で有り得ないほど綺麗になっていた。どれだけの人の手が入ったのか。聞けば周辺の民らが手を貸したらしい。
それを聞いたヘナコが、素直に感謝の言葉を口にし、最感謝礼をしそうになる。慌ててその体を抱えて止めさせた。家令や庭師も止めようとしたのだろう、焦ったようにヘナコに手を伸ばし、それに怯えて無意識に俺にしがみ付くヘナコを見て我に返り、素早くヘナコから距離を取った。ヘナコの体から力が抜けるのを見て、まだ侍女以外はダメかと男三人で目配せし合う。
ヘナコが最感謝礼をしかけたことで領民たちに侮られるかと肝を冷やしたが、逆に好意的に捉えられたようで胸を撫で下ろす。
民に素直に感謝を示す新たな領主に、期待の目を向ける領民たち。家令と庭師が至極満足そうな顔をしていたのが印象的だった。
家令から、準備が調い次第この館で子供たちに読み書きを教える、と聞いた領民たちは誰もがその顔をほころばせた。領民たちの嬉しそうな顔に、ヘナコは満足そうに目を細め、わずかに口角を上げていた。家令も庭師もその表情が見られたことを喜んでいる。
使用人の家族たちに、領館の敷地内にある使用人宿舎に入ることを勧め、その家族の全てを雇い入れたヘナコは、驚くことを口にした。
「領民から預かった税は、全て領民と領知に還元すべきでしょ。じゃなきゃ高い税なんて誰も払いたくないよ」
雇い入れられたばかりの一同が、ヘナコに最敬礼する。本来は央だけに向けられる最敬礼を。ヘナコは彼らの最敬礼に気付いてさえいない。
ヘナコ、お前は何者だ?
それは、起つる者の言だ。一介の小娘から出る言葉じゃない。
彼方人は繁栄をもたらす。
それは当を得ているのかもしれない。男であれば覇者となったであろう。央妃の資質を持つヘナコを中央に渡すつもりはない。ヘナコは俺のものだ。
ヘナコの頭を撫でてやれば、微かにその口元を緩めた。小さく「きゅーきゅー」呟いている。
帰りの馬車の中、当たり前のように俺にその体を預けるヘナコを、いつも以上に抱え込む。決して誰にも渡さん。
屋敷に戻ると、折しも夜会の招待状が届いたところだった。
家令が顔をしかめている。社交シーズンの開幕となる央太子主催の夜会だ。央家主催の夜会は貴族で在る限り出席が義務付けられている。
「ああ、もうそんな時期か」
「ええ。こればかりは参加せざるを得ません」
ヘナコに夜会について説明している家令は、夜会を知らないヘナコを訝しんでいるようだ。あれだけの教養と立ち振る舞いを身に付けているヘナコが平民のはずはなく、それなのに貴族社会の知識がない。
「問題はお嬢様のお相手です」
ちらりと視線を寄越す家令の無言の圧力は、本来俺に向けていいものじゃないだろう。
「わかってる。だが面倒なことになるぞ」
俺の夜会の相手となれば、ヘナコも面倒なことに巻き込まれる。だが、丁度いいのかもしれない。さっさと俺のものにしてしまおう。
「承知いたしております」
しれっと返す家令のこの態度。お前、建前でも俺に敬意を払えよ。最初の敬意はどこへ行った?
「ジムじゃダメなの?」
ヘナコが小さく声を上げると、家令は目を伏せて首を左右に振った。身分の差は残酷だ。
「じゃあ、ロブは?」
家令がその膝を折り、優しく諭す。
「この夜会のお相手は、それ相応の方でないとお嬢様を守り切れません」
小さく首を傾げて「守られるほどの者じゃないけど」と言うヘナコは、己の価値をわかっていない。
「お前、ころっと騙されそうだからな。気が付いたら身ぐるみ剥がされてそのへんに捨てられてるぞ」
ヘナコが酷く不安そうな目で俺を見上げてくる。その破壊力たるや、思わず抱きしめてうっかり背骨を折ってしまいそうなほどだ。力加減間違えるなよ俺。
「そんな心配そうな顔するな。俺がお前の相手になってやる」
頭を撫でてやれば、不安そうな表情が一転して不遜に変わる。
「なられてやろう」
片側の口角だけ器用に上げたヘナコに思わず呆れる。俺の相手になりたい女は山といるが、なられてやろうと言い放つ女はヘナコぐらいだ。
「俺にそんな事言うヤツはお前くらいだろうよ」
ヘナコが侍女の背に隠れながら不細工な顔で挑発してくる。あまりの不細工さに思わず吹き出しそうになった。なんだよその顔。ああんじゃねー。
「不細工な顔すんな。明日から侍女に色々習っとけ」
これ以上は堪え切れそうになく、しつこく不細工顔をさらすヘナコに背を向けた。家令も笑いを堪えているのか、その肩が小刻みに揺れている。あそこまでの表情が出たのは喜ばしいが、あの顔はない。背後からああんが迫ってくる。やめろ、腹が痛い。
食事の席で、今日の経緯をかいつまんで説明すると、屋敷に残っていた賄い方と侍女から安堵が伝わってきた。特に賄い方は末の妹を案じていたようだ。
急に何を思ったか、ヘナコが使用人たちの歳を確認し始めた。今朝の続きか?
家令のジェームスはまだ二十五だと言う。学舎に通ったわけでもない彼が、僅か二十五歳であの手腕を発揮するには、相当の努力があったはずだ。
庭師のロバートは二十三、賄い方は二十八。確かに一番落ち着いているのは賄い方であるティモシーだ。侍女のブリジットは二十歳。やはり二十歳にしては随分と落ち着いている。通いの侍女で、ロバートの婚約者でもあるキャサリンは十七、ティモシーの婚約者であるマーガレットは十八だそうだ。
「私は十六」
ヘナコのこの告白に、四人が揃って驚いている。そうだろう? ヘナコは童顔過ぎる。どこからどう見ても成人しているとは思えない顔立ちだ。
「ヘナコ様、成人されていらしたのですね」
「へ? 成人っていくつだっけ?」
このヘナコの問いに、家令が一瞬訝しげな表情をみせた。
「十五歳でございます」
ヘナコが頷きながら、どこか納得したような顔になる。ごく自然に表情を出しているヘナコに、四人は釘付けだ。
あれほどの学があるにもかかわらず成人の年齢を知らない。ヘナコの知識はどこか偏っている。余程人とは接しない暮らしをしていたのか。他者の記憶を持つゆえか。一体、彼方人とはどこから来るのか。
その夜、家令が主の部屋を訪ねてきた。
「ヘナコ様は何者でございますか」
しっかりと閉じられたドアの前に立ったまま、前置きもなくいきなり核心を突く家令に、つい笑みがこぼれた。お前こそ何者だ。
「何者だろうな。俺も知らん。お前たちに出会う前日に俺も出会ったばかりだ」
「彼女の資質は一介の娘のものではございません」
「だよな。お前はどう思う?」
座るよう勧めると、遠慮の欠片もなく目の前に座るこいつは、俺にも少しは敬意を払うべきだ。
「央家に連なる者か、それ以上の存在、でございましょうか」
「それ以上だな。公爵家にあそこまでの言葉を吐き出せる娘はいない」
「ヘナコ様のことが知られれば中央に奪われます。特にあなた様の兄に」
「お前、言葉を選べよ。俺の前だからいいが、他人の前で言うなよ」
「人を選んでおりますゆえ」
表情も変えずしれっと言い放つこいつは、間違いなく宰相向きだ。
「あれは俺の相手になる。今期は中央の夜会にのみ俺の相手として出席させる」
「かしこまりました。我々もそのように取り計らいます」
「仕立屋は中央の俺付きを呼ぶ」
「青を纏わせますか」
「当たり前だろう。今期の夜会終了後に儀式を行う。そのつもりで準備しろ」
「ヘナコ様は青を纏う意味を……」
「知らないだろうな。夜会が終わるまで言うつもりもない」
「殿下の御身分もですか?」
「そうだ。そもそも知ったところであれが態度を変えると思うか?」
口調を少し砕いたものに変え、ですね、と頷く家令が、少し気になったのですが、と思案顔で言い出した。
「ヘナコ様は、本当にヘナコという名でしょうか」
「ああ、お前も気になったか」
「本日は特に目に付きましたから。民に声をかけられているのを見て、もしやと」
「おそらく偽名だろうな。呼ばれてから応えるまでに間がありすぎる」
「届け出た書は……」
「本当の名がわかり次第訂正しておく。俺以外の聖職者の前でヘナコに名乗らせるな。お前もヘナコと呼ばないよう注意しろ」
「聖職者が偽りを見破れるというのは、やはり誠でしたか」
「そうだな。どういうわけかわかるんだよ。あまり楽しい特技じゃないぞ」
「でしょうね」
こいつは……。
ではおやすみなさいませ、と言い置いて用は済んだとばかりにさっさと退出する家令を、俺は怒るべきなのだろうな。怒る気にもならんが。