テディ=ベア
第一章 クマゴローは性格が悪い②


 翌朝、日の出とともに娘を放り込んだ部屋の扉を開けると、すでに目覚めていた娘の目が見開かれたような気がした。
 扉を開けた直後に見た娘の目線を辿ると、やたらと立派な額に入った「一日一善」というふざけた文言が壁に掛かっていた。いつの間に……。こんなことをするのはあの婆しかいない。なにが一日一善だ。あの婆は一日一悪を体現している存在だろうが。あの婆のおかげで国がよく栄えたと誰もが誉めそやすが怪しいものだ。そもそもどうやってこの部屋に忍び込んだんだ。窓も扉も破られた痕跡はない。あの婆は本当に得体がしれない。
 ぼーっとしている娘に中央に連れて行くことを伝えると、微かに首を傾げたように見えた。
 全くもって面倒くせぇ。
 どう考えてもこいつは聖地に忍び込んだ輩ではない。おそらく迷い込んだ方だ。
 だがまぁ、今朝になっても運命が見えぬ。ならば今日のうちには逝くのだろう。だったら、せいぜい高く売るまでだ。
 娘に近づけば、大袈裟なほど体をびくんと震わせた。なんだ、やはりこの娘も獣型は怖いのか。獣型に怯えられることなど今に始まったことではないというのに、どういうわけかとてつもなくがっかりした。今更なんだというのか。胸の痛みごと落胆を奥深くに押し込んで蓋をする。

 また嘔吐されては敵わぬと腕に抱えてると、怯えながらもしがみついてきた娘に驚く。そうだ、そうやって俺にしがみつけばいい。どこか満たされた想いで駆け出せば、恐る恐るだったのが、次第に遠慮なくしがみついてきた。おそらく本人はぎゅーっとしがみついているつもりだろうが、あまりの腕力のなさについ頬が緩む。
 ひーっと喉を引きつらせたり、うわっと驚いたり、うぎゃーっと騒いだり、これが大声であったなら正常だろうが、この娘からは吐息のような微かな声しか聞こえない。むしろ微かに聞こえるその声に、思わずうるせぇと口を吐くほど、俺の心はざわざわと騒ぎ出す。
 一体なんだというのか。昨日から何かがおかしい。この娘は俺の中の何かを掻き立てる。



 中央に到着し、犯罪奴隷が引き渡される裏広場の一画に向かう途中、アストン侯が目に飛び込んできた。侯の運命が見えなくなっている。たしかこの男の運命は、婚姻を焦るあまり行き倒れていた女を拾い、手込めにする前に逝く、だったか。遺産の一部がその行き倒れた女の手に渡ることになる。それゆえ、秘密裏にアストン領を中央預かりにするための手筈は整えてある。
 アストン侯の行く先に見えるのは、侯の運命に絡むはずの女。侯はまだその女に気付いていない。だからなのか? 路地の影に蹲る女には侯に関する運命が一切見えない。

 不意にしがみついている娘の手に力がこもった。
 胸に抱く娘は何かを耐えるようにぎゅっと目を閉じている。

 ふと思い付いた気まぐれ。
 娘を抱えたままアストン侯の目の前を横切る。目敏く娘を見定めたアストン侯の足がまんまと裏広場に向かう。
 裏広場で腕から降ろすと、娘は腰が抜けたのかその場にへなへなと座り込んだ。
 娘を取り囲むのは金のある家の遣いの者たちだろう。久しぶりの若い娘だ。面白いほどに人が群がる。
 聖地から差し出される犯罪奴隷は、知恵を絞らねば見付けることもできない聖地に忍び込むだけあって、賢い者が多い。とはいえ、危険な聖地に送り込まれるだけあって単なる手駒でもある。
 聖地に忍び込む者の大半は、虐げられていることが多い。それゆえ、人並みに遇すればあっさり手のひらを返し、元々の素養もあって、主人によく尽くすといわれている。おまけに奴隷として買われているため給金の心配もなく、衣食住さえきちんと面倒見てやれば、実に優秀な使用人へと化ける。もちろん全てがそうとは限らないが、往々にしてその傾向にあるため、聖職者が連れてくる犯罪奴隷は引く手あまただ。
 ふと見れば、娘は虚ろな目をしたまま顔を強ばらせ、じりじりと後退っている。なんだ? もしや人が怖いのか。
 へたり込んだ娘の頭上で、競りが始まった。若い娘だ、なかなかの高値が付きそうだ。ほらアストン侯、そろそろ声を上げないと他に取られちまうぞ。
 まんまとアストン侯が娘を競り落とした。その場に参加している誰よりも格上であり、しかも侯爵本人が直に声を上げたのだ、他は手を引くしかない。
「未通か?」
「そうだな。だがまだ成人前だ」
 同じ男でも目を背けたくなるような下卑た顔で娘を見下ろすアストン侯は、臭い息を吐き出しながらおよそ侯爵が持つとは思えない薄汚れた小袋を差し出した。中に入っている金を数えると、競り落とした額だけきっちり納まっていた。おそらくこれ以上は出すつもりがなかったのだろう。
 相変わらず虚ろな目をした娘に、じゃあな、と声をかけると、一瞬、澱んでいたはずの濃茶の瞳に強い意志が宿った。虚ろだったはずの瞳に、絡みつくほどに焦がれた想いが一瞬にして溢れる。それはどうしようもないほどの寂しさで、まるで縋り付かれているかのような幻を見せた。そして娘は、薄く、本当に薄く、ほんのわずかに口角が上がったかどうかというほどに薄く、儚げに笑った。

 そのほんの一瞬の出来事は、錯覚かと思うほどに不確かで、それでいて強烈に俺の心に焼き付いた。
 惜しむらくはその運命が見えぬこと。
 ああ、なんだ、俺は惜しいのか。ならば手に入れるまで。
 あれは俺のものだ。

 馬車に押し込まれる小娘を尻目に、裏広場から急ぎ離れる。
 アストン侯の屋敷に先回りして、そこの家令に侯の運命と俺の身分を明かす。聖職者でなければ獣型の見分けは付かない。俺の紋章の耳飾りを見せると、家令はその場で跪き、時間がないため娘の安全と、おそらく即座に出すであろう婚姻証明書を中央に提出せずに俺の元に持ってくるよう言い含める。半ば脅すような口調になったのは仕方がない。
「馬車が着く、急いで戻れ」
 しばらく身を潜めていると、やはり婚姻証明書を手にした家令が屋敷から出てきた。
 家令に娘の様子を訊けば、今は侍女によって湯浴みをさせられているらしい。まだ昼前だというに。あのゲス野郎。
「最優先は娘の身の安全だ」
 家令は心得たとばかりに最敬礼をする。しかしこの家令、面白いほどアストン侯への忠誠心がない。一切ない。いっそ清々しいほどない。侯が哀れに思えてきた。
「殿下、領知は……」
「中央が一時預かりとなる予定だったが、あの娘を侯の養女として、暫定侯爵として立てる」
 中央預かりとなれば、侯爵家で働く者は全て解雇される。最悪領が分割される。それを避けるためには、あの娘を養女にするのが一番手っ取り早い。妻では体よく厄介払いされるのがオチだ。妻と子であれば子の方が立場は強い。
 あの娘の運命が見えぬことだけが気がかりだが……。
「そのためにもあの娘の身をなんとしても守れ」
 家令が再び最敬礼をして屋敷に戻っていった。



 預かった婚姻証明を中央に持ち帰り、己の執務室に忍び込む。案の定、怒りまくる補佐二人を説き伏せて、急ぎ婚姻証明に書かれた筆跡を真似て縁組の書類を偽造する。これが俺の特技だ。褒められたものではないが。
「ん? ヘナコ・ヤマダ? ヤマダ? なあ、ヤマダという家名に覚えはあるか?」
「ないな」
「ありませんね。どこの国の家名ですか?」
「さあ?」
 俺の補佐をするこの二人は、男爵家の三男坊のフィルことフィリップと子爵家の次男坊のラリーことローレンスだ。能力は高いのに爵位が低いため、ぞんざいに扱われて腐っていたところを引き抜いた。本当だったら俺ではなく兄に引き抜かれたかっただろうが、そこはまあ、仕方ない。向こうには既に優秀な補佐が揃っていた。
 この二人をもってしても、あの小娘、ヘナコの家名に覚えがない。この国ばかりではなく他国にもそんな家名はなかったと記憶する。
「新興ですかね」
「それすら聞いたことないな」
 婚姻証明書にある“ヤマダ”という家名に、フィルとラリーも揃って怪訝な顔をしている。
「まあいい。時間がない。この娘をアストンの暫定侯爵に仕立て上げる」
「はあ?」
 黙れラリー、でかい声を出すな。折角忍び込んできたのに、ここにいることが露見するだろうが。
「急ぎこれを処理してくれ。アストン侯は今日逝く」
「くそっ! あとで憶えてろよ、セオドア!」
 ラリーがひったくるように偽造書を受け取って、足早に執務室から出て行く。
「では、葬りの準備が必要ですね。立ち会いを兄に頼んでおきます」
「おう、頼む」
 フィルの次兄は騎士だ。一の騎士団は侯爵家か伯爵家、二の騎士団は伯爵家か子爵家、三の騎士団は子爵家か男爵家、四の騎士団は男爵家か平民、それぞれ家の爵位によって分けられている。その三の騎士団で、子爵家を抑えて男爵家のフィルの兄が団長になったのだからその実力に間違いはない。

 フィルもラリーもいない執務室で、溜まっていた書類に目を通し、必要な物だけ手早く処理しておく。
 程なくして、アストン侯の死去が家令によって騎士団に伝えられ、三の騎士団長自ら出向き、侯の死を確認した。同行したフィルが言うには、あの娘には侍女が張り付いているようだ。
 さて、事後報告になるが、父親にアストン領について話してくるか。