硲153番地
風と光の景色遺された男①
その日は、朝から糸のような細い雨が降っていた。
ハルが死んだ。
突然のことだった。
深夜に舞い込んだ不慮の知らせは、真山の思考に空白を生み、この世の全てを遠退かせた。
『おい、聞いてるのか?』
受話器から響く深山の声が真山の耳で歪んだ。
真山の頭の中で深山の声はばらばらに散らばり、散り散りの言葉が無秩序に共鳴し合い、わんわんと不快な音を響かせていた。耳に入り込む何もかもが頭の中を素通りしていくようで、真山は自分が何を言われているのかはっきりと理解できずにいた。
「ああ、聞いてる。間違いないのか?」
間違いないそうだ。現地にも問い合わせた。明朝のチューリッヒ行きが取れた。俺はこれから成田に向かう。深山は辛抱強く真山の理解を確かめながら同じ内容を二度三度と繰り返した。
「俺も……」
真山は言いかけて口を噤んだ。冷静になれ、と己を叱咤し、深く息を吸い、ゆっくりと時間をかけて吐き出す。
『悪いがお前は葬儀の手配を頼む。あと、ハルの仕事関係への連絡も』
真山が深呼吸を終えるのを待っていたかのように、深山の気遣いが聞こえてきた。明後日に公判が控えている真山は臍を噛むしかない。
「香は?」
『現地に向かっているはずだ』
滑落死。カメラマンである森山は、スイスとオーストリアの間にあるリヒテンシュタインの山中で撮影中に足を滑らせた。
遺体の損傷が激しく、直視できないほどだったことを真山は後になって聞いた。
当時、リヒテンシュタインから南に二百キロほど離れたミラノに滞在していた森山の妻である香は、身元確認したその場で心を壊した。
真山 光一、深山 正春、室山 香、森山 明仄の四人は、高校二年の春に初めて互いを認識した。男女関係なく五十音順の出席番号。二年から三年はそのままクラスを持ち越すため、同じクラスになった四人は出席番号順で受ける定期考査のたびに「ま行の山」を並べていた。
香は華やかな容姿と美しい歌声を持ち、そのせいか一部の女子たちに遠巻きにされ、時折嫉妬がらみの嫌がらせを受けていた。香本人はさばさばしたもので、嫌がらせに怯まず中立女子たちとそれなりに会話し、孤立することなく飄々としていた。
深山は勉強はできるがスポーツと人付き合いが苦手で、実家が金持ちのせいかどこか浮き世離れした感があった。校舎の隅で野良猫に餌付けしては教師に呼び出しを食らい、ついにはなけなしのコミュニケーション能力を絞り出し、猫好きを集めて猫部なるものを立ち上げ、野生猫の観察という名目で堂々と学校で猫を飼っていた。その時点で野生ではないだろうとの真山の指摘を、深山は完璧なまでに聞き流していた。
明るく人気者だった森山は深山とは真逆で、スポーツと人付き合いは得意だったが、勉強がすこぶる苦手だった。明仄とは曙のことで、最初に「ハル」と呼び始めたのは香だった。
四人の中で一番平凡だった真山は勉強もスポーツも人並みだった。
初めて同じクラスになったその時から、四人はなんとなく気が合い、なんとなく仲が良かった。
森山と香が付き合い始めたのは高校二年の夏のことで、真山と深山はそれを自然な流れとして受け止めていた。
のちに真山が酔った勢いで、実はかつて香に仄かな恋心を抱いていた、と打ち明けたのは、大学二年の頃だったか。森山はそれを笑いながら受け止めていた。その頃には森山と香の間には揺るぎない信頼関係が築かれており、それと同じくらい四人の関係も揺るぎないものになっていた。
香は音大卒業と同時にミラノにある国立音楽院への進学を決めていた。それだけで門外漢の真山からしてみれば声楽家への道を着実に進んでいるように見えた。しかし、現実はそう甘くなかったようで、いつしか香は帰国のたびに「いつまでたっても端役しかもらえない」と諦めた顔で笑うようになった。
そうは言っても本場の舞台に立てる日本人がどれほどいるのか。香は真山のありきたりな賛辞に力なく笑うだけだった。
森山は美大在学中に応募したいくつかのコンテストで高い評価を受け、在学中からカメラマンとして独り立ちしていた。誰に師事するわけでもない己の才能だけの独り立ちは危うく、業界のしがらみに嫌気が差したのか、香を追うように日本を発った森山は、日銭を稼ぎながらヨーロッパ各地を転々とし、撮影した写真を当時はまだ一般的ではなかったインターネットに公開しては、細々と仕事を請け負っていた。
森山はとにかく勘のいい男で、その勘を頼りに紛争地帯ですら気の向くままに渡り歩いていた。
天才肌の深山は大学に残り、研究者となった。真山にはさっぱりわからない、宇宙だか生命だかに関する研究をしている。相変わらず研究室の片隅で勝手に猫を飼っている。
真山は必死の努力と幾度かの挫折の末、なんとか司法試験に合格し、忙しない日々を送っていた。
深山が香と森山を連れて帰国したのは、それから二週間後。今にも雨が降り出しそうな春の終わりのことだった。
「香から目を離すな」
げっそりと頬の肉を刮げ落とした香に生気はなく、深山に言われずともその様子は尋常ではなかった。
香は幼い頃に母を亡くしている。父は再婚しないまま香を育てあげ、香のイタリア行き直前に虚血性心疾患で急逝している。香に残された身内は父方の祖母のみで、真山が連絡をとったところ、地方に暮らす彼女の祖母は自分のことで精一杯の様子だった。とてもこんな状態の香を預けられない。
真山と深山は話し合い、ひとまず深山の自宅に軟禁することにした。そうでもしないと香は森山の後を追いかねなかったのだ。
森山の葬儀はやはり糸雨に煙る静かな日だった。絹のように細い雨は、耳障りな音を吸い込み、目障りな色を覆い尽くし、癇に障る何もかもを滴り落としているようだった。
森山の両親や祖父母はすでに他界しており、一人っ子だった森山の身内といえば香ただ一人で、森山が残した全ての権利を香に移すために、真山は奔走していた。
香は葬儀の際も涙ひとつ流さなかった。この世の全てを拒絶した香は、まるで人形のように虚ろだった。
「香はこのまま俺が預かる」
「いいのか?」
「俺はお前と違って結婚もしてないし、金だけはあるから」
深山の家は代々の資産家で、その資産を取り崩しながら生きているようなところがあった。最初は母親に、続いて父親に末期ガンが見付かり、深山が言うには二人とも苦しみながら死んでいったそうだ。
「社会貢献もせず、苦しみの果てに死ぬのだけは嫌だな」
深山がいつだったかそんなふうに零していたことがある。そのせいなのか、研究者となった深山は放っておいても孫の代まで遊んで暮らせるほどの資産を湯水のごとく研究費に充てていた。
その深山から話があると連絡が来たのは、森山の葬儀からふた月後のことだった。
「香が妊娠している」
通された深山家のリビングは相変わらずモデルルームのように整えられ、生活感がまるでない。深山の生活の殆どは研究室にあり、真山も何度か訪れたことのあるその部屋は、大学の研究室とは思えないほど生活感に溢れていた。
驚いた真山の顔を深山は落ち着いた目で見返した。
「腹が膨らんでいるのが気になって往診してもらったら、妊娠十七週目だった」
「十七週?」
「五ヶ月と少しだそうだ」
「香は?」
「相変わらずだ」
いくつかの病院に連れて行ったものの、香を元に戻せる医者はおらず、風呂やトイレ、着替えや食事などの日常生活は一通りできるため、むやみに入院させるよりはと、深山は香を自宅に置いたままだ。親の代から務めている通いの家政婦が香の世話をしている。その家政婦が香の腹の膨らみに気付いたらしい。
「腹の子供については?」
「わかっているのかいないのか。何度言い聞かせても、特に反応はない」
香は生きる屍になっている。ただ森山の後を追う衝動だけで生きている。もしかして子供が生まれれば、という期待が真山の胸を占めた。一方で、そんな状態で産めるのか、との懸念も同時に湧き起こる。
「産ませるのか?」
「それが自然だろう。そもそもお前、中絶できたとしてハルの子を殺せるか?」
ハルの子。真山の脳裡に森山の笑顔が浮かんだ。どれだけ腹の立つことがあっても、最後には笑って終わらせる男だった。胸が押し潰されそうだった。真山は森山が死んだことを未だ受け入れられない。
「あとな、俺にガンが見付かった」
脳裡に浮かんでいた森山の笑顔が真っ黒に塗り潰された。真山は信じられない思いで深山をまじまじと眺めた。
「あんなに気を付けていたのにか?」
両親をともにガンで亡くした深山は、人一倍健康に気を付けていたはずだ。
「ここ数年、忙しさにかまけて健康診断を怠ったんだ。すでに至る所に転移している。どうも全部は取り切れないらしい」
「莫迦かお前は!」
「俺は香と入籍する。うちの財産を香と子供に残す」
森山と香は数年前に事実婚している。そのとき森山は「法に縛られたくない」と法に縛られる真山をからかったものだ。
当然だが、森山は死ぬつもりなどなかったのだ。香を一人にする気などさらさらなかった。だからこそ、二人が拠点としていたヨーロッパでは珍しくないものの、日本ではなんの効力もない事実婚を選び、何度真山が勧めても、世帯変更届や公正証書を作成することはなかった。
だから今の香に再婚禁止期間はない。森山の子供を深山の子供として届け出ることに、法的にはなんの問題もない。
今の香と生まれてくる子供にとってはこれが最善だろう。だが、と考え始めると真山はわからなくなる。本来の香はどう思うか。生まれてくる森山の子はどう思うか。何より、森山はどう思うか──。
「研究は?」
「ガンが見付かった時点で大学は辞めた」
深山の目は、これまで真山が見たことがないほど生き生きとしていた。死を覚悟した人間の目だとは思えないほど、強い光を帯びていた。
ああ──それに気付いたとき、真山は声を上げて泣き出してしまいたかった。
深山は、香と生まれてくる森山の子供に貢献することで、己の存在理由を見出そうとしている。深山自身にどれほど価値があるかなど、当の本人は露程も考えていないのだ。
「お前はそれでいいのか?」
深山は不器用な笑顔を見せた。森山のような周りを明るくするような笑顔ではなく、香のような華やいだ笑顔でもなく、お前それ笑っているのかと惘れるような、笑い慣れない深山らしい下手くそな笑顔だった。
「お前に資産管理は任す。俺が死んだあと、香と子供、頼むな」
「その前に使い込んでやる」
悔しさに涙が出そうだった。森山に続いて深山までいなくなる。真山は世界に一人だけ取り残されたような心細さに嗚咽が漏れそうだった。
「お前にそれができたら、もう少し儲けられるんだろうがな」
結婚を機に、双方の両親からの支援もあってようやく独立したばかりの真山の事務所は、吹けば飛ぶような経営状態だった。業務よりも資金繰りに駆けずり回る方が多いくらいで、正直に言えば、何度か深山に金を借りようとしたことがある。実際に大学の研修室まで足を運んだことも一度や二度ではない。毎回土壇場で踵を返すのは、金のせいでこの関係を壊したくなかったからだ。
「ハルの子の養育費代わりに、今必要なだけうちの金を使え」
言外に「もうお前しかいないんだ」と言われているような気がした。今屋台骨を太くしておかなければ、この先守るものも守れなくなる。
真山は黙って頷くことでしか応えられなかった。
香は無事に森山の子供を産んだ。香本人に自覚があるのかすらわからない状態だったため、医師と相談し、帝王切開での出産だった。
香は初めて娘を腕に抱いたとき、かすれた声で一言「さくら」と呟いたそうだ。
森山がいなくなってからというもの、香は日本語を忘れた。彼女への呼びかけは常にイタリア語だった。その香りの口から「さくら」という日本語が零れたのだ、深山はしばらく放心したらしい。
「初めは娘の名前かと思ったんだ。ちゃんと女の子だと認識しているんだとばかり思ったんだが……」
深山は眉根を寄せ、俯き加減にやるせなく目を瞬かせた。
「ハルが発見された場所に桜の木が生えていたそうだ。正確には桜じゃなかったのかもしれない。標高が高い分開花が遅かったのか、春も終わろうとしているのに桜の花が咲いていた。その花びらが、ハルの遺体に降り注いでいたと、発見した救助隊員が話していた。日本人は桜が好きだろう、と。きっと慰めようとしたんだろうな」
「香もそれを?」
「香にも話したと言っていた。香が遺体確認前に通訳に言ったそうだ。ハルは最後に桜を見たのかな、と」
リヒテンシュタインの公用語はドイツ語だ。深山は大抵の言語を理解したが、香はイタリア語しか話せなかった。森山は言葉を介さずとも身振りで意思疎通ができるのだと得意気に話していたことがある。
ぐっと喉の奥から後悔が込み上げた。欧州に旅立つ森山を引き留めればよかった。帰国するたびに引き留めればよかった。どれほど後悔しても後悔し足りない。
真山は新生児室で大人しく眠る森山と香の娘から目を逸らした。
ハルの娘は「桜」と名付けられた。
真山はどうしても森山の娘の顔を見ることができなかった。
森山の死を認めることも、この先深山の死を迎えることも、どうあってもできそうになかった。こういうところで己の狭量さを知る。真山は臆病だった。
深山の助力で資金繰りが上手くいった途端、ぽつぽつと大きな案件が舞い込み始めた。それをいいことに、時折深山からかかってくる電話に応えるだけで、真山の足は次第に深山家から遠退いていった。