硲153番地
風と光の景色
遺された男②


「お前は一体何をしているんだ」
 真山はこの時ほど弁護士でよかったと思ったことはない。このために弁護士になったのではないかとすら思えたほどだ。逮捕後七十二時間は弁護士以外の接見は認められていない。おまけに弁護士であれば警察官の立ち会いは不要だ。
「何もしたつもりはない」
 色彩を欠いた小部屋に押し込まれているにもかかわらず、深山は堂々と言い放った。全てを受け入れているような寛容ささえ見えた。
 そうだった。この男はこういう浮き世離れしたヤツだった。真山は呆れと懐かしさと馬鹿馬鹿しさに深々と息を吐いた。
「なぜあの少年のことを言わなかった」
「言っただろう、捨てられていた子を拾ったと」
 深山の怪訝そうな表情を見て、真山は記憶を探った。捨てられていた。拾った。確かに聞いた。電話口の深山が珍しく僅かな焦りを滲ませていた覚えがある。
「いやいや、人間の子供だとは思わないだろう」
 真山の頭の中に数年前の記憶が膨らむように蘇る。「捨てられたのになかない(、、、、)んだよ」真山の耳は確かにそう聞き取った。真山の頭の中で「なかない」は「鳴かない」に置き換わった。その鳴かないという表現から、大方また仔猫でも拾ったのだろうと考えたのだ。犬なら「吠える」だろうと。それがまさか「泣かない」だとは。
 そもそも人間の子供なら「拾った」とは言わず「保護した」などそれらしい言葉を使うものだ、との考えは真山の思い込みだろうか。しかもあの時の深山の声は焦りながらも弾んでいた。深山は昔から無類の猫好きだった。
「なぜ人間の子供だと思わないんだ?」
 わけがわからないと言わんばかりの目をした深山が真山の正面に座っている。
「俺はてっきり猫の仔だと思って……」
 香やその娘にいい刺激になるだろうと考え、二人と一緒にしておけばいいんじゃないか、と真山は軽い気持ちで提案した。猫だと思い込んでいたからだ。よもや男児だとは夢にも思わなかった。
「人間の子供を保護したなら警察に届ける必要があるだろう」
「だから訊いただろう、届けなくてもいいのかと」
「だから俺は猫だと思ってたんだよ!」
 犬の場合は登録が必要だが、猫の場合は必要ない。てっきり猫だと思い込んでいた真山は「部屋から出さないよう気を付けろよ」とまで言い添えたのだ。過去の己の発言に頭を抱えるしかない。
 さらにだ、その後も何度か話題になっていた。
 あの拾った仔、どうしてる?
 桜と仲良くやってるよ。なかなか賢い子だ。
 香とは?
 桜の面倒を見るついでに面倒見ている感じだな。
 確かそんなやりとりが何度かあったはずだ。賢い子だ、とは再三耳にした覚えがある。桜と一緒に寝ているだの、桜の後を追いかけているだの、パティオで仲良く日向ぼっこしているだの。真山には猫が子供にじゃれついている姿しか思い浮かばなかった。
「気付かなかった俺が間抜けなのか……」
 真山は天を仰いだ。

 香の足首を細い鎖で繋いでいたことは、定期的に往診していた医師の判断もあったことがわかっている。そうでもしないと香は飛び降りようとするのだ。
 飛び降り──それだけを食い止めれば香は極めて手のかからない患者だったと医師は言う。彼は香よりも余命幾許もない深山を案じていた。

 通報者は深山家と隣接する敷地に建ったばかりのマンションの住人だった。
 階上から時々見かける。壁に囲われた小さな庭にいる女性が鎖に繋がれている。日本人夫婦なのに、外国人の男の子がいる。不自然だ。
 しかも最悪なことに、深山が元有名大学の教授だったことを聞きかじったその近隣住人は、面白がってその情報をマスコミに売った。
 深山には変質者のレッテルが貼られ、警察により事実が公表されてもそれが剥がれることはなかった。

 深山は最後まで穏やかな表情のまま、勾留中に体調を崩し、呆気なく逝った。
 妻である香のことは医師の証言もあり問題にはならなかったが、保護していた少年のことでは揉めた。最終的には少年の証言、定期的に医師による健康診断を受けていたことや深山が適切な教育を施していたことなどを鑑みて、事件性はないと判断され不起訴となった。



 深山の遺言書には、全財産を香と桜、それと拾った子供に譲ることが書かれていた。香と桜に五分の二ずつ、そして拾った子供に五分の一。その資産管理を真山に一任する旨も添えられていた。
 真山は信じられなかった。見ず知らずの子供に、たとえ桜がこのうえなく懐いていたとしても、香がその存在を認めていたとしても、遺産相続させる意味がわからなかった。
 慰謝料だろうか。真山にはそうとしか思えなかった。

 真山は香と面会し、深山が死んだこと、その遺言の内容、桜の今後、一緒にいた男児の処遇を話した。それは香に聞かせるというよりは、真山自身が口に出すことで頭の中を整理しているような感覚だった。
 そのとき、不意に香は言ったのだ。真山が話し終わるのを待ったかのように、身動ぐことなくベッドの背にもたれた姿勢のまま、殆ど口元を動かすこともなく、喉から音を出した。
 最初は小さな吐息だった。ああ、と肩の力が抜けるような微かな音に香の指先に目を向けていた真山は僅かな驚きとともに顔を上げた。
「はるがきた」
 香はやけにはっきりと言った。発音は明らかに日本語で、彼女の目には久しく見なかった光が宿っていた。
 春はもう終わりかけている。日射しは日増しに力をつけ、病室の窓から入り込む風は夏の気配を孕んでいる。
「春?」
 聞き返した真山ははっとした。春ではなくハルではないか。慌てて再度聞き返した真山に、香はそれまでと変わらない虚ろな目を返すだけだった。聞き間違いかと思うほど、香の様子はそれまでと変わらなかった。目に宿っていたはずの光はどこにもない。
 聞き間違いか、聞き間違いではないのか。真山は自問を繰り返し、これでもかと辺りを見渡すうちに、どういうわけか香に責められているような気になっていった。
 病室は静かだった。香は人形のように動かない。真山は居たたまれなさから、飲み物を買ってくる、と病室を離れた。

 そして、しばらくして戻ったそこに、香の姿はなかった。

 香は森山の命日に飛び降りた。
 どこに隠し持っていたのか細い鎖を足首に巻き付け、病室の窓から転落した。病室は三階、しかも窓下には植栽が茂り、死に至るほどの外傷や挫傷はなかったというのに、香は死んだ。
 真山はその日が森山の命日だったことを失念していた。



 桜は真山が引き取り、深山が保護していた少年は身元不明児として先輩弁護士が勧める児童養護施設に入所させた。
 桜は深山から英才教育を施されていた。驚くほど賢い桜を教師たちは持て余し、有名私立か海外のエリート校に転入させることをしきりと勧めてきた。本人に確認したところ、できたばかりの友達と離れたくないようだったため、真山は好きにさせることにした。
 桜は確かに賢い子供だった。幼いながら分別を弁えているところがあり、真山一家に対しきっちりと線引きしていた。当初こそ桜を持て余していた真山の妻は、そのうちコツでも掴んだのか、付かず離れずほどよい距離で桜と接するようになり、母の反応を真似たのか、桜より三つ年下の真山の娘もそれなりに懐き始めた。
 真山だけがいつまで経っても桜に慣れなかった。
 それは、森山に対する後悔からか、香から目を離した罪悪感からか、深山に対する申し訳なさからか、おそらくその全てが桜から目を逸らし、深山曰く、ハルに似ているという少年に八つ当たりのような感情を持つことで、真山は冷静さを保っていた。



 真山は責務として年に二度ほど少年が入所した児童養護施設を訪問している。
 当初は言葉を知りながらも話すということを知らなかった少年は、急速に「話す」という行為を覚えていった。確かに賢い子供だった。深山は桜同様、この少年にも英才教育を施していた。
 警察により保護された時点で健康状態が優良だった少年は、前後半年程度の誤差はあるものの十歳と推定され、それに基づき戸籍が作成されている。生年月日は本人の希望で深山が少年を「拾った日」とされた。それは少年にとって深山が保護者であったことの証明にも思え、真山は遣る方ない思いを抱えた。
 真山にとってこの少年の存在は複雑だった。
 その少年が顔を合わすたびに桜に会わせろと訴えてくる。桜も同様にこの少年はどうしているのかを執拗に問い詰めるてくる。
 真山にとってこの少年の存在は厄介の一言に尽きた。
 真山に少年と桜を会わせるつもりはない。深山の遺志は継ぐが、そこに二人を会わせろとは書かれていない。 

 真山の意識に変化が訪れたのは少年が高校に入学してすぐのことだった。責務として訪れた児童養護施設では、少年が戻らないことを職員たちが心配していた。こんなことは初めてだと言う。
 真山は苛々しながら少年を待った。再度足を運ぶよりは、しばらく待つことを選んだ己の判断を後悔し始めた頃、苦笑する警察官に連れられた少年が涙を流しながら戻って来た。
 施設にいた誰もが驚いていた。真山自身も驚いた。少年がこれほど感情を乱すのをこれまで見たことも聞いたこともなかった。
 その少年の口から小さく漏れた音に、真山は頭を殴られたような衝撃を受けた。
 森山と同じことを、あの頃の森山と同じ年頃の佐島 秀が口にした。真山の脳裡に森山の笑顔が強烈な鮮やかさをもって生々しく浮かんだ。
 真山は心の裡で深山に縋った。



 それは深山が亡くなる直前の、よく晴れた午後ことだった。
 口数の多くない、自ら口を開くことの少ない深山が、珍しく真山に話しかけてきた。
「なあ、あの子、ハルに似ていると思わないか?」
 深山は男児に名前をつけていなかった。名前の必要性を感じなかった、だから思い付かなかった、というのがこの浮き世離れした男の言い分だ。真山には理解できない思考だが、深山の思考として考えれば理解できなくもない。
「ハルに? どこがだよ。そもそもあの子のルーツは日本じゃないだろう」
 真山にとって深山が拾った子供は最初から厄介者でしかなかった。
「見た目じゃないんだ。なんだろうな、見ているものがハルと同じなんじゃないかと思うことがあるんだよ。ほら、ハルは時々風を見ていただろう」
 真山の脳裡に、風を読んでいるような、宙に漂う何かを見ているような、どこか遠くを見るような眼差しの森山の姿が浮かんだ。
 真山はそんなとき「何が見えるんだ?」と必ず訊いた。森山は決まってそれに「光が見えるんだ」と返してきた。真山にはどれだけ目を凝らしてもそんな光など見えず、森山ならではの比喩だと思っていた。おおかた羽虫でも追っていたのだろうと。
「ハルは光を見ていると言っていたんだ」
 真山の呟きに、深山は深く頷いた。
「ああ、俺にも同じことを言っていた。光ってなんだ? 俺には見えんぞと言ったら、俺にもわからん、ただ、風が光るときがあるんだと言っていた。そのときのハルと同じ目をするんだよ、あの子は」
「だから拾ったのか?」
「ん、いや。言っただろう、捨てられたの? と訊いたら頷いたんだ。で、俺のあとをついてきたから、そのまま拾った」
 何度も聞いたやりとりを深山は感情のこもらない声で再度繰り返した。
「あの子はちゃんと自分の置かれた立場を認識していた。聡い子だと思ったよ」
 深山は懐かしむように目を細めた。まるで己の息子の幼少時を懐かしむような目だった。
「同じ目をしていると気付いたのはしばらくしてからだ。時々香がじっとあの子を見ていることに気付いて、しばらく気を付けて観察しているうちに気付いた」
「香もハルに似ていると思っているのか?」
「どうかな。でも、あの子が桜に触れても何も言わないところを見ると、少なからず何か感じるものはあるんだろう」
 生まれたばかりの桜を連れて深山の家に戻った香は、それまで世話をしてくれていた家政婦を桜から遠ざけた。桜に近寄っていいのは深山と真山だけで、その深山ですら桜に触れることを許さなかった。それを機に老齢の家政婦は引退し、代わりに深山自身が香と桜の面倒を見るようになった。
 真山は猫だと思っていたから気にも留めなかったのだ。それが人間の男の子だとなれば、話は変わってくる。
「あの子の身元はまだわかっていない」
 不法滞在者の子供だろうと推測されている。
「そうだろうな。一応俺だって調べたんだ」
 驚く真山に、深山は心底嫌そうな顔を返した。
「俺にだってそのくらいの常識はある」
「お前に常識があったらそもそもここにはいない」
 マスコミの過熱報道のせいもあって、深山の勾留は続いている。ほんの数日で病状が悪化し、自力で立ち上がることが困難になった深山には、病院ではなく車椅子が用意された。本人が病院行きを強く拒んだからだ。かかりつけ医が朝夕に往診に来ては、憂い顔で帰っていく。
「香は元気か?」
「病院で大人しくしているらしい」
 そうか、と深山はいつ途切れてもおかしくない息を滴り落とすようにか細く吐き出した。



 深山も真山も普段は「私」を使う。
 何もかも曝け出すことのできるま行の山の中でだけ、二人は高校生のときと同じ「俺」を使った。
 真山はもう「俺」を使うことはない。