硲153番地
風と光の景色
遺された一瞬


 それは、壮絶な写真だった。

 父親と一緒に訪れた小さなギャラリーには、日本人よりも外国人の方が多かった。
 再来週にいとこの結婚式を控え、少年は家族揃って買い物に来ていた。
 制服のある中学に通う少年とは違い、制服のない高校に通う姉は洒落たワンピースを調達する必要があり、それに便乗した母も新調すると言い出した。Yシャツとネクタイを新調すればいいだけの父と革靴を買えばいいだけの少年は早々に手持ち無沙汰となり、来る途中で父が気にしていた写真展で暇を潰すことにしたのだ。

「お父さんな、このカメラマンとは高校の同級生だったんだよ」
 入り口に掲げられたカメラマンの近影を眺めながら、少年の父は懐かしそうに目を細めた。
 比較的早くに結婚した父は、同級生の間では若いお父さんという括りで多少の羨望をもって語られ、少年のひそかな自慢でもあった。
 その父よりもカメラマンの方がずいぶん若く見えた。しかも青空を背景に目元を優しく緩めて笑うカメラマンは父よりもずっとかっこよかった。
「友達だったの?」
「いや、同じクラスになったことはなかったし、たいして話したこともなかったから、友達とは言えないな。顔見知り程度ってところか」
 顔を知っているだけの同級生は少年にも覚えがある。遠くから見かけ、友達になりたいと思いながら、結局話すこともないまま進路が分岐した。

 入学した中学校は面白くなかった。
 母が熱心に勧め、父が背を押した進学校は、成績によるヒエラルキーが歴然とあった。少年のようになんとか滑り込んだ生徒は肩身が狭い。いとこの結婚式の翌週から始まる夏休みの課題は山のようにあり、補習授業はがっちり組まれ、去年までとは確実に夏休みの意味が変わっていた。

「この人死んだの?」
 ギャラリーの入り口には、カメラマンの名前とともに、回顧展、と銘打たれていた。
「そうだ。確か二三年前だったか、ヨーロッパのどこかの国で事故に遭ったって聞いたな」
 小声で話しながら、少年は父が芳名帳に記入するのを何とはなしに眺めていた。
「お前も書くか?」
 父の少し面白がるような視線に対抗するように、少年はできるだけ何でもないような顔で父が書いた名前の横に父に倣って大まかな住所と氏名を記入した。
 大人扱いされるのは、恥ずかしいような誇らしいような、なんともいえない高揚感を生む。興奮が顔に出ないよう、少年は人知れずゆっくりと深呼吸した。
 中学生になったのだから、と父はことあるごとに少年を大人と同じスタンスで扱うようになった。それと同時に「責任」という言葉をよく聞くようにもなった。それに比べ母は未だに少年を子供扱いする。それが鬱陶しく、最近は母より父と過ごす時間が増えてきた。

 アリアがたゆたう白一色のギャラリーには、大小様々なパネルが色鮮やかに並んでいた。そこかしこにありふれた一瞬が切り撮られていた。様々な国のおそらくどこにでもあるだろう風景。
 にもかかわらず、少年はどうしてか目が離せなかった。
 写真の中に風を感じた。
 どの写真を見ても、見覚えがあるような風景とともに風が写っていた。柔らかだったり、強かだったり、優しかったり、荒々しかったり、暖かだったり、凍えそうだったり、様々な風がありきたりな風景を不思議な感覚を呼び覚ます風景に変えていた。
 そして光。
 感覚でしか捉えられないような儚い光が、不思議な感覚の中で踊っていた。軽やかにしなやかに、何かの兆しを感じさせる、道しるべのような光が風と一緒にそよいでいた。

 このカメラマンが捕らえた風景は、まさに風と光の景色だった。

 パネルの正面に立つたびに、少年は写し撮られた瞬間の風と光を感じた。
 一枚一枚夢中で眺めた。吹き渡る風と瞬く光に翻弄され、その風に背中を押されるように次の写真に移動し、また夢中で眺め、光に導かれるように次の写真に視線を移す。

 時折、風景に紛れてふっと息を抜くように、おそらく同じ女性であろう口元から下のスナップ写真が挿し込まれていた。
 会場に流れるアリアがその女性の口から響いてくるようで、口紅すら塗られていない、けれどとても艶めいた唇が風と光の景色に音を混ぜ込んでいた。
 このカメラマンの最愛の人だろうことは、まだ本当の意味で恋をしたことのない少年にも手に取るようにわかった。



 最後の一枚はどの写真よりも大きく引き伸ばされていた。
 見上げさせたいのだろう、大きなパネルは斜めに掲げられていた。
 遺作。
 死の直前に撮られたという写真は、意図的なのか偶然なのかがわからず、あえていうなら恣意的なのではないか、そんな説明が添えられていた。
 少年はパネルの正面に立ち、ゆっくりと視線を上げていった。

 パネルの右下には斜めの赤が光に透けていた。
 天から薄いピンクの花びらが無数に降っていた。
 暴力的に引き込まれる何かがあった。
 世界がぐるんと反転した。

 少年の全身に鳥肌が立った。
 柔らかな色彩の、淡く儚い写真にもかかわらず、その風景には壮絶な風が吹いていた。強い光が射していた。
「この赤、血なんだって」
 秘めやかな父の声が少年の耳を通り過ぎていった。

 血。
 
 その赤から強い感情が伝わってくる。
 その感情を少年はまだ知らない。知らないのに、ぎゅっと強い力で心臓が掴まれていた。
 苦しくて切なくて、それでいて甘くて、たとえようもなく優しい温もりに包み込まれたような、荒々しく狂おしく、焦がれて止まない激情に呑み込まれたような、様々な感情がとっかえひっかえ入り乱れ、少年は風に嬲られ、光に刺された。

「ん? どうした?」
「何が?」
「気付いてないのか?」
 父親がそっとハンカチを差し出した。
 ああ、と少年は天から舞い落ちる花びらを頬に感じながら理解した。これが感動だ。心が動いた。涙だって出るだろう。他人事のように自己分析する自分と、心を震わせパネルから目が離せないでいる自分が、少年の中に同時に存在した。
 奥歯をこれでもかと食い縛り、叫び出そうとする激情を抑えながら、少年はその壮絶な景色を睨み続けていた。



 おそらくあの一枚の写真に出逢わなければ、少年が写真の世界に足を踏み入れることはなかっただろう。
 残念ながら少年に芸術的才能はなく、見様見真似で技術を学んだ。あの写真を見たとき以上の激情に再び襲われることもなく、少年はあれからずっと悩み続けていた。
 両親に逆らわず、彼らに勧められるがままに大学まで進んだかつての少年は、いつしか青年へと成長し、両親の反対を押し切り、考え抜いた先に見出した報道の道へと人生の舵を切った。

 たった一回の個展とたった一冊の写真集が早世したカメラマンの全てだった。