硲153番地
風が光るとき十七回目
鉛筆の芯が紙を擦る。
秀は筆記具の中でもとりわけ鉛筆を、特に濃さはHでもBでもないその間に一つだけ存在するFを好んで使った。
これでもかというほど芯を尖らせるのも、その切っ先が紙を鋭く引っ掻くのも、先が丸みを帯び文字が少しずつ太く柔らかになっていくのも、携帯用の小さな鉛筆削りでがりごりと鈍い音を立てて削る手間も、使うほどに短くなっていく健気さも、どこまで使えるか少し意地になってしまうところも、秀は鉛筆に纏わる全ての要素が好きだった。
定期考査を間近に控え、秀のクラスはラスト一時限が自習となり、常よりも早く解放された。いつもより時間が早いせいか、たまたまなのか、第二自習室に人気はない。
がりがりと鉛筆を削る音が誰もいない室内にやけに響く。
周辺にあるどの学校の通学路からも外れるこの図書館には自習室がふたつある。公共の図書館に自習室があるのは珍しく、第一自習室はパソコンが完備され、机がひとつずつ仕切られてプライベートが確保できることもあってかとにかく混み合う。それに比べ、そのひとつ上の階にある第二自習室は長机と椅子が並ぶだけで常に閑散としている。秀はいつも第二自習室の入口から一番遠い窓際の席を利用していた。
秀はこの静かな空間に身を置くことで何かを取り戻しているような気がしていた。
なにより、秀にはこの場所だろうとの確信があった。
ただし「ここ」という確信はあっても「いつ」なのかはわからない。
秀はアイデンティティの欠如を自覚している。
自分がどこに属しているのか、自分がどこから来ているのか、自分は何者なのか、そういった根本的なよりどころが欠けていることに幼い頃から気付いていた。
秀は身元不明児だ。どういった経緯でそうなったのかはわかっていない。とにかく警察に保護された時点で秀は「自分」についての一切を知らなかった。名前も素性も自分に関する全てを秀は何一つ持っていなかった。
警察は方々手を尽くして調べたものの、結局何もわからないまま、今も世話になっている児童養護施設の施設長が家庭裁判所に申請し、秀は戸籍を得た。名前が与えられ、学校にも通えるようになった。
姓は施設長と同じ、名は施設長が直感で付けたと言っていた。施設長の名前が佐島 秀一郎だということを秀は知っていたが、口には出さなかった。自分の姓と名の一部を分けてくれたことが、その意味を深く理解するよりも先に、ただ嬉しかったのだ。
その頃の秀はまだ言葉を信じていなかった。想いを言葉に変えると作為的な変質を遂げるような気がして、秀は喜びを胸に隠し口を閉ざした。黙り込んだ秀の顔をじっと見ていた施設長は、言葉にしない秀の想いを正しく掴み、「そうか、気に入ったか」と笑っていた。
秀には父という存在の記憶はない。朧気ながら母だろう存在は憶えている。自分を捨てた女がそうであるならば、という不確かなものではあるが。
秀には最初に保護された以前の記憶がほとんどなかった。
物思いに耽っていると、自習室の扉が開く音が聞こえた。扉を開けた人物は走ってでもきたのか、少し弾んだ息遣いが秀の背後に伝わってくる。
ふと、秀は首の後ろに風を感じた。光の粒子が漂っていた。
はっとして慌てて振り返った秀の目に、自習室の入り口に立つあの子が飛び込んできた。
しばらく放心したように見つめ合う。
七年ぶり。正確には三年ぶり。まさか今日だとは。長かった。本当に長かった。様々な思いが秀の脳裡に次々浮かぶ。
彼女は幼かった頃の面影だけを残してずいぶんと大人びていた。ほっそりと伸びた四肢。赤らめた頬。見開いた瞳の輝き。わずかに開いた柔らかそうな唇。肩に届く艶めく黒髪。
その姿は秀が想像していた通りであり想像以上だった。
女の子はこんな風に成長するのか。そんな感嘆が秀の口から音もなく漏れた。
「ここ、わかった?」
静かでいて甘く響く彼女の声。まるで引き寄せられるようにゆっくりと、次第にその速度を上げ、秀は大股で、彼女は小走りになって互いに歩み寄る。間にある何もかもが邪魔だった。
「わかった。風が光った」
腕を伸ばせば届きそうな距離に互いがいた。
胸に込み上がる様々な感情が言葉にならない。会ったら話そうと不安と期待の中で散々考えてきたあらゆることが秀の頭の中からすっぽり抜け落ちていた。口を衝いて出た言葉はただひと言──。
「会いたかった」
「私も。ずっと、ずっと、会いたかった」
秀によりどころがあるとすれば、それは彼女しかいない。幼い頃一緒にいた、彼女だけが秀を秀たらしめる存在だった。
前回はほんの一瞬の邂逅だった。
風が強く光った。バスに乗る彼女。歩道を歩く秀。フラッシュバックのようにその時の情景が思い浮かぶ。秀はバスの窓に張り付く彼女を必死に追いかけた。バスは停まることなく秀をどんどん引き離し、あっという間に見えなくなった。
数年後、偶然この図書館を見つけると同時に風が光った。
慌てて周りを見渡すも彼女らしき姿を捉えることができず、秀は日が暮れるまでその場で目を凝らしながら立ち尽くしていた。ついに警察官に声をかけられたときの絶望は忘れられない。
翌朝思い詰めたように再度図書館に足を運べば、前日と同じように風が光った。同じように辺りを見渡し、同じように日が暮れるまでその場を動かず、やはり同じように警察官に声をかけられた秀は逃げるように施設に戻った。
よくよく考えてみれば、数年前のあの一瞬の邂逅よりも風の光が弱かった。ここで彼女と会えるのは間違いない。ただそれが「今」ではないだけだ。もっと強く風が光るときにまた会える。秀はそう結論付け自分を納得させた。
その時を待って一年以上が過ぎた。
風が光らない日が何日も続いたり、光が弱くなったり、時にそれまでより少しだけ強くなったり。秀はそのたびに一喜一憂し、波立つ感情に翻弄されてきた。
「前は一瞬だったから」
彼女も同じことを考えていたようだ。秀は「うん」と声に出した。
あの頃は感情を表すだけだった彼女の声は、いつの間にか言葉を覚え、秀の耳に大人びて響いた。
「校外学習だったの。もしかしたらってずっと探してて、でもどこにもいなくて、間違えたのかと思って諦めかけたときに、見付けたの」
色づく唇が様々に形を変え、瞳が懸命に想いを伝えてくる。
「そっか」
「うん」
ずっと会っていなかったのにずっと会っていたかのようだった。秀は目眩にも似た錯覚の中にいた。たまらなかった。ずっと焦がれていた。目の前にいる彼女をどうしようもなく求めていた。
彼女の頬に伸ばしかけた指先がその直前で止まる。秀の耳にぱたぱたと階段を駆け上がってくる音が飛び込んできた。静けさの中に割り込む足音。秀が自習室の入り口に目を向けると同時に足音は止まり、一拍後、第二自習室の扉が細く開いた。
「あ、いた。もう行かないと」
ひょいと顔を覗かせた少女は、彼女を見付けると言葉の内容とは裏腹にやけにゆったりとした声を上げた。ついで、怪訝そうな目を秀に向け、軽く会釈する。秀も会釈し返す。
「どうしよう、私ケータイ持ってなくて……」
彼女は焦りを伝えるかのように口調を早めた。秀も経済的な理由で持てずにいる。
「ごめん、俺も持ってない」
秀の指先が力を失い重力に従う。
まただ。また会えなくなる。次にいつ会えるともわからない、永遠にも感じる時間をじりじりと過ごさなければならない。絶望にも似た喪失を抱え、一縷の希望に縋るような日々。それがまた始まる。
「たぶん次はずっと後になると思う」
苦しげに絞り出された声に、この後の喪失の日々を悟らせないよう、秀はわざと平気なふりをして軽く言った。
「いいよ。待つ。どっちにしても二人とも成人しないと無理だ」
彼女も同じことを考えたのだろう、秀の言葉に反論することなく、むしろ泣きそうな顔で頷いた。真っ直ぐに見上げてくる彼女が愛おしくて、唯々愛おしくて仕方がなかった。
「さくら、悪いけどもう……」
遠慮がちに聞こえてきた声に、彼女は一瞬目を伏せた。
「さくら?」
秀の声に彼女は、はっとしたように顔を上げた。その些細な仕草に秀の胸は掻き立てられた。彼女の髪が肩先で揺れた。その瞬間にふわっと香ったのは、懐かしくも甘やかなせつなさをはらむようになった彼女の匂い。
「そう、さくら。桜の花の桜」
「俺はすぐる。秀でるって書いて秀」
頬に触れたかった。抱きしめてしまいたかった。このまま連れ去ってしまいたかった。秀は逆巻く衝動を懸命に抑えた。
「桜」
秀の声が甘く響いた。こんな声が出るのかと秀自身驚いた。
桜の目がみるみる潤んでいく。
ほんの一瞬、桜の細い指が秀の指に絡んだ。刹那の熱を伝えて彼女は走り去った。
しばらくその場で桜の残像を追い続けた秀は自ずと唸っていた。指先に残るのは空気に触れればあっという間に溶けてしまいそうなかすかな熱だけ。どこにも逃がさないよう指先を握り込んだ拳が近くの長机を打った。自分の立場が、年齢が、どうしようもなく邪魔だった。