硲153番地
風が光るとき二十六回目 夏至
大きな神社と大きな寺の間、その境界がどこにあるのかもわからないほど鬱蒼とした木立の中に、一軒の民家がある。
寺社が隣り合うことを嫌ったのか、その狭間にある悠々とした杜は、途絶えることのない喧噪から隔離するように、その奥にある平屋建ての日本家屋をその蔭に隠していた。
佐島 秀が初めてそこを訪れたのは、大学のボランティアサークルのOBとしてだった。
社会人四年目。日増しに募る言い知れない焦りと苛立ちの中、たまたま後輩から届いた知らせに、少しは気晴らしになるかと参加することにしたのだ。
地図アプリの表示が曖昧で目的地がはっきりせず、二十名近い若者が歩道を右往左往する中、秀はふと樹蔭に紛れた一筋の小径を見付けた。それはまるで太古から存在する粛然とした獣道のようだった。
こんなところに家があるのか。ざわめきながら蔭に入るサークルメンバーに発見者である秀も続いた。
木漏れ日が躍る小径に足を踏み入れると、むせ返るような濃い緑の匂いが立ち込めていた。針葉樹と広葉樹が程よくブレンドされ、苔むした大地は涼やかだった。
樹冠が作り出す暗がりに目が慣れたとき、不意に小径の先から一陣の風が通り抜けていった。ざざざ……と水音にも似た葉擦れが引き潮のように遠退く。
秀は突如、静寂の波にのまれた。
風が、光った。
「シュウさん? 大丈夫ですか?」
不意を衝かれた声に、秀はびくりと我に返る。すでに光は消えていた。にもかかわらず、光の気配は色濃く残っている。それは初めての感覚だった。
「すみません、今日は無理言っちゃって」
「いや、俺も気分転換になるから。声かけてもらえてよかったよ」
秀に連絡をくれたのはこの後輩だ。人当たりのいいこの男は、するりと相手の懐に入るのがうまい。どちらかといえば軽い人付き合いを苦手とし、ともすれば真意がわからないと評される秀にすら、こうして気負いなく話しかけてくる。
「実は、シュウさんを紹介してくれって子がいて……」
そのせいか、この手の話も彼のところに舞い込みやすい。
まだ六月だというのにすでに真夏を思わせる気温にもかかわらず、鬱蒼とした木立は日射しも気温も遮り、その蔭に涼をもたらす。天然のエアコンとはよく言ったものだ。
「悪いけど断ってもらえるかな」
「やっぱりかぁ。一度会ってみるだけでも?」
「いや、会ったところで断ることに変わりないから」
「結構いい子ですよ。可愛い感じの。今日も来てるんですけど……」
前方に視線を彷徨わせながらたたみかける後輩に、秀は苦笑いで応えた。口を開きかけた後輩は、秀の意思を正しく掴み、諦めたように笑って口を噤んだ。引き際がいいのもこの男の長所だ。
「遠距離の彼女がいるって噂、やっぱ本当なんですか」
彼女──秀にとってこの関係を言葉にするのは難しい。もう途切れてしまったのではないかと苛まれていた。特にこの二年間は苛立ちと焦燥の中にいた。それがどうだ、あとは待つだけとわかり、どこかすっきりしている。吹き渡る光に清められでもしたのか、それまで募るばかりだった苛立ちがはらはらと剥がれ落ちていった。
「自分でも不思議なんだよ。彼女以外に興味はないんだ」
木立を見上げ、ちらちらと揺れる木漏れ日に目を眇めながら秀は呟く。普段そんなことを口にする質ではないせいか、物の序でのように軽く尋ねた男は一瞬驚いたように足を止めた。
森林浴という言葉を連想させる木漏れ日の中、誰もが言葉少なに呼吸を深めゆったりと歩く。やんわりとくねる獣道は一体どこまで続くのか。そんな微かな不安が頭をもたげようとする頃合いで、突然刺すような眩しさに襲われた。
いきなり開けた視界の先には光を跳ね返す白い玉砂利。点々と続く飛び石の先には格式高い旅館のような立派な建物が静かに佇んでいた。
笑顔で一行を出迎えてくれたのは高齢の女性。独り暮らしのため庭の手入れがままならないことから依頼してきたらしい。作業は主に梅雨入り前になんとかしておきたい雑草の処理だった。見れば確かに所々玉砂利の間に緑が映る。
なんとも不思議な雰囲気の老婦人だった。今時「婆」などと言えば失礼に当たりそうなものだが、彼女はまさに絵に描いたようなお婆さんだった。
実際にはそこまで背は低くないものの「ちんまり」という言葉が似合いの雰囲気、白と灰の髪を後頭部で小さく丸め、どこに売っているのかと瞠目した紺のもんぺを穿いている。それなのにその上に着ているのは外国人観光客が喜びそうな黒地に金で「侍」と江戸文字で書かれたTシャツなのだ。首には豆絞りの手ぬぐいが巻かれ、足元はかなり熟れた黒のエンジニアブーツ。どう捉えていいのか頭を悩ます出で立ちなのに、それが妙にしっくり馴染んでいるのが不思議でならない。
にこにことシワを深めて笑いながらしゃきっと伸びた背で作業を手伝う、好々爺ならぬ好々婆だった。
ある種の諦めにも似た心地で秀が再びその地を訪れたのは、サークル活動で草刈りをした一週間後、ちょうど天文学上の春の終わりでもある夏至のことだった。
秀は必死に頼み込む心積もりでその地に足を踏み入れた。
草刈りの翌日から週半ばまで降り続いた雨は、その後数日ぐずついたものの、土曜日の今朝は久しぶりに青空を見せた。
夏木立の中、さらりと頬を撫でる風が光る。
なんとしてもこの地に住みたい。できれば下宿させてほしい。それが無理なら、せめてしばらく庭の隅にでも置いてほしい。無理な頼みであることは百も承知だった。
「ごめんくださーい」
インターホンが見当たらず、秀は声を張り上げた。あまり強く叩けば壊れてしまいそうな、およそ防犯には役立たないであろう磨りガラスを挟んだ繊細な縦格子の引き戸を軽くノックする。古めかしい木の表札には黒々とした墨で「境井」と書かれていた。
しばらくすると磨りガラスの向こうに小さな人影が映り、がらがらと騒がしい音を立てて目の前の格子戸がスライドした。
「家賃は米でいいよ」
いきなりの核心に愕然とする秀を、老婦人はシワに埋もれた小さな目で真っ直ぐに見上げてきた。
「時々はドライブもいいね」
この老婦人の口にはドライブという言葉が似合わない。なにより、先日とは違いきっちりした和服姿にも秀は驚いた。緑がかったグレーの着物は、背を真っ直ぐ伸ばして立つ彼女によく似合っている。
「挨拶に行くよ」
ぱりっと言った老婦人は秀の脇をすり抜け、すたすたと歩き出した。呆気にとられたまま秀は境井家の玄関先でそれを見送る。
「何してるんだい。早くおし」
振り向くこともなくぴしゃりと聞こえた彼女の声に、秀は慌てて開け放たれたままの玄関の引き戸を閉め、大股で彼女に追いつき、その後に続いた。
「あの、私……」
「まだ」
名乗ろうとした途端遮られ、秀は何がなんだかわからないまま、ひとまず百合が描かれた帯を見ながら口を噤んで従った。
境井家の敷地を黙々と歩く。彼女は小柄なわりに足が速い。着物姿に草履は歩きづらいだろうに、裾を乱すことなく小股で楚々と進む。
鬱蒼とした木立を抜けると車が行き交う都道に出る。それまでの静けさが遠退き、耳に飛び込んできた喧噪に秀は眉をしかめた。四車線の車道と縁石を挟んで設けられた歩道を二三歩進むと、不意に前を歩く老婦人が足を止め、くるりと振り向いた。
「シュウ、だね」
確信めいた声に秀は一瞬驚き、ボランティアで来たときに周りに何度かそう呼ばれていたことを思い出した。大抵の人は呼びやすさからか「すぐる」ではなく「シュウ」と呼ぶ。二十人以上で訪れ、家主とは直接言葉を交わしたわけでもないのによく憶えていたものだと感心する。
「正しくはすぐるです。佐島 秀。佐島のとうは藤ではなく島で、すぐるは秀でると書きます」
秀は自分の名を人に説明するのがあまり好きではなかった。この名を誇りに思うがゆえに、未だ自分はそれに見合っていないようで気後れする。なにより、自身を秀でた人間だなどとは思ってもいないのに、秀でる、と説明しなければならない滑稽さといったらない。ほかに説明のしようもないのだから仕方がないのだと、自己紹介するたびに自分に言い聞かせていた。どう説明しようとも気が引けるたとえしか出ないのだ、この秀という字は。
「境井 タエです」
タエが丁寧に頭を下げた。改めて秀も「佐島 秀です」と頭を下げる。
「ルールその一、ここではシュウで通すこと。本当をひとつ、隠しておくこと」
その意味が呑み込めずに聞き返そうとして、見上げてくるタエの真剣な目に言葉を呑み込んだ。そういうことなのだろう。よくはわからないが、ここではそういうことなのだ、と秀は承知した。
口には出さずともそれは間違っていなかったのか、タエは真顔で小さく頷き、くるりと秀に背を向け再び楚々と歩を進めた。
両隣の寺社の住職と宮司に、タエは「今日から一緒に住むことになった孫のシュウ」と言葉少なに偽りを混ぜ、秀をそれぞれに紹介した。確かに他人と暮らすと言うよりは、孫と暮らすと言った方が面倒はなさそうだが、神や仏に仕える者に堂々と嘘を吐くなど大胆極まりない。おまけに秀はこれまで誰かに身内だと紹介されたことがなく、タエの隣で照れと恥ずかしさと罪悪感を綯い交ぜにしながら、「よろしくお願いします」と頭を下げた。
それぞれから茶でも飲んでいけとの誘いをあっさり断ったタエは、境井家に戻り、がたがたと騒がしく玄関の格子戸を開け、「どうぞ」と秀を家の中に招き入れた。
広々とした玄関は八畳ほどの黒い石張りで、その左手には、襖が開け放たれた和室が二間続いていた。畳を数えれば一間十二畳もある。表側に草刈りの合間に麦茶をごちそうになった広縁を持ち、その反対側は薄いグレーの襖で仕切られていた。
襖に描かれているのは一枚ずつ月齢が違う月。朔から満月にかけて膨らんでいく月が同じように季節の花が移りゆく野原の上に浮かんでいる。おそらく続き間の方には満月から朔にかけて萎んでいく月が描かれているのだろう。野に吹き渡る風まで感じるような、そんな見事な襖絵だった。
「ルールその二」
ぴりっとした声に襖に魅入っていた秀は意識と視線をタエに向ける。
「客はここまで。あの奥にはトイレも風呂もある。滞在は一泊まで。それ以上は一度外にかえすこと」
これまたそういうこととして秀は「わかりました」と返した。外にかえす、という言い方が気になったものの、彼女なりの表現にひとつだろうと聞き流した。
次にタエは、玄関正面にある重そうな一枚板の両開き戸に向かった。その脇に取り付けられている小扉を開け、そこに手のひらをかざす。ピッという電子音に続いて、一枚板が中央で割れ左右に滑るように動いた。
「自動ドア?」
「ハイカラじゃろ」
驚く秀にタエはにやりと笑ってみせた。まさかの静脈認証に自動ドアである。見かけは昔ながらの日本家屋なのに、その中身は最新マンション並みのセキュリティだ。それをハイカラのひと言で片付けていいものか、秀は理解に苦しんだ。
「ほれ、登録するから手を貸せ」
言われるがままに小扉の中に右手をかざす。ピピッと電子音が鳴り、登録完了の文字がディスプレイに浮かんだ。
「ルールその三。家に入るときはただいま、家を出るときはいってきます、必ず声をかけること」
そう言うとタエは、「ただいま」と扉の先の空間に向かって声をかけながら敷居を跨いだ。秀もそれに倣い、「ただいま」と声をかけ敷居を跨ぐ。
内玄関の幅は四メートルほどだろうか。奥行きも同じく四メートルほどの真四角の空間だ。黒御影が鈍く光を跳ね返す。上がり框の先も同じ幅の廊下がずっと奥まで続いている。その突き当たりは壁一面の窓。裏庭の緑が光の中で揺れている。天井は高く三メートルほどか。廊下と言うよりはホールだ。磨き上げられ床と腰壁、板チョコのような扉はダークブラウン。等間隔に並ぶ柱と梁も同じ焦げ茶、その間を埋める壁や天井は漆喰の白。落ち着いた雰囲気にモダンと由緒が程よく交じり合っていた。
玄関に突っ立ったまま秀はまたもや魅入っていた。焦がれて止まない静けさがそこには確かに存在していた。
「いい家だろ」
「ええ、本当に」
秀の感嘆混じりの声に、タエは満足そうに一度頷いた。
秀は今、自分がここに住むことは始めから決まっていたのではないかという、思い込みのような幻想の中にいた。ここに再度足を運ぶまで散々思い悩んだのが馬鹿馬鹿しくなるほど、その幻想は確かなものだった。
「よろしくお願いします」
口を衝いて出た言葉に、秀は自然と腰を折り、タエと家に挨拶をする。全ては始めから決まっていたことなのだ。顔を上げたときに見たタエの深沈たる表情が何よりも雄弁にそれを物語っているようで、秀は幻想を確信に切り替えた。