硲153番地
風が光るとき二十六回目 夏闌①
薄闇の中にいた。
秀の意識はこれが特別な夢であることを知っている。
闇に満ちる微かな音。葉擦れか、潮騒か、あるいは血潮か。
闇に漂う微かな香気。懐かしく、甘く、あどけない。
光の粒が明滅する。
それは蛍のようであり、星のようにも、漁り火のようにも、鬼火のようにも見え、瞳の中に見える意思のようでもあった。
風が光ったんだ。
夢の中での秀の声はいつも決まって幼かった。あの頃は言葉なんて必要なかった。想いがダイレクトに伝わった。
待ってるから。
言葉はいつも一方通行だ。それでも秀は、確かに相手に届いていることを知っている。言葉と思考が直結した今、言葉を操れば操るほど、想いが真っ直ぐに伝わらなくなっていく歯痒さを知った。
あの光。風が光るときと同じ光。
濃く深くそれでいて柔らかに温いこの闇は、あの子へと繋がっている。言葉を操りすぎてもう微かにしか想いを伝えられない。
様々な想いが渦巻く中、秀から発せられるのはいつも、光る風のこと、待っていること、このふたつだけ。それ以上はもう伝えられない。
闇が沁み込んでくる。一番強い想いが融け出していく。同じ想いが沁み込んでくる。
砂粒のようにも星屑のようにも見える光が呼吸するように瞬いた。
「おはよう」
寝起きの挨拶はまず家に。
深く息を吸いながらぐうっと伸びをして、深く息を吐きながら伸ばした躰から力を抜いていく。秀の一日はそうして始まる。
あの頃、目覚めるとすぐそこにあの子がいた。
決まって目覚めは秀の方が早く、そっと伸ばした指先で滑らかな頬を撫でるのが今思えば朝の挨拶だった。それを待っていたかのようにあの子の目が開く。いつかぱちんと音がするのではないかと、秀は頬に触れるたびに耳を澄ませていた。目覚めたあの子は決まって頬を撫でる秀の手を小さな力で精一杯掴んで、ぎゅうっと胸元に抱き込むのだ。宝物のように、命綱のように、秀の存在を確かめるように。
久しぶりにあの子に繋がる夢を見たせいか、いつもより記憶が鮮明に浮かんだ。感触、匂い、温度、色。
不意に頭に浮かぶ幼いあの子がぐっと成長し、彼女の姿へと変貌する。その途端、何かが溢れてしまいそうで、秀は慌てて布団から抜け出た。
成長した彼女と会って、秀はそこで初めて世界には色があったことを思い出した。彼女の存在は秀の世界を一瞬にして色付け、彼女のいない世界はまたゆっくりと色褪せていった。
当時のメランコリーな感傷まで思い出した秀は、顔を洗いながら薄く笑った。
秀がタエから与えられた部屋は、床の間に付書院、床柱や床脇のある十二畳の広い和室に八畳の寝室が続き、そこには一間分の押し入れに同じ幅のクローゼットが用意され、さらには風呂と脱衣所兼洗面所、トイレが設えられている旅館の一室かと思うような立派なものだった。
これと同じ造りの部屋がもうひとつあり、ともに床の間には対にも思える鮎の掛け軸が下がっていた。どちらがいいかを訊かれ、秀が答えるより先にタエが玄関に近い方の部屋に決めてしまった。秀に異存はない。
あの自動ドアの玄関を背に、だだ広い中央廊下の左手に秀の部屋、小さな坪庭を挟んでその奥に同じ造りのもう一室、右手には納戸や台所、食堂に居間が続き、やはり小さな坪庭を挟んだ奥にタエの部屋がある。
元は旅館か民宿だったのか。
訝しむ秀に、タエは三年前にこのようにリフォームしたのだと説明し、秀の疑問は一層深まった。秀は「なぜ」を訊いてもいいものか悩み、問い掛け自体がなんとなく憚られ、そのうちわかるだろうとひとまず棚上げした。
布団を上げて朝の支度を始める。
夏の盛りだというのに、燦々と朝日が射し込む時間でもまだ冷房は要らない。社員寮にいる頃など、この時期は一晩中冷房を付けていなければ眠れないほどだった。日が暮れる前にタエが畑の水やりついでに打ち水をしている。それだけで涼がとれるのだ。
ここに住むようになってからというもの、秀は目覚めの清々しさに驚いている。
寝起きはよくない方だった。爽快な目覚めなど年に数回あればいい方で、大抵の目覚めは呻きを伴った。それがどうだ。ここで暮らすようになってからというもの、常に目覚めは爽快だ。アラームが鳴る前にぱちんとスイッチが入るように目が覚める。おまけに、寝付きもよくなり毎夜ぐっすり眠れる。
この家、なのだろう。この静けさ。
高校卒業までは施設にいた。大学入学と同時に学生寮に入った。入社後は社員寮。施設ではもちろん一人部屋など与えられるわけもなく、学生寮に入る際、初めての個室に期待が高まった。だが、狭いワンルームの壁は薄く、両隣の生活音がそのまま伝わってる安普請は、秀の期待をぱきんと潔く折った。社員寮も同じようなものだった。学生寮よりは厚くなった壁も、幹線道路沿いに建つせいで静けさとは程遠かった。
この家に静けさはまさに秀の理想とするものだった。
風が揺らす葉擦れの音、鳥や虫の鳴く声、タエがたてるささやかな音。ときに暴力的な風雨までもが、静寂の中にあった。早朝にもかかわらず、すでに爆音となっている蝉時雨の中にあってさえも。
静寂とは耳で感じるものではなく膚で感じるものだ、と秀は思う。
「おはようございます」
「おはようさん」
タエの「おはようさん」に秀は温度を感じる。毎朝楽しげでいて軽やかに弾んでいる。
朝食は一緒に。
これがルール四だった。もちろん「可能な限り」という前置きがつく。基本的にタエは常に家におり、人事総務部に籍を置く秀に泊まり掛けの出張や外泊の予定もない。必然的に毎朝同じ食卓に着くことになる。
何より、タエの料理は旨かった。朝食だけでなく、頼めば弁当も夕食も用意してくれる。野菜は裏の畑で採れた旬のもの、魚や肉は週末に秀が車を出し、ドライブがてら買い物に行く。家賃代わりの食材は秀持ちだ。家賃が浮いた分を思えば、多少の贅沢をしてもおつりが来る。
家主とはいえ、赤の他人と毎朝朝食を取ることに気負わないわけではなかったが、不思議と秀とタエのリズムは似ていた。同じ空間にいて苦にならないのだ。
年の功というものなのか。秀はタエが多少なりとも自分に合わせてくれていることを知っている。相手に気を遣わせない、それでいてちゃんと気を配っていることをさり気なく伝えてくる術は、まさに年の功といった感があった。
これまでそんなふうにさり気なく気を配られたことのなかった秀にとって、それは純粋に嬉しいものだった。
「なんだ、休日出勤か」
スーツ姿の秀を見たタエが眉根を寄せた。眉間に刻まれた皺がお気の毒様と言っている。
「ええ。午前中だけ。当番なんです。すっかり忘れてました」
秀は食品メーカーの本社に勤務している。本社は基本的に土日休みだが、工場の方は土日も稼働している。そのため、週末は交代で待機当番が廻ってくる。目覚めより遅れて鳴り出したアラームに忘れていた予定を知らされた。
「昼はどうする」
「帰りは……二時を過ぎそうです」
言いながら秀はダイニングに掛かる振り子時計を目にした。骨董品のような柱時計は、毎朝タエが椅子の上に立ちゼンマイを巻いている。どうやらクセがあるらしく、タエ以外には扱えない代物らしい。
「そうめんでいいか?」
「自分で茹でますよ」
タエのそうめんは豪華だ。夏野菜や様々な薬味がこれでもかと並ぶ。
「あ、あのオクラ刻んだの、あれ食べたいです」
タエがにやりと笑う。タエの作る野菜も旨い。
秀がタエと暮らし始めてひと月半、最近ではこうして甘えたことも言えるようになってきた。タエが目に見えて喜ぶのだ。
この家の裏には家庭菜園というには本格的な畑がある。そこでタエは様々な野菜を作っている。スーパーにはあらゆる食材が通年出回り、旬が曖昧なものになっている昨今、休みのたびにタエの畑を手伝うことで、秀は生まれて初めて旬というものを実感した。
不意にタエがじっと秀を見つめた。
時々タエは観察するような目で秀を見ることがある。そしてなにやら一人得心してふっとその目を和らげるのだ。秀はそれに気付かないふりをしている。それもまたタエに気付かれ、タエも気付かないふりをしている。気付かないふりの応酬。この暗黙の了解というのがまた秀にはどうにもくすぐったく、悪くないと思ってしまうのだ。
「梅汁持って行くか?」
「いただきます」
タエは液体全般を汁と言う。ジュースとは頑なに言わない。その子供っぽいこだわりが面白かった。
タエは和食全般、和菓子全般を自作するが、洋食や洋菓子はとんと作れない。秀が見よう見まねでタエのトマトを使いピザを焼いたときは、旨い旨いと大皿にのった一枚をぺろりと食べきってしまった。時々会社帰りに洋菓子を差し入れると、タエは両手で受け取り、少女のように頬を上気させ「ありがとさん」とその全てに喜色を溢れさせるのだ。祖母とはこういうものかと、秀は勝手に想像する。
「どうだ、新生活は」
「快適すぎて時々夢かと思うよ」
どこかからかい混じりの長内 巧の声に秀はさらっと答え、巧の目に興味の光を灯した。
「静かなのか」
「静かだね」
へーえ、と声を上げながら、巧は結露にまみれたジョッキを呷った。目の前で喉仏が規則正しく上下するのを見た秀もジョッキを持ち上げる。
週末のビアガーデンはうんざりするほど混んでいた。三十分ほど待ち、ただ立っているだけで汗が滲んだ躰に冷えたビールが染み渡る。
巧は秀と同じ施設にいた。巧は自らの親によって施設に入所させられた、いわゆる問題児だった。
児童養護施設に入所している児童の多くは、親の都合による遺棄児や育児放棄児がほとんどだ。事故等で身内を失った孤児は少ない。中には子供自身に問題があり、それが原因で親が育てられない例もある。巧は彼自身の素行不良によって施設に連れて来られた子供だった。
悪ガキの範疇を通り越した、犯罪者に変容する一歩手前の蛹だった巧は、なぜか秀を気に入り、蛹から幼虫へと退化した。退化したものの、すでにある種の狡賢さを身に付けていた巧は、秀以外の前では蛹の振りをし、施設に居座った。施設長は知っていたのだろう。巧の退所に際し、そう取れなくもない本音を漏らしていた。施設は常に資金難であり、人手不足だった。
お前まだそんなドリルやってんのかよ。
ひとつ年上の巧に話しかけられた最初がそれだ。それに対し、秀はどんな感情も見せず淡々と答えたのだと後に巧が語った。
綺麗に書けた方が色々都合がいい。
都合がいいってどういうことだよ。それ、ひらがな覚えるためじゃないのかよ。
それだけでよく見せられる。
よくってなんだよ。
賢そうとか真面目そうとか、信用できそうとか。
その瞬間なのだと、巧は後になって秀に言った。「信用できそう」という秀の潜められた言葉に、巧は闇を見たのだと思春期特有の大袈裟で切羽詰まった言い方をした。
巧は周りに隠れて秀と同じドリルをやり込んだ。次第に乱れた文字が整っていくにつれ、秀の問題集にも手を伸ばし、地を這っていた学力が一気に跳ね上がった。
大学進学を見据えた巧は、施設長に相談し、施設長から彼の親に知らせはいったがそれについての返答はなく、代わりに彼の母親の死が知らされた。すでに巧の存在は彼らの中からはみ出し、巧自身も精神的に自立していたため、ずいぶんと過去になっていた母親の死に彼自身はなんの感傷も持てないことを逆に悩んでいた。奨学金を頼るにも巧の実家は裕福すぎて申し込みすらできなかった。
学資ローンを検討し始めた巧に、秀は自らに支払われている慰謝料を渡すことにした。元々施設の資金として施設長に預けたものの、施設長はどんなに苦しくとも頑なに使わず、無意味に数字を増やしていくだけの、秀自身は絶対に手を付けたくない金だった。
軽く事情を説明すると、巧は秀に借用書を提出し、就職後僅か三年で全額返済してみせた。
「いまどき下宿ってのも面白いよな」
巧の声に秀の意識が引き戻される。
「あの家、元々そういう造りになってるんだよ。三年ほど前にリフォームしたらしい」
「元々下宿屋だったってことか」
巧は口元に寄せた枝豆の鞘から一粒一粒口内に飛ばしている。
「そういうわけでもなさそうなんだよね。俺の入った部屋はそれまで使われた形跡はないし、もうひとつある部屋も空いたままになってる」
「しかも家賃は米でいいって、面白すぎる。俺もこっちに戻ったら住まわせてもらおうかな」
巧は一昨年から五年間の関西支店勤務を命じられ、今は大阪に居る。今週は東京本社に用があって戻って来ていた。
「さすがに米だけじゃ悪いから、色々差し入れてるよ」
「それだってシュウも食うんだろう」
まあね、と言いながら秀は運ばれてきた唐揚げを頬張った。以前バイトしていた居酒屋で付け合わせの再利用を目の当たりにした巧は付け合わせのレモンを嫌う。そのうち秀も付け合わせを飾りとしか思わなくなった。口にした唐揚げは口内に肉汁とは違う不快な油っぽさを広げていく。同じく唐揚げを口にした巧の眉間に皺が寄った。見た目が旨そうだっただけに裏切られたときの苛立ちは軽くない。秀はタエが作る唐揚げを恋しく思った。
「しかも旨いときた」
巧が知ったような口を利く。自分はそんなことまでこの男に知らせていたのかと、秀は軽く自嘲した。
「外食する気にならなくなったよ。この唐揚げの値段を出せば、高級地鶏が買える」
先日など、タエの敷地を跋扈するキジを捕まえてタエ自ら絞め、キジ料理を振る舞ってくれた。
「それが旨いのなんのって」
「なんだよ、キジまでいるのか」
目を丸くする巧に、秀は自分の姿を見るようだった。
「いるんだよ。どうも代々住み着いているらしい」
時折聞こえてくるガ行を全て混ぜたような錆びた鳴き声の主がキジだと聞いて驚いたばかりだ。その翌日にはキジ料理が並び、秀は驚きを通り越して信じられなかった。どうやって捕まえたのかを訊けば、昔話に出てくるような単純な罠らしい。
ほかにもタヌキだのテンだの、両隣の社叢と合わせて山に住むような野生動物が大人しく暮らしているらしく、畑を荒らさない限りタエも知らん顔している。先日の若キジは植えたばかりの野菜苗を片っ端から啄んだとしてタエの逆鱗に触れたのだ。
「すげーばあちゃんだな。東京も捨てたもんじゃないな」
互いにジョッキの残りを飲み干し、通りかかった店員に追加を頼む。
「再来年、戻って来れそうなのか?」
「おう、もしかしたら早まるかも。確実に一年は早まる。それで今週こっちに来たんだ」
運ばれてきたジョッキを音を立てて合わせる。
「俺もタエさんちに下宿しようかな」
「今蝉がすごいよ」
しれっとした秀の声に巧の頬が引き攣った。背も高く筋肉質、男らしい精悍な面構えに物怖じしない巧の唯一の弱点が蝉だ。
途端に肩を落とした巧は仕返しのように秀に言った。
「で、その後進展はあったか」