硲153番地
メリーゴーラウンド源三
「タエ…ちゃん…?」
言葉を失った源三の視界の端で、タエが面白いものを見たとばかりに、にいっと口角を上げた。
「なんだい、源ちゃん。久しぶりだね」
薄雲に和らいだ日射しの中、草むしりのためにしゃがみ込んでいたタエは危なげなく腰を上げた。隣で同じようにしゃがんでいた若い女性は「おっとと」と危うくひっくり返りそうになったところをタエに支えられ、「足が痺れました」と情けなく眉を下げている。
二人を見比べた源三は愕然とした。
桜と紹介された秀の妻は、見れば見るほどタエの若かりし頃にそっくりだった。
先週とある議員の不祥事が発覚したせいで国会審議がストップしている。そのおかげと言っていいのか、国会議員である源三の孫は会期中にもかかわらず数ヶ月ぶりの休日を得た。
その義直に誘われ、源三は久々に硲の地に足を踏み入れた。ようやくそんな気になったのだ。
懐かしい木漏れ日に樹木と土の匂い。太古に続く深閑の杜。一瞬にして子供の頃に戻ったような、不思議な気力が湧いてくる。背がしゃんと伸び、足が力強く上がり、踏みしめる大地を躰全体で感じる。源三は深々と息を吸い込んだ。内臓まで瑞々しさが行き渡り、どこもかしこも若返るようだった。
「タエちゃん、あの娘は……」
「似てるだろ」
「似てるなんでもんじゃない、うっかりタエちゃんが若返ったのかと思ったよ。あの娘はまさか……」
「わからないんだよ。最後までどこの誰に預けたかは教えてもらえなかったからね。男だったかも女だったかもあの人は教えてくれなかった」
源三がちらりと盗み見たタエの面には何も浮かんでいなかった。春の日射しと同じく麗らかな目元を見る限り、タエに不満は見えない。
「年の頃からすると、孫か」
「そうかもしれないし、他人の空似かもしれない」
タエの声はどこか他人事のように宙を漂った。
「なんだ、タエちゃんは知りたくないのかい」
縁側に並んで座るタエと源三の視線は、砂利の合間に顔を出した雑草を抜く桜に注がれている。桜の他に彼女と同じ年頃の菜乃佳と、さらに夏生という少女が一塊にしゃがみ込んで、何くれとおしゃべりしながら雑草と格闘している。先日少女の母親の葬儀があったそうで、義直がしきりに心配していた。その義直は、秀と巧の二人と一緒に庭木というには茂りすぎている樹木の剪定を行っている。
「あの人が最後まで知らせなかったんだ、いまさら知ろうとは思わないよ」
ふと源三の脳裡に境井氏の横顔が過ぎる。源三が知るかの人はいつも横を向いていた。そんじょそこらの俳優など足元にも及ばないほど、その全てが美しい男だった。
源三がタエとの出会いは、小学校の時分に遡る。
ある日突然硲の地に現れた息を呑むほど美しい少女は、その場にいた小僧どもを一瞬にして虜にした。しかし美少女たるタエはその見た目に反してかなりのおてんばでもあった。あっという間にこの地に馴染み、源三たちと一緒にそこら中をすばしっこく駆け回り、子供らしい悪さをしては大人たちに叱られ、大人たちの目を盗んではまた悪さを繰り返し、とにかく毎日毎日飽きることなく駆け回っていた。
あの頃はまだ、S区には田畑が多く長閑な景色が広がっていた。源三たちはS区全域を縄張りとし、小学校の一年から六年までの子供が一緒くたになってそこら中を自分の足で駆け回り、自然を相手に遊んでいた。
タエが一回りも年の離れた境井氏の嫁として貰われてきたことは周知の事実だった。タエ自身もそれを承知し、幼いながらも懸命に硲の嫁としての様々な習いを遊びの合間に身に付けていった。
タエの一番の親友はのちに源三の妻となる奈々子で、はしっこいタエとは違い、のんびりした奈々子は足も遅く、いつも必死になってみんなを追いかけていた。先頭を走るタエは時折足を止めて、仲間がじれて先に行くのも構わず、声援を送りながら根気よく奈々子を待っていたものだ。
真逆の性格だったタエと奈々子がどうして仲良くなったのかを源三は知らない。二人の秘密なのだと、奈々子は楽しそうに笑うばかりで最後まで教えてくれなかった。
「タエちゃんは奈々子とどうして友達になったんだい」
「そりゃあ源ちゃん、私と奈々ちゃんの秘密だよ。たとえ源ちゃんでも教えられないね」
「奈々子もそうやってはぐらかしたよ」
「だろうね、女同士の秘密だもの」
ふひひ、と子供の頃と同じ笑い方をするタエは、どれだけ年を重ねようとも、あの頃のままだった。仲間だけが知る笑い方。タエは境井氏の前では常にフランス人形のように可憐にすましており、時折氏にからかわれては恥じらいを見せていたものだ。
その境井氏が呆気なく逝き、奈々子も後に続くように逝き、仲間たちも一人二人と逝ってしまい、ついにはタエと源三だけが残ってしまった。
「お互い逝きそびれたもんだなあ」
「そう言うほどの年でもないだろうに。そんなこと言うってことは、源ちゃん年取ったね。いやだ、よく見ればただの爺だ」
「タエちゃんだってただの婆だろうよ」
源三がむっつり言い返す。
「私はまだまだ生きるよ。もしかしたら、ここで子供が生まれるかもしれないんだ。おちおちおっ死んじゃいられないよ」
源三が目を剥いた。
「まさか……」
「そのまさかだよ。源ちゃん、死んでる場合じゃないだろ?」
「ないな。ないない。そうか、そうか」
感極まった源三に、タエは再び、ふひひ、と笑う。
「源ちゃんってば、まるで自分のことのように嬉しそうだね」
「タエちゃんの苦労を知ってるからね。あの頃の奈々子はいつだってタエちゃんのことばかり心配してた。自分だって周りから散々なことを言われていただろうに」
タエも奈々子もなかなか子宝に恵まれなかった。
「代わりに私が奈々ちゃんを心配してたからね。あんな暴挙に出られたのは、奈々ちゃんの後押しがあったからだよ。あの人がそれを許してくれたのも、奈々ちゃんの涙の説得があってのこと」
「泣いたのかい? 奈々子が?」
「あれ、源ちゃんには内緒だったかね」
源三は奈々子が涙を落としているのを終ぞ目にしなかった。柔らかな見た目同様、涙ぐむことは多々あっても、奈々子は決して人前では泣かない気丈な女性だった。一見気丈に見えるタエの方が人目も憚らずわんわん大泣きしていたのを覚えている。
「なんだか悔しいような気になるのは気のせいか……」
「やだね、いい年してやきもちだよ」
「奈々子がねえ」
ふくふくと笑う奈々子が源三の脳裡に鮮烈に浮かんだ。もうはっきりと思い出せるのは写真に残った姿ばかりで、源三だけが知る奈々子の面影は歳月とともにゆっくりと薄らいでいった。それでいて時折こんなふうに明瞭に蘇るのだ。源三は愛し、奈々子は嫌った目尻の笑い皺までくっきりと。
「源ちゃん、一度奈々ちゃんの孫に会いたいね」
「義……じゃなくて奈緒美の方か」
不意に離れた場所で義直らとともに樹木を見上げていた巧が振り返った。
「奈々ちゃんが入っているいい名だね」
巧に視線を送りながらタエがしみじみ言う。
「タエさん、この枝どうします?」
巧が張り出した枝をわさわさ揺する。
「好きにしていいよ。コウの好きにしていい」
離れた位置にいる巧が息を呑み目を見開いたのが源三にもわかった。
「タエちゃん、どういう意味だ?」
「意味なんかないよ。意味を見付けるのはいつだって相手の方だ」
タエは時々不思議なことを言う娘だった。その言葉は受け取る者にしか意味を成さない。タエの言葉を受け取り、よくよくその意味を考える者は様々な意味で豊かになった。決して富みすぎることなく、心穏やかに、豊かな生き方ができる。
この硲の地は昔から知る人ぞ知る土地だった。言葉通り、知ることができる者と決して知ることのできない者が存在する。知ることができる者は大震災のときも戦時中もこの杜に逃げ込み、誰一人欠くことなく生き延びている。源三は終戦直前に生まれている。硲を知る仲間たちも皆、この杜に守られ、生き延びた子供たちだ。
源三が聞いたところによると、境井氏もどこかから貰われてきた子供だった。境井氏を育てた人も、どこかから流れてきたのだと聞いている。この硲の家で生まれた人間がいたとは終ぞ聞かない。
「あの人があの二人を巡り合わせたのかねえ」
タエの視線はシュウと桜を行き来した。
「シュウくんたちはタエちゃんたちと違うのかい」
「違うんだよ。最初から違うんだよ。あんなことができるなんて、きっと誰も知らなかった。私だって子供の頃にあの人から同じようにされていたら、もしかしたら……」
タエの眼差しに遣る瀬ない懐古が過ぎった。
タエは結局、この家では子供を授からなかった。この家だから駄目なのだとタエは主張し、奈々子と一緒に境井氏を説得し、かの人をこの家から連れ出して試みた。タエは境井氏の子を身籠もり、そして男かも女かも知らされることのない子を産んだ。
タエは境井氏との子を純粋に願っただけだった。
境井氏は硲の人間として、せざるを得ないことをしただけだった。
この家で身籠もった子供でなければ、硲では暮らせない。
当初は奈々子が二人の子供を育てることになっていた。実際に源三は幾度も相談され、了承もしていた。
ところが、境井氏は土壇場でそれを覆した。詰め寄った源三に境井氏が零したのは「君たちの所にいれば会いたくなる。いつか硲を捨ててしまう」という、まるで泣いているかのようなか細い声だった。それを聞いて源三は、少なくとも大切に育ててくれる家に貰われたのだと悟り、以降二人の子供のことを口にすることはなかった。
「境井さんはタエちゃんに優しかったかい?」
ずっと訊けなかった問いだった。今になってするっと源三の口から滑り出た。
「優しかったよ。そうじゃなきゃあんな暴挙、許しはしないよ。硲の主としてやってはいけないことをした。だからあの人は早々と向こうに行くことになってしまったんだ。知っていたらあんなわがまま言わなかったのに。最後に振り向いたあの人の顔を私は一生忘れないよ」
硲の人間に訪れる死は、一般的な死とは違うのだと源三は聞いている。遺体のない死。玄光寺には、死の直前に自分の名が刻まれた遺碑が突如生えるように現れる。実際に境井氏の遺碑も突然地面から生え始め、境井氏は自分の死を悟ったのだと覚悟した顔で笑っていた。
「どんな顔だったんだい」
横顔しか思い出せない源三には、境井氏がタエにどんな面を向けていたのか、どうしても想像できなかった。
「教えないよ。私だけの秘密だからね」
遠くを見つめるタエの眼差しは愛されることを知っていた。
「死ぬまでにひ孫、腕に抱けるといいなあ」
つい義直を見ながら源三は呟く。
「抱けるよ。そうそう、源ちゃんの宝の持ち腐れ、菜乃佳と夏生に貸してやってよ。早くしないと横から掻っ攫われちゃうよ」
「宝の持ち腐れ? ああ、家のことか。そういえば、義直がそんなこと言ってたな」
「ひ孫、楽しみにしておけばいいよ」
「なんだ、やっぱりそういうことなのか。源七も同じようなこと言って寄越したんだよ」
「おや、しっちゃんも菜乃佳に会ってるのかい?」
「店にたまたま来たらしい。なんでも会社の男に無理矢理飲まされたところを義直が救い出したとかなんとか」
「へえ。やるねえ」
「ほら、ここ最近同じネクタイばかり締めているだろう?」
「あの連帯縞の?」
「連帯縞……タエちゃん、レジメンタルっていうんだよ。あれ、どうやら菜乃佳さんからプレゼントされたらしい」
「ほう。なら源ちゃん、早めにむこうの親御さんを抑えた方がいいよ」
「なんでだい?」
「菜乃佳に見合い話がぼちぼち。選民意識の強い親だから粒ぞろい」
「義直よりもかい?」
「源ちゃん、残念だけどヨッシーは国会議員という以外ぱっとしない」
タエが声を上げて笑った。
「人の孫つかまえてその言い草はないだろう」
「タエさん! 聞こえてますよ!」義直が怒鳴った。「年寄りは声が大きくて困る」
「おや、国会議員が年寄り批判してるよ」
タエの目が悪さする子供の頃と同じように細められている。義直が苦虫を噛み潰したような顔で秀と巧に笑われている。
この地に笑い声が響くのは一体どれくらい振りなのだろう。境井氏が逝ってしまってからというもの、若さを失ったタエはたった一人でこの地を守ってきた。
ふと見れば、縁側に座る源三の前に菜乃佳と夏生が神妙な表情で並び立っていた。義直が大股で近寄ってくる。
「前に話した菜乃佳さんと夏生ちゃん。二人をじーさんの空き部屋に住まわせてほしい」
源三の退職後で家を二世帯に建て替えた。よかれと思ってやったことだが、源三の独断過ぎた。元々そりの合わなかった親子関係がそこで一気に方向を違え、一人息子は嫁を連れて家を出てしまった。おそらくあの家に住むことはないだろう。相続は孫の義直がすることになっている。
「二人が結婚した後、夏生ちゃんはどうするんだい」
源三の指摘に義直が大いに慌てた。
「そんなのまだなにも……」
義直の情けない声が源三を落胆させる。なぜここでびしっと決められないのだ。菜乃佳はすっと目を伏せてしまった。
「その時までに独り立ちできるようがんばります」
はっきりとした夏生の声と真っ直ぐな視線が源三の目尻を下げた。源三は僅かに俯く菜乃佳に声をかけた。爺のお節介だとあとで笑われてやる心積もりだった。
「菜乃佳さんは、義直のことを好いていますか」
「はい」
菜乃佳は顔を真っ赤にしながらも真っ直ぐ答えた。源三の面に笑みが広がる。二人とも義直よりもずっと素直で肝が据わっている。いざとなれば夏生は源三が面倒みればいい。そのくらいの蓄えはある。奈緒美も反対はしないだろう。
ふとタエを見れば、悪巧みが成功したときと同じ顔で笑っていた。してやられた、と思ったところでもう遅い。源三は菜乃佳も夏生も気に入ってしまった。
「二人とも、うちに住むといい。うちにはもう一人、奈緒美という義直の妹がいるんだが──」
そこで源三の言葉を遮るように菜乃佳の声が被さってきた。
「あの、そのことなんですが──」
さらに眉を寄せた夏生の声が菜乃佳の言葉を遮った。
「なおみ? 宇都見 奈緒美先生?」
夏生は記憶を探るように眉をしかめている。
「なんだい、夏生ちゃんは知ってるのかい?」
「保健の先生、ですよね」
「夏生ちゃん、奈緒美と重なったことあるの?」
義直の訝しむ声に夏生は小さく頷きかけ、慌てたように付け加えた。
「教育実習で」
「ああなるほど。おかしいと思ったんだ。それにしてもよく憶えてたね」
「ちゃんと話を聞いてくれる人だったから。それで、教えてもらえたことがあったから」
まだ少女といっていい年に似合わず、夏生の雰囲気は煢然としていた。母を亡くしただけとは思えず、源三は何かが引っかかって仕方がなかった。
「何を教えてもらったか、訊いてもいい?」
菜乃佳の気遣うような声に、夏生は菜乃佳を見上げ、それからタエに目を向けた。タエがそれにひとつ頷きを返す。
「弟の、目の病気のことを教えてくれたの。もしかしたら、って」
「夏生ちゃん、弟がいるの?」
驚く菜乃佳に、俯いた夏生が「死んだの。言わなくてごめんなさい」とひっそり言った。
「謝らないで。謝ることじゃないから」
菜乃佳の声を聞いて、源三はふと奈々子を偲んだ。奈々子もこんな風にのんびりと話したものだ。喜びも悲しみも、怒りも落胆も、何もかもそっくり包んでしまうような円やかな口調だった。
どうして年の離れた二人が一緒に住むことになったのか、義直から話を聞いた当初は違和感を覚えた源三だったが、二人を目の前にしてようやく理解した。夏生には菜乃佳が必要なのだ。おそらく菜乃佳も夏生の存在に感じるものがあるのだろう。
「もしかして、弟って光が見えてた?」
いつの間にか縁側に来ていた巧が唐突に言った。夏生が瞠目して巧を見上げている。その背後では秀と桜が真顔で夏生を見つめていた。
源三はタエに目を向けた。タエは黙ったまま夏生を見つめている。いや、夏生の先にある何かを見つめていた。
彼女の弟は硲の人間だったのか。源三はいつだったか境井氏に聞いたことがあった。硲の人間は育ちにくいと。境井氏も瀕死の状態で拾われたと。
だからこそ、義直から秀ばかりか巧までもが硲の地で暮らすことになったと聞いたとき、源三は心底驚いたものだ。義直の友人だった二人が硲の人間であったことよりも、硲の人間が同時期に二人も育っていたことが信じられなかった。
そして、驚きと同じだけ淋しさを抱えた。タエと境井氏があれほど望んだ硲の子供は、やはり内では生まれないのかと。