硲153番地
サンクチュアリ結び目③
夏生の予想に反して住む場所はなかなか決まらなかった。
決まらないのは主に菜乃佳の事情であり、夏生は学校に通える範囲であれば正直どこでもよかったのだが……。
「もう少しセキュリティーのしっかりしたところじゃないと」
「でもエントランスはオートロックですよ。部屋は三階ですし、広さも十分じゃないですか?」
「管理人常駐じゃない限り、オートロックは安全ではありません」
こうやって何かにつけて推定菜乃佳の彼氏がケチを付けるのだ。菜乃佳も菜乃佳で困惑しながらもどことなく嬉しそうなのだ。やってられない。夏生は早々に匙を投げ、住む場所は菜乃佳および推定菜乃佳の彼氏が決めればいい、と傍観することにした。
高校生らしきバイト男子が出してくれたお茶を啜りながら関係ない間取りを興味本位で眺めている。これがなかなか面白い。
土曜日の午後には菜乃佳が宿坊に顔を出し、夏生の部屋に一泊しながら、菜乃佳のスマホに送られてきた希望に合致する物件を二人でチェックする。日曜日には不動産屋に出向き、これぞという部屋を見せてもらおうとすると、忙しいはずの推定菜乃佳の彼氏が登場し、毎回横槍が入るのだ。
ふとカウンターの向こうから不動産屋の店主が「お嬢さん」と顔を近付けてきた。店主のタバコ臭い息が夏生の鼻を直撃する。
「お姉さんって義くんのコレ?」
口臭を避ける夏生に店主が小指を立てた。律儀に反対の手のひらで推定彼氏に見えないよう隠す仕草がどことなく下品だ。小指を立てる意味がわからず、夏生は顔をしかめて推定菜乃佳の彼氏を見た。
「聞こえてますよ」と推定菜乃佳の彼氏がむっとしながら店主に文句を言う。
「聞こえるように言ったんだよ」と店主も負けじとにやけ顔で言い返す。
馬鹿馬鹿しさに夏生は呆れた。だったらわざわざ夏生に顔を寄せる必要はないはずだ。夏生の不満顔は二人の目には入っていない。
「スクープだ!」
「後援会長自らリークするのはどうなんですか」
そうなのだ。推定菜乃佳の彼氏はどうやら国会議員らしい。菜乃佳から彼氏だとはっきり紹介されないあたり、その一歩手前なのかもしれない。あくまでも知り合いを強調された。ただし「友達」とは決して言わないあたり、二人の微妙な関係を物語っている。
どこかで見た顔だな、というのが夏生の第一印象だった。一般的に背は低くないものの秀や巧に比べると低い。不細工ではないが、やはり西洋的イケメンの秀と東洋的イケメンの巧に比べると普通だ。声も悪くはないが、特徴的でもない。至ってどこにでもいそうな生真面目そうな人。美人の菜乃佳と並ぶと若干見劣る。強いて言えば優しそうには見える。ただし口うるさい。
不動産屋の二階が後援会事務所になっているようで、至る所にしつこいくらい「宇都見 義直」のポスターが貼ってある。どこに顔を向けても胡散臭い笑顔と目が合う洗脳的不動産屋だ。
「あのね、予算の関係上、これ以上のセキュリティーはどう考えても無理。条件を下げるよりほかなし」
夏生の支援額と菜乃佳の銀行に振り込まれるお給料はほぼ同じ額だそうで、二人で相談し予算は十二万までと決めている。オーバーしても込み込みで十四万まで。家賃の他に管理費のかかる物件もある。
だというのに、宇都見が気に入る物件は軒並み十五万以上する。
「秘蔵の物件はないんですかねえ、後援会長さん」
宇都見の嫌味に後援会長でもある不動産屋の店主がむっとする。
「この時期あるわけないでしょ、宇都見先生。今何月だと思ってるの。だいたい今出しているのだって一見客には出さない優良物件ばかりだよ」
店主の言う通りで、春先は新入生や新入社員、転勤者などが東京に押し寄せてくるせいで四月の頭にもなると条件のいい空き部屋はほとんどないそうだ。おまけに出してくれる物件は他で見た物より条件もよく家賃も手頃な好物件ばかりだ。
「そういえば、源ちゃんのとこ空いたままじゃないの? そこに入ってもらえば? たしか二階に二間あったよね。もう何年も空いたままでしょ」
なんのことかと菜乃佳と夏生は顔を見合わせ、宇都見に視線を投げた。
「さすがに拙いよ」
「でも、玄関あっちとこっちだから一見別の家に見えるし、マスコミも気付かないよ。気付かれたところで、店子です、で済む話だろうよ。事情を知ってる彼女たちなら安心でしょ。家は空けておくと傷むだけだよ」と言った後、後援会長は小声で「こんな美人、二度と出会えないよ」とほくそ笑んだ。宇都見に囁いているようで丸聞こえだ。
宇都見が悩ましげに唸る。夏生と菜乃佳は互いに首を傾げ合う。
夏生と菜乃佳の家はまだまだ決まりそうにない。この分だとあっという間に六月になりそうだ。
夏生の高校入学に際し、様々な手続きは桜が代行する。
高校の入学説明会が土曜日だったこともあり、桜と秀が夏生に同行した。教科書や指定ブラウス、体操着など、歩から譲られた物を除き、不足分を購入していく。その際、歩から聞いていた教師を探して挨拶すると、内容が変更になっている教科書を教えてくれた。
「木内さん、生徒会に入ることが決まってるみたいだけど大丈夫?」
心配そうな女性教師はどうやら歩が夏生を強引に引き込んだと勘違いしているらしい。
「大丈夫です」と夏生が答える横から、「あれ、シュウさん。ってことは、木内 夏生?」と嗄れた声が聞こえた。
S高の制服を着た男子生徒は、女性教師に「見辺くん、知り合いなの?」と声をかけられている。
この人が見辺 雅王か。夏生はまじまじと目の前にいる男子生徒を眺めた。人を見透かすような視線に見覚えがあった。
「あー、先生、木内さんの担任ってもう決まってますよね」
「決まっているけどまだ発表前よ」と顔をしかめる推定三十代前半女性教師。
「シュウさん、挨拶っていうか、説明していきますよね」
見辺は女性教師を軽く無視し、秀に顔を向ける。思わずといった感じで女性教師は小さく溜息を吐いた。気の弱い人なのかもしれない。そもそも見辺の物言いは教師に対して失礼だ。夏生は非難の目を見辺に向けた。
「できれば。入学式は平日だから来られそうにないんだ」と言った秀は桜を見ながら声を潜めた。「タエさんに来てもらおうと思っているんだけど……」
タエの名を聞いて夏生は慌てた。
「大丈夫です。入学式は一人で平気です」
「そうじゃないんだよ。君の状況を説明しておく必要があるんだ」
見辺にバッサリと切り捨てられた夏生はしゃしゃり出た恥ずかしさから俯いた。桜がさり気なく夏生の背中に手を当て、無言の「大丈夫?」を伝えてきた。
「ああ」となにやら察した女性教師は、説明会が終わり、今は教科書などの物販が行われている体育館の隅に一同を誘導した。
「改めまして、生徒会顧問の浅井です。まだ発表前ですが、木内さんの担任でもあります」
「なんだ。だったらシュウさん、説明は不要ですよ。顧問は知ってますから」
そこまで言った見辺に秀が「お前さっきから先生に対する態度悪いぞ」と注意している。それに女性教師が目を輝かせ、勢いよく何度も頷いていた。
秀が宿坊の入り口まで荷物を運んでくれるというのを丁寧に断って、夏生は荷物を抱えて宿坊の玄関をくぐった。
「ただいま戻りました」
「おかえりなさい。夏生さん、応接室にタエさまがお待ちです」と受付にいる男性がにこやかに告げる。
げっ、と思わず声を出した夏生は、誤魔化すように「荷物置いてきます」と小走りで自分の部屋に戻る。夏生の部屋は少し奥まった場所にあり、こんな時に限って急に部屋から人が出てきたり、何もないところで足がもつれそうになったりしながら、なんとか部屋に荷物を置いて再びロビーに戻った。
焦りと不安と少なくない恐怖に心臓が暴れ出している。夏生は従業員以外立ち入り禁止の先にある応接室の扉の前に立った。ふーっと深呼吸し、意を決してノックする。中からくぐもった「はい」という声が聞こえた。
「失礼します」
もう一度小さく深呼吸して扉を開けた。
「この間は失礼なことを言ってすみませんでした」
夏生は一歩部屋に入った瞬間、まず最初に謝った。嫌なことは先に済ませるに限る。どちらにしても謝らないことには話が進まないだろう。覚悟を決めて顔を上げると、上品な濃いグレーの着物姿のタエは、麗しい着物に似合わない顔でにたりと笑っていた。
「いい方に作用したね」
「それはもう。夏生さんには我々も助けられています」
夏生の後ろから宿坊の責任者の男性がタエに声をかけた。それを聞いたタエは満足そうに一度頷き、すくっと席を立つと「ついておいで」と夏生に声をかけ、すたすたと応接室から出て行った。
どこまで行くのか。夏生は訝しみながらもタエの後ろを歩く。
宿坊を出て、立派なお寺の前を横切り、芽吹きの木々の中にタエは迷うことなく足を踏み入れた。細い小径は以前桜の空く家に向かうときと同じ、あるかないかの獣道だ。
鳥の声が聞こえる。その名前を夏生は知らない。とても愛らしい綺麗な鳴き声だった。
くねる小径はどこまでも続く。あっという間に方角がわからなくなり、一体この寺の敷地はどれほどなのかと思い始めたところで、夏生たちは小さく拓けた場所に出た。丸く切り取られたようなその場所には、人の背丈ほどの小さくも立派なお堂がぽつりと建っていた。
「ここに入れてあげなさい」
なんのことかと夏生は首を傾げた。
「いつまでも持ち歩くわけにはいかないよ」
まさか、と夏生は目を見開いた。
「菜乃佳には言ってないんだろう?」
頷く夏生は、信じられない思いでタエを凝視した。菜乃佳どころか、桜にだって言えずにいた。
「なんで……」
「そのくらいわからなくてババアはやってられないんだよ」
あの日と同じ台詞だった。あの日とは違い、柔らかなタエの声は静かに木々の間に吸い込まれていった。
「いいの?」
「いいから連れてきたんだ。ただし、私か、シュウかコウと一緒でなければここには来られない」
ふと夏生は思った。あの小径の入り口はあの家に住む人にしか見分けられないのかもしれない。
「普通にはわからない目印でもあるのかな」
小さく呟いた夏生の考えが当たっているのかいないのか、タエは意味深にほほ笑むばかりだ。
「お前さんがここに来られたのは、あの子のおかげだよ」
目を見張る夏生に、タエはほんの少しだけ悲しげに目を細めた。
「あの子は純粋にお前さんを喜ばせたかっただけだなんだよ。それだけはわかってあげなさい」
夏生の中にあった重く苦い後悔が喉の奥からぐっとせり上がってきた。
あの子が死んだのは夏生のせいだ。夏生が思い付きで「流れ星が欲しい」と言ったからだ。
夏生は言葉にならない後悔を叫んだ。夏生自身どうしてかわからなかった。突然抑え込んでいた感情が爆発した。
「あの子は掴まえたんだよ」
「だから……」
あの子の右手は握りしめられていた。あの中に、夏生への誕生日プレゼントがあったのだ。死んでも握り続けていたあの手の中に──。
タエは慟哭する夏生を一人にはしなかった。寄り添うわけでも声をかけるわけでもなく、適度な距離を保ったまま、ただ沈黙と一緒にそこにいた。
夏生はしゃくり上げながらタエの先導で部屋に戻り、貴重品入れの金庫からあの子を出す。むき出しのただ白いだけの器はどうしようもないほどの無機質さを備えている。
夏生は小さな蓋をそっと外し、秋生に触れた。溢れた涙が秋生に染み込んでいった。
タエが貸してくれた光沢の美しい黒い布で、夏生はおくるみのように優しく秋生を包んだ。弟を胸に抱き、再びタエの先導で小さなお堂に向かう。
夏生はこれまで以上に秋生のことを思い出していた。
秋生は変わった子供だった。きらきらしていると言っては喜んだり、ぎらぎらが怖いと怯えたり、夏生には見えない何かを見ているようだった。
夏生は学校の図書館では見付からない本を区立図書館まで行って探した。秋生は視覚過敏という症状なのだとわかったのはずいぶん後になってからだ。当時の夏生には難しい言葉ばかりが並ぶ本の中から、それを見つけ出すのに手間取った。誰にも相談できなかった。母親は奇妙なことばかり言う秋生を嫌い、秋生も母親を怖がった。夏生だけに懐くことがますます母親から秋生を遠ざけることになるとわかってはいても、夏生にはどうしようもなかった。
秋生は視覚過敏症の中でも軽い方だと夏生は考えていた。光が夏生とは違って見える以外、文字が歪んで見えているわけでもなく、頭も悪くなかった。むしろ保育園に行っていないにしては賢かった。
単純に角膜に傷でもあるのかと、夏生はよく秋生の目をじっとのぞき込んでは小さな傷も逃さないようじっくり探した。すると秋生はいつだって嬉しそうに笑うのだ。そして、「おねえちゃん、ぼくは大丈夫」と夏生を慰めるようなことを幼いながらに言うのだ。
夏生には秋生しかいなかった。秋生がいたから夏生は生きる力が湧いた。
同時に、秋生がいなければ、とも思ってしまうのだ。秋生には夏生しかいないのに。
来春には小学校に入学する秋生に新品のランドセルを買ってあげたくて、夏生は苦心してバイト代ではなく手伝い賃として人の情に付け込んでは小銭を稼いでいた。中学生を雇ってくれるところはない。一番多く通ったのが銭湯の掃除だ。いまにも潰れそうな鄙びた銭湯は経営者も常連客も鄙びていた。姉弟は毎日風呂に入れ、風呂場で洗濯もさせてもらえ、秋生に毎日一瓶の牛乳を飲ませることができ、そのうえ毎日二百円と塩おにぎりがもらえた。時々常連客から差し入れられたりもする。
何も夏生に限ったことではない。女湯の掃除は夏生がほぼ独占できたが、男湯の掃除は常時三四人が交代で行っているようだった。
銭湯の掃除はそれなりにハードでごっそり体力が奪われた。それでも夏生が姉としてしゃんと立っていられたのは、秋生が一生懸命手伝う姿が健気だったからだ。
あの日もくたくたになって帰ってきて、洗濯物を干し終わると並んで布団に横になり、睡魔に襲われかけたところで秋生に訊かれたのだ。
「おねえちゃん、明日のお誕生日、なにがほしい?」
「もう少し早く出逢いたかったね」
しみじみとしたタエの声に夏生は我に返った。
気付けば夏生は黒光りする小さなお堂の前にいた。
タエがゆっくりとお堂の扉を開けた。人が一人通り抜けられるほどの幅しかない両開きの扉の先は、光の加減なのか真っ暗だった。禍々しいほどの黒だった。それでいて惹かれてやまない闇が満ちていた。
風もないのに木々がざわめく。
「お前さん、あの子の目の中を覗きすぎたね」
意味がわからず、夏生は闇から視線を外し、ぼんやりとタエに目を向けた。
「いいかい」とタエは厳しい顔をみせた。「世の中には本来、人が足を踏み入れてはいけない場所がある。常なら足を踏み入れることなどないはずなのに、お前さんはその境界が曖昧になっているんだ」
夏生には、足を踏み入れてはいけない場所がタエの家のことを指しているように思えた。桜たちは含んだ言い方をしていた。
「そのうちはっきりしてくるから心配しなくてもいい。それでもしばらくは気を付けなさい」
夏生がはっきりと頷けば、タエが両手を差し出した。秋生をタエに預ける。なんの抵抗もなく預けられたことに、夏生は内心で驚いていた。夏生は心のどこかで秋生を手放せないのではないかと思ってた。
「よく連れてきてくれた」
それは夏生に向けられた言葉なのか、秋生に向けられた言葉なのか、それともほかの誰かなのか、夏生には判断がつかなかった。ただ、泣きたくなるほどの情愛がタエの声には溢れていた。
もう少し早くタエに出会えていれば、きっと秋生は死ななかった。
今更そう思ったところで仕方なくとも、夏生がもっと色んなところに秋生を連れて行っていれば、どこかでタエに出会えたのではないかと考えずにはいられなかった。同じ区内にいたのだから、すれ違いさえすればタエは必ず気付いただろう。そんな確信が今更のように夏生の中に湧き起こった。
タエは小さく何かを呟きながら、秋生を闇の中にそっと沈めた。
夏生にはタエが、おかえり、と言ったような気がした。
その数日後、夏生の母親が急逝した。