硲153番地
メリーゴーラウンド四十万①
「課長、明日のどこかでお時間いただけますか」
報告書に視線を落としながらも物思いに耽っていた四十万 孝典は、静かに落ちてきた部下の声に顔を上げた。
「明日か?」
目の前のパソコンでスケジュールを確認すると十七時以降は空いていた。
「十七時からなら空いているが……なんだ?」
「明日、直接お話しさせていただきたいのですが、確か明日は十六時から外出されますよね」
「そうだ、と言っても兜町なんで目と鼻の先だが……」
「では、私も同じ時間に八重洲におりますので、終わり次第合流させていただいてもよろしいでしょうか」
共有されているスケジューラを確認する。四十万のデスクの脇に立つ長内も十七時以降は珍しく空白だった。
ふと何かが四十万の脳裡を過ぎった。掴み損ねた何かを探るように、四十万は部下である長内 巧の顔をまじまじと見上げた。不意に明日の日付と長内が結びつく。
「ああ、明日は命日か」
「ええ。お忙しいところ申し訳ありませんが……」
「かまわんよ。母も喜ぶ」
近所の花屋に母の好きだった花を注文したのは三日前だった。忘れないようにと念を押され、忘れることなく注文し、スケジュールも空けていたというのに、いざ直前になるとふと忘れてしまう。
いつもそうだった。肝心なことを直前になるとふつりと忘れてしまう悪癖が四十万にはあった。仕事ではしないミスを家庭ではしてしまう。そのせいか、夫婦仲は冷え込みつつある。そのせいではないと思うが、娘はまた、登校できなくなった。
モダン仏壇とでも言うのか、簡素化され、扉を閉めれば小振りな漆塗りの家具のように見える仏壇の中で、四十万の母は誰が見ても作り笑いとわかる表情を見せている。
リビングのローチェストの上に置かれた仏壇の前に正座し、目を閉じ、手を合わせている長内は、家政婦だった四十万の母が最後に務めた家に生まれている。唯一、母だけが彼を気遣い、周りの目を盗んでは彼に様々なものを与えていたらしい。
四十万の母は勤務先の家庭のことを頑なに口にしなかった。大まかな勤務地を告げる以外、詳細な住所やその名字すら四十万は聞いたことがない。
「四十万課長……もしかして、四十万 佐代里という方がご親族にいらっしゃいますか?」
入社早々、新入社員にそう話しかけられ、それは母の名だと告げた途端、長内 巧という社員証を首に提げた青年は僅かに眉を寄せた。懐かしむような、苦しいような、そんな表情だったと四十万は記憶している。
母はすでに鬼籍に入ったと知らせたときの長内の落胆振りに四十万は驚いたものだ。
「母は、どんなふうに働いていたんだ?」
「私も幼かったので仕事ぶりについては正直よくわかりません。ただ、当時私が知る人間の中で唯一温度を持っていました」
「温度?」
「ええ。幼さゆえ余計にそう感じたのでしょうが、人の持つ正しい温度だったと記憶しています」
そのとき四十万は感動のようなものを覚えた。母をひと言で表すとすれば、まさにそんな感じだった。夫を早くに亡くし、女手ひとつで一人息子を育てた母は、何事にも動じず、常に真っ直ぐに立ち、過剰な反応を一切しない人だった。結婚当初妻は、「淡々としていて少し怖い」と漏らしたことがある。同時に「とても情の深い人」だとも言っていた。平等でありながら情の深い、昔気質の人だった。
四十万が用意したシャクヤクが妻によって光を吸い込むような黒い花瓶に活けられた。華やいだ香りが室内に広がる。花瓶に刻まれた家紋のようにも見える丸に縦一つ引きのブランドマークらしきものを、長内はしばらく見つめていた。
「課長、少し立ち入ったことを言ってもよろしいでしょうか」
仏壇の前からソファーに座を移し、茶を運んできた妻が下がったところで、長内が静かに言った。
「なんだ?」
「なぜ、とは聞かないでいただきたいのですが……」
そう前置きした上で、長内は驚くべきことを口にした。
「今課長のもとに舞い込んでいる案件から手を引いてください」
「なんのことだ?」
「二日前から課長を絡め取ろうとよくないものが手を伸ばしています」
二日前と聞いて、四十万は戦慄した。
「長内、何を知ってる?」
「何も。おそらく課長と同等の情報しかありません」
それでも、長内の目には何もかもを見通しているような強い光があった。
二日前、四万十は上から一つの指示を受けた。極秘だと何度も念を押された。君を見込んでのことだとも。これが上手くいけば先は明るいよ、とやけに砕けた笑顔を見せる上役に反して、四十万の肌は粟立っていた。
「あれは、どういうことなんだ?」
四十万は明言を避けて尋ねた。
「子供じみた言い方ですが、よくないものです」
断るのであれば、辞めるしかない。おそらく二度と金融関係の職には就けないだろう。
「課長、これを」
差し出された白い封筒の表には「退職願」と書かれていた。長内の肉筆は手本のように整っている。
「おそらく三年以内にあの会社はよくないものに呑み込まれます。巻き込まれないために半年以内の退社をお勧めします」
「なぜ……」
そんなことがわかるのだ、と言おうとして、直前に彼が言い放った前置きを思い出した。
「終わりの始まりは、昨年の十月」
ああ、と四万十は片手で口元を覆った。
昨年の十月の終わりに、社は電撃的に執行役員を外部から招致した。それ以降、やけに社の景気がよくなったのだ。四十万は不気味さを肌に覚えつつも、そんなことはないと何度も否定してきた。長内の言った「終わりの始まり」という言葉で、ようやくそれを認める気になった。
「こんなことになるなら佐島を入社させなかったのに」
悔しそうな顔で長内は呟く。佐島は長内の推薦により昨年九月に入社している。
「次の当ては……ああそうか、長内は次が決まっているんだったな」
ええ、と目の前に座る男は静かに応えた。
「なぜ私に?」
「お二人にはお世話になりましたから」
長内は再度作り笑いの母に目をやった。
確かに四十万は長内に目を掛けてきた。ただ、長内は社内でも優秀な人材であり、四十万以上に可愛がっている者が何人もいたはずだ。
「課長だけが、自分の損得とは関係なしにかわいがってくれましたから」
長内の実家のことを持ち出す輩がいたのかと、四十万は目を見開いた。
長内の生家は長内グループの総本家だ。主にリゾート開発を行っている不動産ディベロッパーだが、事業はホテル経営を始め多岐にわたる。
「何度実家とは縁を切っていると言っても聞かない人が多くて」
困り果てたような長内の表情はどこか子供じみて見え、四十万は妙に和やかな気持ちになった。
「課長、インターネット銀行に興味はありますか?」
「ないわけじゃないが……なんだ?」
「実は、今更ながらお前も長内の一員なら家業を手伝えなどと言ってきまして。ネット銀行を立ち上げたいそうです」
「父親がか?」
「いえ、戸籍上の兄です。現在実権はほぼ戸籍上の兄の手にあります」
不快そうに顔を歪めた長内は、戸籍上をことさら強調した。
「手伝えないと言ったら、代わりに人材を差し出せと。何様ですかね」と長内は大仰に溜息を吐いた。「ただ、彼らはクズですが、グループの経営は驚くほどクリアです。社員の待遇もかなりいい。どうやら他人には優しくできるようです」
長内がここまで毒を吐くところを四十万はこれまで見たことも聞いたこともない。人当たりのいい好青年という印象が端からほろほろと崩れていく。
確かに長内グループの社格は高い。同族経営にありがちなトラブルや偏りなどが聞こえてきたこともない。株価も安定しており、バランスのいい会社、というのが四十万の印象だ。
「条件としては決して悪くないはずです。僭越ながら課長なら上手くやっていけると思います」
会社の規模としては断然長内グループの方が大きい。それこそ比較にならない。
「今更手を引けると思うか?」
「思います。明日にでも辞表を出せば。ただし、明後日には事が大きく動きます」
まさに長内の言う通りだった。明後日には新たな人事異動が内定される。四十万の上への回答期限は明日の午前中──。
「よろしければ今からクソ兄に会いますか?」
「長内、言葉がどんどん乱れてるぞ」
呆れ混じりに四十万が指摘すると、長内は悪ガキのような顔で笑った。これが元来の彼なのだろう。
「もう今更取り繕っても仕方ありませんから。私の退職、確実に処理してください」
「だったら、私は一度社に戻ろう。先に長内の退職願を人事に提出しておく」
「ああ、それもそうですね。お願いします」そこでふと長内はリビングの時計を見上げた。「人事の人間、まだいますかね」
「いるだろう。今は一年で一番忙しいはずだ」
揃って四十万の家を出る。最寄り駅から会社までは地下鉄一本で行ける。構内のアナログ時計の長針は七の少し手前を指していた。
四十万は何食わぬ顔で社に戻り、長内の退職願を必要書類とともに人事に提出した。人事部長からは驚きの声が上がり、なんとか引き留められないかとしつこく請われたものの、本人の意思が固いことを理由に突っぱねた。
自分のデスクに着き、四十万は深く息を吐いた。
転職を考えたことがないわけではない。むしろ常に考えてきたとも言える。だが、これほど急を要するとは思ってもみなかった。悩んでいる暇はない。それだけはひしひしと感じる。
ざっと長内が抱えている顧客リストを確認する。驚くことに全てきっちり整理されていた。間違いなく数ヶ月前から準備していたのだ。
課内を見渡す。見通しのいい会社ということで課内に仕切りはない。デスク同士の仕切りすらなく、そのせいか、四十万はいつも誰かに見られているような気がしていた。
今し方聞いたばかりの話を四十万は頭の中で反芻する。
連れて行ける者はどれほどいるだろう。四十万が目を掛けていた者は長内の他にも数人いた。
ふと気になってもう一度ディスプレイに目をやる。
「まさか……」
長内の仕事を引き継ぐの者中には、不自然なほど四十万が目を掛けている者はいなかった。慌てて彼らの業務内容を確認する。本来単独で抱えているはずの顧客が一つもなかった。課内を見渡しても彼らの姿はない。
四十万は慌てて社を後にし、長内と待ち合わせている虎ノ門に移動する。
長内グループ本社ビルを見上げる。夜にそびえる煌びやかなビルは、今出てきたばかりの古びたビルとは格が違う。あまりの格差に、四十万はぶるっとその身を震わせた。
一階にあるコーヒーショップに足を踏み入れた四十万はぐるりと店内を見渡す。奥のテーブル席で長内が軽く手を上げた。彼の前に座る男女が振り返る。四十万の思った通り、目を掛けてきた小林と松沢の姿がそこにはあった。もう一人気にかけていた蒔田が見当たらない。
四十万は真っ直ぐ席には向かわず、ひと息入れたくてカウンターでコーヒーを注文する。受け取ったコーヒーを片手に覚悟を決め、長内たちが待つ席に足を向けた。
席の雰囲気は和やかだ。長内ばかりか小林と松沢も、かつてないほど寛いだ表情を見せている。
「長内のあれ、出しておいた。明日は人事総出で引き留めにかかってくるぞ」
開いていた席に腰をおろしながら、四十万は言った。
「ありがとうございます。お手数をおかけしました。小林さんと松沢さんもじきに提出すると思います」
「二人ともすでに決まっているのか?」
四十万は視線を一瞬上に向けた。
「ええ。話したのは二週間前ですが」
「二週間で引き継ぎしたのか?」
「引き継ぎとは悟られていませんけどね。わからないよう細工してありますし。今ちょっと手が込んでいるから手伝わないかとそれぞれ個別に引き込んだだけです」
小林の回答に四十万は今し方見たばかりの業務内容を思い出す。確かに一覧をざっと見ただけではわからなかった。しかし詳細をクリックすればはっきりと補佐役が記入されていた。
「彼らは横の繋がりを重視しませんからね。引き継ぎだとは知らずしっかり食いついてきました」
どうりで、野心を隠さない者ばかりの名が連なっていたはずだ。ともすれば出し抜いて我こそが顧客に気に入られようとする者であれば、引き継ぎなど必要ないだろう。
小林は長内より二年先に入社している。顧客からの信用は厚く、手堅い仕事をするタイプだ。
「あんな働き方ができるのは独身の頃だけだろうな」
溜息混じりに四十万は呟く。四十万も若い頃はがむしゃらに顧客を増やすことばかり考えていた。
「ああいう人は家族ができても変わりませんよ」
松沢が感情もこもらない声で言う。仕事は出来るがプライベートを一切見せない彼女は、確か今年三十を過ぎたところだ。営業職にしては化粧っ気がない。にもかかわらずきっちりして見えるのは元々顔立ちが整っているからだろう。結婚は? と気軽には訊けないご時世だ。
「蒔田さんは奥さんの実家の家業を継ぐそうです」
松沢が四十万の気掛かりを口にした。
「そうか。家業ってなんだ?」
「それが」と言いながら小林が思わずといったふうに笑い出した。「酒造メーカーです」
四十万まで吹き出してしまった。蒔田は下戸だ。その下戸が酒蔵を継ぐのか。
「すみません、遅くなりました」
そこに顔を出したのは、去年入社したばかりの園田だった。これに四十万は少しばかり驚いた。彼はアシスタント業務からなかなか抜け出せず、本人もどこかそれで満足している節があった。周りから幾度となく苛めにも似た発破をかけられ、ついに先月退社した。四十万自身は彼のマネジメント能力の高さを評価し、無理にアシスタントから抜け出す必要はないのではないかと考えていたのだが、結果的に本人を退社に追い込むことになった。
まさか園田の退社も……と考えたところで、気合いの入った声が上がった。
「よし! 行きますか」
長内の挑むような表情を見て、四十万もぐっと気を引き締め席を立った。