硲153番地
エリアCLⅢ居酒屋 源七 アルバイト店員木村
「店長、店長、六番あれマズくないすか?」
〈今にも潰れそうな女性〉に〈執拗にウーロンハイを勧めている男〉。しかも「大丈夫?」と声では心配しながら表情には隠しきれない卑しさが滲んでいる。「ほら、ウーロン茶だよ、飲んで」と嘘まで吐いて。それは「アルコール強めで」と図々しい注文をしてきた一杯だ。中身は通常通りのウーロンハイだが。
テーブルに両肘を付いて、なんとか自分の頬を支えている〈今にも潰れそうな女性〉は、拒否するように微かに首を振っている。なんとか自分を立て直そうとしているのか、眉間に皺を寄せ口元を引き結び、表情だけでも拒絶の姿勢を崩そうとしない。
〈居酒屋 源七のアルバイト店員木村〉は最初からずっと見ていた。なにせ自分の担当テーブルだ。
漏れ聞こえてきた会話から、新入社員同期の忘年会のようだ。〈幹事の女性〉がさり気なく助け船を出すも、〈泥酔しかけている女性〉はすでに判断力を失っているのか反応が鈍い。
そもそも〈おっとり美人の女性〉は、アレルギーではないがお酒に弱いのだと席に着いた段階で周りに断りを入れ、申し訳なさそうにウーロン茶を注文していた。それをこっそりウーロンハイにすり替えていたのが〈彼女の隣に割り込んだ男〉だ。〈おっとり美人の女性〉はアルコールの匂いを感じてか顔をしかめつつも周りの空気に何も言い出せないようで、そうこうしているうちに〈彼女の隣に割り込んだ男〉に無理矢理飲まされてしまったのだ。
同じ会社の人間相手に何をやってるんだ。バレたらクビだ。そのくらい〈アルバイト店員木村〉でもわかる。バレないとでも思っているのか。アホか。アホだな。クズ野郎。頭の中でこれでもかと罵った。
「あー、声かけてくるか」
〈居酒屋 源七の店長兼オーナーでその名も源七〉がオープンスタイルの厨房から出ようとしたその時、新たな客が来た。
「おじさん、飯食わして」
「珍しく早いな」
「早いって言ってももう九時近いだろ。この後事務所戻ってもう一踏ん張りだよ。せめて飯くらい旨いもん食おうと思って。三人なんだけど席開いてる?」
ちょくちょく来てくれる常連客だ。〈店長兼オーナーの兄の孫〉──そういう関係をなんというのか〈アルバイト店員木村〉は知らない。
今日はクリスマスを来週に控えた金曜日。忘年会シーズン真っ只中。居酒屋 源七も例に漏れず店内は満席で、空いているのはカウンター席くらいだ。とはいえこの三人はいつもカウンター席で飯を食うだけだから問題ない。
浜松町の路地裏で居酒屋の看板を掲げているこの店はそこそこ評判がいい。年末まで予約で一杯だ。和風な店名なのに店内のインテリアはアーバンで、ホールスタッフは白シャツに黒のベストとソムリエエプロン、厨房スタッフは黒のコックコートというギャップが面白い。そんな店でオープン時から働いていることを〈アルバイト店員木村〉は内心自慢に思っていた。なんといってもまかないが旨い。〈貧乏学生の木村〉にとっては言うことなしだ。
〈アルバイト店員木村〉は意気揚々とカウンター席に三人を案内しようとして足を止めた。
〈店長兼オーナーの身内の男〉がスマホに視線を落としている。次の瞬間には驚いたように顔を上げ、店内を見渡し、件の〈泥酔しかけている女性〉に目を留め、これでもかと眉間に深い皺を刻んだ。
「あー、彼女、なんか隣の男に無理矢理飲まされてるみたいで、いま声かけようと思ってたんすよ」
「いい俺が行く」
へ? と〈アルバイト店員木村〉が間抜けな声を上げるより先に、〈店長兼オーナーの身内〉が〈なんとか意識を保とうと必死な女性〉に向かって歩き出した。
「知り合いなんすか?」
彼の連れの男たちに声をかける。二人の男はそれには答えず、辺りを警戒するように鋭い目で見渡している。一人が「表に車回しておきます」と小声でもう一人に声をかけ、店の外に出て行った。
残った〈連れの男〉が〈店長兼オーナーの身内〉の後を追った。〈アルバイト店員木村〉はおろおろしながらも、好奇心から〈連れの男〉の後に続く。〈アルバイト店員木村〉がふと振り返ると、なぜか〈店長兼オーナー〉は悪い顔で笑っていた。
「ナノカさん」
〈店長兼オーナーの身内〉が声をかけると、俯き気味だった〈ナノカと呼ばれた女性〉はのろのろと顔を上げ、〈店長兼オーナーの身内〉を見た途端、あからさまにほっとした表情に変わった。
二人は知り合いだ、と〈アルバイト店員木村〉は悟った。スクープ! とも思った。
「あ、う……」
吐くのか? 〈アルバイト店員木村〉は咄嗟にエプロンのポケットに忍ばせてあるゲロ袋を掴んだ。
「そうです。わかりますか?」
こくこくと緩慢に頷く〈ナノカと呼ばれた女性〉は頭を動かしたことで気持ち悪くなったのか、これ以上ないほど情けなく顔をしかめた。それが妙にかわいい。〈アルバイト店員木村〉がそっと横からゲロ袋を差し出すも黙殺された。
「大丈夫ですか、帰りますよ、立てますか」
〈店長兼オーナーの身内〉は〈ナノカと呼ばれた女性〉に声をかけながら、彼女の同僚たちに「彼女がご迷惑をお掛けしました」と礼儀正しく挨拶している。さすが国会議員、とアルバイト木村は妙なところで感心しつつポケットにゲロ袋をしまった。
「ナノカさん、会費は?」
「ああ、事前に貰っているので大丈夫でしゅ。こちらこしょ飲ましぇすぎてしまったようで申し訳ありましぇん」
〈幹事の女性〉がこれまた丁寧に挨拶している。ただし所々ろれつが回っていない。〈ナノカと呼ばれた女性〉の荷物とコートを少し覚束ない足取りで用意し、〈店長兼オーナーの身内である国会議員〉に手渡そうとして、横から伸びてきた〈スーツを脱いだら秋葉原にいそうな秘書〉の手に奪われた。わかりやすく残念そうな顔をする〈幹事の女性〉。〈アルバイト店員木村〉は笑い出しそうになった。酔うと本音が出やすくなる。
〈ナノカ〉は〈店長兼オーナーの身内である国会議員〉に腕をとられ、なんとか席を立った。「う」や「よ」と呟く間に「ご迷惑を」と謝る〈ナノカ〉は本当に申し訳なさそうで、〈アルバイト店員木村〉は「あなたは悪くないですよ」と声をかけたくなった。
「彼女、お酒飲めないはずなんですけど……」
〈店長兼オーナーの身内である国会議員〉が困惑顔を作ってそう呟くと、〈幹事の女性〉が〈彼女の隣に座っていた男〉を振り向きざまものすごい形相でキッと睨んだ。わかりやすすぎて〈アルバイト店員木村〉はまたしても吹き出しそうになった。
「今後このようなことがないよう、十分注意しましゅ」
なぜか〈幹事の女性〉が敬礼した。〈アルバイト店員木村〉はうっかり吹き出した。
「申し訳ありませんが、そうしていただけますか。懲りずにまた誘ってやってください。では、失礼します」
そう言いながら〈店長兼オーナーの身内である国会議員〉は同席していた全員を一人一人見渡した。
その瞬間、〈アルバイト店員木村〉の急所は縮み上がった。〈店長兼オーナーの身内である国会議員〉が〈彼女の隣に座っていた男〉をほんの一瞬、睨み付けたのだ。目撃した〈アルバイト店員木村〉ですら肝が冷えた。〈睨まれた男〉は一瞬にして青ざめている。
これまでの人生で殺気を感じる機会などなかった〈アルバイト店員木村〉は、〈店長兼オーナーの身内である国会議員〉の見る目を変えた。やるじゃん。
「国会議員が有権者睨み付けていいのかよ」
負け惜しみのような声が小さく聞こえた。すかさず〈幹事の女性〉の怒りを抑えた声が続く。
「彼女の母親、たしか警部補って言ってたわよ。問題になるのはどっちだと思ってるの?」
〈アルバイト店員木村〉は〈幹事の女性〉に心の中で「いいね」しまくった。ただし、もう少し早く気付いてくれよ、とも思う。おまけにさっきまでの舌足らずはわざとだったのかと、女のあざとさを垣間見た。
周りを見渡すと、客はそれぞれで盛り上がっている。誰もこの席でのことを気にも留めていない。気にしているのは店員たちだけだ。互いに目配せし合う。
アルコールが入ると視野が狭くなる。自分のことに精一杯で他人のことまで気が回らない。注意力散漫なくせに気は大きくなる。だからホールスタッフは大袈裟なくらいよくよく目を配るように、と〈去年脱サラしてこの店を開いたばかりの店長兼オーナー〉から口酸っぱく言われていた。
「彼女、ウーロンハイをグラスに半分飲んだだけです」
〈アルバイト店員木村〉は急いで厨房から持ってきたミネラルウォーターを〈店長兼オーナーの身内である国会議員のアキバ系秘書〉に渡しながらそっと教える。もっさりした前髪の奥の目が、それだけ? とでも言うように瞬いた。そう、それだけなのだ。だからつい〈アルバイト店員木村〉も様子を見すぎてしまった。たぶんあの〈幹事の女性〉もだ。お酒に弱い人は「それだけ」でも危険なのだということを肝に銘じる。
そこに〈店長兼オーナー源七〉が紙袋を持って厨房から出てきた。
「適当に詰めといた。あとで食べてくれ。内藤さん、義のことよろしく頼むな」
懐から財布を出そうとする〈アキバ系秘書内藤〉を〈店長兼オーナー源七〉は手のひら一つで押し止める。〈アキバ系秘書内藤〉は黙礼して受け取り、後ろから半ば抱きかかえるように〈ナノカ〉の腕と背を支えている〈源七の身内である義〉の後に続いた。
「義さん、なんか格闘技とかやってたんすか?」
「確か剣道やってたって聞いたな。でも高校進学と同時にやめたはずだよ」
「へえ。なんかさっき殺気みたいなの飛ばしてましたよ」
「そりゃそうだろ、惚れた女に面白半分にちょっかい出す男なんざ万死に値する」
へ? 〈アルバイト店員木村〉からまたしても間抜けな声が上がった。