硲153番地
エリアCLⅢ
分け目③


 天文学上の秋の終わりである冬至を間近に控えた十二月半ば過ぎ。硲百五十三番地は、あの夏の終わり同様、常とは異なる様相を呈していた。
 あれから三ヶ月。間に一度訪れたきりだ。
 菜乃佳は両親に一人暮らしを反対され、通勤が大変なら勤務先を変えろとまで言われているらしい。入社一年未満での転職はマイナス評価になりかねない。菜乃佳の親子関係が透けて見え、宇都見は胸が塞いだ。
 年末の慌ただしさにゆっくり時間が取れないことも宇都見を憂鬱にさせている。今日この時間を捻出するために前後の予定がかなりタイトになっている。
 紅葉が終わる。
 宇都見は通りから硲の地を眺めた。ほとんどの広葉樹が枝振りを見せているにもかかわらず、通りからの見通しはそれまでと大差ない。緑を残したままの針葉樹がそれまで同様視界を遮っていた。
 当然ながら出迎えはない。ただ遊びに来ただけの宇都見は彼らが「分け目」と呼ぶ日の招待客ではない。
 軽い深呼吸をいくつか繰り返し、宇都見は息を整えた。勝手知ったるとばかりに、水に入るときと同じような覚悟で重く粘る領域に足を踏み入れる。
「あれ?」
 前回より躰が軽い。粘り付く空気は変わらないが、圧迫感が格段に薄い。
 前回が深海だとすれば、今回は浅瀬を歩いている感覚だ。空気の抵抗を楽しむ余裕もある。いつもとそう大差ない時間で境井家の玄関までたどり着いた。
 振り仰いだ鬱蒼とした杜はあの日見た景色と同じだ。いつもとは違い禍々しさに満ちている。次に宇都見は自分の手のひらに視線を落とした。いつの間にか禍々しさに同化したのかとの考えからだったが、常と変わらない見慣れた手のひらに、馬鹿げた妄想だったと宇都見は一人笑う。
「お前、人んちの前でニタつくのやめろよ。不審者だぞ」
 ぎょっとして振り返ると、呆れ顔の巧が宇都見の真後ろにいた。
「うあっ、びっくりした。なんだよ、急に声かけるなよ」
「普通に足音しただろうが。ぼさっとしてると刺されるぞ」
 会社帰りの巧がいた。そういえば耳は砂利を踏む音を捉えていた。それでも声をかけられるまで気付かなかったことに宇都見は我ながら呆れた。
「刺されるようなことしてねーよ」
「週刊誌で宇都見議員に振られた女特集やってたぞ」
「見合いの打診断っただけで会ってもないのにそれだよ」
「一応内容は宇都見議員に好意的だった」
「そういうの見るなよ」
「見せられたんだよ。今話題のイケメン議員と友達って本当ですか? ってさ」
 宇都見の苦々しい顔を見た巧は、慰めるように背中をぽんと叩いて玄関の引き戸をがらがらと大きな音を立てて開けた。
 イケメンとは秀や巧のことをいうのであって、宇都見のことを指す言葉ではない。議員の中にあってはまだマシな方というだけのことだ。これまで一度もイケメンなどと持て囃された覚えのないことがそれを物語っている。
 巧の背中を見て宇都見は思う。
 宇都見のスーツはオーダーメイドだ。それに対し巧のスーツはいわゆる吊しだ。価格も一桁違うだろう。それでいて巧の着こなしは仕立て物のように彼に添っている。完璧に自分のものにしているのだ。そういうセンスは持って生まれたものであり、宇都見は金をかけてそのセンスの偽装をしているにすぎない。
 友人でなければ間違いなく嫉妬の対象だっただろう。友人だからこそ賞賛の思いがそれに勝る。
「シュウは?」
「先に帰ってるはず。桜ちゃんも今日は午後休だ」
 まだ午後四時を回ったばかりだ。今日の日暮れは午後四時半。会期中以外はコアタイムのない宇都見とは違い、会社員の巧たちは早退するしかない。
「着替え持ってくるわ。この日は客がなくても黒袴なんだよ。勝手に寛いどいて」
 宇都見を客間に押し込めた巧が「じゃ、あとで。先に風呂入ってれば?」と襖を閉めた。襖の向こうから「ただいま帰りました」という巧の声が漏れ聞こえた。
 遠慮無く先に風呂を借りようと荷物とコートを部屋の脇に置き、襖を開け奥に向かう。ふと男湯から物音が聞こえた。
「シュウ?」
「宇都見さん? 開けていいですよ」
 遠慮無く開け、中に足を踏み入れると、風呂上がりの秀がいた。
 板張りの脱衣所は六畳ほどあり、大きな鏡と二つの洗面台、竹でできたベンチが置かれ、そのベンチの上におそらく黒袴が包まれているだろうたとう紙が置かれている。
「なあ、シュウもコウも躰鍛えてる?」
 ボクサーパンツ一枚で足袋を手にしている秀の腹筋は軽く割れていた。隆々ではないが必要な筋肉がしっかりついている。
「一応。といっても子供たちと遊んでいると自然と筋肉つくんですよ」
 幼い子供たちを抱き上げて遊んでいれば筋トレの代わりにもなるだろう。しかも一人や二人じゃない。逆に鍛えていなければ遊べない。子供の体力は侮れない。
「玄関でコウと行き会ったよ」
「じゃあ、コウもすぐ来ますね。よかった。俺一人だとまだ袴着るの自信なくて」
 前回日暮れと共に黒袴姿で待ち構えていたことに比べ、今回やけにのんびりしているのは招待客がないからだろう。
「俺やろうか?」
「宇都見さんできるんですか?」
「一応ね。三道を一通り」
「三道って、もしかして剣道とか?」
「それもやってたけど、華道茶道書道で伝統芸能三道。書道じゃなく香道って説もあるらしいんだけど、俺香道はやってないんだよね」
 秀は素直な尊敬の眼差しを宇都見に寄越した。面映ゆくなった宇都見は背広を脱いで長押にかかっていたハンガーを借りた。振り返ると秀は真っ新な肌襦袢とステテコを身に着けていた。この姿で間抜けに見えないとは。宇都見の場合は一気におっさん化する。
 長襦袢を着た秀に着物を羽織らせていると、コウがたとう紙を手にやって来た。
「なんだ、宇都見着付けできんの?」
「おうよ。コウも先に風呂入ってこい。シュウの次にやってやる」
 サンキューと言いながら空いたベンチに膨らんだたとう紙を置いた巧は素早く服を脱いで風呂に向かった。風呂の引き戸が開いたときに白い湯気が脱衣所に入り込む。 
 秀を着付け終わると同時に巧が風呂を出た。湯気の立つ躰は秀同様腹筋が割れていた。宇都見は鏡に映る自分の薄い躰を見て、筋トレしようと心に誓う。
 秀の姿をまじまじと眺めた巧が感心したように二度頷いた。
「いいじゃん。次こそは着れそう?」
「なんとか。動画見ながらより断然わかりやすかった」
 宇都見が説明しながら着付けると、秀からは要所要所で的確な質問が入った。おそらく次は一人でもなんとかなるだろう。
「へえ。宇都見の隠れスキルだな」
「別に隠してないよ。言う機会がなかっただけで。それより、タエさん着付けてくれないの?」
「一人で着られるようになれってさ。タエさん結構厳しいんだよ。手直しはしてくれるけど」
 汗の引いた巧が足袋をはき、肌襦袢とステテコを身に着ける。なぜイケメンはステテコ姿も様になるのか。宇都見は絶対に筋トレしようと再度誓った。
 巧の着付けが終わる頃、復習も兼ねて観察していた秀がふと顔を上げた。
「ちょっと見てきます」
 そう言って脱衣所から出て行った。
「なんだ?」
「ああ、隣に桜ちゃんがいるんだよ。桜ちゃん着付け苦手みたいで」
「タエさんは?」
「桜ちゃんすら手伝ってもらえない。あくまでも手直しだけ。前回も秀が手伝ってなんとか。宇都見できる?」
「できるけど、シュウが嫌がるだろう」
「それもそうか。ってか、着物着付けられるとかエロいな」
「一度も役立ったことないよ」
「勿体ない」
 本当だよ、と宇都見は小さく笑った。
「菜乃佳ちゃん初詣に誘えば? んで着物着せてやれよ。タエさんが若い頃着てた着物、桜ちゃんに合わせて仕立て直したんだよ。菜乃佳ちゃんって桜ちゃんと似たようなスタイルだろ?」
「やけに勧めるね」
 目を細める宇都見に巧が気のいい笑顔を見せる。
「二人とも光の波長が合ってるんだよ。お互い一緒にいると安まるんじゃないかと俺は思うけどね。そういうのって一緒に暮らしていく上で大事だろ?」
「議員の妻になる物好きはいないよ。そこはある程度覚悟してる」
「政略的な?」
「まあね。愛情だけで結婚はできないって諦めてるよ。安定した生活は保証できないし、平穏からはかけ離れる。数年おきの選挙なんて普通は嫌がるよ」
 着替えやたとう紙をまとめながら巧がふっと気を抜くように笑った。
「宇都見、好きなら諦めるなよ。真面目な付き合いを好む子だっているんだ」
 そうだろうか。宇都見は学生の頃からある種の覚悟をもって女性と付き合ってきた。それが時代に即していないとしても、宇都見にはどうにもできないことだった。

 客間には黒尽くめのタエが正座していた。彼らの正装には誰一人として紋が入っていない。
「おや、直すところはないね。さすがヨッシー」
 巧を見たタエが満足そうに笑う。
「だから、ヨッシーはやめてくださいって」
 ふざけ合いながらも宇都見はタエの目敏さに感心した。
「源ちゃんだろ? 教えたの」
「ええ。よくわかりますね」
「クセが同じなんだよ」
「へえ、クセなんてあるのかあ」と巧が感心しながら袖を広げ、自分の姿を見下ろしている。
 クセ、と言われたところで宇都見自身はわからない。タエの顔を見れば教えてくれるはずもないことは一目瞭然だった。なるほど確かにこれは厳しい。
「ヨッシー、桜の着付けもできるかい?」
「できますけど、シュウが嫌がりますよ」
 タエは最後まで人の話を聞かず、素早く立ち上がるとすたすたと女湯に行き声をかけた。
 秀に伴われた桜の着物はすでに着崩れ気味だった。これは最初からやり直した方が早い。タエに言われるがまま、桜の了承をとって宇佐見が桜と秀に着付けを教える。桜に直接触れるのはあくまでも秀だ。ポイントを抑えながら丁寧に着付けていく。巧が今後の参考にと熱心に見ているが、なんの参考やら。
「ヨッシさん、教え方上手ですね」
 感心する桜に宇都見はもごもご謙遜する。教師の孫、だからだろう。日常的に源三の教え方を間近に見てきたおかげでいつの間にか宇都見にもそれが染み付いた。
 それにしても、と宇都見は心中首を傾げた。
 秀と桜のやりとりが初々しすぎるのだ。着付けるときに秀が桜の正面から背後に手を回す必要がある。軽く抱きつくような姿勢をとるたびに、二人とも面白いほど顔を赤くしている。
 いくら新婚だとしてもまるでその反応は付き合い始めの中学生のような過剰さと清らかさがある。
 まさか、と思い浮かんだ考えを宇都見は即座に否定した。秀は桜と同じ部屋で寝起きしていると言っていたのだ、それはない。それはないはずだが、だとしたらこの妙にお互いを意識しすぎている感じはなんだろう。
 事情を知っていそうな巧に目を移す。からかい混じりの視線を秀たちに向けていた巧がふと顔を上げ、宇都見と視線を交え、そして訳知り顔で笑った。
 うそだろう。宇都見は声に出さず叫んだ。

 膳の支度にとタエと桜が下がり、その手伝いに秀が座を辞す。その間に宇都見は風呂に入るよう勧められた。
「そういえばコウ、」と宇都見は何気なく巧を引き留めた。
 巧が残り、客間の襖が閉まった。秀の気配が消えるのを待って、宇都見は巧に声を潜め尋ねる。
「さっきの、あれ、俺の読み違いじゃないよな」
「あってるんじゃん? あの二人、まだそういう関係じゃないよ」
「だって夫婦だろ? 同じ部屋で寝起きしてるんだろ?」
「そうだけど、まだそうじゃないと俺は思うよ」
「聞いてないのか」
「聞くわけないだろ。そういうことはお互い口出ししないよ」
 この二人は兄弟のようなものだ。身内とそういった話はしにくいし、したくない。
 混乱する頭をなんとか沈めようと宇都見はぐるっと室内を見渡した。襖に描かれた淡く光る草原を見ているうちに次第に頭も落ち着いてきた。
 宇都見の気持ちが落ち着いたのを見計らってか、巧が口を開いた。
「あの二人はさ、十何年だっけ、十六年? そのくらい離れてたんだよ。その間合ったのは三回だけで、そのうち二回は擦れ違っただけなんだ。唯一言葉を交わした一回もおそらく五分や十分の短い時間だ。お互い今をゆっくり受け入れようとしてるんじゃないか? 触れ合うのは子供の頃以来なんだから、そりゃあシュウだって慎重になるだろう」
 よく我慢できるな、と思ったところで宇都見ははたと考えた。後にも先にもたった一人の相手なら失敗できない。合わないから別れて次とはいかない。そう考えたところで宇都見は違和感を覚えた。あの二人に限ってそれはないのではないか。失敗とは思わず、思い違いや思い込みさえも、新たな発見とばかりに相手を受け入れていくのではないか。相手は最初から一人しかいないのだ、互いの存在を丸ごと受け入れていることが前提になる。それは、恋や愛という言葉では括れない途方もない想いではないか。
「なぁコウ」
 宇都見は襖絵の月を見ながら吐露した。
「俺、あの二人が羨ましいよ」
 ゆっくり巧に視線を移す。宇都見の視線を真っ直ぐ捉えた巧は薄く笑った。
「俺もだ。俺には無理だからな」
「考えは変わらないのか」
「俺はそんなに器用じゃないんだよ。宇都見だってそうだろ」
「だな。両方手に入れるには相手の理解に寄るところが大きすぎる」
「そんな都合のいい女はそうそういない」
「いないな。いないのに欲しいんだよなあ。それこそ喉から手が出るほどさ」
 宇都見の脳裡に菜乃佳の細い肩が浮かんだ。
「好きな女をみすみす不幸にするとわかっていて手は出せない、だろ?」
「だよなあ。いいなあ、あの二人」
「宇都見なら十歳やそこらで七歳の女の子を一生の相手と決められたか?」
「無理だよ。まさか、その違いか」
「すげーでかい違いだよ」

 宇都見が風呂から出れば膳が整えられていた。今回はタエも桜も一緒だ。
「タエさん、着物ありがとうございます」
 あのあとタエが用意してくれた着物一式を秀が持ってきたのだ。濃紺の縮緬。なぜか身丈も裄丈もあらゆるサイズがあつらえたようにぴったりだった。ただし、腹に巻く補正タオルが多めに用意されており、宇都見は苦笑を隠せなかった。これは本気で体を鍛えねばならない。
「自分で着られるっていいですね」
 秀がしみじみ言う。
「一度覚えてしまえばあとは慣れだよ」
 お稽古事はいつも宇都見を憂鬱にさせてきた。器用とはいえない宇都見がなんとか様になって見えるのは見る者が素人だからだ。タエのような玄人から見ればよくて及第点だろう。
「ヨッシーもこれからどんどん慣れていくよ」
 見透かしたようなタエの台詞に宇都見は肩の力を抜いた。

 食事が終わり、タエの淹れた茶をみんなで啜りながら他愛もない話が縷々と続く。
 閑かな時間だ。粘る空気が時間さえも引き延ばすように、穏やかな時が緩々と流れる。

 ふと空気が変わった。
 タエも秀も巧も耳を澄ますように顔を上げ辺りの様子を窺っている。一瞬にして緊張が走る。桜と宇都見は無言のまま何事かと視線を交わし合う。
「入り込んだな」
「見てきます」
 タエの声に秀と巧が立ち上がった。揃って出て行く二人の後に宇都見も続く。タエと桜も腰を上げた。
 宇都見が外に出ると木々が騒いでいた。ただでさえ禍々しい夜だ。木々のざわめきが不穏さを増す。
 宇都見はぶるっと震えた。少し遅れて外に出てきたタエが宇都見の肩に羽織をかけた。ありがたく袖を通す。秀と巧にも桜が羽織を渡している。秀が桜を家の中に戻した。宇都見も軒下から出ないよう言われる。
「時々ね、入り込んでくるんだよ」
 タエの声はぞっとするほど低かった。たじろいだ宇都見には入り込んでくるものが自分の知る生きものだとは思えなかった。
「何がですか?」
 意味のない問いかけだとわかっている。わかってはいても、宇都見は口に出さずにはいられなかった。
 タエが宇都見に一歩近付き、瞳の奥をのぞき込むようにじっと見上げてきた。あまりの威圧感に宇都見は身動ぐこともできない。ほんの一瞬か、それとも数十分か。またしても時間の感覚があやふやになる。タエがすっと視線を逸らすと同時に宇都見の躰は自由を取り戻した。

 吐く息が白い。肺を満たす凜冽な空気は重く、締めつけるような圧迫感が全身を絞る。
 月明かりはない。闇が深い。
 外へと続く小道の先を秀も巧も口を真一文字に引き結び睨み付けている。二人の前にタエが立つ。
 ひりつく緊張が肌を刺す。
 木々が強風に煽られるようにうねり軋んだ。
 ごうっと地を這うような轟音が迫る。
 一際強い風の気配が間近に迫った瞬間、タエが一拍手を打った。ぱん、という小さな破裂音。烈風がタエの目の前で飛散した。
 タエが何かを封じた。宇都見にはそうとしか思えなかった。