硲153番地
エリアCLⅢ分け目②
今日もおつかれさまです
菜乃佳から送られてきた文字に宇都見は頬を緩めた。頭の中では菜乃佳のおっとりした声でその文字は再生される。
小田原ドライブ以降、宇都見は菜乃佳と文字のやりとりをしていた。
あの日、何より宇都見を驚かせたのは、秀が桜の育った場所を知らなかったことだ。いや、さすがに小田原だということは知っていたらしい。ただ、それを知ったのが婚姻届を記入するときだったと聞いて呆気にとられた。おまけに桜も秀の育った場所を知らなかったというのだから宇都見は二人の関係をどう捉えていいのかわからなかった。
「じゃあ、いつ出会ったんだ?」
「前にも言いましたけど、二十年ほど前ですよ。彼女の両親に保護されていた三年ほど一緒に過ごしました」
宇都見はぼんやり思った。たしか世間ではそれを初恋といい、それを育てると純愛というものになるのではなかったか。作り話の中にしかないものが目の前に存在した。
桜が四歳、秀が七歳の出会いから三年間、二人は片時も離れなかったらしい。
そんな記憶も定かではない子供の頃に、秀と桜は互いを一生の相手と定めたらしい。宇都見には全くわからない感覚だった。
宇都見の初恋は小学四年の初夏、ある日ポニーテールをしてきた隣の席の女子が急に気になるようになったという、言ってしまえば単純なものだった。そこから惚れっぽさを次々発揮し、小中高と報われない恋ばかりしてきた。今思えば恋とすら呼べるようなものでもなかった。
大学でようやくできた彼女にはたったひと月でふられ、次の彼女とは三ヶ月、その次は僅か五日で終わっている。いずれも「なんだか合わないみたい」という曖昧な理由で、宇都見の悲愴感とは対称的にさっぱりした笑顔で別れを告げられている。試しに付き合ってみたが相手にとって宇都見はつまらない男だった、ということなのだろう。なんとなく事情を知る者たちに漂う雰囲気がそう知らせてきた。
それ以降、惚れっぽさは変わらなかったが、いざ付き合うというなると慎重になりすぎ、彼女ができないまま現在の宇都見が出来上がった。
だからなのか、宇都見は秀と桜の関係が羨ましくもあった。
「それがなんで離れ離れになったの?」
それに秀が「彼女の両親が相次いで亡くなったので」と答えたことで、宇都見は口を噤んだ。
宇都見は、秀と巧の核となる個人的な話をしたことがほとんどない。施設にいたことも、そこで経験した様々なことも、その時々で話題にのぼったが、それ以前の二人についてをほとんど知らない。
風の噂で巧が大手リゾートホテル経営の長内グループ社長の隠し子だと聞こえてきたことがある。さすがに詳しく聞くつもりはなかった。事実はどうであれ、巧が児童養護施設で育ったことに間違いはない。万が一隠し子であったなら巧は長内を名乗れないだろう。なにより、次期社長といわれている男と巧はよく似ていた。
秀からは身元不明児だったことを何かのついでのようにさらっと言われたことがある。絶句する宇都見に秀は「そんなに驚くことですか?」と逆に驚いていた。彼らにとって身元不明児は特段珍しいことではないという事実は、平々凡々と生きてきた宇都見に衝撃を与えた。
頭の中で繰り返される「おつかれさま」を宇都見は直接聞きたくなった。
文字が送られてきたのは午後八時四十三分。腕時計を見れば午後九時五十七分。いつもよりは早く帰宅できた。しかし、付き合っているわけでもない女性への連絡となると非常識だろうか。宇都見は悶々と考えた末「菜乃佳さんも今日一日おつかれさまでした」という無難すぎる文字を送った。
臨時国会閉会以降、公用車の使用をなんとか回避し、現在はその日の予定で電車か自家用車かを使い分けている。公務中は秘書に運転してもらってもいる。ただ、行き帰りは自分で運転する。宇都見にとって、秘書はあくまでも同僚だ。
車から降りようとしたときスマホが震えた。ディスプレイを確認すると菜乃佳から。宇都見は車から降りることなく、急いでイヤホンを耳にねじ込んだ。
『もしもし、二見ですが、遅い時間にすみません、今よろしいでしょうか』
声が聞きたいと思ったタイミングで声が聴けた。宇都見の胸は浮かれ騒いだ。
「よろしいですよ」
言った直後、宇佐見は猛烈な羞恥に襲われた。浮かれすぎだ。
『こんばんは。宇都見さん、今家ですか?』
「いえ。まだ車です」
直前の言葉に気を取られ、次は他人行儀に響いた。
『あ、改めましょうか』
「ああいや、ちょうど家の駐車場にいますから、大丈夫です」
菜乃佳の気遣うような気配に、宇佐見は慌てて声のトーンを変えた。駐車場と言うには小さなスペースですけど、と宇都見は笑った。耳に菜乃佳の笑い声が広がる。
『実は、先日お話ししていたお部屋の件、もう少し詳しく教えていただきたくて』
硲の客間にみんなで泊まった夜、菜乃佳がようやく一人暮らしすることにしたのだと打ち明けた。そこでどこが住み良いかみんなに訊いてきたのだ。できれば桜の住む硲に近いところがいいらしい。
「そうなると乗り換えになるけど、いいの? 結構面倒だよ」
「改札通らずに乗り換えられるといいんだけどね」
巧と秀の言うことを菜乃佳はひとつひとつ頷きながら聞いている。
「ここからだとどこの駅になりますか?」
三人が利用している最寄り駅を聞いた菜乃佳はスマホで路線図を確認している。
「新宿で山手線に乗り換えればいいのね」
隣からのぞき込んでいる桜に「途中まで一緒に行けるね」と話しかけられ、菜乃佳は嬉しそうに笑っていた。
「シュウたちの使っている駅じゃなくて、俺の使ってる駅だと大井町で乗り換えだよ。ここにはバス一本で来られるはずだ」
宇都見の意見に巧も、ああそうか、と自分のスマホに視線を落とした。巧は地図アプリを見ている。横から秀がのぞき込んだ。
「そうだな、俺たちは新宿乗り換えが便利だけど、品川ならそっちの方が便はいいな」
巧に言われ、菜乃佳が再度路線を検索している。巧と秀の会社はともに日本橋だ。
「あとは地元だからいくらでも不動産紹介できるってメリットもある」
そんな話をしていたのだ。急いで結論を出す必要もないならゆっくり考えればいいということで話は終わっていた。
「桜さんと同じ駅じゃなくていいの?」
『本音を言えば同じ駅の方が心強いです。でも宇都見さんが仰った通り、通勤を優先するなら桜のところへはバスでもいいかなって。それでも今と比べれば十分近いですから』
たしかにね、と宇都見は笑った。
「次に桜さんのとこに泊めてもらうのっていつか決まってる?」
『いえ。先に宇都見さんにお伺いしてからと思って』
「遅い時間になってもいいなら俺はいつでもいいよ」
『十二月の半ば前後は来客があるらしくて、その頭までには一度お邪魔させていただこうかと思っています』
たしか秀たちは「分け目」と言っていた。議員たちは春か秋だけだと思っているようだが、実際は春夏秋冬の年に四回の分け目がある。客のない場合も多々あるらしく、その時は「宇都見暇なら来いよ」と巧に軽く誘われていた。タエにまで「源ちゃんと一緒においでよ」と言われる始末だ。ちなみにそれを伝えた源三にからは、狼狽と苦渋が綯い交ぜになった表情を添えた「別の日にするよ」との返事を預かっている。変なところで好奇心の強い宇都見はもう一度あの水底のような空気に触れてみたかった。源三は二度と御免らしい。
「先に両親に話してからになりますが、お時間いただけますか」
年末になればなるほど宇都見も忙しくなる。師走は議員も走る。できれば早いうちにということで菜乃佳との話はついた。
宇都見はそのまま巧に電話する。秀の方には桜経由で話が行くだろう。自分の車の中は気安い。宇都見はコール音を聞きながらシートを軽く倒した。
おう、と聞こえてきた声に、直前の会話をかいつまんで説明する。
『あー、今週末はチビ共の高校の文化祭なんだよ。俺もシュウも顔出すことになってる』
「ああ、それ俺も顔出すことになってたな」
チビ共とは彼らと同室だった子供たちのことだ。来年には高校も卒業するというのに未だチビと呼ばれる彼らが宇都見は不憫だった。さすがに本人たちの前では巧も呼ばない。
『お前が顔を出すのは校長室か応接室だろ』
「まあね。その日は文化の日ほどじゃないけど文化祭がいくつか重なってるんだよ」
『日曜は?』
「最近日曜は休みにしてる。雑用片付けるくらい」
最近になって宇都見は休養も必要だということにようやく気付いた。前から知ってはいたがこれまで必死にやり過ぎた。必死にやればやるほど余裕がなくなり、視野が狭まっていることに気付いたのは間違いなく硲で過ごしたことが影響している。なにより、宇都見が積極的に休まない限り、周りのスタッフも休めないのだ。
『さすがに宇都見大先生と菜乃佳ちゃんの二人きりは拙いだろうな』
巧のふざけた口調に宇都見は笑う。疲れた心に気安さが沁みる。
「拙いね。俺はいいけど彼女を巻き込みたくないよ。それに今、見合い話が半端ない。おかげで政治記者だけじゃなく芸能記者まで張り付いている」
硲の招待以降、あらゆるところから見合い話がひっきりなしに舞い込むようになった。
『断り切れんの?』
「相手によっては難しいだろうね。まだそこまでじゃないけど」
『相手も様子見てるだろうしな。今のうちに手を打った方がいいぞ』
「手を打つも何も相手がいない」
『菜乃佳ちゃんは?』
「俺の一存で決められることじゃないだろう」
『俺はいいと思うけどね。初心者同士、上手くいきそうだよ』
宇都見は一瞬口を噤んだ。
『なんだよ』
「コウはいいのか?」
『いいも何も、俺と菜乃佳ちゃんはただの同士だよ。そんなに仲良く見えたか?』
宇都見の目には菜乃佳は巧に気を許しているように映った。それを伝えると、電波の先から笑う気配が伝わってきた。
『俺さあ、子供の頃シュウに会わなかったら今どうなってたかわからないんだよ。少なくともまともじゃなかっただろうな』
宇都見は黙って聞いた。
『前に、子供の頃から光が見えてたって言っただろう』
「ああ」
『俺とシュウじゃ見え方が違うんだよ。たぶん桜ちゃんの存在が関係してるんだと思うけど、俺の見え方は結構グロテスクだった』
「グロテスク?」
『そう、グロテスク。人の意思みたいなものまで反映される』
「それは……」
言葉を無くした宇都見に巧は息遣いだけで笑った。
『ガキの頃からそんなの見えてみろよ、絶望するだろう?』
目に見えるわかりやすい感情ですら子供の頃は敏感に察知していた。目に見えない感情まで読み取れてしまえば、誰も信用できなくなる。その程度は宇都見にもわかる。
『俺はシュウに出会って安定したんだ。シュウにとっての桜ちゃんの役割を俺の場合はシュウが担ってくれていたんだと思う』
宇都見はどんな言葉も発することができなかった。黙り込んだ宇都見を巧が軽く笑う。
『結構重いだろ?』
「重いな」
『たぶん、似たようなことが桜ちゃんと菜乃佳ちゃんの間にもあるんだよ。あの二人はお互い支え合っている』
言われてみれば、仲がいいというだけの存在とは少し違うような気がする。宇都見は二人を思い浮かべた。宇都見にとって友達とは成長過程において常に入れ替わるものだった。小学校低学年の時の友達、高学年の友達、中学の友達、高校の友達、大学の友達。環境ごとに新しい友情が芽生えた。そのたびに付き合いが途絶える関係もあれば、細く長く続いている関係もある。宇都見はどこまでも尋常だった。
『いや、支え合っていた、だな。今の桜ちゃんを支えているのはシュウなんだ』
「ああ、それでか」
『そう、不安になったんだろうな』
「コウは平気なのか?」
『俺はここにいるせいか、それまで以上に安定してる。おかげで大口二件取れた。ボーナス倍増』
「おごれよ」
『やだよ。捕まるだろうが』
「捕まらねーよ。完全にプライベートだ。そこまで法も無情じゃないよ」
『そういうもん?』
「そういうもんだよ。まあ、そこで騙される奴もいるけどね。だから俺は誰も信用しない」
『お前大変だな、なんだよその殺伐感』
「お前ほどじゃないよ。それよりどうする?」
『さあ。桜ちゃんとどうするか決めるだろ。俺たちはそれに合わせるだけだよ。男は女に合わせるだけで世の中上手く廻る』
「そういうもん?」
『案外ね。まあ、がんばってみろよ。宇都見と菜乃佳ちゃん、俺は合ってると思うよ。ちなみに菜乃佳ちゃんの三等親以内に犯罪者はいない』
「なんでわかるんだよ。まさか、そういうこともわかるわけ?」
『そんなわけないだろ。彼女の母親警察官なんだよ。父親は消防士。前になんかで桜ちゃんがちらっと言ってた。だから菜乃佳ちゃん、公務員は嫌なんだって』
「へえ、そんなもん?」
『そんなもんなんじゃないの? 知らんけど』
「俺も公務員なんだけど」
『お前の場合は期間限定だろ。本物の公務員じゃない』
「厳しいこと言うね」
『事実だろうが。公務員でいられるようがんばれよ』
軽々しい応援に宇都見は声を上げて笑った。
車を降りた宇都見は息を殺し周囲の気配を探った。特に何も感じない。ここ数日は静かだ。先日政治家たちとも近しい大物女優の不倫が発覚したせいだろう。
玄関の鍵を開けると、リビングから奈緒美の「おかえり」が聞こえてきた。
「ああそっか、今日じーさん温泉か」
年に一度か二度、何かの集まりで源三は一泊旅行に出掛ける。同級会だったり、町内会だったり、商工会だったり、出掛ける相手は時々で様々だ。
リビングでは奈緒美が一人で深夜のバラエティ番組を見ていた。時計を見れば二十三時を回っていた。
「そういうの好きだったっけ?」
「今日子供たちに馬鹿にされたの。なんとかってお笑い芸人の名前言われたんだけど、わからなくって」
「子供相手も大変だな」
背広を脱ぎ、ソファーの背にかける。冷蔵庫からミネラルウォーターを持ってきて、奈緒美の斜向かいに座った。奈緒美はオットマンに膝を抱えて座っている。彼女は子供の頃から背もたれのあるソファーではなく、座面だけのオットマンで膝を抱えていた。
「お父さんたち、年末はむこうで過ごすって」
テレビ画面に視線を固定したまま奈緒美が言った。画面の向こうでは雛壇に座った芸人たちが一斉に立ち上がり司会者に突っ込んでいる。
「今年は私もむこうで年越しする」
「悪いな、板挟みにして」
奈緒美がゆっくり首を回し宇都見を見た。
「私とお母さんは、お父さんもお祖父ちゃんもお兄ちゃんも、みんな好きだからね」
「そうか。俺もだ」
「うん。きっとお祖父ちゃんもそうだし、お父さんもそうだよ」
奈緒美は再び画面に視線を戻した。宇都見も同じように画面を眺める。画面の向こうは騒がしい。
「まあな。それでも、俺は奈緒美の存在に助けられてるよ」
「お兄ちゃん、後悔してる?」
「どうかな。後悔するまでまだ生きてない。今はこれでよかったと思ってる」
「そっか。いつだったかお母さんも同じこと言ってた。きっとこれでいいのよって。なるようになるわって。たぶんお父さんのとこに行くときだと思う」
不意に宇都見は、見慣れていたはずの妹の肩の薄さにどきっとした。こんなに細かっただろうか。
「奈緒美、大丈夫か?」
咄嗟に口を衝いた宇都見を遮るように奈緒美が言った。
「お兄ちゃん、一つだけお願いしてもいい?」
「なんだ?」
言いながら奈緒美の目を見た宇都見は、思い掛けず真剣な視線とぶつかった。
「私、結婚はしないと思う」
「なんでだ?」
純粋な疑問だった。宇都見は奈緒美から付き合っている男を紹介されたこともなければ、直接そんな話を聞いたこともない。だが、男の気配がないわけでもなかった。
「結婚できないから?」
「は? 疑問に疑問で返すなよ。なんかあったのか?」
「別に。とにかく、私は結婚しないから、それについてのみんなの期待にはお兄ちゃん一人で応えて」
ふてくされたように口をとがらすのは子供の頃からの奈緒美のクセだ。源三にみっともないからやめるよう再三言われても直らない。
「まさか、お前……」
「あのね、違うからね。不倫じゃないから。今世間が不倫で沸いてるからって、自分の妹までそういう目で見るのやめてよね」
「じゃあなんだよ」
「別にいいでしょ。いまどき結婚が全てじゃないんだから」
宇都見は妹の顔をまじまじと見た。なんてことない口調のわりに、その目は緊張をはらんでいた。
男と別れたか。最初に浮かんだのがそれで、その程度のことしか想像しかできない己の経験値の低さに宇都見は天を仰ぎたくなった。