硲153番地
エリアCLⅢ
分け目①


 帰りの公用車の中で宇都見のスマホが震えた。珍しく巧からの電話だ。
『遅くに悪い。今平気?』
 外は夜の雨に霞んでいる。
「いつもお世話になっております」
 運転手が聞き耳を立てているような気がする。最近すっかり宇都見専用になっているハイブリッド車の運転手は守秘義務のある国家公務員だ。彼もまた宇都見専任になりつつある。車内はハイブリッドということもあって雨の中でもかなり静かだ。宇都見はスマホの音量をそっと下げた。
『まだ家じゃないのかよ。お疲れ。来週の土曜に桜ちゃんの友達が遊びに来るんだけど、宇都見も来る?』
「ええ、是非にでも」
 成人に際し父親から贈られた腕時計の針は二十三時を回っていた。月に行ったことのあるモデルの復刻版は手巻き式で、毎朝時間を合わせ巻き上げるのが宇都見の日課になっている。
『でもまだ会期中なんだろう?』
「ええ、そうですね」
 国道246号線が首都高速3号線の高架と別れを告げる。ここまで来ると宇都見はいつも帰ってきたという実感が湧く。この先のアンダーバスを抜けて脇道に入ると一層地元感が強まる。宇都見の実家はS区の端にあった。入り組んだ狭い路地はS区の特徴でもある。
『だよな。ダメ元で電話した。土曜の昼過ぎに来て一泊していくって。遅くなってもいいから適当に来いよ』
「承知しました」
『当日家帰ったら連絡して。迎えに行くよ。お前の車マークされてるだろう?』
「よろしくお願いします」
 通話を終えた宇佐見は溜息を呑み込んだ。
 窓の外は雨粒が光を反射して景色が滲んでいる。秋の終わりの雨はどうしてこうも物悲しいのか。
 エリアCLⅢの招待以降、宇都見の見えない地位は下がることなく上がり続けている。何も知らないはずの若手議員たちでさえ、周りの空気を読んで一目置くようになった。
 始めの頃こそ不満が燻っていた宇都見の公用車使用も、今や当たり前となりつつある。無事に招待を終えた今はSPこそ外されたものの、要職に就いているわけでもない一介の議員が専用の公用車を宛がわれるなどありえない。宇都見の場合は電車かマイカーで十分だ。幸い議員会館の駐車場はいつも空いている。

 宇都見は巧から連絡が来た数日後、車内でさり気なく呟いた。試してみたくなったのだ。
「最悪でも次の金曜までに閉会しないと……拙いな」

 エリアCLⅢについては聞けば聞くほど面白いことがわかってきた。
 両隣の神社と寺のことを聞いたときのタエの言い方が面白かった。
「ああ、あれ偽物だよ。本当は寺でもなければ神社でもない、擬態だよ、よく出来てるだろう」
 建前上神社や寺の形をとっているが実際はどちらも硲の地を護っている。元は一つの聖域のような扱いだったのが、神仏分離の際、硲を禁足地としてその左右を寺と神社に分けた。その理由はわりといい加減で、どちらか一方を決めかねた苦肉の策らしい。寺にあるのは境井家の墓だけだ。過去に宇都見が瞥見した限り、墓石というよりは石碑のようで、大きな自然石が木々の間に粛然と佇んでいる。木漏れ日に何かの結晶がちらついていたのを覚えている。
 その運営がどうなっているのかはタエも関知していない。宗教法人ではなく、あくまでも民間団体。各団体からは黙認されている。氏子や檀家のような支援者もいる。法に反しているわけではないらしい。宇都見も何度か訪れたことがある神社も寺もかなり立派だ。
 何も知らない民間人が何も知らないまま硲の地に向かって参詣していく。宇都見自身も何も知らないまま、子供の頃から大晦日は玄光(げんこう)寺で除夜の鐘をつき、元旦は隣の月門(あわい)神社でおみくじを引いてきた。二年参りするには近くて便利だったのだ。
 お守りや御札はそれぞれの土地から出た間伐材から作られている。宇都見自身、あの光を実際に見ていなければぼったくりだと騒いだだろうが、あの光を見てしまえばここがどういう場所なのか本能で察する。この地で育った樹だ、間伐材とはいえ御利益があるだろう。時々床柱材として切り出される成のいい木はかなりの高値で取引されるらしい。寺には宿坊まであり、冗談半分で調べたらなんと海外のホテルサイトで絶賛されていた。
 硲に境に井、玄に光、そして月に門であわいと読むなら間のことだろう。総じて同じことを示していると宇都見は考えている。

「もしもしコウ? いま家」
『こっちももうすぐ着くよ』
 臨時国会は予定していた会期より少しだけ早く、水曜には閉会した。
 宇都見はその翌々日まで雑務に追われたが、この週末は本来会期中だったため重要な予定はなく、土曜の午前中は後援会に顔を出し、いくつかの打ち合わせを終えれば、午後からは久しぶりのフリーだった。
 家の前に停まった車を見て宇都見は驚いた。
「なんだ、車買ったの?」
 運転席の秀と助手席の巧が揃って軽く手を上げた。この二人は時々兄弟みたいに仕草がシンクロする。
「ええ、今まではコンパクトカーでしたから、思い切って買い替えたんですよ。みんなで買い物に行くと荷物が載らなくて」
 秀はそれまで会社の先輩が車を買い替える際に安く譲ってもらったというハッチバックのコンパクトカーに乗っていた。目の前にあるのはどう見ても新車のクロスオーバーSUVだ。色は黒。
「これ何人乗り?」
「七人ですね」
 後部座席に乗り込んでみれば黒で統一された内装も豪華だった。
「シート革かあ」
「タエさんが革じゃなきゃ嫌だって言い張って」
「スポンサーなの?」
「シュウとタエさんと俺の三分割。だから豪華なんだよ」
 助手席に座る巧が振り向きざまに言う。秀の運転する車が静かに動き出した。
「一人頭いくら?」
「百五十万くらい」
「百五十万でこれか、いいな」
「だろ。タエさん運転できないから、運転手代と助手席のリザーブ代として俺たちの分三十万ずつ出してくれた。実質百二十万」
「なんだそれ、いいな」
 後部座席から身を乗り出して運転席を眺める。宇都見も買い替えたくなった。
「しかもタエさんの知り合いのディーラーが破格の値引きしてくれた結果、百万ぽっきり」
「うそだろ、俺にも紹介して」
「タエさんに頼めよ」
 二人とも新しい車が嬉しそうだ。車内に流れる音楽は巧の趣味だろうオルタナティブ・ロック。余計な装飾は一切なく、助手席用に小さなバックミラーが付いていた。
「桜ちゃんは?」
「タエさんと飯の仕込み中。シュウも残ろうとしたら、いても邪魔だってタエさんに追い出されたんだよ」
「このまま菜乃佳さんを迎えに行きます」
「なのかっていうの?」
「そう、二見 菜乃佳。二つを見るに菜の花乃ち佳日に咲く」
 頭の中で漢字を思い起こす。麗らかな春の日、そよぐ風に揺れる一面の菜の花畑が思い浮かんだ。青空に映える黄色が眩しくて、宇都見は想像上の景色に目を眇めた。
「綺麗な名前だな」
「本人も綺麗な子だよ。どうも桜ちゃんと一緒にいるせいか自分は平凡だと思い込んでるみたいだけどね」
「ずっと桜を支えてくれてた人なんですよ」
 秀がバックミラー越しに宇都見に視線を寄越す。
「のんびりした口調なんだけど、結構芯はしっかりしてるよ」
「へえ、どこに住んでるの?」
「小田原。会社は品川だって」
「小田原? 遠くないか? ああ、でも東海道線一本か」
「一時間ちょっとかかるって。ドアツードアで一時間半。結構大変らしい。新幹線なら三十分かかんないら一時切り替えてみたら、一ヶ月の定期代七万越えで今度は金銭的に辛いらしい。在来線でも一ヶ月の定期三万六千だって」
「そこまでして都内で働きたいもんかね」
「単純に内定もらった中でそこが一番条件よかったらしい」
 このご時世、複数内定もらえるということは優秀なのだろう。
「東海道だとこっち来るの面倒だな」
「蒲田で乗り換えてもらって田園調布で待ち合わせ。多摩川でもよかったんだけど、あそこ車停められないだろ」
「明日は彼女を送りがてら小田原までドライブですよ。タエさんが海見るの久しぶりだって張り切ってて」
 秀自身の声も弾んでいた。
「へえ。なんか楽しそうだな」
 窓を少しだけ開ける。車は多摩川沿いを走っている。車内に入り込んでくる風は秋の気配を濃くしていた。
「宇都見もいい気分転換になるだろ? すでにタエさんがナビの設定まで済ませてるよ。お前ちゃんと着替え持ってきただろうな」
「当然」
「宇都見が来るときじゃないとあの風呂入れてくれないからなあ。宇都見毎週来いよ」
「部屋の風呂小さいの?」
「いや、宇都見んちの風呂と同じくらい」
「一人暮らしのくせに贅沢だな」
「まあ、実際二人暮らし用だよな、あの部屋」
「そうかもね。八畳と六畳の二間続きなので、桜と一緒でもゆとりがあるんですよ。共用のリビングやキッチンは別にあるので、実質寝室みたいなものです」
「それって流行(はやり)のシェアハウスみたいだな」
「ああ、そうかもな。思いっきり家が和風だからそんな言葉思い浮かばなかったよ。どっちかといったら旅館だよなあ」

 話しているうちに田園調布駅に到着した。待ち合わせまでまだ二十分ある。車を脇に駐めると、巧はコーヒーを買ってくると言って車を降りた。
「ああ、そういえば、やっぱ運転手スパイだった」
「もしかして臨時国会の閉会って……結構慌ただしく終わりましたよね」
「たぶんね。先週車の中で何気に言ってみたんだよ、臨時国会最悪来週末には終わらないと拙いなーって」
 秀が思わずといったふうに笑う。
「わかりやすいですね」
「だろ。まあ、俺が気を付ければいいだけなんだけど、さすがに公用車はもう勘弁してほしいわ」
「でも一応の名目は特命担当大臣でしたっけ、それに任命されたからじゃないんですか? 無所属なのにすごいですよね」
「そうだけど、それだって俺の実績じゃなくて、硲に招待されたからだと思うし」
「でも宇都見さんが目指すものに近いですよね」
 宇都見が任命されたのは児童虐待防止対策の特命担当大臣だ。宇都見のほかにもう一人、福祉系に強い女性議員が任命されている。福祉に力を入れたい宇都見にとっては渡りに舟だが、端から見ればどう考えても宇都見は添え物だった。
「まあね。そよかぜ園への本格的な視察も検討してる。できれば佐島さんとは突っ込んだ意見交換したいんだけど、忙しいから無理だろうな」
「難しいでしょうね。案外コウが役立つかもしれませんよ。次の施設長ですから」
「そうなの?」
「そうなんですよ。一応そういうつもりでコウは動いてます」
「シュウは?」
「俺はコウの補佐ですね。あくまでも外で働いて資金や援助を繋いでいくつもりです」
「桜ちゃん知ってるの?」
「もちろん。漠然とですけどいずれ俺たちの補佐をする気でいるんだと思います。だから巧の会社に入ったんじゃないかな。桜ならほかの職種も考えられたでしょうから」
 それは秀も同じだろう。学生時代に芸能事務所からしつこいほどスカウトされていたのを宇都見は知っている。それについて悩んでいたことも。秀が広告塔になることでそよかぜ園を支えられるか、巧と真剣に話し合っていた。宇都見も相談された。それを源三に相談し、源三も交えて話し合ったこともある。資金的には潤うだろうが、万が一マスコミの餌食となった場合、子供たちへの影響は計り知れない。そんな佐島施設長の言葉に、秀は呆気ないほどあっさり全てを断り、声がかかっていた大手企業の就職を決めた。すでに自社からの援助を実現させている。今は衣料メーカーからの継続的な援助が欲しいらしく、地道に交渉を続けている。子供たちに一方的に与えるのではなく、選ばせてやりたいらしい。そんな一般家庭なら当たり前の自由を提供してくれる援助を彼らは常に模索している。

 巧が戻って来た。その後ろに両手にひとつずつカップを持った女性を連れている。彼女が運転席の秀に笑いかけた。確かに綺麗な女性だ、と思いながら宇都見は彼女の嘘のない笑顔を眺めた。
 片手で二つのカップを持った巧が後部座席のドアを開けると、彼女は柔らかな笑顔で「ありがとうございます」と言いながら乗り込もうとして動きを止めた。目を丸くして宇都見を凝視している。
「え? 宇都見、議員?」
 宇佐見は笑い出しそうになった。
 衆議院議員を呼ぶ場合、阿るように「先生」と呼ぶ人間が一定数いる。若輩を先生と呼ぶ無神経さに宇都見は辟易していた。未だに代議士先生と呼ぶ人もいる。中には期待を込めて「先生」と呼ぶ人もいて、そのときばかりは宇都見も背が伸びる思いがする。
 その点、議員という職に無関心な人はとりあえずといった感じで議員をつけて呼ぶ。初対面でさん付けするには肩書きが大きすぎるのだ。
「菜乃佳ちゃん、とりあえず乗って」
 巧の声に菜乃佳が慌てた。彼女の両手のコーヒーを一旦宇都見が預かると、菜乃佳はありがとうございますと礼を言いながら急いで乗り込んできた。ふわっと柔らかな匂いが車内に広がる。
「菜乃佳ちゃん、もう着いてたよ。ついでにコーヒー買いに付き合ってもらった」
 全体的にふわっとした印象の女性だ。顎の下で切り揃えられているふわふわした髪が揺れた。服装もシンプルなパンツスタイルなのにどことなくふわふわして見える。
「あ、菜乃佳ちゃんが持ってきたのがシュウのだ。シュウ、ラテだろ?」
 どっち? と宇都見が訊けば、菜乃佳がこっちと指を差す。声もふわっとしている。宇都見は片方を秀に、もう片方を菜乃佳に渡した。意図せず指先がほんの少し触れた。菜乃佳がさり気なく動揺を隠したことに宇都見は逆に動揺した。
「宇都見のはこれ。たしかここはミストだったよな」
「よく憶えてるな」
「まあね、仕事柄だな」
 宇都見はコーヒーチェーン店ごとに飲む銘柄がだいたい決まっている。セイレーンがロゴマークのこの店ではいつもカフェミストを頼んでいた。エスプレッソベースのラテよりドリップコーヒーをベースとするミストの方が飲みやすいのだ。
「私、カフェオレがあるって知らなかったんです」
「もしかしてミスト?」
「はい。イタリアに何度も行っていたのにカフェミストがカフェオレって知らなくて。なんとなくラテしかないのかと思っていました」
 菜乃佳がふふっと小さく笑った。肩に掛かっていたタータンチェックのストールがその拍子にほんの少し滑り落ちる。
 少し低めのおっとりした彼女の声には聞き手を安心させる微かなゆらぎがあった。たしか、1/Fゆらぎというのではなかったか。
「ヨッシー、見過ぎ」
 からかうような巧の声に宇都見は咄嗟にカップを口元に運ぶ。
「宇都見さんは大学の一年先輩なんです。コウと同い年です」
 絶妙なタイミングで秀が声を上げた。
「初めまして。二見 菜乃佳です」
 微笑する菜乃佳の細い肩や首が宇都見の目には心許なく映った。
「初めまして、宇都見 義直です」
 声に緊張が出てやしないか、宇都見は心中穏やかではなかった。
「ヨッシーって呼んでやって」
「ヨッシーはやめろ」
「宇都見さんとお呼びしても……外では別の呼び方の方がいいですよね」
 ほんの少し眉を寄せた菜乃佳を宇都見は聡い人だと思った。宇都見は彼らの中にいるときはただの男でありたいと思っている。いや、願っているといった方が正しい。
 今や誰がどこにいて何をしていたか、SNSを通じてあっという間に拡散される。宇都見という名が衆議院議員と直結するかどうかは人それぞれだろうし、誰も宇都見のことなど気にしてはいないだろうが、万が一のリスクは冒したくない。
「桜はヨッシさんって呼んでるよ」
「あ、じゃあ私も。外ではヨッシさんとお呼びしてもいいですか?」
 菜乃佳の笑顔に頷きで応えながら、宇都見はもう取り返しがつかないことを自覚していた。どうしてこうも惚れっぽいのか。女性に縁がなさ過ぎるのだ。若くして国会議員になどになるから、周りには猛者しかいなくなるのだ。いや違う、猛者でなければ国会議員になどなれないのだ。
 宇都見は童貞脳だと馬鹿にされても、どこか控えめな女性が好きだった。
 前を向く巧の口元がにやついているのを宇都見は苦々しく眺めていた。