硲153番地
エリアCLⅢ
菜乃佳


 ありがとう
 透かしの入った和紙の葉書には、それだけが記されていた。どういう仕組みなのか、陽に翳すと閉じ込められた桜の花びらの縁に小さな光が煌めいていた。
 とても美しい葉書だった。丁寧に(したた)められた「ありがとう」の文字は見れば見るほど書き手の感情を伝えてきた。錯覚だとわかってはいても、文字の向こうにその笑顔まで見えるようだった。
 差出人の名前はなくとも二見 菜乃佳(ふたみ なのか)にはそれが誰から届いたものかわかっていた。



 菜乃佳の通う小学校に転校生がやって来たのは入学式の二ヶ月後のことだった。
 お人形のようにかわいらしい転校生に子供たちは群がった。休み時間になれば隣の教室からも転校生を見に来る子供たちで転校生の周囲は連日騒がしかった。
 菜乃佳は転校生を少しだけ羨ましく思っていた。自分から声をかけずともみんなから話しかけてもらえる。菜乃佳もゆっくり話しかけられれば、ちゃんと答えられる。
 とはいえ、女の子は往々にしてせっかちだ。せっつくように話しかけられ、慌てた菜乃佳が言葉を選んでいるうちに相手は待ちきれずほかに興味を移してしまう。菜乃佳が口を開く頃には別の子との会話に夢中で、菜乃佳はいつも置いてけぼりを食らっていた。
 教室では同じ保育園や幼稚園同士の子供たちがいくつかのグループを作っている。菜乃佳の小学校入学を機に両親が引っ越しを決めたため、菜乃佳にはこの教室どころかこの地域に知り合いはいない。引っ込み思案の性格が災いしてか、菜乃佳はなかなか友達をつくれずにいた。
 菜乃佳ちゃんって、ワンテンポ遅いよね。
 周囲からそう言われていることを菜乃佳は知っている。両親にも「もう少しはきはきテンポよく答えなさい」と常に注意されていた。努力はしている。結果が伴わない。菜乃佳がどれだけ努力しても、相手は菜乃佳をほんの少しも待ってはくれなかった。菜乃佳が周りのスピードに追いつくのは至難の業で、かといって仲間外れにされているわけでもなく、何かあればどこかしらのグループに招き入れられる。特に仲がいいわけではない人数合わせの子。それが菜乃佳だった。

 ひと月もすると、転校生の周りは静かになった。どこか清々して見える転校生が菜乃佳は気になって仕方ない。
 授業中の転校生は先生の話など聞かず、黙々とドリルを解いている。ちらっと盗み見たドリルは菜乃佳たちが解くものよりずっと文字が小さく複雑だった。先生はそれを注意しない。一度誰かがそれについて担任の先生に質問したことがあった。若い男の先生は笑いながら別の話にすり替えてみんなを煙に巻いた。そのせいもあってか、みんなはますます転校生を遠巻きにするようになっていった。

 転校生は誰とも口を利かなかった。
 転校生はほんの少しも笑わなかった。

 夏休みを控えた朝顔の観察の時間。
 梅雨明けの日射しがじりじりと辺りを焼く中、みんなより少し離れた日陰で自分の朝顔の鉢をまじまじと眺めている転校生に、菜乃佳はゆっくり近付いていった。
 転校生が観察している朝顔はピンク、菜乃佳が抱えている朝顔は青い花を咲かせている。
「わたし、二見 菜乃佳。ピンク、かわいいね」
 菜乃佳の口調はのんびりしている。どれだけ早口で話していても、どうしてか間延びして聞こえるのだ。
「なのか、ちゃん?」
 菜乃佳は驚いた。返事があるとは思わなかったのだ。地面に腰をおろしている転校生を立ったまま上から見下ろしていた菜乃佳は、慌てて朝顔の鉢を置き、思い切って彼女の隣にしゃがみ込んだ。それを待っていたかのように転校生が口を開く。とても大切な内緒話をするように、そっとひそめられた声は愛らしかった。
「わたしは、さくら」
 言葉をひとつずつ確かめるような口調。
「さくらちゃん」
「そう、桜の花の桜。なのかちゃんは?」
 桜の声も菜乃佳と同じくらいのんびりしていた。じっと目の奥をのぞき込むような桜の仕草は本当の菜乃佳を探しているようだった。

 二人はその日から友達になった。
 菜乃佳と桜はいつも一緒にいた。
 クラス替えで教室が離れてしまっても、毎日一緒に登下校し、休みの日は一緒に過ごした。

 中学生になった桜はとても美しく成長しつつあった。そのくせ、彼女は自分の美しさに興味を持てないようで、どれだけ男の子から告白されてもきょとんとした顔でそれをばっさり切り捨てる。あまりに取り付く島もなく断るせいか、告白した男の子の方が余計なことをしたとばかりに桜に謝っているのを菜乃佳は何度か目撃している。
 桜は周囲とのコミュニケーションを避けている節があった。話しかければそつなく答えるのに、自分からは決して話しかけない。彼女が自分から声をかけるのは菜乃佳だけ。
 桜は菜乃佳の知る誰よりも静かな環境を好んだ。菜乃佳は自然と桜が好む静かな世界を守るようになっていった。

 そんな桜の想い人を菜乃佳が知ったのは中学二年生の頃。修学旅行の自由行動でどうしても行きたい場所があるのだと打ち明けられた。
 なんとか班行動から抜け出した先には、見たこともないほどかっこいい高校生がいた。第二自習室とプレートが掲げられた扉の先には、彼らのほかに誰もいない。
 菜乃佳は目を疑った。
 窓から入り込む午後の光の中、滅多に笑わない桜が笑っていた。それまで彼女の心を頑なに誡めていた何かが綻びたような、何もかもを目の前に佇む彼に委ねているような、そんな安らいだ表情は彼女の想いを十分に伝えていた。

 一度だけ聞いたことがある。
「桜はずっとあの人のことが好きだったの?」
「そう、ずっとあの人だけが好きなの」
 友達になったあの幼い日のように、桜は声を潜めてとびっきり大切な宝物を見せるようにそっと菜乃佳に囁いた。
 桜はどんな些細なことでも菜乃佳にだけは自分の心の内を見せてくれる。それが菜乃佳は嬉しかった。
「菜乃佳は?」
「私はまだいないなあ。ちょっといいなって思う人はいても、桜みたいにずっと好きでいられそうな人はいない」
 あの日、桜ばかりか彼も同じ表情をしていた。別れ際のせつなく歪んだ二人の表情が想いの強さを表しているようだった。

 校内どころか全国でも上位クラスの桜に引っ張られ、一緒に勉強するうちに菜乃佳の学力はぐんぐん伸びていった。
 二人は同じ高校に進学した。
 都内の大学に進学を希望する桜は、養父に反対されていた。
 菜乃佳はそこで初めて桜の本当の両親はすでに亡くなり、今は父親の知り合いの家に身を寄せていることを打ち明けられた。菜乃佳は桜の家に遊びに行ったことがない。今更ながらそれに気付いた菜乃佳はこれまで彼女の事象を知ろうともしなかったことを心底悔やんだ。
「菜乃佳だけなの、本当のことが言えるのは」
 この時の今にも泣き出しそうな桜を菜乃佳は忘れられない。
「私にできることある?」
「ずっと友達でいて。菜乃佳しか信じられる人がいないの」
 菜乃佳は一生桜の友達でいることを心に誓った。ずっと友達でいて欲しいのは菜乃佳だって同じだ。桜だけが菜乃佳のリズムを掴んでくれた。菜乃佳のゆったりしたところが好き、そう言ってくれた。

 口さがない人たちは菜乃佳のことを桜信者と揶揄していた。それも一理あると菜乃佳は思う。菜乃佳は桜を誰よりも慕っていた。それはもしかしたら恋にも似た感情なのかもしれない。桜が幸せなら菜乃佳も幸せだった。
 だから菜乃佳は、桜が名門女子大の進学を養父に一方的に決められたときも、必死に勉強してなんとか同じ大学の合格通知を手に入れた。無理矢理イタリアに留学させられたときも、すぐさまイタリアに飛んで励ました。さすがに大学の編入は難しく、必死にバイトして何度かイタリアに足を運んだ。
 そして、桜が帰国する際の密かな企みにも加わり、こっそり成田ではなく羽田着のチケットを用意したのだ。



 九月初頭のざわめく空港に、桜の想い人が大人の姿となって現れた。こなれたデニムパンツに真白なシャツ。真っ直ぐ菜乃佳に向かって歩いてくるその足運びに迷いはなく、颯爽としている。
「二見、菜乃佳さん?」
「そうです。佐島 秀さんですよね」
 桜の相手と知らなければ、菜乃佳は舞い上がっていたに違いない。かっこいい高校生だった彼は、見惚れるほど素敵な男性に成長していた。
「初めましてでいいのかな。以前図書館でお会いしてますよね」
 菜乃佳は驚いた。こんなにかっこいい人がほんの一瞬目が合っただけの平凡な菜乃佳を覚えているとは思わなかった。
「ずっと桜を支えてくれてありがとう」
「桜から聞いたんですか?」
「いや、なんとなくそうかなって」
 照れたように笑う彼は周囲の視線を惹き付けた。耳に届くざわめきは、彼を俳優かモデルだと噂していた。
「今日もありがとう。この機会を逃すと色々面倒になりそうなんだ」
「婚姻届、持ってきました?」
「もちろん。ちゃんと戸籍も用意してある」
 それに桜が署名したら、菜乃佳が代理で桜の現住所がある地元の市役所に提出する予定だ。証人として菜乃佳もそこに名を連ねることになっている。
 二人は二人だけの戸籍を作る。
 桜がどれほど彼を必要としているか、イタリアに行くたびに菜乃佳は嫌と言うほど思い知らされた。桜は本当に彼だけを必要としていた。それは少し心配になるほど一途な想いだった。
 少し離れた場所には、菜乃佳同様二人の連絡係だった彼の友人の姿もあった。こちらはブラックジーンズに黒のカットソー。会釈すれば笑顔を返され、菜乃佳は頬に熱が集まるのを感じた。彼の友人もまたとても魅力的な男性なのだ。

 桜を乗せた便が定刻通り到着したと、聞き取りやすくテンポのいいアナウンスが流れた。
 ほどなくして到着ロビーに全てを切り捨ててきた桜が現れた。持ち物は小さな肩掛け鞄一つだけ。
 桜が彼を見つけた時の目映い笑顔。彼が桜を見つめる愛おしげな表情。大股で桜に近付く彼と小走りで彼に駆け寄る桜。
 そのまま映画のワンシーンのように抱き合うのかと思いきや、その手前で向き合った二人は互いに見つめ合いながらもじもじするばかりで一向に寄り添う気配がない。
「なんだあれ、思春期か」
 いつの間にか菜乃佳の隣に立っていた彼の友人が呆れたように笑っている。
 二人はただ見つめ合っていた。それは視線で会話しているのかと錯覚するほどで、二人が纏う静けさに菜乃佳は息を呑んだ。二人の周りだけ時の流れが止まっているかのようだった。
 
 長い時間をかけて彼の指先が桜の頬にたどり着く。
 桜の顔が美しく歪み、その目から涙が溢れた。
 彼の指先が桜の頬を優しく撫でる。
 その指先を桜がぎゅっと胸元に抱き込むと、彼が桜の肩をそっと抱き寄せ、二人はようやくひとつになった。

 魂を揺さぶられるほどの鮮烈な感動が菜乃佳を襲った。たとえようもない幸福感が心に溢れた。
 二人の間には濃密な交わりがある。この二人は一緒にいることが自然なのだ。それを明確に理解した瞬間だった。
 気が付けば菜乃佳は隣に立つ彼の友人と手を繋いでいた。感動が共鳴していた。繋がった手からも同じ感覚が伝わってきた。大きな手だった。包み込まれているようだった。菜乃佳はふと、男の人とこんなふうに手を繋いだのは初めてだなと他人事のように思った。と同時に、桜の養父に少なからず抱いていた罪悪感がさあっと引き潮のように遠退いていった。
 いつもの間延びした口調で「おかえり」と声をかけた菜乃佳に、桜は驚くほど安らいだ笑顔を見せた。



 桜が帰国してふた月ほどが過ぎた月曜日の昼休み。
 週明けだというのにすでに週末の休日出勤が確定となった菜乃佳は、学生の頃と比べ社会人の日常は徹底的に容赦がないことをしきりに嘆く同僚たちに相槌を打っていた。
 社食のテーブルに置いた菜乃佳のスマホが震えた。ディスプレイに表示された見知らぬ番号。菜乃佳は訝しみながら恐る恐る通話マークに触れた。
『もしもし菜乃佳? 今お昼休み? 話して大丈夫?』
 聞こえてきたのはゆったりした声。
「え、桜? ちょっと待って」
 一緒にお昼を食べていた同僚たちに会釈し、菜乃佳はトレイを片付けながら社員食堂の脇にある非常階段の踊り場へと急いで移動する。
 ビルの隙間から見上げる空はいつの間にかずいぶんと高くなっていた。真っ青な空に描かれた淡い雲の筋が今の季節を知らせていた。
「もしもし、桜? もしかしてこれって桜の番号?」
『そう、昨日買ってもらったの』
 嬉しそうな声に、誰に買ってもらったかがわかって菜乃佳の頬も緩んだ。
「よかったね。念願のスマホデビューだね」
『うん。昨日は色んな設定とか使い方教わってたら遅くなっちゃって。本当は夜に電話するつもりだったんだけど、どうしても菜乃佳の声が聞きたくなってかけちゃった。大丈夫だった?』
 桜は時々菜乃佳を喜ばすことをさらっと言う。嬉しくて菜乃佳の頬が緩む。
 久しぶりに聞いた桜の声は明るく弾んでいた。今の彼女が幸せであることは、その声を聞くだけでも十分に伝わってきた。
「仕事どう?」
『覚えることがたくさんで、思ってたよりも大変。半年遅れだから同期の人たちとの差もできちゃってるし、内心ちょっと焦ってる。あと日本がなかなか取り戻せない』
 桜は日本で生まれ育っているにもかかわらず、どうしてか日本に馴染めないところがあった。特に子供の頃は日本語がたどたどしく、だから菜乃佳のゆったりした口調は聞き取りやすく安心したのだと言っていたことがある。イタリアのいるときの桜は、彼と距離を隔てられた不安の中にあってもどこか自然体で、水や空気が合っているようだった。
「仕事は待ってくれないもんね。私なんて今でも大変。今週末は休日出勤だって。それより、お義父さんとはどう?」
『ん、一応解決した。一緒に住んでいるタエさんが間に入って取り成してくれたの。あ、ねえ菜乃佳、よかったら近いうちに遊びに来ない?』
「いいの?」
『うん。私の大切な人だって菜乃佳の話をしたら、タエさんが是非にって』
 桜はさり気ないひと言で菜乃佳を有頂天にさせる天才だ。菜乃佳はここ最近の仕事でたまっていたもやもやが一気に晴れていくのを感じた。