硲153番地
エリアCLⅢ
招待③


「うぜー、マジうぜー」
「ただいまの前にそれか」
 呆れ顔の源三の出迎えに、宇都見は「ただいま」と言いながら気が緩んでいくのを感じた。
「じーさんだって毎日官邸に呼び出されたら同じこと言うわ」
 それに加え、各政党からの勧誘のしつこさ、匂いをかぎつけた記者の鬱陶しさといったら筆舌に尽くしがたい。おまけに週明けに挨拶に来たSP二名が常に張り付き、公用車での送迎を当然とされ、家を一歩出たら最後、一瞬たりとも気が抜けない。命を狙われているわけでもあるまいに、逆に目立って仕方がない。
「今日、コウくんが若い男の子連れてあちこちかまっていったぞ」
 靴を脱いで家に上がり、肩を回しながらリビングに顔を出せば奈緒美が「おかえり」と声をかけてきた。それに答えながら背広を脱ぐ。宇都見はいつも議員バッチの着いた背広を脱ぐとき、同時に議員という肩書きも脱いでいるような気がしていた。背広をソファーの背に掛け、勢いよく座面に腰を落とすと一気に心身の力が抜ける。
「こっちにも連絡来た。本当助かった。これで家の中は自由だ」
「何していったんだ? 防犯対策と言っておったが」
 巧は奈緒美の家庭教師をしていたこともあり、源三とも面識がある。
「防犯カメラ増やしてもらったんだよ。うちの敷地に死角なし。常にチェックできるようになってるから、じーさんも奈緒美もあとで登録して。自分の身は自分で守らないとな。インターネットのセキュリティ強化もしてもらった。盗聴器仕掛けられてもわかるようになってるって」
 そこまでか、と源三は顔をしかめるが、巧が言うにはそこまでした方がいいらしい。どうあってもプロ中のプロには敵わないのだから、せめて素人に毛が生えた程度は撃退しておきたい。
 あとは宇都見自身の問題だ。連日の食事会だの飲み会だのの誘いは我が国のトップから一切を断ってもらっている。その代わり、現時点ではどの政党にも属しないことを約束した。今はそれで手を打ってもらうよりほかない。なにせまだXデーを迎えたわけではないのだから。それでも水面下の接触が止まないせいで宇都見はほとほと疲れ果てていた。
「九月十月は特に学校行事を重点的に廻る予定だったのに、全部キャンセルだよ。俺の信用丸つぶれ」
「それでも顔は出しているんだろう? 忙しいのに顔出してくれたと私のところにも連絡がきた」
 源三が持ってきたビールを有り難く受け取り、プルトップを開け喉の渇きに任せ流し込む。
「予定してた時間の半分以下だけどね。せめて顔出して直接謝らなきゃ俺の次はないよ」
「お兄ちゃん、私のところにもマスコミ来てるけど」
 食事の支度をしている奈緒美の声が台所から聞こえてきた。
 宇都見の家のリビングはダイニングとキッチンがそれぞれ両開きの引き戸で繋がっている。食事の支度は奈緒美、買い出しは源三、片付けは宇都見とそれぞれ担当が決まっている。
「悪いな。学校の人なんか言ってる?」
 奈緒美は養護教諭だ。そよかぜ園の子供たちが通うS区の小学校に勤めている。
「先生方はなにも。議員の妹も大変だな、で終わり。記者のマナーも今のところ悪くないし」
「そっか、近いうちに挨拶に行くよ」
「別にいいよ。今お兄ちゃんに来られたら余計に騒がしくなる。上手く言っておくから」
 メディアに宇都見の悪評はひとつもない。徹底して高評価ばかりがマスコミに流れている。宇都見にはそれが不気味に感じられて仕方ない。エリアCLⅢがこれほどの影響を持つとは。
「やっぱ、政党に守ってもらうしかないのかなあ」
 無所属でいることは厳しく難しい。宇都見は議員になって以降、常にそれを感じていた。ここ数日で嫌と言うほど身に沁みた。
「後援会とよく話し合え」
「その後援会から言われたんだよ。俺は無所属のまま連携を取るって形で逃げたいんだけどなあ」
 源三が考え込むと同時に奈緒美の「ご飯できたよ」の声がかかった。

 Xデー当日。
 またもや朝一で官邸に呼び出された宇都見は心底うんざりしていた。
 公務員は宇都見だけが招待されているらしい。ほかに、最近メディアを賑わせている起業家も招待を受けたという噂も聞いた。ほかにも名家の令嬢や力士、国営放送のアナウンサーの名も上がっているが、どれも噂の域を出ず定かではない。
 秀は「誰よりも努力している人」と表現していたが、タエの話を聞いている限り、招待する者がどんな人物かを彼女自身は知らないようだった。和紙を漉くと自然と氏名と宛先が浮かび上がってくるのだと、真面目とも不真面目ともつかない表情で教えてくれた。これに秀や巧も全てを呑み込んだとは思えない顔で肯定していたから、原理はわからずとも事実なのだろう。本人を認証して文字が浮かび、尚且つその紙面に書かれた本人以外に一部の文字が見えない和紙やインクが開発されたなど宇都見は聞いたこともない。

 ここはそういう場所なんだよ。
 タエの言葉が蘇る。「硲の地」と源三も言っていた。おそらく先日宇都見が聞いた内容程度は源三も知っているのだろう。
 宇都見も源三も硲に住む者に招待されている。和紙に文字が浮かんだ人物とは別待遇だからこそ、ある程度の説明を受けられるし、何度も硲の地を訪れることもできるらしい。
 本来、硲の地には招待がなければ足を踏み入れることはできない。それを聞いて宇都見は妙に納得した。これまで幾度となくその前を通ったことがあるにもかかわらず、そこに目を向けたことがなかった。一度知ればわかる。明らかに人家の入り口が通り沿いに存在しているというのに、それまで目に入らなかったのだ。目に入っても気にならないとでもいえばいいのか、意識に残らない。
 おまけに、硲の地のことを誰かに話そうという気にならないのだ。その地を知る源三には話す気にもなるが、おなじ身内でも何も知らない両親や奈緒美に話そうとは思わない。
 何も硲だけが特別というわけではないらしい。そういう地はほかにもあるはずだとタエは言っていた。

「エリアCLⅢの主にはくれぐれも私がよろしく言っていたと伝えてくれ」
 総理の声に思考が中断される。人にものを頼む態度ではないなと思いながら、宇都見は「承知しました」と真顔で答えた。



 日沈直後、再びその入り口に立ったとき、宇都見は強烈な違和感に襲われた。
 薄闇に浮かぶ鬱蒼とした木々の影が全身の毛を逆立てるほど迫ってくる。前回訪れたときに感じた爽快さなど微塵もなく、禍々しいほどの気配が辺りを覆っていた。
 だからだろうか、そこだけぽっかりと切り取られたかのように人通りがない。反対車線の歩道には目に入るだけでも数人の歩行者が行き交っているというのに、木々が寄り添う歩道に宇都見以外の人影はない。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
 声をかけられるまで宇都見は桜の存在に気付かなかった。アプローチの脇に立つ桜は柄のない漆黒の留め袖に漆黒の帯、草履も黒ければ髪をまとめたかんざしも黒かった。桜自身の肌の白さ、襟元と足元からのぞく白が異様なほど浮かび上がって見える。
 宇都見も挨拶を返そうとして、桜に視線で制された。
 敷地内に足を踏み入れた途端、ぞくっとするほどの冷酷な気配に宇都見は気圧されそうになった。まるで深い水の底にいるような圧迫感が全身に蔓延っていく。
 気を抜くと喘ぎそうだった。宇都見は腹に力を入れ、意識的に腹式呼吸に切り替え、全身の筋肉を使い桜の後に続いた。
 一歩一歩がとにかく重かった。空気が粘っている。にもかかわらず前を歩く桜の歩は軽い。宇都見だけが抵抗を感じているようだった。
「ほう、さすが源ちゃんの孫、気配に聡いね」
 時間の感覚がなくなるほど必死の思いでたどり着いた境井家の玄関先には、桜同様全身黒尽くめのタエが待っていた。タエもやはり抵抗など感じていないかのように平然としている。
 宇都見は会釈を返すだけで精一杯だ。倦怠感は遠泳したときのそれと似ていた。
「ああ、宇都見さん、いらっしゃい」
 その瞬間、宇都見は悟った。「エリアCLⅢに覇王の光あり」とは、なにもエリアCLⅢに招待された者が覇王になるという意味ではない。エリアCLⅢに光を纏う覇王が存在することを意味している。
 宇都見の意識はそこまでだった。

「ヨッスィー、いい加減起きなよ」
 巧の声が宇都見の意識を蘇らせた。目蓋の向こうに自然の光を感じる。
「ヨッシー言うなって。今何時?」
「もう昼だよ」
「マジかあ、俺昨日の記憶ないわ」
「だろうね、玄関先でぶっ倒れたもん」
 宇都見はゆっくりと目蓋を開けた。全身が痛かった。どうやら緊張したまま眠ったようだ。そろそろと全身の力を抜き、少しずつ確かめるように手足を伸ばしていく。
「ああ、軽くなってる」
「ヨッシー感度いいらしいぜ」
 枕元で片膝を立てて座る巧は、昨日とは打って変わっていつも通りの巧だった。黒のカーゴパンツに黒のカットソー。男から見ても色気を感じるラフな姿は見慣れたものだ。巧は好んで黒を選ぶ。秀はどちらかといえば白や青だ。二人とも何を着てもよく似合った。背が高いというだけで男の価値は大きく上がる。平均よりは高めの宇都見でさえ、百八十を少し超え、尚且つ適度に引き締まっている二人の体躯は羨ましいものだった。
「誤解を招く言い方やめろよ」
「いや真面目にさ。ひとつだけ教えてやるよ」
 巧の真面目な声に宇都見は慌てて起き上がる。全身の軋みに宇都見の顔が歪む。
「大事な局面では、光が見える方を選ぶといい。どうしても決めかねるならここに来るといい。たぶん答えが見付かる」
 それを聞いて、宇都見は昨夜目にした光景をはっきりと思い出した。
「なあ、昨日シュウとコウが光って見えたんだよ」
 宇佐見は答えが欲しくて言ったわけではなかった。ただ目にした事実を口にしておきたかっただけだ。
「へえ、そうなんだ。やっぱ自分のことはわからないもんだな」
 気のない返事に、宇都見は拍子抜けした。
「俺もシュウもこっち側の人間なんだとよ。それで納得してくれ」
「俺は何か変わるのか?」
「なんも変わらんよ。これまで通り、俺もお前もシュウも何も変わらない」
 軽く音を立てて襖が開いた。
「ああ、宇都見さん起きました? お昼ご飯食べられそうですか?」
 それまでと何一つ変わらない見慣れた姿の秀に、直前の巧の言葉が宇都見の中に沁み込んできた。
 突然、宇都見の腹がけたたましく鳴り出した。
「なんかすげー鳴ってるぞ」
「なんかすげー腹減った」
 宇都見が笑う巧の真似をすれば、秀は「お昼持ってきますね」と襖の向こうに消えた。改めて見渡せば、先日も通された和室だった。宇都見と巧のほかには誰もいない。
「他に人はいなかったのか?」
「いたよ。みんな二日酔いみたいな顔して朝イチで帰った。ヨッシーだけだよ、ぐーすか寝てたの。飯の前に風呂入ってくれば?」
 好きで寝ていたわけではないとの反論を呑み込んだ宇都見は、巧の勧め通り風呂を借りた。一度頭を整理したかった。
 豪勢なヒノキ風呂は数人が入れるほど広々としていた。温泉のように掛け流しの湯が湯船を満たし、ヒノキの香りが湯気とともに漂っていた。シャワーなどはなく、かけ湯で全身をざっと洗い、湯船に浸かる。躰の隅々まで生き返るようだった。
 宇都見の脳裏に刻み込まれた昨夜の秀と巧の姿。全身黒尽くめの袴姿なのに、まるでオーラのような光を纏っていた。それはもう目も眩むほどの眩しさで、その一瞬を目に焼き付けて宇都見の意識は途切れている。
 もしかしたら、と宇都見は思った。秀と巧という友人に恵まれた自分はとてつもなく幸運なのではないか。同時に、源三に言われた「最たるを望むこと」すらできなかったことに項垂れもした。

 風呂を出れば布団は片付けられ、お膳が用意されていた。すでに秀と巧はその前に座っている。三角形に配置された膳の空いている一辺に宇都見も腰を落とした。
「旅館みたいな風呂だな。お膳も旅館みたいだ」
「あの風呂、客が来なけりゃ使わないんだよ。俺は毎日あの風呂に入りたいってのに光熱費が勿体ないとか言うんだよ。みんなで入れば安いだろうに」
「あれ、源泉掛け流しじゃないのか?」
「湧き水を利用しているみたいですが、沸かしているのは給湯器なんですよ」
「あ、じゃあ止めた方がいい?」
「その辺の管理はタエさんがしてるから俺たちはノータッチ。たぶんもう止められてるよ」
 用意されていた食前酒で乾杯し、食事を堪能した。黒漆の膳も椀もおそらく一級品だ。宇都見は子供の頃から源三に連れられ、一流といわれる店で目と舌を鍛えてきた。ここの食事は見た目も味もそれらに引けを取らない。前回も旨いと思ったが、今回は特に旨かった。
「ごちそうさま。腹減ってたせいかとんでもなく旨かった」
「そうか、宇都見は旨いと感じるのか」
「どういうことだ?」
 含みのある言い方をした巧は、秀に視線を送った。それに応えるように秀が口を開く。
「分け目の日、日の入りから次の日の入りの間、ここで眠れるのも、酒が飲めるのも、食事ができるのも、限られた人間だけだそうです」
 宇都見はふと源三の言葉を思い出した。確か源三は何一つできなかったと言わなかったか。
「それを成し得た人にだけ、私たち硲の人間は手を貸すことができます」
 宇都見は秀の表情をじっと観察し、次に巧の表情を同じように観察した。
 二人に気負ったところはなく、嘘をついているようにも、宇都見をからかっているようにも見えなかった。そもそも、二人ともこういう場でふざけるような性格でもない。
「硲とは何か、答えてもらえるのか?」
「どうかな、俺たちもまだよくわかってないんだよ。誰かに説明されるようなものでもないらしい」
 答えた巧自身も心中複雑なのか、表情がそれを物語っていた。
「タエさんや桜さんもお前たちと同じなのか?」
「タエさんはそうだけど、桜ちゃんは少し違う。彼女は子供の頃にシュウから何かを分け与えられているんだと。なかなか出来ることじゃないらしくてさ、お互い強く想っていないと受け渡しはできないらしい。桜ちゃんはそれでこっち側に住めるらしい」
「何かってなんだ?」
「たぶん、光です」
 秀の声に宇都見は目を見張った。昨夜の二人が脳裏に蘇る。
「二人が光っていたことと関係あるのか?」
「あるんじゃないか? 俺たちは自分が光ってるとは思わなかったけど、宇都見にはそう見えたんだろ?」
 とても錯覚だとは思えない鮮烈な光だった。
「あれが硲か」
「どうかな。その一部じゃないか? 俺もシュウも生まれたときから光が見えていたんだ。たぶん宇都見もこの先微かな光が見えるようになるんじゃないかってタエさんが言ってたよ。そういう人にだけ、俺たちは力を貸せるらしい」
「力、か」
「まあ、今まで通りだよ。実際、宇都見の力になれるかどうかなんて、俺にもシュウにも正直わからない。相談相手にくらいはなれるだろうけどね」
「俺にはそれで十分なんだよ。信用出来る人がいるってだけで俺は立っていられる。家族以外誰も信用できないんだ、今の俺の周りは」
 巧も秀も柔和な笑みを浮かべていた。宇都見は情けなくも泣きそうになった。宇都見は最初から最たる望みを手に入れていた。
「愚痴くらいいくらでも聞きますよ。ここには俺たちしかいませんから。どれだけ叫んでも声は外に漏れません」