硲153番地
エリアCLⅢ
招待②


 まだ午前九時半だというのに、すでにアスファルトは焼けていた。今年も残暑が厳しい。
 そよかぜ園の裏にある来客用の駐車場に車を駐めた宇都見は、突き刺すような日射しに目を眇めた。この二週間というもの全国的に雨が降っていない。乾ききった暑さから逃れるように急ぎ足で正面玄関に回った。

 そこで宇佐見は信じられないものを目の当たりにした。
 最初に目に飛び込んできたのは胸元まで伸びる艶やかなストレートの黒髪。日射しに透けそうな白い肌。背は低すぎず高すぎず、少し痩せすぎている気はしなくもないが、涼やかな色のワンピースから伸びるすらりとした手足は清楚だ。
 なにより美人。庭園に咲く薔薇というよりは、静かな湖畔に咲く百合といった風情がある。品のある笑顔をたたえ、隣に立つ秀の半歩後ろに控えているのもまたいい。
 これまで思い描いてきた理想の女性が宇都見を出迎えていた。声にならない感動が宇都見の全身を貫いた。
「シュウ、紹介してくれ」
 どうやって話しかけよう。議員であることが吉と出るか凶と出るか。できれば支えてもらいたい。宇都見の頭の中に壮大な恋物語の幕が上がろうとしていた。
「宇都見さん、桜です」
「初めまして、佐島 桜です」
 高すぎない澄んだ声が宇都見の耳の中に転がり込んできた。と同時に、彼女が「佐島」と名乗ったときのはにかみが宇都見の恋物語を無残に引き裂いた。
「ヨッシー、残念だったな」
 笑いを含んだ巧の声で我に返るなり宇都見は唸った。
「ヨッシーはやめろ」
 いつだったか、酔った勢いで巧をタックンと呼んだ瞬間から巧は宇都見のことを嫌がらせのようにヨッシーと呼ぶ。後日、巧にとって「たくみ」と呼ばれることが地雷と知ってからは呼ばないようにしているというのに、巧の方は面白がってヨッシー呼びをやめない。
「シュウはいつの間に結婚したんだ」
「ああ、取り急ぎ籍を入れただけで、今日はみんなに紹介も兼ねて連れてきたんですよ」
「彼女いたのか。いつからだ?」
「いつからと言われても……二十年前から?」
 後半さり気なく桜に視線を落とす秀とはにかみながら秀を見上げる桜。宇都見は二人の表情を見て何もかも悟った気になった。
「子供の頃に好きになった女の子を一途に想い続けたってことか。道理であれだけモテまくっても相手にしなかったはずだよ」
 モテたの? と桜に訊かれた秀は、まさか、と笑って否定した。
 羨むほどモテまくっているくせに何を薄らとぼけていやがるこのやろう。宇都見の声にならない悪態を巧が笑う。
 改めて見れば二人はとてもよく似合っていた。互いを想い合っていることが全身から滲み出ている。いわゆる美男美女。にもかかわらず、二人でいることが風景の一部のように自然に映る。
「コウは知ってたのか?」
「まあ、話に聞いてただけで実際二人でいるところを見るのはここ最近になってだけど」
「あれ? コウって今こっちにいんの?」
「いきなり戻ることになったんだよ。十月から本社勤務。今はようやく取れた夏期休暇中」
 そこで背後から声がかかった。
「お前たちいつまで玄関先で話しているんだ」
 そよかぜ園の代表である佐島が呆れた顔で玄関脇の受付窓から顔を出した。

 そよかぜ園は民間運営にしては珍しく、いかなる団体とも繋がりのない児童養護施設だ。およそ三十人前後の児童が集団生活している。建物は古いもののどこも清潔でゆとりがあり、宇都見の目には子供たちが伸び伸びと育っているように映る。
 秀も巧もこの施設の出身だ。大学で秀に出会い、そのすぐ後に秀から巧を紹介され、意気投合した。
 案内された応接室に入る直前、宇都見は丁度通りかかった二人の男子高校生に声をかけた。
「悪いんだけど、俺の車に盗聴器仕掛けられてないか確認してもらえる?」
「了解。そんな気配あり?」
「いやないんだけど、念のため」
「後でスマホもチェックする? 家の方は?」
「両方頼むよ」
 彼らは高校生にしてハッカーだ。いわゆるホワイトハッカー。秀と巧がバイト代を出し合って当時同室だった彼らにパソコンを買い与えたことが切っ掛けとなった。二人はとことん電子の世界にのめり込んでいき、ついにはそこそこ名の通ったハッカーに成長した。二人とも自分たちが稼いだ金で大学に行こうとしている。親に頼り切り、それを当たり前だと思っていた宇都見にとって、彼らは高校生ながらも自立した個人だった。
 ここに来ると宇都見はいつも自分の凡庸さと無知ゆえの傲慢さを思い知る。それを忘れないためにも、定期的にここに通っているといってもいい。
 ここを訪ねると必ず、特に年少の子供たちが一斉に玄関に集まってくる。目にたくさんの感情を浮かべ、そわそわしながらもじっと観察してくる。その目はどこか冷徹で、宇佐見は毎回子供たちに試されているような気がしていた。
 ここにいる子供たちは、誰もが幼い頃からなんとか自立しようと足掻いている。自分たちの置かれている状況を主観的にも客観的にも正しく把握している。
 秀に出会う以前の宇都見は、児童養護施設に対し多少なりとも偏見を持っていた。事実、環境がいいとはいえない施設も少なくない。大学のボランティアサークルで秀と出会い、単なる興味からここを訪れ、その認識を大きく変えた。祖父からも話を聞き、国政に関わろうと思った動機の一つは間違いなくこのそよかぜ園にある。ここは本当にいい施設だ。ただし圧倒的に資金が足りない。

「宇都見さん、もし時間があるようなら事前視察します?」
 宇都見がみんなより少し遅れて応接室に入ったと同時に秀から提案された。事前視察のところで秀の目にからかいが浮かぶ。宇都見は苦笑してみせた。
「今日はここ以外の予定を全てキャンセルしたから時間はある。いいのか?」
「じゃあ、タエさんにお昼一人分追加って連絡しておきます」
 ずいぶんと年季の入ったソファーに腰を落とすと、可憐な声が朗らかに言葉を紡いだ。ようやく現れた理想の女性がすでに後輩の妻とは、宇都見は己の惚れっぽさと女運のなさを呪った。
「そういえば、うちのじーさんがそのタエさんと幼馴染みらしいんだよ」
「へえ。そういえばタエさんの家族の話って聞いたことあるか?」
 巧はさほど驚いた様子もなく、更に当たり前のようにタエの話を秀にふる。秀の横では桜が秀からスマホを預かり、たどたどしくも楽しそうにフリックしている。
「いや、ない」
「お前もうちょっと他人に興味持てよ」
「コウも行ったことあるのか?」
 訊いた宇都見に巧は何を言っているのだと言わんばかりの目で答えた。
「行くもなにも、俺もそこに下宿してるから。もちろん彼女も。施設長だって一度来たことありますよね」
 黙って話を聞いていた佐島施設長が「おう」と軽く答える。
「頂いた梅ジュースが子供たちに人気で、あっという間になくなったよ」
「確かにあれは旨い」
 なぜ和気あいあいと話せるのか。エリアCLⅢと噂されるその場所を宇都見は少なからず得体の知れない場所だと捉えていた。
「議員の間で、噂されてるんだよ」
「あー、そうみたいですね。タエさんが思いきり笑ってましたよ」
 秀が話を遮った。宇都見はそう判断した。
 その秀は宇都見の様子など気に留めるふうもなく、隣の桜からスマホの画面を見せられ、これまで宇都見が見たこともないほど優しい笑顔を見せた。
 宇都見は天を仰ぎたくなった。男が男に見惚れるとは。
「実際どういう場所なんだ?」
 一瞬のうちに気を取り直して問い掛ける。
「どうって、木立の中の一軒家って感じですよ」
「ヨッシーも来たらわかるよ。妙に気持ちいい場所なんだ」
「だから、ヨッシーって呼ぶなよ」
 宇都見の隣に座る巧はそれぞれの様子を面白そうに眺めている。巧という男は出会った頃から物事を俯瞰しているようだと宇都見は観取していた。
 彼らの話を聞いているだけではどうにも捉え所を見付けられない。宇都見は視線を彷徨わせ苦笑いしている佐島施設長を捉えた。
「まあ、現代っ子にしてみれば絵本の中に出てくる森の中の一軒家のように感じるんじゃないかね」
「確かあそこって社叢林の一部ですよね」
 地図アプリで見る限りただの林だった。
「神社と寺の間にあるのが境井さんの土地なんだよ。同じように木が茂っているから一見わかりにくいんだ」
 サカイとはつまり、タエのフルネームはサカイ タエというのだろう。
 宇都見の納得を感じたのか佐島施設長がひとつの頷きのあと話を続けた。
 ハザマに住むサカイ、偶然だろうか。
「なんというのかな、森林浴やマイナスイオンや、まあそういった言葉があるだろう、そんな中で毎日暮らすことを想像してみればこいつらの言うこともわからなくはない。実際懐かしいような心地好さがあるんだよ」
 宇都見にもなんとなくはわかる。だが、それとエリアCLⅢが結びつかない。少なくとも佐島施設長はエリアCLⅢについては知らないようだ。おそらく秀は知っている。
 今朝の朝食の席でじーさんに更に詳しく尋ねようとしたものの、言葉を濁して確認したにもかかわらず、同席する妹の存在を慮ってか、曖昧どころか完全にはぐらかされた。
「私も長くS区に住んでいるが、あんなところに家があるとは思わなかったからなあ。その意味では宇都見くんも驚くよ、きっと」
 宇都見よりも長くこの地に住み、一般人よりもより地域に根ざして生きている佐島施設長も知らなかったのだ、彼の半分も生きていない宇都見があの土地のことを知らずにいたのも仕方のないことだと自分を納得させた。



「確かにこれは驚くなあ。あの奥に家があるなんて普通思わないだろう」
「俺もコウも最初は同じこと思いましたよ」
 秀に桜、巧を乗せた宇都見の車が停まったのは目的地を少し通り過ぎたコンビニの前だ。
「宇都見、裏に車回してくるよ。ドア開けず助手席に移れ。シュウ、先に後ろに来い」
 ナビゲーターとして助手席にいた秀が大きな躰を駆使して後部座席に移り、空いた助手席に宇都見が移ると、運転席の後ろにいた巧が宇都見に変わって運転手となった。
「宇都見、シャツ脱げ」
 言われた通りシャツを脱ぎ、代わりに巧のTシャツを受け取り身に付ける。ついでとばかりに巧がかけていたサングラスとキャップを装着する。
「やっぱりそうか」
「たぶんな。ついでに確かめてくるよ」
「悪いな」
「まあ、俺たちも多少のことは教わったから、こうなるだろうことも事前に知らされていた。宇都見、断ることもできるんだぞ」
「まさか。お前たちの好意だろう、有り難く受け取るよ。俺は議員を辞めるつもりはない」
 この車は盗聴されていなかった。スマホも自宅も今のところは白。ということは、もしかしたら宇都見に付けられたSPかもしれない。記者たちにエリアCLⅢの情報が漏れているとは思わないが、議員間で噂になっているくらいだ、万が一もある。
「俺の勘だけど、たぶん警護? みたいなもんじゃないか?」
「俺もそうじゃないかと思ってる。記者じゃなければまあ、様子見だな」
 昔から巧の勘はよく当たる。
「とりあえず車駐めてくるわ」
 秀も巧も宇都見も似たような体格だ。さすがに遠目にも秀の肌の色は誤魔化せないにしても、余程どちらかの特徴を捉えていない限り巧と宇都見の入れ替わりは可能だ。

「あれ記者じゃないな。たぶんプロだよ。途中で入れ替わりに気付かれた。わざと追い抜いていったよ」
「なんで気付かれた?」
「たぶん運転? 俺普段運転しないから宇都見の運転に比べると下手なんだろう」
 ここが都内であることを忘れるほどの木立の中を通り抜け、その奥に数寄屋造りのやけに立派な一軒家が現れた。事前に聞いていたとはいえ、宇都見も唸らざるを得なかった。
 当日も通されるという客用の離れは、見事な襖絵が目を引く書院造りの和室で、男女に分かれた洗面所とトイレ、風呂まで完備されていると聞いて素直に驚いた。
 紹介された境井タエは確かに祖父と同じ年の頃で、若い頃はさぞや美人だっただろうと思わせる凜とした気品を纏っていた。
「初めまして、宇都見です。突然お邪魔して申し訳ありません」
「源ちゃんの孫だね、いらっしゃい。次は源ちゃんと一緒に遊びにおいで」
 鮮やかな紺地の着物を粋に着熟すタエの声も仕草もずいぶんと淑やかだった。それでいてその表情は明らかに悪戯めいており、おもちゃを見付けた子供のように目を輝かせ、にたりと笑うのだ。この二面性。宇都見は己を構成するDNAで確信した。源三の初恋は間違いなくタエだ。